就其口敵相動注進、只今戌刻到来、火手見候上無心元候間、長尾修理亮其外至于高倉差越候処、敵入馬候由、告来候間、至于酉刻帰陣、今日刷之次第、被露紙面候、無是非候、椚田事大切候、彼地へ動候者、則被馳籠、堅固之備肝要候、恐々謹言、

三月晦日

 顕定(花押)

三田弾正忠殿

→駿河大学論叢40号 24「三田弾正忠宛書状」(谷合島太郎氏所蔵文書)

 その方面へ敵が出動したとの報告について。現在戌刻に到着。火の手が見えたので心配になりましたので、長尾修理亮らを高倉に派遣したところ、敵が攻撃したことを告げてきたので、酉刻に陣へ帰り、今日の作戦動向を紙面で披露しました。是非もありません。椚田のことは大切です。あの地へ動きがあったら、すぐに駆けつけて籠もり、堅固な備えをするのが肝要です。

久下信濃守事、累年相守当方、忠節異于他候、寔可被聞及候、仍近日可参宮分候、然者東海道於可透候間、往還無相違様、伊勢宗瑞方へ懇被申越候者、可喜入候、恐ゝ謹言、

正月晦日

 可諄判

長尾左衛門入道殿

→神奈川県史 資料編36478「可諄書状案写」(榊原家所蔵文書)

 久下信濃守のこと。年を重ねて当方を守り、忠節は他とは異なります。本当にお聞き及びでしょう。近々伊勢に参拝する目的で東海道を通過しますので、往復で間違いがないよう、伊勢宗瑞方に念入りにご通達いただけるなら、喜ばしいことです。

岩堀罷帰之刻、以口上御懇蒙仰候、畏入候、其已後雖可申入候、路次断絶之間、遅延候、就爰元様躰、進出羽山伏候、去月十日比、憲房上州衆被引立、毛呂要害へ被取懸候、時分柄、有案内者、無水時節被成調儀候、於彼地可致一戦以覚悟、十月十六日、当地江戸罷立、中途へ打出候処、御同名新五郎方・藤田右衛門佐・小幡、其外和談取刷由申来候間、勝沼ニ令滞留、承合候処、不日ニ遠山・秩父次郎陣所へ彼面ゝ被越、遂対談候間、定当座之刷計儀与存之候処、先以各へ令面談候上者、兎角為不申及、和談之形ニ落着候間、毛呂城衆引除、翌日則上州衆被入馬候、定色ゝ可有其聞候間、凡時宜を申宣候、惣社ヘ聊申送候間、自彼地可有伝達候哉、巨細猶以出羽山伏ニ為申聞候、不弁之者ニ候間、難申分候、凡此分候、随而、甲州之儀も、武田信虎頻而和談之事雖被申候、依駿州之事遅延候、然而、彼被官荻原備中守半途ヘ罷出、歎之候間、対信虎無意趣儀候上、先任申候、但彼国之事、例式表裏申方ニ候間、始末之儀如何、雖然、先任申候、何様至于来春者、早ゝ以岩堀可申宣候、就中、今度関東御異見之事令申候処、御存分之段、蒙仰候、先以大慶至極候、畢竟自最前如申候、頼入計候、巨細重可申達候、恐ゝ謹言、

十一月廿三日

北条 氏綱(花押)

謹上 長尾信濃守殿

→小田原市史60「北条氏綱書状」(山形県米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

大永4年に比定。

岩堀が帰るに当たり、口上での丁寧な仰せをいただきまして、恐れ入ります。それ以降はご連絡しようと思いながら、交通上の断絶によって遅延していました。こちらの状況について出羽の山伏を送りました。去る月10日頃、上杉憲房が上野国衆を動員して毛呂要害へ攻撃してきました。ちょうど案内する者があり、河川に水がない時期に調儀をされてしまいました。あの地で一戦しようという覚悟で10月16日に当地江戸を出発し、途中まで行ったところで、ご同姓の新五郎方、藤田右衛門佐と小幡、その他の面々が和談を取り図ろうと言ってきたので勝沼で待機することを諒解しました。するとすぐさま遠山の秩父次郎陣所へあの面々がやってきて議決してしまいました。きっと当座の計画なのだろうと思っていたところ、先に各々が面談した上は、異議は言えずで、和談の形に落着しました。毛呂城衆が引き上げて、翌日すぐに上野国衆が馬を入れました。恐らく色々とお聞きのこととは思いますが、おおよそのところを申し上げておきます。惣社へ少し連絡しておりましたので、あの地からご通知があるでしょうか。詳細は更に出羽山伏へ申し聞かせておりますが、不器用な者なので、申し上げるのも難しいかと思います。大体はこの書状の通りです。そして甲斐国のことも、武田信虎がしきりに和談を申してきました。駿河国のことで遅延していましたが、あちらの被官である荻原備中守が途中まで出て嘆願しましたので、信虎に対して意趣がない上は、まずは任せます。但しあの国のことは、例によって裏表を申すでしょうから、首尾のほうはどうでしょうか。とはいえ、まずは任せます。何れにせよ来春になったら、早々に岩堀から申し上げるようにしましょう。とりわけ、この度の関東へのご意見のことをお聞かせ下さいとお願いしたら、お考えをお教えいただきました。まず大いに喜ばしい限りです。結局前から申し上げておりますように、お願いするばかりです。詳しくは改めてお伝えするでしょう。

政長復先忠之上、無二相守走廻候者、可為神妙候也、

二月五日

 (高基花押)

栃木雅楽助とのへ

→戦国遺文 古河公方編558「足利高基書状写」(新編会津風土記四)

 政長が先の忠義に復した上は、第一に守って活躍するならば神妙でしょう。

相守右京亮、致堪忍之条、神妙候也、

十月十七日

 (政氏花押)

正木図書助とのへ

→戦国遺文 古河公方編471「足利政氏書状」(早稲田大学図書館所蔵知新集三所収文書)

 右京亮を守って堪忍したので、神妙です。

無二仁相守右京大夫、可存忠儀候也、

八月九日

 (花押)

小野崎越前守殿

→足利政氏文書集95「足利政氏書状」(秋田採集文書)

第一に右京大夫を守り、忠義に思います。

永々在陣故、自駿州御厨帰宅、先以非無理候、既追日彼陣無勢之上者、以夜継日打越候者、可為感悦候、遅々不可宥曲候、謹言、

四月三日

顕定

矢野安芸守殿

→駿河台大学論叢第40号32「矢野安芸守宛書状写」(紀伊国古文書藩中古文書十二)
1504(永正元)年との注記があるものの、『吉川弘文館版戦国人名辞典』では、1498(明応7)年頃出家して「永盛」と名乗ったとの記載あり。「西郡一変」と言われた1496(明応5)年の状況と関連するか。

長期間の在陣のため、駿河国御厨より帰宅は、まずは無理もないことです。すでに日を追ってあの陣の兵力がなくなっている上は、夜に日を継いで出動することで、感悦と思うでしょう。遅れがあっては詰まりません。

今度走廻、為御感、被成御書候、謹言、

十一月五日

 [古河公方晴氏御判也]在判

太田豊後守殿

→戦国遺文 古河公方編675「足利晴氏感状写」(感状写)

天文23年に比定。

 この度の奔走、お感じになられました。御書状を成されました。

今度馳参走廻之条、神妙候、

永正十七年八月廿八日

 (高基花押)

中里対馬守とのへ

→戦国遺文古河公方編537「足利高基感状」(伊沢正作氏所蔵文書)

この度馳せ参じて活躍したのは、神妙です。

今度河越仁罷立御座候時分、懇申上候、殊ニ鷹進上、御喜悦候、巨細簗廻下野守仰含候、謹言、

六月朔日

 [足利晴氏之由]花押

毛呂土佐守殿

→戦国遺文 古河公方編653「足利晴氏書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書)

天文15年に比定。

 この度川越に出陣して滞在した時分に、親しく申し上げました。特に鷹の進上はお喜びになりました。詳しくは簗田下野守に仰せ含めました。