於参州織田備後守間之事、重不及鉾楯弥属無事、都鄙儀令馳走者可喜入之段、対今川治部大輔遣内書候、無相違様被仰下者可為喜悦候、此等趣、可加意見之旨、彼年寄中被加芳言者可然候、猶聖護院殿可有演説候、恐惶謹言、

六月廿八日

義藤御判

「(封紙ウハ書)近衛殿 義ー」

   引合一重、上包無之、御竪文也、

→戦国遺文今川氏編「足利義藤御内書写」(御内書要文)

1551(天文20)年に比定。

 三河国での織田備後守との関係について。重ねての交戦に及ばず和睦となっており、都と地方のことで奔走することは喜びであると、今川治部大輔に内書を送っています。相違ないように仰せ下されたことは喜ばしいことでしょう。これらの趣旨で意見を加え、そちらの重臣たちによい言葉を与えるべきでしょう。さらに聖護院殿が申し述べるでしょう。

化野燐著・角川文庫。現在までに2作出ている。私はたまたま2作目から読んでみたが、かなり興ざめなシーンもあった。それぞれ独立してはいるものの、流れとしては1作目から読み進むことが想定されているようだ。対象年齢が若そうだし本格推理でもないのに読んだのは、例によって「帰り道読む本がない」事件が発生したため。

考古探偵というキャラクターを使い、遺跡の発掘現場で発生する事件を取り上げている。主人公は内省的で劣等感の強い不器用な男、肝心の考古探偵は憎まれ口を叩きつつ、何だかんだで主人公を気遣って色々と世話を焼く、という構成。どことなく京極堂シリーズ(京極夏彦著)をライトにしたような感じだ。

そこが歴史にどう関係するかというと、この作品では事件の動機に、歴史に対する人々の負の感情をうまく物語に取り込んでいるのだ。発掘成果を巡り野心を抱く自治体職員とか、自説に拘泥する余り狂信的な設備投資をする学校関係者とか。『歴史』に飲み込まれてしまったような人物が多数登場する。自ら作ったストーリーに同調して仮託する余り、主体がどちらか判らなくなった感じ。そういう人々は、実は現実世界にも多い。

そのファナティックで突飛な行動をうまく流し込めているので、私は興味深かった。色々と荒削りな作品だが、そのメッセージ性を評価して今夏予定の3作目を買ってみようと考えている。

ただ、1点だけ残念な点がある。考古探偵と並ぶ扱いで文献史家が現われる。彼は大きなリュックにいつも文献を持っているのだが、それは「何があるか判らないから史料を持ち歩いている」という理由で説明される。どうやらこの文献史家は古代史専門のようだ。だから量も少ないのかも知れないが、「そんな少量でいいの?」という疑問を誰も発しない。私は学者ではないのだが、少なくとも戦国史料は1冊が重くて大きい。リュックで管理できるとは思えず、台車か、せめて車輪つきのトランクケースが必須ではないか(近世なら軽トラックか)。この文献史家自体は文献を駆使した推理もしないのでうるさく言う必要はないのだが……でもなあ。できれば、極端な書斎派か図書館から出てこないようなキャラに設定してくれてもよかったんじゃないだろうか。ちなみに、常に綺麗な白衣を着た考古探偵に、リュックを担いで徘徊する文献史家って、人物設定が逆に思えてならない。ちなみに、その文献史家は「相手のレベルが低いとその言説を煽って煙に巻く」悪癖があるという。これは文献派の不毛な論争を皮肉っているのか……。

過剰な仮託の副作用については、何れしっかりと考察してみたいと思う。どうも『歴史ブーム』というものが厄介な方向に行きそうなので。「A(織田信長 or 坂本龍馬 etc)が殺されなければ日本は今頃もっとよくなっていたはず」(Aは現代人から見て正しいよう加工された人物像)的な見方が、戦前の皇国史観を髣髴とさせるのがどうにも気がかり。

今回アップした書状が少しややこしいので、解釈の手順を記してみる。この書状は、由比氏に宛てられたものだから、群がる債権者に対して左衛門尉が「義元が払わなくていいと保証している」と言い放つためのツールだ。債権者の中には、逆に「払わなくてよいという書状は無効である」という印判状を貰おうとしたり、今川家中の誰かに苦情を言い立てたりするだろう。そういう動きを見越しての書状である点は織り込んで解釈を試みた。自己流だから至らぬ読みも多いと思う。疑問や指摘があれば気軽にお寄せいただきたい。

代々雖為忠節、

「代々の忠節をなすといえども、借用の米・銭が過分の間」

まずは、由比氏が数代にわたって今川方として貢献したと書いている。「雖」は「いえども」で逆接だから、後段はこの「忠節」に反する行動となる。その内容は……。

借用之米銭過分之間、就不及返弁、数年令山林、

「返弁に及ばざるについて、数年山林せしめ」

借用した米と銭が「過分」、つまり債務過重。借金することが何故忠節に反するのか。疑問はあるが、読み進めることとする。「之間」の「間」は「な状況で」という意味でとらえる。

返弁は返済。「ついて」は現代語のそれとは少し異なり、原因を表わすようだ。「山林」は禁制によく出てくる言葉。江戸期でいう「入会地=村の共有地」のことを意味するようだ。この場合は、数年自邸に住めず、共同体の共有地に暮らしたと解釈できる。家屋敷を抵当に取られてしまったのだろう。

連々依訴訟申上重而召出、旧借等一円停止之畢、

「連々訴訟申し上げるにより重ねて召し出し、旧借など一円これを停止おわんぬ」

連々は度々・常々。訴訟については、債務過重で軍役が勤められないと陳情したか、法規以上の利子を取られたと訴えたか、その両方か。ここで、最初に「忠節に反する」とあるのが効いてくる。軍役不履行は忠節に反するから、この要素は大きいだろう。「而」は多くの文書で出てくるが、「~て」と音を足すのに使われる。重ねて、ということは、一度今川氏が呼び出して裁許を試みたようだ。借金を表わす「借」の前に「旧」をつけて、債務が既に終わったことを表明し、さらに過去完了を意味する「畢」で閉じている。一円は「丸々・全て」、「停止」は「ちょうじ」と読む(意味は現代と同じ)。

然者捨置■飯尾若狭守相頼、

「しかれば捨て置き……飯尾若狭守あい頼り」

■は読めない文字。前段で債務は全て放棄を保証されたのだから、「捨て置く」は債権者から取り立てがあっても由比左衛門尉が応じる義務はないことを意味する。これ以降の指示内容は飯尾若狭守を頼ったということか。

先年契約之時、借用米銭事申立候条、依難準自余、加下知、

「先年契約のとき、借用米・銭のこと申し立て候じょう、自余に準じがたきにより、下知を加え」

以前に契約した際に、借用した米と銭について申し立てのだから、「自余に準じる」=他と混じる訳にはいかない、と書いている。つまり、今回の債務契約自体が何らかの理由で訴訟案件になっていたらしい。詳しくは判らないが、契約が違法であった可能性も高い。これを今川家も把握していたのだから、同様の判例とは異なる。という理屈だ。下知を加えるとは指示を出すこと。条は間と同じように、「だから」と解釈することが多い。当時の人は使い分けていたようなので厳密には意味が異なるようだが、まだ私は把握できていない。

従当年米百俵宛、六年ニ六百俵、代物弐拾貫文宛、三ヶ年ニ六拾貫文合七拾貫文、

「当年より米100俵あて、6年に600俵、代物20貫文あて、3年60貫文。合わせて70貫文」

「当」というのは、フォーカスの当たっていること。具体的に何が当たるかはその文脈で判断するしかない。当年がその年のこともあれば、前年や来年のこともある。この場合、恐らく6年前の契約時を指すと思われる。1年で米が100俵。銭に換算すると20貫文。これが6年で60貫文。その後いきなり10貫文が足されているが、これは銭として10貫文借りていたということだろう。借用書が添えられていたのだとすれば、10貫文借りたのは自明なので書かなかったのかも知れない。

可令沙汰者也、相残知行若重雖令還附、

「沙汰せしむるべきものなり、あい残る知行もし重ねて還付せしむるといえども」

「沙汰」は手続きを行なうこと、支払いや納税を行なうこと。上記を執行しろという意味。飯尾若狭守が処理するということだから、肩代わりして支払うことか。その後、ここで対象となった以外の領地(知行)について言及する。さらに返済を求められたとしても……と、債権を否定しそうな前提。

以此引懸各取下候に付、借主所江雖有如何体之借状之文言、

「この引き懸けをもっておのおの取り下し候につき、借主の所へいかなるていの借状の文言あるといえども」

さらに条件をつける。引き懸けは判決を意味するか。債権は決着させたのだから、とつなぐ。債権者がどのような文言の借用書をもっていたとしても、と条件を足す。

一向不可及其沙汰、若又雖判形・印判出置、

「一向にその沙汰に及ぶべからず。もしまた判形・印判を出し置くといえども」

訴えを受理するな、ということ。「べからず」は複雑だが、この場合は禁止でよいだろう。「若」は「もし」で使うことが多い。判形と印判は、今川家当主が発行した正規の文書。これを出すとしても無効である、という条件を足す。このように、嫌というほど条件を足すのは中世の証文の特徴だ。

於自今以後者、依為蒲原在城、旧借不可有返弁者也、仍如件、

「今より以後においては、蒲原在城をなすにより、旧借返弁あるべからざるなり。よって件のごとし」

これ以降は蒲原城に在番するという理由を挙げて、改めて債務終了を言い渡している。逆に考えると、在城という臨戦業務を理由に挙げなければ、判形・印判を否定できなかったのかも知れない。よって件のごとしは、定型的な結句。

ということで、ようやく状況が判った。

由比氏が数代にわたり忠節であること=A、債務過重であること=B、返済できないこと=C、山林していること=D
A [雖・逆接]→ B [間・順接]→ C [就・順接]→ D
※但し、この文だと重要な部分が省略されている。
A [雖・逆接]→ (省略:Aではない) B [間・順接]→ C [就・順接]→ D
つまり、「忠節ではない」が省略され、さらに言えば「居住地を失って軍役を果たせない」というつながりも略されている。これは当時の武士にとって当然の流れだったので書いていないのだろう。ということで解釈に迷った最初の一文を補える。

「由比氏は代々忠節だったが(下記事由により忠節ではなくなった)、債務超過に陥り居住地を失っている(だから忠節の証である軍役(蒲原在城)に応じられない)」

1551(天文20)年というと、後北条氏との緊張関係は緩和されていたものの、同盟はまだ結んでいない状態。また、三河戦線もたけなわで今川方の兵力は払底していたと思われる。そんな時、由比左衛門尉に蒲原城を任せようと思ったら、出陣してくるどころか、借金で家を追い出されている状態だったと。「借財で訴訟しているのは知っているが、そんなにひどいのか」と驚いた義元が債務を消し込んだ、のかも知れない。

面白いのは、今川氏が直接肩代わりした訳ではないということと、強権を発動できずに「契約に問題があるんだから無効」というような主張をしている点。近世の完成された諸侯ですら借金の踏み倒しには苦労していたのだから、戦国の今川氏としては精一杯の介入だろう。

代々雖為忠節、借用之米銭過分之間、就不及返弁、数年令山林、連々依訴訟申上重而召出、旧借等一円停止之畢、然者捨置■飯尾若狭守相頼、先年契約之時、借用米銭事申立候条、依難準自余、加下知、従当年米百俵宛、六年ニ六百俵、代物弐拾貫文宛、三ヶ年ニ六拾貫文合七拾貫文、可令沙汰者也、相残知行若重雖令還附、以此引懸各取下候に付、借主所江雖有如何体之借状之文言、一向不可及其沙汰、若又雖判形・印判出置、於自今以後者、依為蒲原在城、旧借不可有返弁者也、仍如件、

天文廿年八月廿八日

治部大輔(花押影)

由比左衛門尉殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵御感状之写并書翰)

代々忠節をなしたとはいえ、借りた米と銭が多額となって返済不能になったことについては、数年山林で暮らした上常々訴訟を上げていたので重ねて呼び出し、現状の取り立て行為を全て止めさせた。ということで返済は取りやめ、飯尾若狭守に依頼せよ。先年契約した際に、借用した米や銭のことを申し立てたので、特別な例として指示を加えて、その年より米を100俵ずつ、6年で600俵と、代物20貫文ずつ。3年で60貫文。合計で70貫文を処理した。残余の知行をもし重複して還付させたとしても、この引き掛けによってそれぞれ取り下しますから、借主のところにどのような借用書が来たとしても、全ては適用外となる。もしも判形・印判が発行されていたとしても現在以後は、蒲原の城番を勤めるので過去の借金は返済不要である。

不図思いついて、『のぼうの城』(和田竜著・小学館)の文庫版を買ってみた。ミリオンセラーで映画化もされたもので、忍城攻めの話らしい。後北条氏を調べている身だしな、と。何より、帰りの電車で読む本がなかった。こういう時の活字中毒者は悪食である。

ということで読んではみたものの……上巻だけで打ち止め決定。駄作というと問題があるのだろうが、限りなくそれに近い。プロットも単純だし、人物描写も薄い。というか、元々脚本だったっぽく、登場人物が少ないったらない。まあそのほうが歴史に詳しくない方には親切かも知れないけど。家康も氏規も出てこない小田原合戦はいかがなものだろう。逆に、史料的に殆ど登場しない成田長親を変なキャラにする必然も感じられない。

水攻めの大芝居を強制したカリスマ上司秀吉と貧乏籤を引いた真面目部下三成の葛藤を描くだけでいい小説になったと思うんだが。それと、講談的に手垢のついた大谷吉継を出すより、後に微妙な距離感になる浅野長政を入れてみるとか。三成にとって忍攻め失敗は、その後の人生をある意味決めてしまったターニングポイントであることは間違いない。だから着眼点はとてもよいと思った。

そして、無粋を承知で現状の研究結果と相違がある点を書いておく。

禁制を三成が発明したような書きっぷり

    →「きんせい」と書いているのはご愛嬌(通常は「きんぜい」)。それよりも、何だか三成が為政者として優れていて自発的に禁制を配ったような書き方だが、実際には禁制を獲得しようとしたのは寺社だから三成は受身の筈。また、手数料もきっちりとっている。このサイトを見ている方はご存知だと思うが、禁制自体は戦国時代にありふれた文書であり、この時代以前から存在している。印判状を中心とした文書主義は関東のほうが先進的だったのだから、それはちゃんと調べてほしかった。

    この小田原合戦での禁制で特筆すべき点があるとすれば、秀吉が「禁制発行の手数料は一律でね」という触れを回したこと。これは禁制の取り次ぎによる人格的交渉を否定するための作戦なのだが、長くなるのでここでは説明を割愛。で、禁制があったから百姓はのんびり逃げなかった、などとも書いているが、それも間違い。寺に逃げ込むか、山林に用意した小屋に立て籠もったのが藤木氏などによって検証されている。この作者、戦場にそのまま留まる非軍属がいるとでも考えたのだろうか……。

    氏政が秀吉を馬鹿にする余り防備は不要とまで言ってたり

      →大軍が来るのに「防備不要」って一体。設定上、どうしようもない誇大妄想家にしたいのだろうけど……。韮山城の増強をサボる氏規を「ちゃんとしろよ」と叱ったり、沼田城の猪俣邦憲に「自分で率先して鍬を持てよ」と煽ったりしているのは誰あろう氏政。信長との衝突をギリギリで回避したし、その際の願文がまた切実で、全国政権と後北条の実力差ははっきり認識していた。

      これ以外にも、夜間に灯火なしで大軍を敵地行軍させるというアクロバットに驚嘆した。三成いわく、威嚇目的だと。聞いた吉継は驚愕するだけだが、そんな指揮官は解任させるよう報告を入れたほうがいい。ゲリラに撹乱されたらどうするんだろう。しかも、投降した旧敵軍(玉縄衆・館林衆)が交じっているし、少しでも接触したら同士討ちの危険度が高いと思う。その馬鹿進軍を「怖いな」と感じている長親もシュールだが。

      まあ最新の研究成果に沿っていれば物語として面白いのかと問われれば、否というほかあるまい。だが、小説としてだけ見ても物足りなさは大きい。同じく天下を向こうに回しての篭城物語だと『天下の旗に叛いて』(南原幹雄著・絶版)がよかった。これは結城合戦がモチーフでかなりフィクションも織り交ぜられているが、登場人物一人ひとりが追い詰められ、焦燥しながらも毅然としている美しさがあった。結城城だけで全国の軍勢を敵に回すのだから、敗軍は判りきっているのだが、それでいて展開にハラハラさせられた。嘉吉の変まで粘れば勝ちだったかもと、読後あれこれ考え込む余韻を与えてもくれた佳作である。

      でも、こっちは絶版、あっちは100万部。作家がその出来事と向き合って精妙な筆致で描いた作品であっても、登場人物や時代がマイナーだと浮かばれないのだろう。

      「御竪紙ニテ如左」

      権現堂之城掟

      一、何之番ニ候共、兼日定置着到之人衆、三日ニ一度ツゝ可被相改、若一騎一人も不足ニ付而者、可有披露、過失を可申付事、

      一、当番ゝゝ之物頭、於其家中も、 大途御存之者を可申付、一騎合躰之者、一切令停止事、

      一、番普請者、出来之上、房州代取一筆、可致披露事、

      一、境目之儀候間、当番ゝゝ、鉄砲之玉薬・矢以下、随其着到、無不足入置、少も不可致油断事、

      一、番替之毎度請取之曲輪、綺羅美耀二致掃除、厳重二請取渡可致之事、

      右、五ヶ条之旨、毛頭○[無]妄様可被仰付候、只今肝要之境目二候間、如此定置者也、仍如件、

      [虎朱印]戌子

      五月廿一日

      安房守殿

      →小田原市史 中世3小田原北条2「北条家掟書写」(吉田系図)

      1588(天正16)年に比定。

      権現堂城の掟

      一、どの番であっても、かねて定めておいた着到の員数かを3日ごとに検査し、もし1騎・1名でも不足しているならば、報告せよ。罰を申し付ける。一、当番ごとの責任者は、そちらの家中でも氏直が見知っている者を任命すること。一騎合の体の者は一切禁止する。一、普請の番では完成した上で氏邦が代わりに一筆して報告すること。一、国境のことなので、当番ごとに鉄砲の弾薬、矢などはそれぞれの着到によって不足がないように入れておき、少しの油断もないこと。一、番の交代ごとに曲輪を受け持った者は、きらびやかに掃除をしてから受け渡しを行なうこと。
      右の5箇条の内容について、毛ほどの侮りもないように仰せ付けである。現在重要な国境地点であるので、このように定め置くものである。