「用所」の例を挙げてみる。

01)世間只今之義相替候間、用所不成事候

世間の現在の状況は変わってしまったので、『用所』もならないことです。

02)過半小田原之川へ引上而置、用所次第可乗出候

大半を小田原の川へ引き上げて配置し、『用所』しだいで乗り出して下さい。

03)矢普請之儀者、先段氏直用所ニ而是へ被尋候時、諸人聞前にて、拙者申出候、氏直同意候キ

矢普請のことは、先に氏直が『用所』にてこちらへお尋ねになった時、諸人の聞く前で私が申し出ました。氏直は同意しました。

04)然者手切以前之事者、此方へ用所之度毎、何ヶ度も遂披露、可罷越

ということで手切れ以前のことは、こちらへ『用所』のたびごとに何度でも報告し連絡して下さい。

05)仍鉄炮薬玉進之候、猶用所付而重而可進候

鉄砲の火薬と弾丸を進呈します。さらに『用所』については重ねて進呈するでしょう。

06)用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候

『用所』のことは、町人一両人をつけて、厳密に行なって下さい。

このうち01と06は「身の回りの経費」を意味するように見受けられる。02と05は「軍事上の必要事項」であると考えられる。03と04は難解であるが、「作戦会議の場」もしくは「作戦会議」を表わすと考えるのが自然かと思う。

意味が3つあるという仮説にすぐ落ち着くのは安易な気もするが、01では資金繰りに困った憲政が手元不如意を切々と訴えているし、06では町人が出てくるので軍事用語ではない。03は、氏政が家臣の注視の中で氏直に進言した様子が描かれているし、04では「そのたびごと」とあるので開催されるものというニュアンスが強く会議体を思わせる。02・05は「必要に応じて」という意味にしか解釈できない。語源としては「用のあるところ→必要に応じて」というものだったのが、戦国期多義性をつけたのかも知れない。

新田証人上下貮人預ヶ被為置候、用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候、公用之義者、取越相調、重而以日記可申上、速ニ可被下者也、仍如件、

酉[虎朱印]

三月七日

大草左近大夫 奉

三嶋町

 瀬古

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(世古文書)

戦国遺文では1561(永禄4)年に比定(大草康盛の活躍時期からか?)。単に酉年であれば、1585(天正13)年の方が「新田証人」の具体性が増すと考えられる。

新田の人質上下2名を預けられるに当たっては、必要なことは、町人『一両人』を加えて厳密にして下さい。『公用』のことは、立て替えて用立てておき、同時に日報で申告するように。速やかに下されるだろう。

瑞渓院殿の危篤と氏政の出馬延期の相関性を考えているが、天正10年の甲信侵攻作戦での氏政不出馬のケースともつながるように思えて興味深い。この時の氏政は天正3年の榎本攻略時より追い詰められていた。

氏直を主将とする「大手」は甲斐国若神子に滞陣していたものの、新府の徳川方を切り崩せぬまま。加えて、小諸を経由して上野に至る補給線は、徳川方に転じた真田昌幸に塞がれつつあった。

家中存亡の危機と訴え、残存兵を掻き集めていた氏政は、自らも出馬して御坂方面から挟撃すれば徳川方を甲斐国から追い出せると踏んでいた。

しかしその出馬はなく、氏規・氏忠・氏光・氏勝が散発的に出撃したのみであった。次弟格の氏規を残して自らが出撃すれば、一気に戦局が覆った可能性は高い。

この時も瑞渓院殿が重篤だったのかも知れない。翌年10月には氏直と氏政は同時に上野国へ出馬しているから、これまでにはその状況が解消されていたのだろう。

初陣前の嫡男でも、前当主の次弟でも代替できない特殊な役割があるように思える。

覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝えるで謎として、氏政と清水上野入道の位置関係が不明であることを挙げた。

その後、上田案独斎毛呂土佐守への氏政書状を見た。どちらも「太方」の病状について触れている。『後北条氏家臣人名辞典』では、それぞれの書状の「太方」を、上田案独斎の母親、毛呂土佐守の母親に比定している。しかし、氏政は病状を直接話法で書いているのだから、「太方」は彼の近くにいることは間違いがない。両人の母が人質として小田原におり、それを見舞った氏政が情報共有しようとした可能性もあるものの、毛呂土佐守に対して「折角可有推察候=苦労を察して下さい」と書いた点を考えると、苦労しているのは氏政で病人はその身内であるような書き方である。同時に、上田案独斎に「哀々取延度候=申し訳ないが延期したく」と書いていることは、氏政の身内の都合で何かが延期になっていることを窺わせる。

延期になったのは、7月8日の毛呂土佐守宛の書状冒頭にある「榎本本意=榎本城攻略」への氏政同陣だったと考えられる。毛呂氏の拠点は埼玉県毛呂山、上田氏は同じく埼玉県の東松山。両氏ともに榎本攻撃に参陣していたのだろう。氏政はこの援軍を延期したのではないか。

参考に、8月28日に清水上野入道へ宛てた氏政書状もアップした。ここで氏政が気にしている「西口」とは、上田宛書状で書かれていた「甲州無仕合之儀」すなわち『長篠合戦』後の武田家動向だろう。この段階で後北条・武田は同盟しているから、清水上野入道は三島辺りで情報を探っていたことと思われる。この書状で「太方」のことは触れられていないため、危篤は脱していたものと想定される。

  • 6月23日 氏政が清水上野入道に瑞渓院殿が危篤であると告げる
  • 6月25日 氏政が上田案独斎に瑞渓院殿が危篤であると告げ、何かの延期を表明する
  • 7月08日 氏政が毛呂土佐守の榎本本意を賞し瑞渓院殿の回復を告げる
  • 8月28日 氏政が清水上野入道に東上総の戦況を伝える

 

東上総の戦線は、上総一宮に封じ込められた正木氏の救援に北条氏繁が動いており、既に氏政の出馬が予告されていた。8月の下旬になって急速に後詰作戦が展開しているのも、瑞渓院殿の本復を待った氏政がぎりぎりまで出馬を引っ張った可能性を窺わせる。

武田勝頼が瑞光院殿(寿桂尼=沓屋大方)の訃報を連絡という状況を考えると、当主の母や祖母の健康状態は軍事上の影響があったと考えることもできる。1569(永禄12)年の氏真、1575(天正3)年の氏政ともに、父は死没しており、息子は初陣前だった。

ただ、当主正室については両者で違いが見られ、氏真室は存在が確実だが氏政室は不在だった可能性が高い。このケースは瑞光院殿・瑞渓院殿という母娘が極めて政治的・軍事的存在だったという結論になる可能性もあるかも知れない。今後留意して史料に当たろうと思う。

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Androidでの文字入力が楽過ぎて、古文書のテキスト化と解釈作成もPCから移行しつつある。旧字体の入力にしてもマイナーな字だとWindowsではマウスによる手書きになる訳だから、始めから手入力の方が早い。

とはいえ、Android端末なら全てが手書きに適しているのではない。『mazec』を最大限に使うには、ペン入力と巨大な画面が必要になる。だからといってiPadのような大型タブレットだと持ち歩きに不便だし、太い静電式ペンは扱いが面倒だ。

そこで私が使っているのは5.3インチの適切な画面と電磁誘導式ペン入力に対応した『GalaxyNote』だったりする。

写真で一緒に写っているのはLenovoの『ThinkPadX61 Tablet』用の電磁誘導式ペン。ペン先がちゃんとあるので、ボールペンのような書き心地だ。本体に内蔵できる標準ペンもあるが、小さくて使いづらいので収納したまま。

GalaxyNoteは、NTTドコモから発売されるかも。歴史好きはぜひ触ってみてほしい。

一札具披見候、去十九東金へ押詰、土気・東金両地郷村毎日悉打散候、諸軍ニ申付、敵之兵粮を苅取、今朝中一宮へ籠置候、此表者明隙候、此上之模様、諸老令談合、可落着候、西口無替儀由、令得其意候、恐々謹言、

八月廿八日

氏政(花押)

清水上野入道殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状写」(清水宏之氏所蔵文書)

1575(天正3)年に比定。

 お手紙拝見しました。去る19日に東金へ押しかけて、土気・東金の両方の郷村で毎日ことごとく打ち散らしました。諸軍に指示して敵の兵糧を刈り取り、今朝中に一宮に備蓄しました。こちら方面は片付きましたから、この状況を家老たちで協議させ落着させます。西口に異常がないとのこと、了解しました。

一翰具令披見候、榎本本意先以大慶候、小山落居歴然候、随而息左衛門丞煩平癒之由、大慶候、働前候間、別而養性可為肝要候、恐々謹言、

追而太方煩長病ニ者、更ニ難治候、但、近日者、少見直候、折角可有推察候、

七月八日

氏政(花押)

毛呂土佐守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(林一氏所蔵文書)

戦国遺文では1574(天正2)年に比定しているが『後北条氏年表』では天正3年としている。

 お手紙詳しく拝見しました。榎本の本意達成、まずは大慶です。小山が失陥することは歴然です。さて、子息左衛門丞の病気が回復したとのこと。大慶です。前線で働くのですから、心して養生することが大切でしょう。

 追:大方は長患いでさらに治しづらいのです。但しこのところは少し持ち直しています。苦労の程お察し下さい。

就太方様御煩、一翰祝着候、経年月極労候、更無頼候、雖然、於保養無由断候条、昨今少験気之分候、哀々取延度候、将又甲州無仕合之儀、無是非候、然共彼分国諸境目無異儀由候間、至于今日、当方迄之苦労ニ無之候、委曲期重説候、恐々謹言、

六月廿五日

氏政(花押)

案独斎

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(大野正明氏所蔵文書)

1575(天正3)年に比定。

 大方様のご病気についてお手紙いただきありがとうございます。年をとっているので症状もひどくなっています。さらにおぼつかなくなっています。そうはいっても、保養については油断なく行なってきましたから、昨日今日は少し回復の兆しが見えてきました。申し訳ありませんが延期いたしたく。一方で甲斐武田氏が敗戦したこと、是非もありません。とはいえあの分国の国境に変化はないですから、今日に至ってもこちらが動くようなことはありませんでした。詳しくは重ねての説明を期します。

文豪チャールズ・ディケンズは1812年2月7日にイギリスの軍港ポーツマスで誕生した。今日はその200回目の記念日なので、少し語ってみる。

彼は分冊形式で安く販売される連載小説の名手だった。英国史上初の大衆作家であり、勃興する中流階級の旗頭でもあった。その一方でブルジョワジーの効率主義に基づいた貧困層切り捨てにも強く反対し、救貧院の非人道措置に異を唱え世論を動かした。返す筆で上流階級の偽善と退廃振りを切って捨ててもいる。筆を執れば無敵の人であった。

その半面、演劇が大好きだが俳優にはなれず、雑誌を立ち上げたけど何度も失敗している。後に妻と別居し愛人を作ったり、不肖の息子に悩まされたり、金の為に朗読会もやった。その一環で渡米した折はアメリカを扱き下ろしてもいる。喧嘩早くもあり、生涯の友はジョン・フォスターぐらい。それすら危うい時期もあったという。個人として見るなら駄目人間に近いかも知れない。

海外でのディケンズ評というと、古臭い人物描写とご都合主義、そして薄汚れた貧者を登場させてのお涙頂戴が定番だ。だがそれは初期作品に目立つ要素で、後期作品群では近代小説顔負けの複雑な構造になっている。

特に、『リトル・ドリット』と『荒涼館』は長大な物語の中に幾重にも伏線や象徴、皮肉が織り込まれドストエフスキ一の『カラマーゾフの兄弟』に匹敵する破壊力がある。『リトル・ドリット』では富と貧困の相対的な反転が繰り返され、終末に至ってもハッピーエンドはない。それでも登場人物たちは魅力を失わず、矛盾した立体的な性格にリアリティを持たせている。「巷によくいる人物」のカリカチュアではなく、生身の複雑な人格を精緻に描いているのである。悪人が意外に小さな悩みにうじうじしたり、時に優しさを発揮しながらも身勝手な施しをしたりと、100年以上昔の小説のキャラクタとは思えぬ程の現代人振りを見せる。

日本で紹介されているのは『クリスマス・キャロル』ばかりなのが常々悲しいのだが、彼の本領を試みに読むのであれば、岩波文庫の『ディケンズ短篇集』をお薦めしたい。ディケンズ翻訳で定評のある小池滋氏の訳もあるし、内容もそれなりに濃い。図書館などで手軽に入手可能だと思うので、機会があればぜひご一読を。

 以前石垣山城の位置について考察した際に、山王川を挟んで小田原城総構えの外側に存在する篠曲輪が隠し港ではないかと推測したことがある(遠過ぎる石垣山 その4)。その後アップした史料を調べていて、氏政が氏規に水軍の配置を指示した書状を改めて見つけた。過半小田原之川へ引上而置、用所次第可乗出候とある。小田原の川というと、早川・山王川・渋取川・酒匂川だが、早川と酒匂川は総構えに隣接していない。山王川もぎりぎり外れているため、やはり渋取川が第一候補となるだろう。篠曲輪と総構えの間に兵船を係留して、必要に応じて出撃する予定だったと見てよいと思う。