智多郡并篠島商人当所守山往反事、国質・郷質・所質并前々喧嘩、或如何様之雖有宿意之儀、不可違乱候、然者不可致敵味方者也、仍状如件、

天文廿壱

信長(花押)

大森平右衛門尉殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物写」(古今消息集 四)

 知多郡と篠島の商人が当所と守山の間を往復のこと。『国質』・『郷質』・『所質』、並びに前々の喧嘩、その他どのような恨みがあるとしても、妨げてはならない。ということで、事を構えないように。

一就当国与岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候、閣是非早速令和睦者、可為至妙候、委細三条大納言并文次軒可演説候、猶信孝可申候、穴賢

正月廿日

足利義輝花押

今川上総介殿

 あなたの国と岡崎が戦闘状態にある件ですが、関東への通行の障害になっています。是非はともかく早く和睦していただけると神妙の至りです。詳細は三条大納言と文次軒がご説明します。さらに信孝も申し上げるでしょう。

一就氏真与三州岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候、仍差下三条大納言并文次軒、遣内書間、急度加意見無事之段、可馳走事肝要候、猶信孝可申候也

正月廿日

足利義輝花押

北条左京大夫とのへ

 氏真と三河国岡崎が戦闘状態にある件ですが、関東への通行の障害になっています。よって三条大納言と文次軒を派遣し内書を送りますので、取り急ぎ忠告して無事に済むよう奔走して下さい。さらに信孝が申し上げるでしょう。

就駿州与三州鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、急度和睦可然候、仍対氏真遣内書候間、堅加意見可相調事簡要候、為其差下文次軒、猶委細信孝可申候也

正月廿日

足利義輝花押

武田大膳大夫とのへ

 駿河と三河が戦闘状態にある件ですが、関東への通行の障害になっています。取り急ぎ和睦させるべく、氏真に内書を送りましたので、決然と忠告して調整することが大切です。そのために文次軒を派遣しました。さらに詳細は信孝が申し上げるでしょう。

→豊明市史 「足利義輝御内書写」

翰札披読、長々其府滞留御辛労察入候、対氏真無等閑趣被申述、同氏真同意被聞届候者、早々御帰国簡要候、恐々謹言、

六月廿三日

信玄

幡竜斎

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状」(内閣文庫所蔵「諸州古文書」四上」)

 お手紙読みました。駿府に長逗留され、色々ご心労だと推察します。氏真に対して等閑にすることはないと申し述べられ、氏真も承諾したことをご報告いただいたからには、早々にご帰国することが肝要です。

丸子宿伝馬の事

右、公方荷物の事は、壱里拾銭を除き、その外の伝馬壱里拾銭取るべき旨、先年相定むる処、事を左右に寄せて相紛ると云々。然る間、自余に相替はり、余慶の地無き為により、当宿怠退に及ぶの旨、只今訴訟を企つ条、向後に於いて、公方荷物の事は、壱里拾銭を除き、彼の印判に三浦内匠助、判形を加ふべし。若し判形無きに於いては、縦ひ公方荷物たりと雖も、壱里拾銭之を取るべし。その外上下伝馬の事は、壱里拾銭出さざるに於いては、伝馬之を立つべからず。但し、地下宥免の上、公方儀無沙汰せしめ、その上在所衰微せしむに於いては、此の定め相違有るべきの旨、先の印判に任す所、仍って件の如し

永禄三 庚申 年

四月廿四日

丸子宿中

→『今川義元(ミネルヴァ書房)』(東京逓信博物館所蔵文書)

 今川家公用の荷物は1里10銭をかけず、そのほかの伝馬(運送)は1里10銭を徴収することは、先年すでに決めていたことだ。それに難癖をつけ事態を曖昧にしていると聞いた。このようなことで負担が重くなりこの宿場が立ち行かなくなったので訴訟となった。今後は、公用の荷物として1里10銭をかけず利用する場合は、書類に三浦内匠助が捺印することとする。印がないものは、公用だったとしても1里10銭を徴収すること。

 その他伝馬でも1里10銭出さない者は馬を仕立てないように。ただし、民衆の負担を軽くするためという条件で、公用荷物もなく、頼んだ相手が困窮しているようであれば、この条文は適用されず、先に出した通達に従うように。

 ちくま文庫、北川悌二訳。この作品は結構苦手で、一読はしているがその後3回ほど読みかけで放置していた。ネルへの感情移入ができないので、現在でも読んでいてしんどい。ネルは自業自得だと思ってしまう。恐らく、私には「肉親のために献身する」という美徳が根本的に欠如しているのだろう。
 ちょうど、前期と後期の中間ぐらいの作風なのも中途半端で思い入れが湧かないのかと思われる。行き当たりばったりな筋運びなのだが、人物描写を含めて踊るような筆致ではなく技巧派への転換が見られる。チグハグさを感じてしまう。
 それと翻訳が私と合わない。会話はいいのだが、風景描写は翻訳が厳しい。直訳寄り過ぎる。
 ストーリーとしては悲劇の少女というありがちな展開。ただ、言われるほどネルは純粋じゃないような気がしている。状況に流されることで責任をとっていないんじゃないかと思えている。
 前回読んだ時よりも、悪役クイルプが面白い。エネルギッシュで狡猾ではあるのだが、21世紀の現実社会から見たら、さほどの悪役とは思えなかった。欲望に一直線の、単純で愛すべきキャラクターではないか。
 解説を読んで思い出したが、ディック(リチャード・スウィヴェラー)と女中『公爵夫人』のネタがあった。この話は下巻に向けてとても楽しみである。私の好きなリトル・ドリットの原型が感じられる。何故忘れていたのか不思議。

1559(永禄2)年

四月十五日大氷降。十二月七日ニ大雨降。俄ニ雪シロ水出テ。法ケ堂悉皆流レ申候。又在家ノ事ハ中村マルク流シ候無限。

 4月15日に大きな氷が降った。12月7日に大雨が降った。急に『雪シロ水』(雪解け水か?)が出て、『法ヶ堂』がことごとく流されたといいます。また民家では中村が丸ごと流されました。

1560(永禄3)年

二月廿日大雪降。<ツツカイ(筒粥)ニハ何モ不入候得共>鹿島無残被取申事無限候。<此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始。来ル十月迄降続候間。耕作以下何モ無之候。>去程ニ巳未ノ年疫病流行。悉人多死無限候。惣而酉ノ年迄三年疫病流行。村郷アキルル無限。導者之事ハ二月ヨリ八月迄参申候。

『妙法寺記』<>内『勝山記』()内編注

 2月20日に大雪が降った。<筒粥には何も入れられませんでした。>『鹿島』が残らず取られたということです。<この年は6月以前は『日和』(天候温順・旱魃?)、6月13日から雨が降り始めた。10月まで降り続けましたので、耕作も何もありませんでした。>去年未年から疫病が流行して、多数の死人が限りなく出ました。総じて酉年まで3年間疫病は流行した。村落は限りなく空き家となった。『導者』は2月から8月まで滞在したそうです。

当郷年来陳夫之を相勤むと雖も、刈屋陳の刻、百性等困窮に就いて逐電に及ぶの上、陳夫一円免許たるの旨申すの間、今度奉行人仁相尋ぬるの処、歴然たる由申すの条、儀に任せ、向後一切免許し畢。殊に材木以下別して奉公せしむるにより、自余に準ぜざるの条、永く相違有るべからざる者也。仍って件の如し

永禄四 辛酉 年

十一月十六日

氏真書判在

尊俣

坂本

長津俣

朝倉六郎右衛門尉殿

→『今川義元(ミネルヴァ書房)』「今川氏真判物」(森竹兼太郎氏所蔵文書)

 この村はいつも陣夫(戦時作業員)を勤めていたが、刈谷での戦闘があった際、住民が困窮を理由に逃げ出してしまったうだ。その上、この一円は陣夫義務を控除されるよう申請があった。しっかりした理由を申し出ているので、申請のままに今後は一切控除する。材木供給による奉公で他の村と差をつけているわけなので、このことは永く相違ないように。

当知行之内、北矢部并三吉名之事

右父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還付之上者、任通法如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件

永禄三 庚申 年

九月朔

氏真 判

岡部五郎兵衛尉殿

→豊明市史 「今川氏真判物写」

 当知行のうち、北矢部と三吉名について。右は父親である玄忠の隠居分である。先年分与したと言われている。だが玄忠の後継者は元信だけとするように。もし弟たちが隠居分の付嘱(譲渡)について訴訟を企てようとも、既に還付地となったので、競望は一切許容しない。並びに弟二人に分割したことは、元信が事情により近年絶縁となった際に判形を発行したものであるとはいえ、以前より東西で忠節があり、その上今度の一戦では、大高と沓掛が自ら陥落したとはいえ、鳴海城だけは堅固に踏みとどまった。指示をもって退いたのは神妙である。このことから還付する上は、通法のように陣番を勤め同心するように。殊に契約は明確であり、今度異義を申し立てる者があれば、この文言のように元信の進退の意図に任せるように 。

 大高城が5月19日の合戦の焦点になるかもしれない。というのも、尾張国内に侵攻してからずっと、今川軍の大きな作戦目標に「大高への補給」という焦点があったからだ。具体的に検証すると以下のようになる。

鵜殿氏→1560(永禄3)年6月12日付け戦功報奨。

1559(永禄2)年11月19日・1560(永禄3)年5月19日

「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」

朝比奈氏→1559(永禄2)年8月21日付け大高在番への報奨通達

「今度召出大高在城之儀申付之条」

菅沼氏・奥平氏→1559(永禄2)年10月23日付け合戦評価

「去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」

 ここで鍵になるのが、大高への補給作戦は19日にのみ行なわれているという点だ。朝比奈氏の報奨通達は21日付けになっているが、朝比奈氏が大高に着任したのは19日である可能性が高いと考えられる。なぜなら、その他の作戦は全て19日だからだ。
 なぜ19日なのか。当時は太陰太陽暦が使われていた。月の満ち欠けでいうなら、毎月同じ日であれば満ち欠けも同じになる。月齢と関連があるのは潮の満ち引きもそうだ。日付が確実な、1559(永禄2)年10月・11月、1560(永禄3)年5月の、各19日がどのような条件だったかを調べてみると……。

太陰太陽暦 永禄2年10月19日 永禄2年11月19日 永禄3年5月19日
グレゴリオ暦 11月28日 12月27日 6月22日
月齢(輝面) 15.5(99.8%) 15.0(99.3%) 14.9(98.7%)
日の出 0636時 0659時 0436時
日没 1643時 1647時 1909時
最高潮位/時刻 2380mm/0658時 2300mm/0657時 2310mm/0544時
2410mm/1940時
最低潮位/時刻 80mm/0010時
60mm/2447時
-60mm/0003時
-120mm/2444時
0100mm/1241時

○使用ソフト
from TIDE Version1.33/超スーパー暦 Version1.2

 見事なまでに、月齢15の満月を狙って作戦を行なっていることが判った。満月と新月では最高潮位が高い特徴がある。中でも満月を使っているのは、月明かりを使って航行するためではないか。古代は熱田神社があった大高は、中世末期港としては使えないほど奥まっていた可能性がある。ここに物資を運び込むとすれば、潮位が上がるタイミングを使い、船で行なうのが効率的である。
 10月と11月の作戦時では払暁と最高潮位時刻がほぼ同じであるため、少しでも月明かりを使いたかった事情があったと想定できる。
 ただし、この作戦形態は敵からパターンを読まれやすい。ここに、5月19日に今川義元が敗死する原因があったのかも知れない。義元が船上で討ち取られた可能性も出てきた。座乗する船が拿捕されたとすると、総大将であっても逃げられない。史料をその観点から再度検証する必要があるだろう。

去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時、太刀打被鑓疵三カ所云云、無比類働尤神妙候、弥可抽戦功者也、仍如件、

六月十二日

氏真 判

鵜殿十郎三郎殿

→戦国遺文 今川氏編1546「今川氏真感状写」(鵜殿系図伝巻一)

 去年11月19日と今年5月19日、尾張大高口でのこと。二度にわたる合戦のとき、太刀打ちして槍傷3箇所を受けられたという。比類のない働きで神妙です。これからもいよいよ戦功を上げるように。