笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します。

笠原政晴は僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われているが、遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議になった。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうも胡散臭い感触……。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、政晴が陣代を命ぜられた笠原家は、後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門
奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の通字「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

実はこの記述、混乱している。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。以前政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きではあっさりと「助左衛門」になっている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

そうなると前掲の徳川家康書状写も怪しく思えてくる。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する緩やかな戦いだった。この戦いで家康が喜ぶほどの契約とは何かよく判らない。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」と書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに、下記のサイトで笠原政晴の墓についての記述がある。

松田家の歴史

44ページ

笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある。

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているような感じだ。本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。

前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。

新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。

  1. 武田勝頼書状
    武田勝頼、曽禰河内守に、伊豆戸倉での松田新六郎援助を命ず
    「如顕先書候、今度松田新六郎忠節無比類候、併其肝煎故候」
    1581(天正9)年10月29日 年は比定

  2. 武田勝頼書状
    武田勝頼、上杉景勝に、新府城への転居前に伊豆出兵する旨を伝える
    「氏政家僕松田尾張守次男笠原新六郎」
    1581(天正9)年11月10日 年は比定

  3. 武田勝頼感状
    武田勝頼、小野沢五郎兵衛に、韮山での戦功を賞す
    「寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処」
    1581(天正9)年12月8日 年は比定

※3の文書から、政晴が上総介の官途を名乗っていた可能性がある。

松田家の仮名は「六郎」なので、「新六郎」と名乗っている点から見ても政晴が次男であることは確定事項と見てよい。

政晴の名前は、軍記類で「政尭」とあることから混同されているが、下記記録から政晴が正しい。

笠原政晴署判写
笠原政晴、伊豆国衙で署判を発す
1580(天正8)年7月3日

ただ、政晴が次男であるとはいえ、直秀の弟ではないように思う。偏諱から考えて、氏政の「政」をもらった政晴の方が元服は早かったはずだ。

さらに、政晴は早々に登場する一方、直秀は随分遅れて名を表わす。政晴の初出は1575(天正3)年3月2日。笠原家の当主が幼少のため9年間の陣代を氏政から命じられている。この時氏直は元服していないから、当然偏諱は氏政からのものだ。対する直秀は1588(天正16)年11月15日に、父憲秀と連署で売却文書に名を出すのが初見だ。13年も間がある。

このため、政晴には名の伝わらない兄がいて、その後早世。政晴は武田に寝返ったため家督を継げず、遅れて生まれてきた直秀が松田家後継者となったと解される。

ところが、名前には改名があるのと、文書初出は年齢と厳密な関係を伴わないというトラップがある。一族の松田康長は初出時に46歳、康郷は44歳という例がある。

憲秀も、娘(松田殿)が氏康の側室となって産んだとされる桂林院殿は1564(永禄7)年の生であることは確かなので、孫まで20歳平均でつないだとすると、

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1544(天文13)年生?
  • 憲秀   1524(大永4)年生?~1590(天正18)年没(享年66歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で34歳。

ぼんやりした中で1つの試案ができた。憲秀の従兄弟たちの生年も列記してみる。

  • 氏繁 1536(天文5)年生 1558(永禄元)年初出・22歳
  • 康長 1537(天文6)年生 1583(天正11)年初出・46歳
  • 康郷 1540(天文9)年生 1584(天正12)年初出・44歳

文書の残存具合にも左右されるのだろうが、改めて初出からの年齢割り出しが当てにならないことが確認できた。ただ、これら父方・母方の従兄弟たちの生年分布と憲秀生年が大きく外れているのも気がかりだ。出産年齢を平均20歳から15歳に引き下げてみる。

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1549(天文18)年生?
  • 憲秀   1534(天文3)年生?~1590(天正18)年没(享年56歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で24歳。

あくまで仮想年齢だが、こちらの方が収まりがよいと感じる。氏政が1538(天文7)年生まれだから、氏繁・康長・康郷も含めて同年代集団となり、最年長が憲秀という感じだ。

もう1人、微かな手がかりがあるのが政晴だ。

北条氏政判物
北条氏政、松田新六郎に笠原千松の陣代を命じる
「笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡」
1575(天正3)年3月2日

天正3年時点で、幼少の千松に変わって笠原家の軍事指揮をとることになっている。通常陣代は一族の長老格が勤めるもので、実戦経験は必須である。このことから、政晴は少なくとも20歳以上で何度か実戦も経験していたと考えられる。仮に20歳として生年を逆算してみる。

  • 政晴 1555(天文24)年? (1590(天正18)年には35歳?)

となると、長男は松田殿(天文18年)~政晴(天文24年)の間に生まれていたことになる。この人物、全く文書に残されていない。身体的に問題があって元服もできずにいたか、既に亡くなっていたか。勝頼が「次男」と認識していた点については、勝頼正室が政晴姪の桂林院殿だから、既に長男が亡くなっていても「次男」とした身内的感覚もあるかも知れない。それ以上は判らない。

そして直秀だが、氏直偏諱を受けていることから、前項でも取り上げたように直長と同年か年下ということになる。直長は氏直偏諱の最長老ともいえるからだ。

  • 直長 1562(永禄5)年 1590(天正18)年・28歳初出

ただそうなると、前項の直長=弟説との整合が苦しくなる。ここは今後の課題としたい。

検討可能な異説

政晴の後身が直秀と考えると、憲秀跡取りが実質1人しかおらず、ほとぼりが冷めたところで名乗りを変えさせて再登場させたと考えられる。陣代赴任を9年にきっちり限定していたこととも辻褄が合う。8歳年下の直長が「弟」と受け取られたことも符合する。

もう1つ、何らかの理由で長男の元服が30歳以上になったという可能性もある。実例がないので何ともいえないが、30歳を過ぎて正常化し、直秀と名乗った。このパターンだと、直秀の弟である政晴が密告したことになって収まりがよい。

また、後北条氏の後で仕えた前田家で直秀は「四郎左衛門」の仮名を名乗っている。官途である左馬助を捨てたものと思われる。直秀の仮名が松田家の「六郎」でない点は重要だ。実は後北条家にも松田四郎右衛門尉という似た名前の人物がいる。念のため事蹟を掲げておく(参考:四郎右衛門尉は、所領役帳に記載があり1582(天正10)年8月12日に死去した山角四郎右衛門もいる)。

  • 1578(天正6)年1月18日 氏政から義氏への年頭挨拶使者となる
  • 1581(天正9)年5月3日 氏照から来住野氏へ、氏直へ感状を斡旋すると約束した書状の奉者となる

憲秀には新次郎康隆という弟がいたとされるが、1536(天文5)年に鶴岡八幡造営に参加していることから年次が早過ぎ、憲秀というより盛秀の弟の可能性の方が高いように思う。

ここまでで、通説とは逆に直秀こそが調儀の主役だったことを検証してきた。では、北条氏直と松田直秀、垪和豊繁の秘密交渉を暴いた松田の「弟」とは何者なのか。いくつか候補がいる。内応していたのは直秀だとして、その「弟」と考えて検討すると候補者は3名。

  • 松田康郷:50歳。盛秀弟の康定次男。大雑把にいうと「弟の家柄」である。
  • 松田政晴:40歳代? 憲秀次男。但し1581(天正9)年以降史料から消える。
  • 松田直長:28歳。康郷の兄康長の嫡男。直秀の又従兄弟。

直秀の年齢は不明だが、氏直から偏諱をもらっているから、氏直が元服する1577(天正5)年3月以降の元服ではある。直長は永禄5年生まれなので、氏直偏諱では最も早い組に当たる。直秀の元服が遅れた可能性もあるので、ここでは暫定で20代後半~30代前半と考えておく。

康郷は直秀より年長であることから弟とは考えづらい。羽柴方からすれば「叔父」ぐらいに受け取ると思われるので除外。康郷の嫡男定勝(孫太郎・六郎左衛門、母は山角紀伊守某の女)が寛政譜にあり、1645(正保2)年8月11日に87歳で卒したという。逆算すると天正18年に32歳となるが、なぜか後北条関係の文書に名が出てこない。名も少し違和感があるため、今回の候補者から外している。旗本として大奥奉行になった人物なので、何か理由があって雌伏していたのかも知れない。ここは要検討。

憲秀次男の政晴は筆頭候補なのだが、武田家への寝返り後に姿を消している(翌年に武田家が滅亡)。助命されていれば、出家状態で松田家にいた可能性は高い。偏諱から見ても、政晴は氏政、直秀は氏直と関係が深く、氏直の無断開城を氏政に訴えたのが政晴という図式は納得がいく。しかし、後に考察するように年齢から見て直秀の弟とは思えないため除外。助命後の政晴が赦免され名を変えて直秀となった可能性は残されているが、そうであっても本人になってしまうため「弟」ではない。

直長は28歳で、直秀の又従兄弟ではあるものの「弟格」にはなるだろう。父康長の率いた兵は山中城で失っているから余力はなかったはずで、本家の直秀に陣借していた可能性が高く、その動向を見知っていただろう。

直長の心情を考えると、兵力差から到底勝てぬと判っていながら最前線に立って死んだ父がいて、その一方で、堂々と開城交渉をするでもなく、秘密裏に工作している氏直・直秀がいる。父の壮絶な死を茶番の前座にしないためには、告発は当然の流れだったのだろう。

ちなみに、直秀の親類には、津久井の内藤直行もいる。憲秀の娘が内藤綱秀に嫁して直行を産んでいるから、直秀から見れば甥に当たる。直行は小田原開城後に直秀と行を供にし、氏直の高野山に同行したのち、羽柴秀次、前田利家に仕えている。心情的に告発したとは考えにくいので除外した。

一方の直長はどうかというと、完全に別行動をとっていた。1595(文禄4)年に徳川家康旗本となり父の知行である相模国荻野郷を給されている。後北条時代の本領が安堵されたのは珍しく、父の奮戦と自身の内応阻止が評価されたのではないかと思う。

北条氏直の出した、松田直秀宛ての書状が疑問点の始まりだった。これは1590(天正18)年6月、炎暑の小田原城での出来事……。既に羽柴方の大軍に攻囲され、分国内の支城も次々に陥落していた状況である。陸奥の伊達政宗も恭順し、籠城している後北条方は、日本全土を敵に回して孤立していた。

通説では、松田憲秀とその長男の政晴が「これでは勝てない」と敵を城内に引き入れる計画を立て、羽柴秀吉から伊豆・相模をもらう約束を取り付けたという。実行の直前で、政晴の弟である直秀が氏政・氏直に報告し、憲秀・政晴は捕縛され事なきを得たとする。

これまで私も疑問は持っていなかったが、一つの書状を見て確信が持てなくなった。この書状は、父と兄の悪事を暴いた直秀を、氏直が賞したものだという。

北条氏直、松田直秀の忠信を賞す

この度の忠信、本当に古今ないことです。内容は紙に書かれません。本意を達したら、どの国でも(知行を)お渡しします。氏直一代において、この厚志は忘れません。時間が経とうとも些細なことでも、他とは異なり親しくします。

実に模糊とした内容である。たとえば今川家であれば、こんな曖昧な言い方はしていない。

「今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処、存代々奉公之忠信、最前馳参之条、甚以粉骨之至也」

たとえばこのように、正々堂々と裏切り行為の摘発を褒めるのが普通だ。

また、「内容は紙に書かれません」の部分の原文も少し違和感がある。通常であれば「難尽紙面候」と書くものを「紙面不被述候」としている。「書きつくせない」ではなく、「書くに書けない」という意味が込められているようだ。

何か事情があるに違いないと、詳しく調べてみた。まず小田原合戦についての時系列を整理。

 3月29日 山中陥落(グレゴリオ暦5月3日)
 4月06日 秀吉が早雲寺に着陣
 4月17日 山中で戦死した松田康長の跡目を嫡男直長が継ぐ
 4月20日 松井田開城
 4月23日 下田開城
○4月26日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
○4月29日 氏直が上田氏に、戦勝後は駿河・甲斐の知行を与えると約束
 5月23日 氏直病気のため氏政が執務代行?
 5月24日 岩槻開城
 5月27日 堀秀政没
○6月01日 氏直が林氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
 6月05日 伊達政宗が秀吉に出仕
●6月08日 伊豆・相模を安堵する秀吉の意向が某に発せられる
●       岡田利世が6日~7日に氏直と面会したと小幡信定に伝える
●6月12日 氏直が降伏交渉の存在を小幡信定に告げる
?       瑞渓院殿と鳳翔院殿が死去
 6月14日 鉢形開城
●6月16日 松田の内応が弟の返り忠で手違いとなり、松田成敗と徳川方に伝わる
?6月17日 氏直が松田左馬助に、今度の忠信は生涯忘れないと伝える
○6月20日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
●       城中で内応があるとして徳川方が臨戦体制(国替は近日との話)
 6月22日 篠曲輪合戦(グレゴリオ暦7月23日)
 6月23日 八王子陥落
 6月24日 津久井開城
 6月26日 秀吉が石垣山に着陣、小田原城へ一斉射撃
 6月27日 徳川方で中間の逃亡が始まる
●7月01日 氏直が小幡信定に、本領安堵での降伏を了承したと告げる
 7月04日 韮山開城
●7月05日 氏直・氏房が出城
 7月10日 氏政が出城(グレゴリオ暦8月09日)

●は開城に向けた動き・○は徹底抗戦に向けた動き・?は現段階でどちらともとれるもの

こうしてみると、氏直が徹底抗戦から開城に心変わりしている様子が判る。このことは以前に遠過ぎる石垣山 その4 で言及していたが、更に細かく見ていこう。

4月下旬の段階から、氏直はいくつかの空手形ともいうべき督戦状を出している。上田・木呂子・林の各氏に宛てたものが残されているが、実際にはかなり広範囲に発給していたのだろう。これらの督戦状は紋切り型だが、総じて駿河・上野・甲斐の組み合わせで新知行を約束している。

その後6月6日に、氏直は羽柴方の岡田利世と単独面談している。

「六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候」

恐らくは開城への交渉だったと思われる。そうなると、その2日後の日付がある安堵状がこの交渉と関連すると考えるのは自明だろう。

「然ハ伊豆相摸、永代可被扶助旨候」

この文書は差出人と宛名が失われており、従来は羽柴秀吉から松田憲秀に宛てられたものと解釈されてきた。しかし、家臣筆頭とはいえ2カ国を得るような約束を憲秀が得られるものだろうか。ちょうどこの頃の氏直は開城に向けて邁進している点からも、これは氏直が得たお墨付きだと考えるのが自然だろう。

さらに、のちの7月1日に氏直が小幡信定に伝えた本領安堵の確言から考えても、宛て先は氏直で間違いない。

「殊本国之儀妄ニ雖成来候、既出仕之上者、先規不可有異儀由候」

しかし、この開城交渉は内々で行なわれたため難航する。岡田利世が「氏直様御壱人」としか話していなかったと証言しているように、その席に氏政・氏照らはいなかった。だからといって厳密に秘した訳でもなく、氏直は信定に開城のことを縷々告げているし、「扱之取沙汰ニ付而、諸役所油断之由候」→「開城の噂について色々な持ち場が油断しているそうだ」と氏直自身が12日に注意している程に情報は漏れていた。

その12日に城内で氏政の母と妻が亡くなる事件が発生する。同日ということから自害したと考えられているが、恐らく彼女たちは氏直の近くにいてその動きを察知し、諫死したのではないか。ここに来て、城内各所にいた氏政・氏照らは異変に気づいた。彼らは氏直の近辺を調べ上げたに違いない。そうした中、16日に松田の弟の証言によって状況が判明し、告発された松田は拘束される(岡田利世を城内に手引きした垪和善七郎(豊繁)も拘束・もしくは殺害されたと思われる)。

この時の様子を城外から見たのが家忠日記の6月16日項である。

「城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候」

「松田成敗」とあるが、これが即座に死刑を表わすことは限らず、『処罰』を指すケースが多い。松田は存命だったものの閉じ込められた。直前までの氏直の動きを見る限り、松田が単独で動いていたとは考えにくく、氏直の指示で開城工作を行なっていたと考えた方が自然だ。

では「松田」とは誰か? まず羽柴方にとっての「松田」とは憲秀・直秀のいずれかを指す。北条家人数覚書 には、「松田尾張入道 同左馬亮 父子 千五百騎」とある。

父の尾張入道憲秀が「松田」だった場合

弟ではなく息子に告発されたことになる。また、直秀への書状も、冒頭に書いたように氏直から明確に忠節を賞されたものになるはずだ。通説ではここを回避するため、内応の主役を直秀の兄政晴にして、父・兄への不忠を直秀が憚ったような表現をしている。しかし政晴は天正18年時の実在を史料上確認できないし、返り忠を憚るような風習は戦国期には見られない。

息子の左馬助直秀が「松田」だった場合

 告発者とされている直秀だが、氏直と連動していたとすれば、告発された側に立った方が判りやすい。事情を知る氏直があの奇妙な書状を送ったと考えると、曖昧な文章にも合点がいく。氏直が直秀に宛てた書状を改めて見てみると、捨石となって軟禁されていた直秀に「事情は判っている。恩に着る」と告げたかったように解釈が導き出される。威勢のいい新知行の約束もなく、むしろ「どのような身の上になっても便宜を図りたい」という気弱な囁きしか窺えない。告発した弟については項を改めて検討するが、対象者がいない訳ではない。

やはり、内応に加担した「松田」は直秀の方が可能性が高い。

家忠日記では、20日に城内調儀があるとして雨の中終夜待機している様子が描かれている。松田調儀の決行日が20日だったため、不発に終わったと判っていながら念のため臨戦体勢を敷いたものと思われる。

開城のための手駒を失った氏直は、この20日になって木呂子氏に例の督戦状を出しているが、これは城内首脳を欺く意図があったように思う。

氏直自身は側近に罪を負わせて自由な身柄を確保した。だからこそ、その後の7月1日に氏直は小幡信定に開城の準備が出来たと告げることができた。さらに5日には城を出て織田信雄の陣所に弟の氏房と駆け込んだ。

猶以、是迄御尋、過当之至、難申上候、其以来者、無音信、背本意奉存候、何様自是可得尊意候、かしく、

被入御念、是迄預御使僧候、誠以忝奉存候、如尊意、此度不慮成儀共、更可申達様も無御座候、我等躰迄めいわく仕候、乍去、拙者なとニハ■日至而、替仰出も無御座候、名ゝ御家■■候故、先其侭可■■之由、御ふれ候間、■■面ゝ仰出旨相待申処ニ候、委曲従是可得奉尊意候条、此旨以可■■心得候、恐惶敬白、

七月十八日

 松田三衛門尉 直憲(花押)

高室院 御同宿中

→戦国遺文 後北条氏編4305「松田直憲書状」(高室院文書)

天正19年に比定。

念を入れてこちらにご使僧をお預けいただき、本当にありがたいことです。仰るように、この度思いがけないことになりましたが、これにご指示が出る様子もありません。私のような者まで困惑しています。とはいいながら、私などには今日に至っても代わりのご指示はございません。それぞれお家に□□(忠節?)したから、まずはそのまま□□(待機?)するようにとのこと、周知がありましたので、□□(再出仕?)する面々のご提示を待っているところです。詳しくはこちらから尊意を得るようにいたしますので、このことをお心得ありますように。

 さらにもって、これまでお尋ねいただいたのは過分なご配慮で、申し上げにくいところです。それ以来は連絡もなく、本意ではありませんでした。どうか尊意を得られますように。

尊札快然ニ奉存候、仍自京都■御使節富左被参、氏直大阪へ可罷移之由、御意之段被申、自境道同道、内府屋形へ移被申候、外聞実■、於我等式も、大慶此事ニ候、聞召不絶氏直所ヘ被仰届候、忝之由被申事ニ候、何様自是■■■者可申上候、此旨■然様ニ可奉得尊意候、恐々敬白、

五月十一日

 松田哲斎 直憲(花押)

高室院 御尊報

→戦国遺文 後北条氏編4301「松田直憲書状」(高室院文書)

天正19年に比定。

 ご書状快然に存じます。さて京都よりのご使節である富田知信が参られまして、氏直が大阪へ移りたいこと、ご許可があったとお知らせ下さいました。堺より道を同行して内府の館へ移るとおっしゃっています。外聞にしても実態にしても、私めにとっても大慶とはこのことです。要望はないかと絶えず氏直のところへお伺いいただき、ありがたいことだと申されています。何れにせよ、こちらから□□(お礼?)を申し上げるでしょう。このことはしかるべく尊意を得られますように。

長泉院寺領定事、

 合五貫文 但、年貢目、

  已上

右、当年庚寅年より、於中沼之郷、永代為寄進相定候、代官池田出雲守有御断、田地可有御請取之者也、仍如件、

天正十八年[庚寅] 三月廿日

 直秀(花押)

長泉院 参

→戦国遺文 後北条氏編3690「松田直秀判物写」(相州文書所収足柄上郡長泉院文書)

 長泉院の領地のこと。合計5貫文(但し『年貢目』)。以上。右は当年庚寅年より、中沼郷において末永く寄進すると決めました。代官の池田出雲守に申告して田地をお受け取りになりますように。