月: 2008年8月

武田晴信、松井山城守に後北条氏との和平案を示す

今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、 武田晴信、松井山城守に後北条氏との和平案を示す

武田晴信、遠山左衛門尉と左近助に信濃・美濃での作戦を指示

今度万指越候処、尾州金山江其方入魂之由候、誠令安堵候、仍越後衆信州へ出張之由候間、至于実儀者、乗向可遂一戦候、為虚説者、以次越府江可及行候、旁々不図出馬候、約束之鉄放衆五十人、急速ニ加勢憑入候、万可如申者、苗左可有出陣様 武田晴信、遠山左衛門尉と左近助に信濃・美濃での作戦を指示

武田晴信、佐野主税助に今川領国の状況報告を命じる

以幸便染一筆候、仍遠州之体実儀候哉、無是非次第ニ候、駿州之内彼方之調可然様候て、過半駿之内可相破様ニ候者、早々可致注進、此表者焼動迄之事候条、以夜継日急ニて可納馬候、又遠州者心替候へ共、駿州衆各守氏真前、自元三州之備も氏 武田晴信、佐野主税助に今川領国の状況報告を命じる

今川氏真、某に、兄尾上彦太郎が昨年5月19日の戦いにおける戦死を賞し、跡職を安堵する

尾上彦太郎跡職之事 右、去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死、為忠節之跡候間、知行以下任先判形之旨不可有相違、次ニ長増寺之事、山林竹木等如前々可為地頭計也、其上用水・井溝等之事、是又可為如先規、若 今川氏真、某に、兄尾上彦太郎が昨年5月19日の戦いにおける戦死を賞し、跡職を安堵する

武田晴信、下条兵部少輔が武節谷で活躍したことを顕彰する

旧冬三州武節谷へ遣士卒砌、別而被挊之由候、忠信無比類、猶以戦功可為肝要候、恐々謹言、 弘治三年正月二日 晴信 御朱印 下条兵部少輔殿 →戦国遺文 武田氏編「武田晴信感状写」(下条由来記)  前の冬に三河国武節谷へ兵員を派 武田晴信、下条兵部少輔が武節谷で活躍したことを顕彰する

今川氏真、菅沼久助に、知行所および三河国田峯郷人夫銭を安堵し、同国武節筋における戦功を賞する

定 一先年依忠節被充行知行之事 一於田峯郷所務仕来人夫銭之事 右之条々、天沢寺殿判形数通任明鏡之旨、永領掌不可有相違、彼印形者為継目之筋迄之間、可申子細於有之者、以先判可申改也、然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固 今川氏真、菅沼久助に、知行所および三河国田峯郷人夫銭を安堵し、同国武節筋における戦功を賞する