今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、

十一月九日

晴信(花押)

松井山城守殿

上包如此

「松井山城守 晴信」

→戦国遺文 武田氏編「武田晴信書状写」(内閣文庫所蔵「土佐国蠧簡集残篇六」)

1545(天文14)年に比定。

 この度援軍として越山する趣旨ですが、去る酉年に義元と縁続きになるよう信虎が申し合わせたところ、このことから以降駿河国と伊豆国が交戦状態になったと世間の聞こえがありました。ということで晴信は5年間格別に申し合わせ、今回も友軍として出動しました。吉原を始めとして分国はことごとく本意となり、ご自身の満足これに過ぎるものはありません。内々でこの上の作戦行動などを申し合わせたいのですが、北条家のことはそちらの縁戚でもありますから、特に駿府大方の思し召しも図りがたいところで、和平をとりなすようにします。中でも長久保の城を攻めている件は、たとえ氏康が滅亡するといえども、数十年はかかります。関東衆が相模国・伊豆国を本意としてしまい、所領の争点を現状に戻せるでしょうか。かれこれの条件から意見を統一し、しかるべく奔走しています。今から以後、意固地に拘る者には、この趣旨で説得します。長久保のことは肝要です。

今度万指越候処、尾州金山江其方入魂之由候、誠令安堵候、仍越後衆信州へ出張之由候間、至于実儀者、乗向可遂一戦候、為虚説者、以次越府江可及行候、旁々不図出馬候、約束之鉄放衆五十人、急速ニ加勢憑入候、万可如申者、苗左可有出陣様ニ支度之由候、於志者不浅次第候、雖然候自井口金山へ揺之由聞及候条、必苗左出陣延行尤候、恐々謹言、

六月十三日

信玄(花押)

遠山左衛門尉殿

同左近助殿

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状」(尊経閣文庫所蔵『武家手鑑』)

1564(永禄7)年に比定。

 この度万端指示していたところ、尾張国(美濃国)兼山にあなたが昵懇であるとのこと、本当に安堵しました。越後国衆が信濃国へ出撃したとのことで、それが真実ならば迎撃して一戦しようと思います。デマであれば引き続き越後府中へ作戦行動に及ぶでしょう。いずれにせよ思いがけなく出馬しています。約束していた鉄砲衆50人は緊急で援軍をお願いします。万端伝えたように処理して下さい。『苗左』(遠山氏?)が出陣の支度をされたそうで、その志は深いものがあります。とはいえ、井口から兼山へ牽制作戦があったと聞きます。苗左の出陣は延期してもらうのがもっともです。

自井口働之由注進候間、則信州衆申付、可立遣之仕度専一候キ、其上及十日令長陣者、出馬可遂一戦之旨談合議定候処、無功退散、先以心地好候、於向後者、其身上無二ニ可見続心底候、加勢・城米等無隔心可被申越候、委曲長延寺・甘利可申候、恐々謹言、

六月十七日

信玄(花押)

長井隼人殿

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状」(敦賀市・長井家文書)

1564(永禄7)年に比定。

 井口より侵攻があったと報告がありましたので、すぐに信濃国衆に指示して出撃準備に専念しています。その上で10日に及ぶ長陣をさせ、出馬して一戦を遂げる旨を打ち合わせて決めていたところ、(敵が)功なく退散しました。まずは心地よく思います。今後については、あなたの身上は無二に思い、見守る積もりです。援軍・兵糧は遠慮なくお申し付け下さい。詳しくは長延寺と甘利が申します。

以幸便染一筆候、仍遠州之体実儀候哉、無是非次第ニ候、駿州之内彼方之調可然様候て、過半駿之内可相破様ニ候者、早々可致注進、此表者焼動迄之事候条、以夜継日急ニて可納馬候、又遠州者心替候へ共、駿州衆各守氏真前、自元三州之備も氏真可有本意様ニ候者、以次暫之在陳、関東之義可明隙候、何ニ両様其方具致見聞、以早飛脚注進待入候、謹言、

壬十二月六日

信玄(花押影)

佐野主税助殿

追而、駿州必可相破様ニ聞届候者、此時候間

早々納馬、彼国之本意可相急候、

此所々能々聞届、注進尤ニ候、又彼方へ越書状候、彦六郎へ

渡候間、被指越候者、早々可被届候、以上、

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状写」(彰考館所蔵「佐野家蔵文書」)

閏12月は1563(永禄6)年。もしくは1569(永禄12)年閏5月か。追而書の彦六郎は穴山信君か。

 折り返しの便を使って一筆啓上します。遠江国の実際の様子はいかがでしょうか。是非もない次第です。駿河国の中では敵方の調略が進んでおり、駿河の過半は破られている状況です。早々に報告を行なって下さい。この前線は放火攻撃が主体ですが、夜を継ぎ日を急いで馬を納めるでしょう。また、遠江国は心を替えましたが、駿河国衆はそれぞれ氏真の馬前を守り、三河国の防備は最初から氏真の本意を叶えるべく存在します。次の暫くの在陣をもって、関東のことは隙を空けることとなるでしょう。何れの戦線もあなたが詳しく調査して下さい。早飛脚を使って報告を待っています。
追伸:駿河国は必ず撃破するように聞き届けて下さい。まさにこの時なので、早々に馬を納めて、あの国の本意を急いで下さい。
 こちら方のあらゆる在所の情報をよくよく収集し、報告するのがもっともです。また、あちらへ送る書状は彦六郎へ渡すので、使者が出たらすぐにご連絡下さい。

就高森之儀、■■■預御飛脚候、祝着存候、諸口御味方相調、城中堅固之由肝要候、晴信駿州へ入魂之事者、可有御存知候歟、若高森之城尾州・井口へ有御渡者無曲候、其御分別尤候、猶自甘利藤三所可申候、恐々謹言、
追而、御用之子細候間、以中村美作守申■、御同心可被■候、

九月廿七日

晴信(花押影)

木曾中■大輔殿

→戦国遺文 武田氏編「武田晴信書状写」(早稲田大学図書館所蔵「諸家文書写」)

1559(永禄2)年に比定。

 高森のこと、■■■飛脚をいただきました。祝着に存じます。諸方面のお味方とも連携して、城中を堅固にすることが肝要です。晴信は駿河国と親しい間柄で、ご存知でしょうか、もし高森の城が尾張国(織田氏)や美濃国井口(斎藤氏)の手に渡るようになったら詰まらないことです。冷静な判断が必要です。さらに甘利藤三より申し上げるでしょう。
 追伸:ご用件の詳細は中村美作守にお申し付け下さい。同心も同様にお申し付け下さい。

去年九月十日向梅坪相動之刻、於鑓下弓仕敵数多手負仕出、無比類之旨各以連判注進、神妙之至也、守此旨弥可忠軍忠之状如件、

永禄四年

八月廿六日

氏真(花押影)

鱸新三左衛門尉殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真感状写」(伊予古文書二九)

 去る年9月10日、梅坪に向かって出動した際、槍下において弓を撃ち敵に多数の負傷者を出させた。比類のないことだと連判状で報告があった。神妙の至りである。この旨を守りますます軍功を行なうように。

尾上彦太郎跡職之事

右、去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死、為忠節之跡候間、知行以下任先判形之旨不可有相違、次ニ長増寺之事、山林竹木等如前々可為地頭計也、其上用水・井溝等之事、是又可為如先規、若違乱之百姓等令追却、郷中新百姓可申付候、縦百姓等寄事左右雖企濫訴、一切不可許容、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、

永禄四 辛酉年

二月廿八日

氏真

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(掛川誌稿巻九)

尾上彦太郎の遺産相続について。去る年5月19日に尾張国で一戦した際、天沢寺殿の供として兄彦太郎が比類のない討ち死にを遂げた。忠節をなしたので知行以下諸々は先の判形の旨に任せ相違のないように。次に長増寺のこと。山林竹木などは前々のように地頭の専有とする。更に用水や井戸・水路の件も先例の通りとする。もし違反した百姓がいたら追放し、郷中で新しい百姓を取り立てて下さい。百姓たちが理屈をこねて勝手に訴えたとしても、一切許容しないだろう。この旨を守り奉公に励むように。

旧冬三州武節谷へ遣士卒砌、別而被挊之由候、忠信無比類、猶以戦功可為肝要候、恐々謹言、

弘治三年正月二日

晴信 御朱印

下条兵部少輔殿

→戦国遺文 武田氏編「武田晴信感状写」(下条由来記)

 前の冬に三河国武節谷へ兵員を派遣した際、格別に活躍したということです。忠信は比類がありません。ますます戦功を挙げることが肝要です。

今月朔日、簗瀬九郎左衛門令八桑江其行、城廻小屋五六十放火、敵四五十人討捕之旨感悦、於度々如此候段神妙也、弥可抽戦功之状如件、

永禄三年

十一月十五日

氏真判

原田三郎右衛門殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真感状写」(紀伊国古文書所収藩中古文書)

 今月1日、簗瀬九郎左衛門が八桑で応戦し、城の周囲の小屋50~60軒に放火、敵40~50人を討ち取ったとのこと。感悦である。度々このような功績を挙げており神妙であり、ますます戦功に励むように。

一先年依忠節被充行知行之事

一於田峯郷所務仕来人夫銭之事

右之条々、天沢寺殿判形数通任明鏡之旨、永領掌不可有相違、彼印形者為継目之筋迄之間、可申子細於有之者、以先判可申改也、然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固走廻之段、太神妙也、并同心如年来相抱、弥於抽忠功者、重而可加扶助者也、仍如件、

永禄三年 庚申 十月七日

氏真判

菅沼久助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(浅羽本図)

 一、先年忠節により給付した知行のこと。
 一、田峯郷の支配分の人夫銭のこと。
 右の条項は、天沢寺殿(今川義元)の判形数通ではっきりしている。永く掌握することに相違ないように。あの印形は相続するまでのものなので、事情があれば申告するように。先の判をもって改めるだろう。5月19日、尾張国での一戦の際、武節筋を堅固に守備して活躍した。とても神妙である。並びに同心を今までのように抱え、ますます忠功にぬきんでるなら、重ねて扶助を加える。