永代売渡申御道者事

 合壱所、在所尾張国鳴海・丹下・同両家方・寺島方一円大高花井名字中一円

右之道者者、親ニて候者代々従山崎殿買徳仕候て、我等迄知行無相違者也、雖然依有急用直銭限参拾五貫文ニ、小田屋宗兵衛殿方へ永代売渡申処実正明白也、親ニて候者買徳仕候文書ハ、先年午歳大乱ニ失申候間、此文書可為支証者也、已後ニ従何方違乱之儀候共、此儀者一段申合候て売申候間、此道者ハ其例ニ不可成候也、殊道者在所同名字我等知行分一円ニ別ニ日記調渡申候、如此永代可有知行候也、仍為後日売券状如件、

文亀三年 癸亥 六月八日

売主 村松蔵大夫五郎  国次(花押)

    口入 藤ゑもん 清重(花押)

→愛知県史 資料編10「村松国次売券」(経済文書)

 永代売り渡す道者のこと。
 合わせて1箇所。場所は尾張国鳴海・丹下、同じく両家方と寺島方一円、大高花井名字の一円。
 右の道者は、親が代々山崎殿から買い取ったもので、私まで知行としていることは相違ありません。とはいえ急用があり現金35貫文をもって、小田屋宗兵衛殿方へ永代で売り渡すことは真実で明白なことです。親が買い取ったという書類は、先の午歳(1498(明応7)年)の大乱で紛失しましたので、この文書を証文をもって証拠とします。以後どこであれ違乱があったとしても、この件はきちんと合意して売却したものですから、この道者は違乱の条件が適用されるものではありません。特に道者の居住地と名字、私の知行分一円に別途日記を用意してお渡しします。このように永代で知行があるものとします。後日のため売券をこのように決めます。

廿二日、癸酉、晴、入夜雨降、(中略)

抑尾州井戸田匂当領事、松波左衛門大夫有申出之旨之間、内々相談長橋之処、可申試之由也、仍今日遺書状、彼在所事等為後日注之、(中略)

雖不思寄子細候、禁裏御料所尾張国井戸田事近年名越御代官之処、没落之後一向無京進候、尤神妙之事候、彼辺に便宜候者、可然之様入魂候者可為別忠候、就中熱田太宮司職も御料所之地候、御代官千秋近年無沙汰過法候、国之儀如何処哉、同被尋捜可被注進候、他事期面候也、謹言、

十月廿二日   判

松波左衛門大夫殿

(中略 今川国氏請文写

井戸田ハ三ヶ所也、井■田・市部・かしわい也、かしわいハ織田弥九郎押領、前二ヶ所当知行也、今川預所也、

→愛知県史 資料編10(実隆公記 永正二年十月二十二日条)

22日。癸酉。晴れ、夜に入り降雨。そもそも尾張国井戸田の匂当内侍領のこと。松波左衛門大夫が申し出た旨もあったので、内々に長橋のところで相談し、試してみようとのことであった。今日書状を遺して、あの在所などのことを後日調べてみることとする。
思いがけない事情があったとはいえ、禁裏御料所である尾張国井戸田のことは、近年名越御代官が没落した後は一切京に納税はありませんでした。最も神妙なことです。あちらに便宜を図る者があれば、しかるべくように昵懇にしてくれれば別の忠義でしょう。とりわけ熱田太宮司職も御料所の地です。御代官千秋は近年無沙汰で法に触れています。国のことはどのようになったのでしょうか。同じく調査して報告して下さい。他のことは会う時を期しましょう。

尾張国愛智郡内御公領井戸田・市部等御代官職事、末代所預申実也、但御年貢事先九月中肆拾貫文、同冬中肆拾貫文、都合捌拾貫文分、不混国中自社本所引懸、毎年可進納候、万一有無沙汰之儀者、雖為何時可有改替候、其時不可申一言之子細者也、仍所請之状如件、

延徳四年五月十六日

今川大夫判官

国氏判

→愛知県史 資料編10「今川国氏請文写」(実隆公記 永正二年十月二十二日条)

尾張国愛知郡内の公領、井戸田・市部などの代官職のこと。末代預かっているということは真実です。但し年貢は先の9月中40貫文、同じく冬中40貫文、合計80貫文は、国中の社・本所の『引懸』(判決?)より、毎年納付するでしょう。万一未進の場合は、いつでも改易して下さい。その際は一言も言い訳はありません。このように『所請』を行ないます。

尾張国星崎庄烏丸頭右中弁跡事、彼右中弁今度被致御敵、既没落之間、為欠所被充行畢、早可被全領知之由、所被仰下也、仍執達如件、

明応八年十二月廿四日

豊前守(花押影)

前丹後守(花押影)

一色式部少輔殿

→愛知県史 資料編10「幕府奉行人奉書写」(一色家古文書)

豊前守は松田頼亮、前丹後守は松田長秀に比定。

 尾張国星崎庄にある烏丸頭右中弁跡地のこと。右中弁がこのたび敵となられ既に没落したので、欠所を宛て行なった。早々に全てを掌握するようにとの仰せである。

永代売渡申田地事
 合而壱段ハ 在坪ひは島
         小作五十斗代

右件田地者、近藤右京亮雖為名田之内、従有用要、現銭四貫文定候て、秀憲房へ永代売渡申処実正也、但此内より公方年貢五升、十文毎年御沙汰可有者也、此外一切諸役有間敷候、若於子々孫々、違乱之輩出来候者、公方・地下として、堅成敗可有者也、仍為後日、売巻之状如斯、

永禄二年十二月十七日

  近藤右京亮

    家■(花押)

秀憲房 まいる

→愛知県史 資料編10「近藤右京亮売券」(宝生院文書)

 永代で売り渡す田地のこと。合わせて1段は琵琶島の坪にある小作50斗代。右の田地は、近藤右京亮が名田としていましたが、必要があったので現金4貫文と定めて秀憲房に永代で売り渡すことは真実です。但し、この内から公方年貢5升、10文を毎年納付するものとします。この他一切の諸役はあってはなりません。もし子々孫々において違反する者が出てきたならば、公方・地下として厳格に処罰するべきものです。後日のため売券をこのようにします。

(三月)

同十八 井ノ口に逗留、長井殿御いせい無申計候、常覚院之御馳走、是又無申計候、城一段見事、

尾張国

同十九 岩倉ニ着、道六里也、

                      宿主 菅 四郎

 近比ミられる者にて候、路次中の物わらいニ仕候、長井殿より岩蔵之小田殿まて人をそへられ候、竹井之人之心へにて二宮方をそへらへ候、小田殿内、山内・前野・高田、両三人へたけを一すしつゝ遣し候、岩蔵より森山まておくられ、それより岩さきまて人を被付候、

同廿日、廿一日、廿二日ニ岩倉ヲ立、

同廿二 岩さきニ着、城下より五丁計行候て、ふし島と申在所へ行道六里、

                      宿主 井舞甚四郎則とい也、

     城主 庭ノ右近と申人、

同廿三 山中ニ付、道八里、岩崎より岡崎まて人をそへられ候、老人にてふしきの者ニて、おひを二すし出し候ヘハ、よくほり候と申、事外■■■ねり候て、代二百文とり候、岩崎の城主福島、するかより被越て被持候、やはきの川、しやうるりの古所見物、松一本有、

同廿四 しらすかニ着、道九里也、

 ひるのやすミ、吉田にて仕候、

(中略)

(四月)

同廿五 山中に着、道九里、宿は竹尾平左衛門、

 三河国内吉田役所、又代物のえりミして、よき代をハ皆々取候由ニて、とられ候、いろゝゝわひ事申候て返し候■、中々難儀にて候、

尾張国

同廿六 ならわニ着、道九里、

                       宿ハならわ十郎兵へ

 山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き、舟ニ乗候て大はまへ行、又船ニのり候、五十丁計乗、ならわニ着候、

同廿七 なこうニ着、船上九里、

 とこなへという所より、ふねニのり候、雨ふりと申、又かせ共ふき申候、皆々ふねニゑい申候、いまやゝゝと難きにて候つる、

い■国

同廿八 上つけニ着、道八里、

                       宿主 ■■大夫

→愛知県史 資料編10「参詣道中日記」(大村家文書)

1553(天文22)年に比定。

3月18日 美濃国井ノ口に逗留。長井殿のご威勢は表わせないほどでした。常覚院の奔走もまた、言い表せません。城は一段と見事でした。
3月19日 岩倉に到着。行程は6里。宿主は菅四郎。近頃よく見る者で、道中の物笑いになっていました。長井殿より岩倉の織田殿まで案内をつけてくれました。武井の心遣いで二宮さんを添えられました。織田殿の家臣、山内・前野・高田の3名へ竹を1筋ずつ献上しました。岩倉より守山まで送られ、その先の岩崎まで案内人をつけられました。
3月20日、21日を過ごし、22日に岩倉を出立。
3月22日 岩崎に到着。城下より5丁ばかり行って、藤島という在所へは6里。宿主は井舞甚四郎則といいました。城主は丹羽の右近という方。
3月23日 山中に到着。行程8里、岩崎より岡崎まで案内をつけられました。老人ですが不思議な人で、笈を2筋出したところ「よくほり候」と言い、ことのほか(欠字)ねって、代金200文をとりました。岩崎の城主は福島氏、駿河からやってきて城を持っています。矢作の川、浄瑠璃の古所を見物。松が一本あり。
3月24日 白須賀に到着。行程9里。昼の休みは吉田にて行ないました。
(中略)
4月25日 三河国山中に到着。行程9里。宿は竹尾平左衛門。三河国内の吉田役所は、通行税の銭をより分けて、いい銭を全て取ってしまうとのことで、取られました。色々と陳情して返してもらいました。なかなか難儀なことでした。
4月26日 尾張国成岩に到着。行程9里。宿は成岩十郎兵衛。山中より岡崎経由で、往路は藤島を通りましたが、三河・岡崎が紛争地となったので、岡崎から油崎へ行き、舟に乗って大浜へ行き、また船に乗って50丁ばかり乗って成岩に到着しました。
4月27日 長太に到着。船上で9里。常滑という場所から船に乗りました。雨が降り、また風も吹いていて、全員船酔いしていました。到着はまだかまだかと苦しみました。
4月28日 伊勢国上つけに到着。行程8里。宿主は(欠字)大夫。

大御堂寺大工之儀、向後不相定候、何時茂御造作之時者、何之番匠候共可被仰遣者也、仍如件、

永禄参

九月 日

信元(黒印)

大御堂寺

→愛知県史 資料編11「水野信元黒印状」(大御堂寺文書)

 大御堂寺大工のこと、今後は特に決めることはありません。どの施工であっても、番匠は誰を使っても構いません。

 物語のテンポが一気に上がってくる第3巻は、エミリーの駆け落ちから幕を開ける。幼馴染の漁師ハムとの結婚を控えた彼女は、その寸前にスティアフォースと逃亡してしまう。上昇志向のあるエミリーは、家族に愛着を持ちながらもチャンスに賭けたのだ。デイヴィッドは残された家族の悲嘆を見てスティアフォースとの決別を感じるものの、彼との思い出や影響は捨て切れないというチグハグな感情を抱く。この辺りは後期作品の重厚さにつながっているくだり。
 この小説には、女性の願望がよく描かれている。デイヴィッドの最初の妻ドーラは、彼の母とかなり似た要素を持っており、成熟を拒否し、結婚してもなお世故に長けることなく死去してしまう。彼女たちの欲望は「生涯少女のままいたいのに」というところだろう。前述のエミリーには分不相応の淑女(変身)願望があり、スティアフォースに横恋慕するローザ・ダートル、ドーラとデイヴィッドの幼い恋を煽り立てるジューリア・ミルズたちには、恋愛という概念に振りまわれた女の情念が見られる。スティアフォースの母、ヒープの母、アニー・ストロングの母、ベッチー・トロットウッドには、その強過ぎる母性によって迸る征服欲が見られる。
 改めて読み直してみると、驚くほど女性たちが元気な作品である。アグニスとペゴティが完成された女性像をトレースして若干退屈な存在だが、前期諸作に比べるとちょっぴりではあるが陰影が施されており、少しは深読みができる仕掛けだ。
 3巻の中でいよいよユライア・ヒープの暗躍が始まるが、ドーラの父スペンローの怪死、アニーの密通疑惑など、どう考えても巨大な伏線と思われるエピソードが「実は伏線ではなかった」というディケンズにありがちな終わり方をしそうで恐ろしい。多少は緻密な作りの後期作品ならありえないのだが……。これも中期作品を読む上での楽しみと考えてみよう。

向山所迄一札披見、仍村上義清逆心付而、七月朔日出馬候処、不慮一戦得大利候、随而伊奈郡地下人少々相替就企逆儀、為其成敗当郡迄納馬候、兼又氏康追日入魂申候条、宜預馳走者可為喜悦候、尚向山又七郎可申越候、恐々謹言、

三月七日

晴信(花押)

真月斎

→戦国遺文 武田氏編「武田晴信書状」(『玉英堂稀覯本書目』二一二号)

1549(天文18)年に比定。

 向山の所で書状を拝見しました。村上義清の逆心について、7月1日に出馬したところ、思いがけず一戦し、大きな利を得ました。これにより、伊那郡の地下人少々を逆心を企てた件で改易します。その成敗のためこの郡に馬を納めております。かねてより氏康とは日を追って親しくしていますので、宜しく奔走いただくことは喜ばしいことでしょう。なお、向山又七郎が申し上げます。

御状具披見申候、仍去年両度三州今橋・田原にての御走廻之段、懇披露申候、雪斎へも様躰御談合申候、其上御感状相調進之候、殊其方御粉骨之段、不始于今毎度御忠節一段、被感覚候、併御冥加之至候、并御同名・親類・被官以下、是も各申調進候、何も被官衆之事ハ、主人への当所にて候、巨細可被仰聞候、猶々度々御粉骨申もをろかに候、将又料紙二束給、祝着申候、何様重可申入候、恐々謹言、

十一月十三日

飯尾善右衛門尉

元時(花押)

天野安芸守殿 御報

→愛知県史 資料編10「飯尾元時書状」(天野文書)

1547(天文16)年に比定。

 ご書状細かく拝見しました。去年2度にわたり三河国今橋・田原でのご活躍の運び、親しく披露いたしました。雪斎へも様子をご談合申され、その上で御感状発行を進めております。特にあなたのご苦労のことは今回に始まったことではなく、毎度の忠節に覚えもめでたく、冥利に尽きます。同時に一族・親類・被官以下、これもそれぞれ申し進めております。どの被官衆のことも主人への『当所』です。詳細は仰せ聞かされるでしょう。さらに度々のご苦労、申し上げるのも愚かなことです。ところで料紙2束いただき、祝着を申します。どのようなことも重ねて申し入れて下さい。