今十一巳刻、於信州佐久郡一戦之砌、頸壱討捕之条、神妙之至候、弥可抽忠信事肝要候、仍如件

天文十七戊申

九月十一日

晴信(印)

土橋惣右衛門尉との

→甲府市史「武田晴信感状」(甲州古文書)

 今日11日の巳刻、信濃国佐久郡で一戦した際、首級1を討ち取ったことは神妙の至りです。いよいよ忠信にぬきんでることが肝要です。

今十九卯刻、於信州塚魔郡塩尻峠一戦之砌、頸壱討捕条、神妙之至候、弥可被抽忠信事肝要候、仍如件

天文十七戊申

七月十九日

晴信(印)

土橋惣右衛門尉との

→甲府市史「武田晴信感状」(甲州古文書)

 今日19日卯刻、信濃国筑摩郡塩尻峠での一戦の際、首級1を討ち取ったことは神妙の至りです。いよいよ忠信にぬきんでていただくことが肝要です。

今六日申刻於信刕佐久郡小田井原合戦、頸壱討捕之条神妙之至候、弥可被抽忠信者也、仍如件

天文拾六年丁未

八月六日

晴信(印)

市川五郎次郎殿

→甲府市史「武田晴信感状」(甲州古文書)

 今日6日申刻、信濃国佐久郡小田井原での合戦で、首級1を討ち取ったことは神妙の至りです。いよいよ忠信にぬきんでて下さい。

一、壬寅九月廿五日、諏方信濃守与御一戦之砌、御東者申、其上高名仕候、於在所者、親者伊豆涯分忠信仕候事

一、甲辰冬、諏方地下人在ゝ所ゝニ逆心人数、就中同名山城被官佐渡与由候て、殊外健者候、逆本之儀条、討進上可申由、板垣駿河守被申付候間、くミ討候、此同心者同名出雲、同半左衛門尉ニ候、就御尋者可致言上之事

一、上田原御一戦之砌、蒙手疵奉公仕候事

一、諏方西方衆逆心仕候砌、家内以下取捨、一類引連、上原江相移忠信申候事

一、砥石御帰陣之砌、涯分相挊候、此御証人者長坂筑後守褒美書中給候事

一、葛尾御本意、然処ニ石川其外所ゝ逆心故、八幡峠御人数入之時、涯分返馬相挊候、此証人者馬場美濃守殿具御披露候故、典厩様為使、於苅屋原御陣所ニ三度御褒美条ゝ被仰下様共候事

一、小田井原にて頸壱ツ

一、あミかけ小屋にて頸壱ツ

一、伊久間原にて頸壱ツ

一、塩尻峠にて頸壱ツ

一、葛山おゐて頸四ツ

一、越国西浜板垣為使罷越候時分、敵相揺之間相挊、屓鉄砲疵奉公仕候事

一、小谷城御本意之時分、於構際弓を涯分仕候、板垣具ニ言上故、以高白斎深志之御対面所江召出、無比類相挊之由、御褒美候事

一、時田台軍之時分、板垣弓奉行被申付候間、涯分挊候、此子細弓之衆ニ可有御尋候事

一、三村逆心仕候時分、諏方郡地下人も更不見届為躰候之間、近辺取人質、種々相挊忠信申候、此旨野村具ニ言上、以飯富方御悦喜之趣再三被仰下候、惣別於何趣、乍恐御譜代御旁ゝ御同前奉公之儀存入候、此趣具御披露奉頼候、以上

→甲府市史「千野氏書き出し」(千野家文書)

1557(弘治3)年に比定。千野氏は諏訪郡茅野の在。

一、壬寅年9月25日、諏訪信濃守と一戦の際、東側につき、その上高名を上げました。在所では親類の伊豆がとても忠信をなしました。

一、甲辰年の冬、諏訪の地下人があちこちで逆心の挙兵をした際、とりわけ同姓山城の被官で佐渡という者がいてことのほか強壮でした。「『逆本之儀』であるので討って進上せよ」との板垣駿河守の指示で組み討ちしました。この同心は同姓の出雲、半左衛門尉です。ご質問に答えて言上します。

一、上田原での一戦の際、手傷を受けて奉公しました。

一、諏訪の西方衆が逆心した際、家内以下を取り捨てて、一類を引き連れ、上原へ移った忠信を申し上げます。

一、砥石から帰陣の際、とても働きました。これは長坂筑後守の褒美書で証明されています。

一、葛尾奪取の際に、石川とその他の者がところどころで逆心し、八幡峠に軍勢を入れた時、馬を返してとても働きました。これは馬場美濃守殿が詳しく披露してくれ、典厩様の使者となった際、苅屋原の御陣所で三度ご褒美の言葉を頂戴しましたこともあります

一、小田井原にて首級を1つ。

一、あミかけ小屋にて首級を1つ。

一、伊久間原にて首級を1つ。

一、塩尻峠にて首級を1つ。

一、葛山において首級を4つ。

一、越後国の西浜へ板垣の使者として行った時分、敵が揺さぶりをかけたので働きました。鉄砲疵をこしらえる奉公をしました。

一、小谷城奪取の時分、防御物のそばで弓を射てとても働きました。板垣が詳しく申し上げたので、高白斎が深志で御対面所へ呼んでくれ、比類のない働きだということでご褒美をいただきました。

一、時田台合戦の時分、板垣に弓奉行を申し付けられてとても働きました。この詳細は弓衆にお尋ね下さい。

一、三村が逆心した時分、諏訪郡の地下人も特に見届けていないようでしたので、近辺で人質を取り、色々と働きを見せる忠信をなしました。この旨は野村が詳しく言上し、飯富経由で喜びの趣旨を再三いただきました。これらどの事柄も、恐れながら御譜代の皆様と同じように奉公したと思います。このことを詳しくご披露いただけるようお願いします。以上です。

十一日之注進状今十四日戌刻着府、如披見者越国衆出張之由候哉、自元存知之前候条不図出馬候、委曲於陣前可遂直談候趣具承候、飯富兵部少輔所可申趣候、恐々謹言

三月十四日

晴信(花押)

木島出雲守殿

原左京亮殿

→甲府市史「武田晴信書状」(丸山史料)

1557(弘治3)年に比定。

 11日の注進状が14日戌刻に甲府へ到着しました。内容によると越後国の軍が出撃してきたということでしょうか。元から計画していたようにすぐ出馬します。詳細は陣に着いたら直接打ち合わせる趣旨は承知しました。飯富兵部少輔が内容を説明します。

大坂へ遣候当方之使者、近日其国へ下着之由、先度飛脚来候条越山候、仍長尾上野乱入、自茲、北條氏康申合、既令進陣候間、不得退候、如只今者、景虎滅亡必然候、幸御門跡之御下知之旨、近年申談筋目、御門徒中有相談、此時神保同意、向于越後被動干戈候様ニ馳走、尤肝要候、猶可有山田口上候、恐々謹言、

十月十七日

信玄

上田藤左衛門殿

→神奈川県史 資料編3「武田晴信書状案」

 大坂へ派遣した我々の使者が、近日その国へ到着したと飛脚から聞いた際に、越山して長尾(景虎)が上野国に乱入したと判りました。ですから北条氏康と申し合わせて、既に陣を進めています。退却はしません。このような状況では、景虎の滅亡は必至です。幸いにして(本願寺)御門跡の命令の旨は、近年折衝していることです。門徒の間で相談する時に神保が同意し、越後に向けて軍勢を出動させるよう奔走することが最も肝要です。さらに山田が口頭で申し上げるでしょう。

従今川殿以一宮出羽守承候間、去七日坂木江指越候、例式豆州ハ大酒振舞まてニ候間、何事も不調談合候、亦小山田をハ佐久郡へ差遣し候、以彼是一向不如意迷惑候、同者急度有出来御意見可為本望候、猶従高白所可申条不能一二候、恐々謹言

八月十二日

晴信(花押)

竜淵斎江

→甲府市史 資料編第1巻 「武田晴信書状」(国玉神社文書)

1555(天文24)年に比定。

 今川殿より一宮出羽守をもって承りましたので、去る7日に坂木へ移動しました。いつものように豆州(穴山信友)は大酒を振舞うだけで具体的な話は何もありません。また小山田を佐久郡へ派遣しており、かれこれ一向に手詰まりで困っています。同じく取り急ぎ来てもらってご意見をいただけるのであれば本望でしょう。さらに高白斎が申しますので『一の二の』とは申しません。

為加勢人数差越処、自憲盛大慶之由候、可被心得候、扨亦於倉賀野筋被得勝利由、雖不初儀候、時分柄心地好候、有内者聞届分者、源三・大道寺武主計之由申候、越甲何与哉覧取成ニ付而、氏政悃望動之由申候、兎角ニ堅固之動ニ者有之間敷候、放火見得候者、しば前の後江可出備候、又向甲陣も可及其備候、若信玄押下者、当手も押下、無二見合可決勝負候、敵手敏ニ候程、一戦可急候、身之事者、時刻到来、不及是非候、身之見切成悪、遂一戦失利候へ者、無故味方中迄崩進退候歟、以爰依矯勝負延引候、乍去自坂ひがしの是非候処分別候而、意見肝心候、恐々謹言

潤正月六日

謙信(花押)

岡谷加賀守殿

→甲府市史「上杉輝虎書状」(飯綱考古博物館所蔵文書)

1572(元亀3)年に比定。

 加勢として軍勢を派遣したところ、憲盛より喜んでいる旨聞きました。心得ていただけますか。その一方で倉賀野筋で勝利を得られたとのこと。これが初めてではありませんが、状況から考えてとても心地よく思います。内部の人から聞いた分では、北条氏照・大道寺氏の武士クラスばかりだったとのこと。越後と甲斐は緊張が何とはなしに緩和されていましたが、北条氏政が懇望したことで(武田氏が)出撃したそうです。とにかく堅固な攻勢ではないでしょう。放火が見えたところで、戦場に後手の先を突きましょう。また、武田氏もその作戦でいくでしょう。もし信玄が押し下り、こちらも押し下ったら、決戦の無二の好機ですから、敵が機敏なほど、一戦を急ぐでしょう。自分としては、時刻が到来し是非もないことです。しかし見切りは難しい。一戦を遂げて利を失えば、ほどなく味方の諸大名まで進退を崩すでしょうか。このことから、決戦を引き伸ばします。とはいえ、関東の是非と分別については意見が肝心です。

去此権現堂・大橋形部帰路ニ申含候条、家康江以使申届候、可然様ニ取成頼入候、彼者若輩ニ候間、被為引廻可為祝着候、敵之仕合、万々無心元迄候、此口隙明、無二従信・関手合可申心中、無他事候、可心易候、猶彼者可申候、恐々謹言、

極月三日

謙信御居判

松平左近允殿

→上杉家御書集成I「上杉謙信書状」(歴代古案)

1573(天正元)年に比定。

 先に、権現堂と大橋刑部の帰路で申し含めた事項は、家康に使者を使って通達しました。しかるべく取り成しをお願いします。あの者は若輩なのでうまくお取り図り下さると嬉しく思います。敵との交戦は全てが心もとないので、この方面で隙を作って、信濃国と関東から手合わせしたいと心中だと申し上げたいのです。他意はありませんのでご安心下さい。更にあの者が申し上げるでしょう。

 ディケンズ最初の長編。この連載小説が始まって世界は大衆小説を知ることとなったという伝説の作品だが、実は1回しか読んでいない。何故なら読みづらかったから。セルバンテスの『ドン・キホーテ』ほど古い文体ではないものの、後のディケンズ作品から見ると非常に回りくどくて長ったらしい。
 ディケンズの筆力・企画力が奔放で、コンビを組まされた画家のロバート・シーモアは自殺してしまった。当時は絵がメインでそれに短文が添えられるのが通常だった。出版社もそのような狙いを持っていたそうだ。ところが、駆け出しの24歳は妥協をしなかった。
 とはいえ、サム・ウェラーという登場人物が出てくるまでは人気もなかったらしい。
 女を口説けないカサノバ『タップマン』、運動音痴のスポーツマン『ウィンクル』、文才のない詩人『スノッドグラース』が脇を固め、偉大なるお人好し『ピクウィック』がイギリス国内を旅行するというのが当初の狙い。で、ディケンズは最初から画家を食ってしまうつもりで『裏ピクウィック』みたいな悪の化身を用意した。それが腹黒い好人物『ジングル』である。
 サムの人気が出てからは、ジングルの相方として『トロッター』という悪の召使を繰り出してきた。本当に筋書きのないドラマで、行き当たりばったりである。後期作品が好きな私は敬遠していたのだが、読んでみると意外と面白かった。
 古い形式なので作中作として様々な短編小説が読めたのもよかった。やっぱりこの溢れるような文体がディケンズの本領なのだろう。後期好きには少し悔しいところ。