此貝蚫眼前にてこしらへ候、毒ニ有間敷候間進候、参着之上之善悪不知候へ共、飛脚ニ可懸由申付候、恐々謹言、

閏七月廿五日

氏政(花押)

安房守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(岡本文書)

 このアワビは目の前で調理したものです。毒ではないので進呈します。到着の上の善悪は知りませんが、飛脚に託すよう指示します。

閏七月が存在するのは1577(天正5)年。氏邦が安房守を名乗るのは1575(天正3)年頃からなので、問題はない。

(切紙)改年吉兆不可有尽期候、殊為祝儀白馬并不老丸五種給候、珍重候、仍簀巻三進之候、表一儀計候、余賀重可申述候、恐々謹言、

正月十四日

平氏康(花押)

謹上 豊前山城守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏康書状」(栗田輝永氏所蔵文書)

 改年の吉兆を期し尽くすことはありません。特に祝儀として白馬と不老丸5種をいただきました。珍重に思います。よって簀巻3つを進呈します。形ばかりです。余賀が重ねて申し述べるでしょう。

愚身腹中先日之以良薬悉平癒候、公用中養性薬迄用度候間、重而可被御意候、従今朝無之候、五三日者取乱、無音申候、本意之外候、かしく、

豊前山城守殿  氏政

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状案写」(古文書八上)

 私の腹中は先日の良薬によって完全に治りました。公用中の養生薬として使いたいので、重ねて御意が得られればと思います。今朝でなくなってしまいましたが、ここ数日は取り乱していてご連絡できませんでした。本意ではありません。

今度彼煩諸医者失行、既不可有存命由存処、貴辺以御療治得験気、平癒候、誠奇妙不浅次第候、於氏政厚恩不知謝所候、仍刀一[正宗]、久令所持不離身候、并黄金卅両、進之候、委細猶助五郎可申候、恐々謹言、

十月十一日

氏政

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)

 この度あの病気で色々な医者が手立てを失い、もう命を永らえることはできないと思っていたところ、あなたの治療で元気になり、回復しました。本当に奇跡として浅からぬ次第です。氏政においては厚い恩として感謝しきれません。そこで、肌身離さず持っていた一刀(正宗)と、黄金3両を進呈します。詳しくはさらに助五郎が申し上げるでしょう。

急度以使申候、源三散ゝ煩由申越候、一段致恐怖候、貴辺憑入度由、遣使由不及候、御苦労候共、一夜帰、早ゝ御越御覧被届、一薬憑入外無他候、猶嶋津弥七郎可申候、恐々謹言、

正月十日

氏政(花押)

豊前山城守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)

 取り急ぎ使者を使って申し上げます。源三(氏照)がさんざんに煩っていることをお伝えていただいて、一段と恐怖に思っていました。あなたに頼み込みたいことは、使いを出していうまでもなく、ご苦労ではありますが、一晩だけ帰ったら早々にお越しになって診察されて、『一薬』に頼るほかはありません。さらに嶋津弥七郎が申し上げるでしょう。

永代売渡申道者之事[大世古宗左衛門 尾張国一円]

在所尾張之国なこ屋一円

なこ屋殿

ろつく 久保 竹嶋 ひろい たわた

井野 おたい 杉之南方 きよす 宮

わた わつゝ おしきり

右件之道者々、宗左衛門方代々知行候を、大世古木戸孫三郎譲得候、雖然依有急用、限直銭百貫文、田中六禰宜忠彦江売渡申候処実正明白也、縦天下大法地起・徳政行候共、於此道者、不可有違乱煩者也、尚宗左衛門方道者此文書之外、尾張国ハ何方ニ候共、自其方御知行可有候、仍放券状如件、

となり(略押)

[木戸孫三郎]忠顕(花押)

天文五年[丙申]三月廿七日

→戦国遺文 今川氏編「木戸忠顕売券」(神宮文庫所蔵御道者売渡証文)

 永代で売り渡す『道者』のこと(大世古宗右衛門の尾張国一円)。所在地である尾張国那古屋一円。那古屋殿。六区・久保・竹嶋・広井・田幡・井野・小田井・杉の南方・清須・熱田・わた・わつつ・押切。右の道者は、宗右衛門方が代々知行していたところを、大世古の木戸孫三郎が譲り受けています。とはいえ急用があるので現金100貫文によって田中六禰宜忠彦へ売り渡すことは真実であり明白なことです。たとえ天下の大法による地発・徳政が行なわれるとしても、この道者で間違いや紛争があってはならない。さらに宗左衛門方の道者であれば、この文書のほか尾張国ならどこの者であっても、そちらから知行を渡すように。よってこの件のように取り決める。

然而

 「然」「而」は、それぞれ前の状態を継続する語義を持っている。ところが、『古文書古記録語辞典』で「然而」の項には不自然な解説が見受けられる。

然而 しかれども されど、しかしながら。

 ここに書かれた逆接の意味は、少なくとも私が掲出した文書内の「然而」では見られない。
A)今川氏真朱印状写
於牛窪抽奉公、殊城米令取替、并塩硝鉛百斤城下入置之由、朝比奈摂津守言上、神妙也、然而去年吉田雑説之時分、天慮方へ依令内通、彼城于今堅固之儀、是又忠節也、

今川氏真、岩瀬雅楽介の三河錯乱時の忠誠を褒める


B)北条氏政書状
越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候

北条氏政、毛利丹後守に戦況を報告、上杉輝虎の出撃を要請する


C)伊勢宗瑞書状
次当国田原弾正為合力、氏親被罷立候、拙者罷立候、御近国事候間、違儀候ハゝ、可憑存候、然而今橋要害悉引破、本城至堀岸陣取候

伊勢宗瑞、小笠原定基に挨拶し今橋攻城を戦況を伝える


D)快元僧都記
十八日、例之建長・円覚之僧達、為今川殿不例之祈祷大般若被読、然而十七日ニ氏照死去注進之間、即夜中被退経席畢、今川氏親一男也、

今川氏輝・同彦五郎兄弟没する


 A/Cともに、「然而」を逆接にすると意図が判らなくなる。「そして」か「ということで」と解釈するのが自然である。B/Dは辛うじて逆接の意を差し挟む余地がある。但し、必ず逆接である必要はなく、順接でも充分文意は成立する。
 また、「然」につなげた「而」は、この時代だと「て」と読んで、直前の語を連用修飾語に変化させる役割を担う。サイト内で以下の例が見られる。

  • 謹而=つつしんで
  • 付而=つきて
  • 就而=ついて
  • 次而=ついで
  • ニ而=にて
  • 仁而=にて
  • 初而=はじめて
  • 重而=かさねて
  • 附而=つきて
  • 分而=わけて
  • 別而=べっして
  • 候而者=そうろうて
  • 随而=したがって
  • 抽而=ぬきんでて
  • 改而=あらためて
  • 頻而=しきって
  • 残而=のこって
  • 定而=さだめて
  • 追而=おって
  • 仍而=よって
  • 従而=したがって
  • 達而=たって
  • 遮而=さえぎって
  • 切而=きって
  • 惣而=そうじて
  • 不走廻而=はしりまわらずして
  • 軈而=やがて

 それぞれの用例で「而」が先行語を否定して逆説・否定となった例はない(否定時は「不」が存在する)。このことから、「而」自体に逆接機能はないといえる。
 では「然」はどうか。「然」を伴う逆接例としては「雖然」がある。こちらはサイト内に19例あるが、純粋に逆接に使われている。「然」以外の語と連なった場合「雖為」「雖出」「雖企」「雖有」なども全て逆接となっている。以上より「雖」に逆接機能があることと、「然」を逆説化した用法が存在することが判る。
 上記それぞれを勘案すると、「然而」は「しかして」「しかりて」と読む順接の連用修飾語であると判断できる。

 あくまで私見だが、現代で使われる逆接語「しかし」は「しかし・ながら」「しかし・といえど」の後半が略されて成立したものではないかと推測している。

 本来の「しかし」には逆接の意がない。これは、現代語で「しかしながら」と「しかし」がともに逆接であるという矛盾から判明する。「しかし」単体が逆接ならば「ながら」で逆説をかぶせるのは二重否定で順接となってしまうはずだ(これはほぼ同じ語源の「さりながら」を考えると判りやすいかも知れない)。口語「だがしかし」が成り立つのも奇妙な現象である。また、かろうじて文語として生き延びた「しかして」が順接であることも、現代語「しかし」の逆転された扱いを指摘している。

 また、「しかし」と読むことで然と同様に逆接と受け取られる「併」についても、古文書内では「そして」「ついで」「あわせて」と読まねば文意が通らない用例が多く、逆接として考えには無理がある。

 中世末期~近世初頭までは単純に順接として扱われた「しかし」が近世以降のどこかのタイミングで機能逆転し、派生語全般に混乱を来たした。それが「然」「併」の解釈に影響を与えていた、ということになる。

上様御出陣之時被下候分

一御具足一両甲小具足共ニ

一走当六料

一御馬壱疋 鞍かい具共ニ[但御陣之間者御馬屋方より馬をかわせられ候、]

一御はきそへ

一夫丸 五人

一夫馬 壱疋

一御扶持拾人ふち

一陣僧 壱人

一鍬 一具

一なた 壱ケ

一鶴嘴 壱本

一かなほう 壱本

一五六 三丁 是ハ御幡之御用ニ入、

以上 海老江丹後守 元喜

大永七[丁亥]年八月十五日

弥六殿

→戦国遺文 今川氏編「海老江元喜具足随身等注文写」(広島大学日本史学研究室所蔵海老江文書)

五六は五寸と六寸で構成された角材。

武衛様御陣所度々火事之事

一[永正七年十二月廿八日夜]まきの寺御陣所火事にて花平へ御移候、

一[永正八年 午剋時分]正月五日 花平御陣所・御番所・同御たい所火事

一 二月廿日夜[子剋時分]すゑ野殿御陣所并御被官衆陣所卅間火事

一 同夜[亥剋時分] ミたけ井伊次郎陣所・番所火事 是ハしのひヲ付申候、

一 三月九日[寅剋時分]太田左馬助陣所初而其外卅余火事

同、

一 形部城へ敵度々討詰候事

[永正八年]

二月十二日 引間衆物見ニ出候跡ニ三百計、

七月九日 引間衆原口へ五百計、

十月十七日 武衛御自身四手ニ分、千余ニて討詰候き、

同十九日 形部口原口へ千五百計、是ハ五手ニ分、詰候き、

同廿三日 形部口原口へ人数千余ニて、二手ニ分、詰候き、

同廿四日 形部口へ井伊次良四百計にて、

原口へ引間衆千余にて、討詰候、武衛御自身、気賀へ打詰させられ候、御人数千計にて候き、

十一月五日 形部口へ三百計、

同六日 片山半六大将にて、武衛衆五百計打まハり、

同廿七日 形部口より気賀へ働候衆七八百、

十二月一日 村櫛・新津へ詰候而、退候処を出合、しやうし淵にて、のふしはしかへさせ候き、

[永正九年]

正月十日 夜中ニ五百計、打詰候ツ、

同廿一日 人数五百計にて、形部口へてちかく打詰候き、

同三月九日 川むかいまて、七八百打出候ツる、

同十七日 気賀へ打詰、むきをなけ、一日野ふしはしかへ候き、引間ハ原口へ打詰、

巳剋より未剋まてやいくさてちかく仕候、

四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候き、

同廿三日ニ武衛衆・井伊衆、下気賀まて打詰、むきをなけ、苗代をふミ返しのき候を、清水口へよこあひにのふしをかけ、さつゝゝにおいちらし候、

壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候而、新津のね小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候、

同三日 井伊谷へ朝かけニ形部より働候而、三人いけ取退候を、敵したい候間、城より出合候而、神明ふちにて、はたえを合をいこミ退候き、

其後も度々罷出候へ共、指儀不仕候処、則引間為御退治、御進発、原河ニ御座之後者、一向不相働候、

伊達蔵人丞忠宗

→戦国遺文 今川氏編「伊達忠宗軍忠状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)

武衛様(斯波氏)陣営地が度々火事となったこと。
1510(永正7)年12月28日夜。まきの寺のご陣所が火事で花平へ移動しました。
1511(永正8)年1月5日正午頃。花平の陣所・番所・台所で出火。
同年2月20日午前零時頃。すゑ野殿の陣所とその被官衆の陣所30間で出火。同夜22時頃。御嶽の井伊次郎陣所・番所で出火。これは忍びに指示したものです。
同年3月9日4時頃。太田左馬助の陣所を始めとしてその他30余で出火。
同じく
刑部城へ出撃し度々敵を討ち詰めたこと。
1511(永正8)年、
2月12日。引間衆が偵察に出た後に2~300ばかり。
7月9日。引間衆原口(掛川市)へ500ばかり。
10月17日。武衛(斯波義達)自身が4手に分かれて1000余人で打ち詰めました。
同月19日。刑部口・原口へ1,500ばかり、これは5手に分かれて詰めました。
同月23日。刑部口・原口へ1,000余人にて、2手に分かれて詰めました。
同月24日。刑部口に井伊次郎400ばかりにて、原口へ引間衆1,000余人にて討ち詰めました。武衛ご自身が気賀(浜松市北区)へ討ち詰められまして、その軍勢は数千ばかりでした。
11月5日。刑部口へ300ばかり。
同月6日。片山半六が大将で武衛衆500ばかりが討ち回り。
同月27日。刑部口より気賀へ出撃した衆が7~800。
12月1日。村櫛(浜松市西区)・新津へ詰めまして、退却するところを邀撃し、しょうじ淵で野武士に橋換えさせました。
1512(永正9)年、
1月10日。夜中に500ばかり討ち詰めました。
同月21日。500ばかりで刑部口へ接近して討ち詰めました。
3月9日。川向かいまで7~800が出撃してきました。
同月17日。気賀へ討ち詰め、『むき』を投げ、1日野武士橋換えし、引間は原口へ討ち詰め、
4月6日。武衛衆・引間衆・井伊衆が1,500ばかりで3点に分かれ、堀河へ一手に討ち詰めて攻め入りましたところを、刑部から邀撃して追い込み、手痛く打撃を与えました。
同月23日に武衛衆・井伊衆が、下気賀にまで討ち詰め、『むき』(武器?)を投げ苗代を踏み返し退却したところを、清水口へ横合いから野武士を仕掛け、散り散りに追い散らしました。
閏4月2日。武衛衆・井伊衆・引間衆が多勢で、村櫛・新津城へ取り詰めて、新津の根小屋を焼き払ったところを、刑部から村櫛へ70ばかりで援軍を出しました。
同月3日。刑部から井伊谷に朝駆けして活躍し、3名を生け捕りしたところ、敵が追撃してきましたので、城から出撃し、神明淵で『はたえ』を合わせ追い込み退きました。
その後も度々出撃しましたが、さしたることもなかったのですが、引間を退治するためにご進発、原河におられる後は一向に働きもありませんでした。

(懸紙ウハ書)「     福島和泉守 範為
          相阿 御宿所 」

 尚々路次不自由之処、結句武衛出張ニ付候て御礼遅々候、余ニ無沙汰之様ニ可被思召候条、先被申入候、春ハ早々御礼可被申候、能々御意得肝要候、又面白小絵なと又作之太刀、又ハ刀御床敷候、今度紛失候哉、自然候ハゝ可承候、春可給候、又早雲庵も此間在当地事候間、御うハさのミ申候、哀御隙も候ハゝ与風御下候へかしと申事ニて候、何事も重而可申候、

為御礼堆侍者被上候間、条々彼口上ニ申候、雖不始儀候、万飯尾江州・杉方へ可預御取合候、其以後江州之儀如何御下知候哉、遠州武衛就出張、此も以口上申子細候、関東事河越与早雲和談候之間、一方隙明候、西口之儀も此上候条、早雲庵被相談之間、猶々安候、可御心安候、

一進上之御馬ハ無通路候間、尾州智多より下候て上之方を憑、荷を付候て被上候、然間大内殿杉方へ屋形進覧之馬者、春可上進之由候て、書状にハ被申候へ共、只今ハ不被上候、可有御心得候、

一彼使者、甲斐を信州へ廻、三河通尾州智多へ廻候て、京着候、か様之儀ハ、何へも書状ニハ不被申候間、貴所能々御意得候て、江州へも杉方へも仰届候て可給候、

一三条殿御方之御事、先度も如申候、於氏親不及是非候へ共、又左様にも不被申半之間、可然様ニ何へも可預御調候、是も口上ニ申候、

一飯尾江州遠州羽鳥之事、度々承候、大概領状被申候態夏初晨参を被下候、彼方四、五日間ニ可上由候間、委者其時可申候、大方是も堆侍者ニ申候、

一何へも進覧之物共注文可有之候、堆侍者可被得御意候、猶々委口上ニ申候間令省略候、恐々謹言、

十一月八日

範為(花押)

相阿 御宿所

→戦国遺文 今川氏編「福島範為書状」(尊経閣古文書簒所収飯尾文書)

1511(永正8)年に比定。

 ことさら通行が不自由であるところ、挙句に斯波氏が出撃してきたのでお礼が遅れてしまいました。あまりにご無沙汰だと思われましたので、まずお知らせだけして、春には早々にお礼を申し上げるでしょう。よくよくご納得いただくのが大切です。また、趣のある小絵などや、太刀作り、刀に心惹かれます。今度紛失したのでしょうか。万一そうならお伝え下さい。春にいただきたく。また早雲庵もこの間当地にいましたので、お噂だけ言っていました。もしお時間などありましたら、ふらっとお下りいただければと申していました。何れにせよまた申し上げます。
 『堆侍者』(承堆)をお礼のため上らせましたので、内容はあの口頭で申します。まだ始まっていないとはいえ、万事を飯尾近江守(貞運)と杉氏のところへ預けて取り持ちを意図しましたが、それ以後近江守のことでどのようにご指示いただけましたでしょうか。遠江国に斯波氏が出撃したことについて、これも口頭で詳細を申しました。関東のことは河越と早雲庵が和談しましたので、一通り片付きました。西方面もこの上はということで、早雲庵と相談しておりますので、いよいよ容易でしょう。ご安心下さい。
 進上した馬は交通路が確保できなかったので、尾張国知多より下らせて上方の人に依頼し、荷物をつけて上らせました。ということで大内殿の杉氏へ屋形がお見せする馬は、春に上らせると書状にて申しましたが、現在は上らせていません。ご了解下さい。
 あの使者は、甲斐国から信濃国へ迂回し、三河国を通過して尾張国知多へ回り京に着きました。このような状況なので、どこにも書状を送れていません。そちらで斟酌いただいて飯尾近江守へも杉氏へもご連絡をお届け下さいますようお願いします。
 三条殿(正親町三条公兄・今川氏親義兄)夫人のこと、前回も申したように氏親には異論はありませんが、また賛成であるとも申さない曖昧な状態なので、しかるべきようにどちらへも調整を預けるべきでしょう。これも口頭にてご説明します。
 飯尾近江守に遠江国羽鳥のことを度々お願いしています。領有状況の概略は申されて、わざわざ夏の初めに朝廷へ報告して下さいます。そちらは4~5日間に及ぶとのことですから、詳しくはその時に申しましょう。大方これも『堆侍者』が申します。
 全ての進上物は一覧表をがありますので、『堆侍者』がご確認をいただくことでしょう。さらに詳しくは口頭で申しますので省略いたします。