検証a35:厳島合戦の実態
戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。 ■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている ■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている ■勝者側に感状が残っていない …
戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。 ■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている ■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている ■勝者側に感状が残っていない …
正月以来度々竭粉骨、去二日於上野筋敵二人討捕候、高名之至感悦候、氏真御本意之上申立可加忠賞者也、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月八日 氏政(花押) 井出甚助殿 →戦国遺文 今川氏編2308「北条氏政感状」(井出文書) …
今廿八日、於薩埵山敵置伏兵、玉縄衆尺木剪追上候処、其方抽而被走廻、追崩、敵数多討捕候、誠高名之至感悦候、弥可竭粉骨状如件、 永禄十二年[己巳] 二月廿八日 氏政判 間宮彦次郎殿 →戦国遺文 今川氏編2295「北条氏政感 …
鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解 …
去年十二月廿八日午刻、於西郷之構押入鑓走廻、剰去正月廿八日午刻、於懸河天王社路、最前合鑓菅沼美濃お衝伏、其上令刀切蒙鑓手二ケ所之段、粉骨之至也、本意之上、可加扶助之条、守此旨、弥可抽軍忠者也、仍如件、 永禄十二己巳 二月 …
就今度錯乱、山中筋無別条走回之段、喜悦之至也、然間為其賞、遠州森之内大田郷百疋之所、為新知行宛行也、雖有競望之族、依今度忠節出置上者、一切不可許容、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、 永禄十二[己巳] 二月廿六日 氏真判 …
参州大野田之事 右、菅沼新八郎爾雖令扶助、今度忠節之上、遂其理、為本地之条、如前々還附訖、永可令知行者也、仍如件、 永禄元[戊午]年四月十三日 治部大輔 奥平監物殿 →戦国遺文 今川氏編1391「今川義元判物写」(東京大 …
今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・ …
別而可抽奉公之由候之条、為重恩三輪彦右衛門知行出置候者也、仍如件、 永禄十二 二月十四日 信玄(花押欠) 御宿左衛門尉殿 →戦国遺文 今川氏編2274「武田晴信判物写」(国立公文書館所蔵古今消息集八) 特別に奉公にぬ …
『戦国遺文 今川氏編』が第4巻で完結したのを受けて、いよいよ鳴海原合戦の考察を続けようと思う。 今川義元・氏真発給文書数推移 差し当たり、文書を取りまとめてみた。グラフにしたところ、いくつか留意点が出てきた。 01)義元 …