[懸紙ウハ書]「臨済寺 衣鉢閣下 勝頼」
禁制
一、於臨済・天沢両寺山林、濫伐取竹木致殺生之事
一、塔頭九箇所并臨済寺門前在家二十間課役事

一、於当寺中甲乙人等投一宿事

右条々、永代不可有相違、若至于違犯之輩者、可処厳科者也、仍如件、
天正五年 九月十九日
 勝頼(花押)
臨済寺衣鉢閣下

→1084「武田勝頼禁制」(臨済寺文書)

 禁制。一、臨済・天沢の両寺の山林で、みだりに竹木を取り殺生すること。一、塔頭9箇所、並びに臨済寺門前の在家20間の課税すること。一、この寺中において甲乙人などが一宿を投げること。右の条項は末永く相違がないように。もし違反をする者がいれば、厳しい罪に問うものとする。

坪付(大内輝弘花押)

防刕山代之内生見郷

一所 百石足 佐波善太郎先知行

一々 百五十石足 桑原惣領源三郎跡

芸州佐東郡新山

一々 拾石足 山田新三郎跡、是者

 高萩才千代御扶助之

 但於子細御奉公有之

永禄十弐年六月廿四日

 清水寺 尊恕(花押)

真光院

弘中弾正忠殿

[裏書]
付之前、被成 御分別、袖仁被居御判候、以御本意之上、可被相調之旨候、仍尊恕多年被守 御本意、当時至御行之砌、御労功無比類之条、為其賞、被対弘中一家、被成 御加恩候、弥御忠儀肝要之由、依仰裏書如件、
同日
 弘中 弾正忠(花押)
 松永 二郎左衛門尉(花押)
 江木 治部少輔(花押)

→豊前市史資料編15「大内輝弘知行宛行坪付」

 坪付け。周防国山代のうち生見郷。一所、100石宛て。佐波善太郎知行。一所、150石宛て。桑原惣領源三郎の跡。安芸国佐東郡新山。一所、10石宛て。山田新三郎の跡。これは高萩才千代のご扶助として。但し事情があればご奉公がある。

 坪付け一覧。ご判断なさり、ご判を袖に据えられました。本意の達成をもって、調整なさるでしょう。よって尊恕は多年ご本意をお守りになって、この時に作戦をする際、ご苦労は比類がありません。その褒美として、弘中一家に対して、ご恩を加えられます。ますますのご忠義が肝要とのことです。よってこのように裏書をします。

 尚ゝ、馳走通富田懇申聞候、
今度者、美濃守為名代差下候処ニ、別而馳走候由、誠被入念、返給候へく候、近日三介殿可有御上洛候間、其時可申候、尚此両人可被申候、謹言、
正月甘八日
 秀吉(朱印)
飯田半兵衛尉殿

→埼玉県史6-1453「豊臣秀吉朱印状」(根岸文書)

埼玉県史では美濃守を北条氏規と比定して天正17年とするが、美濃守は羽柴秀長も名乗っており、その場合は天正13年だろう。

 この度は美濃守を名代として派遣したところ、格別に奔走していただいたとのこと、本当に念を入れられまして、お返しいただけますように。近日三介(信雄)殿がご上洛なさるでしょうから、その時に申すでしょう。さらにこの両人が申しましょう。

 さらにさらに、奔走の様子は富田が詳しく聞かせてくれました。

(花押)
ちゝたか兼一跡事
梅女さうそく相違
あるへからさる状、如

天文廿四年後十月七日

→豊前市史「大内義長継目安堵状」(西郷文書)

 父隆兼の跡目のこと、娘の梅が相続し相違がないように。

いつくしまおもての事、もうきすいりやう候、こなた心中とうせんに候、しせんよきちうしんもあるへく候やとまち入、いかかに候、なをたんこの守申へく、かしく、
十月三日
 よし長(花押)
おこう まいるへく候

→豊前市史「大内義長書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。

 厳島方面のこと、蒙気推量したあなたの気持ちは当然のことです。万が一でも良い報告があるかも知れないでしょうから、お待ちになってはいかがでしょうか。さらに丹後守が申すでしょう。

なをゝゝ申候、むめれう人ある事に候、まゝ人体之事ハ、それの御はうたいにて候へく候、かやうに申候とて、きやうてんハあるましく候、申候やうに、ちんちうのならいしか候、まゝ申事候ゝ、こんとの動かるゝとすも■■■神領衆又けいこ三浦なと申て、如此候、口惜候、古はくになかもちおき候、しせんの時ハめしよせ候へく候、又太刀も古はくに候、とりよせ候へハ候、
このかた、てきけひいて候て、せひなく候、さりなからゝゝめつらしき事ハ、あるましく候、まゝ、御こゝろやすく候へく候、ちんちうのきたうにて候まゝ、一ふてくたしおき候、このき御きやうてん候ましく候、ゝゝ、けん大郎ことわたり候、きよ水、又むりやうじ・つしま・志よほくところへ、あてところにて候、むめれう人ある事に候、頼申おくとの事候、めてたき■■■申候へく候、
 かしく
九月廿九日
 たか兼(花押)
[上書]
こん まいる
 宮嶋より たか兼

→豊前市史「弘中隆兼書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。豊前市史翻刻では「きよ水又むせやらん、つしまニよほくところへ」となっている部分を、同書所収の書状画像とトロロヅキ氏指摘に基づき「清水、又むりやうじ・つしま・志よほくところへ」と改変。

 この方、敵の警固船がいて致し方ありません。とはいえ珍しいことではありませんので、ご安心下さい。陣中の祈祷があるので、一筆申し上げました。このことで驚かれませんように。源太郎は渡海しました。清水寺・無量寺・対馬守・諸卜軒のところを宛所にしています。梅を料人にすること、頼みを伝えておくと伝えました。めでたい知らせをお送りしたいと思います。

 さらにさらに申します。梅は料人とすることです。そのまま身柄はそこの出家にするように。こう言ったからとしても、仰天なさいませんように。申しているように、陣中の習いの通りですから、そのまま申します。今度の作戦は楽々できるだろうと神領衆や警固・三浦などが言って、このようになりました。悔しいことです。琥珀院に長持を置いています。万一の時は取り寄せて下さい。また、太刀も琥珀院にあります。取り寄せて下さい。

為敵船後巻、数艘令渡海、敵城へ人数差籠成相候、此方警固数依無之、如此之儀、不及是非候、既水手迄堀崩事候、隆兼父子渡海之上者、可立御用事勿論候、然者息女梅〓[米+斤]人事、在之儀候条、当知行之儀者不及申候、御約束地無相違拝領之儀、申沙汰専一候、人躰事、是又可有分別候、能々城与可申合事干要候、吉事可申候、恐々謹言、
九月廿八日
 隆兼(花押)
清水寺
無量寺
弘中対馬守殿
諸卜軒
[切封墨引]
清水寺
無量寺
各中
 弘中三河守 隆兼

→豊前市史「弘中隆兼書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。

 敵船が援軍として数艘渡海してきて、敵の城へ兵員を籠もらせています。こちらの警固は数が不足しており、このようになりました。どうしようもありません。既に水の手まで掘り崩しています。隆兼父子が渡海した上は、御用に立つのは勿論のことです。ということで私の娘「梅」料人のこと、これもまた分別があるでしょう。よくよく城と協議することが肝要でしょう。吉報を申すでしょう。

今度氏政折角之段申越候、乍父子間之儀、彼所存無拠歟、愚老同意ニ候、雖然、不安一ケ条、一国任置申処、名利共可失本意事如何、輝虎雖過御作意間敷、併以御馳走、上州半国宛被相拘候之様、念願候、就中、今度信玄敗北付而、氏政心中可乗勝歟、爰元糾明之処ニ、一度申合筋目、敵敗北之上、弥相違有間敷由候、於愚老令満足候、畢竟不被醒信玄敗北之鉾、至于信州御出張、氏政則甲州へ可乱入候、越相此節ニ候、聊被延付者、不可有曲候、次遠州之儀、兵粮然と断絶候、来上旬踏越間敷之由、使者共見届候、此儀御調儀催促ニ相似候歟、八幡大菩薩・三嶋大明神可御罰候、一点非虚説候、さて遠州至于御滅亡者、誠賊後之弓矢、何歟も不入子細候、恐々謹言、
卯月廿七日
 氏康(花押)
松本石見守殿

→小田原市史 資料編826「北条氏康書状」(山形県米沢市・米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

永禄12年に比定。

 この度氏政が同盟実効への疑義を申し立ててきました。父子の間のことですが、あの者の考えも致し方ないことでしょうか。私も同意しています。心穏やかでないとはいえ、一国全てを任せておいたところ、名利とともに本意を失ってしまいそうです。これはいかがでしょう。上杉輝虎に妙な考えがあるとは思っていませんが、合わせてご奔走いただき、上野国半国ずつ分割にできませんか。念願しています。とりわけこの度武田晴信が敗北したことで、氏政は心中で勝ちに乗っているのでしょうか。こちらで検討してみたところ、一度は合意した事柄だから、敵が敗北した上は、ますます相違があってはならないだろうとのことです。私も満足しています。結局のところ晴信が敗北から醒めぬうちに信濃国に侵攻するなら、氏政はすぐに甲斐国へ乱入するでしょう。越後・相模の同盟の意義はこの時にあります。少しでも遅延があれば、それは曲事でしょう。次に、遠江国のことは、兵糧が完全に途絶えました。来る上旬までは持たないだろうとのことと、使者が確認しました。このことが交渉・駆け引きで言っているのであれば、八幡大菩薩・三嶋大明神の神罰を蒙るでしょう。一点の嘘もありません。さて、遠江国が滅亡するならば、本当に『賊の後の弓矢』です。どのような事情も入りはしません。

十二日之一札、今十四申刻披見、 一、沼田・吾妻之儀付而、自是も申候キ、 一、人衆者、上下両手ニ千程可有之候歟、自妙音院書立被越候、 一、沼田ニ而もたいの儀者、城不請取間者、自元為如何、自此方貸可有之候、 一、妙音院、明日明後日之間ニ、当地迄可有着府候、其上京衆小田原可通是非糺明候者、可聞得候、其上可申付与之儀候、 一、京都へ召連者之事者、自諸手五騎三騎ツゝ迄候、我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候、申付候分をハ、無由断御支度、又奏者方へも、弥可有下知候、未百日之以後之事候間、致何様候共、遅ゝ者有間敷候、 一、沼田請取人之事者、左衛門佐ニ昨日落着、被申付候、 一、沼田請取而より後之もたいハ、貴所之外有間敷候間、無由断御心懸専一候、恐々謹言、
七月十四日
 氏政(花押)
安房守殿

→小田原市史1952「北条氏政書状」(埼玉県秩父市・内田たま子氏所蔵)

天正17年に比定。

 12日の手紙、今日14日申刻に見ました。一、沼田・吾妻のことについては、こちらからも申しました。一、部隊は、上下両手で1,000程もいますでしょうか。妙音院より『書立』(一覧?)が来ました。一、沼田での『もたい』(接待?)のこと。城を受け取っていない間は元より、どれもこちらからの貸しとするべきでしょう。一、妙音院は明日・明後日には当地へ到着するでしょう。京都の衆が小田原を通過するかどうかの検討は、結果報告を聞いてから指示するだろうとのことです。一、京都へ同行させる者のことは、諸手から数騎ずつまでとします。自分は1騎で済ませますから、大人数は不要です。指示した分は油断なく準備し、また、奏者にもくれぐれも指示を出しておきますように。まだまだ100日も後のことですが、何があっても遅れがあってはなりません。一、沼田を接収する者は、昨日左衛門佐に決まり、命令がありました。一、沼田を受け取って以後の『もたい』は、あなた以外はありえませんので、油断なく心がけ注意して下さい。

当方上洛之儀、自京都依御催促、此度及御返答之間、彼御挨拶心腹ニ相叶ニ付而者、来冬之極月、御陰居可為御上洛候、依之二三ケ条之筋目、口上ニ申付候、仍如件、
六月廿三日[虎朱印]
和田左衛門尉殿

→小田原市史1946「北条家朱印状」(埼玉県鴻巣市・鈴木和男所蔵)

天正17年に比定。

 当方の上洛のこと。京都よりご催促があってこの度ご返答に及ばれたので、そのご挨拶が心服に叶うには来る冬の12月にご隠居がご上洛しなければならない。このことで2~3箇条の指示を口頭で行なう。