一 小法師殿、本知行不可有相違之事

一 今度一味之衆進退、不可有無沙汰事

一 抜公事不可有之事

一 親類・被官・百姓已下、雖有申様、可相尋事

一 遠州償、先次第可申付之事

一 設楽殿進退、不可有疎略之事

一 小法師殿本知、何方於約束者、替地可進之事

右条々、申合上者、聊不可有相違者也、仍而如件、

猶左衛門尉可申入候、

永禄四年 卯月十五日

松蔵 源元康(花押)

菅沼弥三右衛門殿

同十郎兵衛殿

同八右衛門殿

林左京之進殿

→戦国遺文 今川氏編1683「松平元康判物」(久能山東照宮博物館所蔵文書)

一、小法師殿の本知行は相違がないように。一、この度一味した衆の進退は疎かにしないこと。一、抜け駆けはしないこと。一、親類・被官・百姓以下、申すことがあるとはいえ、尋ねるべきこと。一、遠江国の補償は先の状況で指示するだろうこと。一、設楽殿の進退で粗略な扱いがあってはならないこと。一、小法師殿の本知行は、どことの約束においても、替地を進呈すること。右条項を申し合わせた上は、いささかの相違もあってはならない。さらに左衛門尉が申し入れるでしょう。

於牛久保今度令取替来五百俵被返弁之儀、以来穀雖可申付、為遠路之条、代物爾相定、去四月之売買計、別積百五拾貫文可弁債、遠州吉美以年員銭所申付也、若代物就不足者、以同郷之米時之売買積百五十貫文之首尾可相渡之、殊利足之儀者、一円令奉公段忠節也、以此印判可請取之、雖然彼地為境目之間、若有引所於首尾相違者、於自余可申付者也、仍如件、

 永禄四年辛酉 七月廿日

岩瀬雅楽介殿

→戦国遺文 今川氏編1727「今川氏真朱印状写」(国立公文書館所蔵牛窪記)

 牛久保においてこの度取り替えていただいた500俵をご返済する件、以降に現物でと指示していましたが、遠いので代替物でと決めまして、去る4月の売買で別にした150貫文を弁済するよう、遠江国吉美の年貢をもって伝えたところである。もし代替物が不足しているならば、同郷の米を売った内から150貫文の首尾を渡すようにしています。特に利息のことは、一円で奉公したのが忠節であります。この印判で受け取るように。あの土地が境目にあるからとはいえ、もし首尾から差し引かれて相違がある場合は、他から申し付けるでしょう。

1561~3(永禄4~6)年の今川氏関連文書を細かく見ると、通説にあるような、父の弔い合戦もせず遊興に明け暮れていたという氏真の姿はどこにもない。むしろ、松平元康(徳川家康)の反乱で電撃的に奇襲された牛久保を確保しつつ、東三河を維持している。劣勢で士気が落ちてくると、陪臣や小者にも感状を出して、一時的なものではあるが事態打開を図っている点は積極的な取り組みだといえるだろう。

また氏真は、猜疑心に駆られ帰属の疑しい国衆を次々粛清したとも言われるが、奥平氏・匂坂氏の場合は赦免している。ただ、菅沼氏は遺恨が残ったらしく松平氏に後でつけ込まれているが、処刑した訳ではないようだ。

では何故東三河だけでなく西遠江まで失ったのか。現時点で推測している点は2つある。

まず、国衆からの信頼度低下が考えられる。当主義元の敗死は言わずもがなだが、義元時代に乱発した空手形の方が深刻だと考える。以前検討した牧野保成の扱いを見ても、杜撰で強引な処置が窺える。そもそも義元が三河へ出馬せざるを得なかったのは、こうした待偶に三河国衆が反乱を起こしたからだろう。

対する元康は、国衆へ起請文を出して利権の保障をアピールしている。挙兵当初は岡崎の人質を強引に押さえたりしていたが、素早く方針転換したのが幸いしたのだろう。永禄4年12月時点で満年齢19歳という若さ(御し易そうに見える点)も幸いしたかも知れない。一方で氏真はパワーバランスの変化を考慮せず、義元と変わらず判物安堵だけを用いたため、離反を招いたと思われる。

もう1つの要因は、それまで前線を担っていた天野・松井・朝比奈の遠江国衆を起用しなかった点だ。牧野・鵜殿・岩瀬といった東三河国衆を小原・三浦らの側近たちに率いさせているが、急な方針転換による戦闘力の低下は否めない。永禄3年の敗戦で遠江国衆が戦闘力を失った事由もあるだろうだが、少なくとも天野氏は鳴海原合戦で被害を受けていないから、意図的に投入しなかったと考えてよいと思う。

戦闘経験も豊富で三河の地理や国衆のパワーバランスを熟知している彼らを使わなかったのは、先に述べた義元の強引な施策を現地で担当したからではないか。敗戦直後の永禄3年8月には朝比奈元徳が三河で戦闘しているが、その後外されている。義元近臣が指揮をとるとかえって国衆の反感を買うばかりだったので、変更したとすれば腑に落ちる。

以上から、三河国の騒乱は国衆を統率できなかった義元時代に起源があり、氏真・元康ともにそれを改善する手法が問われたといえるだろう。氏真は消極的かつ緩やかに解消しようと試み、元康は積極的かつ迅速に打開しようとした。ここに明暗が分かれた。

 アップする史料を来週から『戦国遺文 今川氏編』第3巻からのものに切り替える。

 このところ生業が多忙を極めて史料解釈や記事が全く上げられない。図書館にも行けない状況で、手持ちの史料集だけで手一杯という体たらくだ。その一方で、生きた解釈につなげられそうな面白い経験もしている。

 私が所属する出版業界は、現在猛烈な縮小市場にある。既存の紙媒体がWebやソーシャルアプリ、タブレット・スマートフォンに駆逐されている。電子出版も話題性はあるものの、利益率は意外にも低く、余り頼りにならない。先行して崩れていったCD業界、新聞業界の惨状を見て同じ轍は踏むまいと苦慮するものの、大量販売の主力だった雑誌を失いつつある中で軌道修正する体力すら怪しいものがある。戦国時代でたとえると、1561(永禄4)年以降の今川家であるとか、1570(元亀元)年以降の大友家、1575(天正3)年以降の甲斐武田家に近い。後世の史家は氏真の施政や義鎮の迷走、勝頼の統制不足を論うが、一旦縮小方向に切り替わった組織・業態を切り替えて再び拡大するのは本当に難しいものだ。

 ということで、所属する企業グループで法人同士が結束して何か打開策を練るべしと命が下った。そして、何の手違いか私も参加することになったのだが……とにかく面白いように対策がまとまらない。

 まず各社ごとに組織構成が異なる。なるべく共通する部分を探ってジョイントしようとしても、無闇に会議メンバーが増えたり、もしくは対応する人員が社によってはいなかったりする。また、やはり会社ごとに思惑や狙いも違うから、総論賛成各論反対は日常茶飯事である。それなりの利点がないと進まないのはお互い様で、落としどころを探すだけで何ヶ月もかかる。会社の規模でいうと500名程度の従業員を持つところが4社ほど。後はそれより規模の小さい社が4社程度。大きな道筋として「出版は変わらなければ」という認識は共有できるが、直近の売上推移や、会社間での過去の因縁の方が大きな問題になってしまう。軍役の規模でいうと大小色々の国衆になろうか。大名どころか将軍権力でも苦労した国衆の諍い・私闘の根源を見ているようで興味深い。

 グループ各社の上には、昨今多く見られる持ち株会社が位置している。各社の利害関係を調整して、最終的にグループ全体の収益を上げる役割。これは国衆を統制する大名のような存在だ。大きな枠組みでプロジェクトを組んだり、今回のようにタスクフォースを組ませたりする。それはそれでメリットがあるのだろうけれど、匙加減が難しい。事業の現場から遠過ぎると意味のない作戦を組むし、近過ぎたらそれはそれで現場に負担がかかる。結局形ばかりの調整機関になりがちだ。

 こうした苦労は昔も今も変わらないのだろう。象牙の塔の外側から歴史を調べる身としては、因果関係がすっきりしない解釈も試みてみたいと思う。「結果として大勝利だったものの、なぜ勝ったかは誰にも判らない」なんてことはざらにあるものだ。

今般佐竹出張方ゝ御拘之地御堅固之御仕置、都鄙御覧弥増進、尚以公私御頼敷存候、内ゝ敵退散、翌日右之意趣雖可申宣候、堺目莵角取籠候条、至于今日遅ゝ、意外之至候、一、佐野堺ヨリ承届候分者、必来春二月者義重出張、面鳥之地ニ可付是非由、佐野与誓約有之、退散之由堅申候、但此度之手持悪候間、当意之手成ニ候歟、何様此説慥ニ候、一、面鳥之地如及承者、地利小ク候之由風聞候、為如何候而も、小地者火事、又飛脚之住行も大切候間、一、曲輪も又被為取出、御徳分之所不可過御塩味候、世間唱之所ヲ、不顧斟酌申達候、又吾等ニも、被覃聞召透御意見蒙仰候者、過分ニ可存候、恐ゝ謹言、

極月廿一日

 近藤出羽守 綱秀(花押)

新五郎殿 参御宿所

→戦国遺文 後北条氏編2606「近藤綱秀書状」(館山市立博物館所蔵文書)

天正11年に比定。

 現在佐竹方が出撃しており方々で味方の拠点を堅固に処置し、都との連絡もますます頻繁になり、さらに公私頼もしく思っています。内々に敵が退散し、翌日右の意趣申し述べるとはいえ、境目はとかく取り込めるので、今日に至るも遅々としているのは意外の至りです。一、佐野の境より聞いた分では、来春2月に必ず義重が出撃し面鳥の地の決着をつけようと佐野と誓約しており、(後北条方を)退散させると強く言っている。但しこの度は手持ちが悪かったので手近な召集で済ませたのではないか、とのこと。この説は確かな事です。一、面鳥の地は聞き及んだように地利も小さいと聞いています。小さい場所は火の用心や飛脚の通行も大切ですから、一、曲輪もまた拡張なされませ。ご徳分のところ、考え過ぎということはありません。世間の意見を省みず考慮して指示します。また、私にもお聞きになった通りのご意見を仰せいただければ、過分に存じます。

[切紙]敵動之由注進候間、近辺之足軽共相集、一刻も早ゝ今村へ相移、那波如仰事可走廻候、謹言、

極月六日

 氏直(花押)

宇津木下総守殿

→戦国遺文 後北条氏編2594「北条氏直書状」(大阪城天守閣所蔵文書)

天正11年に比定。

 敵が作戦してきた報告がありましたので、近隣の足軽たちを招集して、一刻も早く今村へ移動、那波の指示に従って活躍するように。

三日之注進状、今六日[申刻]、参着、令披見候、為加勢大藤式部丞并鉄炮衆指越候、敵動之間者、先段指置候、足軽共并鉄炮衆共ニ指置、万端可被申付候、猶以於後詰少も油断不可有之候、於替儀ハ注進尤候、恐ゝ謹言、

極月六日

 氏直(花押)

[宛名欠]

→戦国遺文 後北条氏編2595「北条氏直書状」(原文書)

天正11年に比定。

 3日の報告書、今日6日申刻(16時)に到着して拝見しました。加勢として大藤式部丞と鉄砲衆を送ります。敵が作戦している間は、前から配置している足軽・鉄砲衆をどちらも配備して色々指示なさいますよう。さらに後詰において少しも油断なさらぬよう。交代することは報告するのがもっともです。

廿七日注進状、今朔日[辰刻]、参着、披見候、仍新田・館林・足利ト合其地へ相動処、於諸口防戦得勝利、敵為宗之者共数多討捕、手負死人無際限仕出由、誠心地好仕合肝要候、弥無油断仕置専肝候、房州程近、万端可被相談候、自此方も及下知候、玉薬・矢遣候、恐ゝ謹言、

 追、伊波手負由候間、彼者父和泉指越候、已上、

十二月朔日

 氏直(花押)

[宛所欠]

→戦国遺文 後北条氏編2591「北条氏直書状」(原文書)

天正11年に比定。

 27日の報告書、今日1日(午前8時)に到着して拝見しました。新田・館林・足利と合わせ、その地へ作戦したところ、諸口において防戦し勝利を得て、敵の主な者たちを多数討ち取り、負傷者・死者が際限なく発生したとのこと。誠に心地よい巡り合わせで大切なことです。ますます油断なく処置することが大切です。安房守(氏邦)が近くにいます。色々と相談なさいますように。こちらからも指示して玉薬・矢をお送りします。

廿三日之注進状、今廿四日[午刻]、参着、令披見候、然者芦田・真田令一同、伴野与小諸之間を打通相動由、無是非候、然共指行者致得間敷候、各油断有間敷候、雖無申迄候、近辺之味方中不力落様之備肝要候、必ゝ手前計之備候者、不計凶事可出来候、得心尤候、敵之陣庭以下模様見届、幾度も注進尤候、猶人衆をも指越、一行存分候ヘ共、其表之模様然ゝ与不間得候、無是非候、必ゝ味方中不力落様之備肝要候、恐ゝ謹言、

十月廿四日

 氏直(花押)

上総入道殿

垪和伊予守殿

→戦国遺文 後北条氏編2583「北条氏直書状」(田中左門氏所蔵文書)

天正11年に比定。

 23日の報告書、今日24日正午に到着して拝見しました。依田・真田が連携して、伴野と小諸の間を突破して作戦しているとのこと。是非もありません。とはいえ対応することはなりません。おのおの油断してはなりません。申すまでもないことですが、近辺の味方たちが力を落とさないよう備えるのが肝要です。手近な備えばかりを優先するならば、図らずして凶事が起きるものです。心得て敵の陣地の様子を見届けて何度も報告するのがもっともです。さらに部隊を派遣して一つ作戦する存分ですが、その方面の状況を確実に確認していません。是非もありません。必ずや味方中が力を落とさないようにするのが肝要です。

御札拝見申候、昨日以飛脚如被申入候、去十五御着輿、氏政歓喜不大形候、御状之趣、石一口上承届、具氏政へ為申聞候、何篇ニも可被任置之由被申候、拙者事、大細内外毛頭無疎意、無二無三可走廻候、乍恐可御心安候、委細朝比奈弥大郎倩口上候之条、重而可得御意候、恐ゝ謹言、
八月十七日
 北条美濃守 氏規(花押)
徳川殿 人ゝ御中

→戦国遺文 後北条氏編2566「北条氏規書状写」(紀伊国古文書所収藩中古文書四)

天正11年に比定。

 ご書状拝見しました。昨日飛脚によって申し入れられたように、去る15日にお輿が着きました。氏政の歓喜は大方ならざるものです。ご書状の内容は石原一左衛門尉安定が口頭で承って届け、詳しく氏政へ申し聞かせます。何かとお任せ置きを申されました。私のことは、大小・内外で毛頭疎かにするものではありません。無二無三に活躍するでしょう。恐れながらご安心下さい。詳細は朝比奈弥太郎泰勝がよくよく口上を申しますので、重ねて御意を得られますよう。