今川義元、鈴木重勝に被官奉公を命じる
[印文「如律令」カ]以只今氏純前々子細言上、所得其意也、然者於向後者、為被官一分、可令相当之奉公者也、仍如件、 天文廿二年 四月廿三日 鈴木甚三郎殿 →愛知県史 資料編 補181「今川義元朱印状」(鈴木重信氏所蔵文書) …
[印文「如律令」カ]以只今氏純前々子細言上、所得其意也、然者於向後者、為被官一分、可令相当之奉公者也、仍如件、 天文廿二年 四月廿三日 鈴木甚三郎殿 →愛知県史 資料編 補181「今川義元朱印状」(鈴木重信氏所蔵文書) …
『信長研究の最前線』(2014年・洋泉社)は、最新の研究成果を織り込んだという前書きがあるので一読。『桶狭間』に言及した章があるものの従来説のおさらいだったので特にコメントはない。 ただ、今川氏が関係する部分でとても疑問 …
『歴史研究 第592号』の「特別研究 沓掛城の新発見」にて太田輝夫氏が、沓掛城の比定地を考察している。要旨は以下の通り。 ■現在城跡公園になっている遺構は蓬左文庫の『沓掛村古城絵図』と規模・縄張りが合致しない。発掘物も決 …
2回目の行程は名鉄前後駅から始めた。まず合戦の死者を埋葬したという伝承が残る戦人塚。多少の木立があるものの、全方向に見通しが利く。特に二村山とは悪天候でも狼煙で通信可能だと思われる。 もしかしたら、緒川から大高への出撃を …
これまでずっと古文書で実態を追ってきたが、鳴海原を実際に歩いてみる機会が2度あったので、その際の感想を書き残しておこうと思う。 鳴海駅から北に向かうと、ぐっと坂が急になった途中に鳴海城関連の案内板が見える。円龍寺は、旧名 …
感状で「返」という表現を用いているのは今川氏の特徴である。アップした史料から抽出すると4例が見つかった。 「味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」義元→岡部元信 1552(天文21)年 「尾州大高城江人数・兵粮相 …
旧暦の19日に今川方は3回攻撃を仕掛けている。9月19日、10月19日、そして5月19日は少なくとも確定しているが、それ以外にも永禄2年5月頃から1年にわたり毎月19日に攻撃していた可能性も高いように見える。 では、なぜ …
鳴海から沓掛にかけては鎌倉道が直通していたが、近世になると鳴海から有松を経て知立に抜けるようになる。では、1560(永禄3)年にはどうなっていたのか。 又鳴海の里を行ば、藍原宿を過て、田楽が窪と云野を過て、沓かけを下て一 …
今川・織田の両軍勢がどのように移動したかは、当時の主要道路によって推測可能なので、とりまとめてみた。個別に立論する必要はあると思うが、まず前提となる地図を示してみよう。 実線が今川方、破線が織田方の移動経路となる。 まず …
今川義元の三河出馬について、政治的名理由を考察してみた。 まとめると、三河国衆を取りまとめるために義元自身と松平元康の出征が必要だったという点を基点として、以下の要素を含んでいる。 ■嫡男を長期間もうけられないでいる氏真 …