御名字・御家督之儀、御相続之段被聞召候、尤珍重之由気色候、仍御字以御自筆被遣之旨、被仰出候、御面目至目出存候、恐々謹言、

五月三日

左衛門佐晴光

謹上 今川五郎殿

      うら書 大館

→静岡県史 資料編7「大館晴光書状案」(大館記所収往古御内書案)

1536(天文5)年に比定。

 ご苗字・ご家督のこと。ご相続の段取りをお聞きになりました。もっとも珍重のことと思し召しでした。御字を自筆でお渡しになるとの仰せを出されました。ご面目の至りで、おめでたいことです。

(天文5年)

同五月廿四日夜、氏照ノ老母、福嶋越前守宿所へ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠ル、

→静岡県史 資料編7「高白斎記」

 5月24日夜、氏輝の老母が福嶋越前守の宿舎に行き、花蔵と同心。翌25日未明より駿府にて戦闘、夜中に福嶋党は久能山に立て篭もった。

(天文5年5月)

十日甲子、(中略)

一仮殿御遷宮事、六七月之間可然由、自小田原雖有之、駿州之其逆乱材木不調間、八月迄申延畢、材木者両月ニ可罷着之由註進有之、今川氏輝卒去跡、善徳寺殿・花蔵殿、依争論之合戦也、

→静岡県史 資料編7「快元僧都記」

 10日。一、仮殿への御遷宮のこと。6~7月の間に執り行うべきこと。小田原より指示があったものの、駿河国のその戦乱で材木が調達できず、8月まで延長しました。材木は両月に到着するとの報告があったが、今川氏輝が卒去した後、善徳寺殿・花蔵殿が争論によって合戦となったものである。

(天文5年)

其年六月八日、花倉殿・福島一門皆相模氏縄ノ人数か責コロシ被申候、去程ニ善徳守殿ニナホリ被食候、

→静岡県史 資料編7「妙法寺記」

 その年の6月8日、花倉殿・福島一門は皆相模国の氏綱の軍勢が攻め殺された。それを受けて善徳寺殿が守護になられた。

就商買之儀、徳政・要脚・国役・年紀并永代買得田畠・屋敷・浜野方・所当色成・公方年貢并上年貢以下之事、或売主闕所方、或披官等退転、不遂糾明使入之事并信秀任先判之旨免許舟之事、付沙汰、任代々旨令免許候、并商買之儀候之条、縦盗物たりといふ共、質物之事候之間、不可有異儀候、并取質・請質・郷質ニ取候事、質物ニ取候自然失候時は、如前々任大法之旨、可相果之事、一切免許如此一札遣候上者、自然免許令棄破雖申付候、不混自余、於末代聊不可有相違者也、仍如件、

■■廿弐

  十月日

信勝(花押)

加藤図書助殿

→愛知県史 資料編10「織田信勝判物」(加藤景美氏所蔵文書)

1553(天文22)年に比定。

 商売のことについて。徳政・要脚・国の課税・20年紀法、ならびに永代で購入した田畑・屋敷・浜・野の、地税・雑税・公方年貢ならびに上年貢以下のこと、あるいは、売主が欠所、または被官を外されたとしても糾明使が入らないこと、ならびに信秀が出した先の判形による免許舟のこと、処置を行ない、代々のことに任せて免許します。ならびに商売のことは、たとえ盗品であっても質物のことですから異議のないように。ならびに質を取ったり請けたり、郷質を取ることは、取得した質物を万一失った際には、前々のように大法の通り決済することとします。一切の免許をこの書面のように発給しますので、万一免許を破棄するように申しつけたといっても、他とは一線を画して、末代まで少しの相違もあってはなりません。

(天文5年)

六月十四日、花蔵生涯、

→静岡県史 資料編7「高白斎記」

態申入候、抑前年在京中御懇之儀、難忘忝存候、当国不慮之題目無是非候、然処家督之儀、無去所候間領掌、唯今礼申候、仍為祝儀黄金弐両令進覧候、聊表嘉例計候、毎事期後音候旨、可請御意候、恐惶謹言、

八月十日

義元(花押)

逍遥院殿 人々御中

→静岡県史 資料編7「今川義元書状写」(加能越古文叢二十五)

1536(天文5)年に比定。

 折り入ってご連絡します。前年に在京した折はご親切にしていただきましたこと、忘れずにありがたく思っています。当国で不慮の案件が発生して是非もないこととなりました。そうしていたところ家督の件は、去ることもなく掌握することとなりました。今お礼を申し上げます。祝儀として黄金2両を進上いたします。些少ながら、めでたい先例としてお贈りします。事ごとに後でご連絡する旨、お心に添いますように。

今度陣中人数、長々在陣粉骨無比類候、猶岡部太郎左衛門可申届候、恐々謹言、

六月九日

承芳(印判)

富士宮若殿

→静岡県史 資料編7「今川義元感状写」(内閣文庫所蔵駿府古文書)

1536(天文5)年に比定。

 この度出陣の部隊、長々と在陣して奔走していることは比類がありません。さらに岡部太郎左衛門が申し届けるでしょう。

駿河国蒲原郷内南之郷、山・屋敷・浦等之事

右、今度一乱、由比之城相踏、忠節無比類之間、為新給恩宛行畢、彼郷中葛山給八貫文分并武藤給参貫五百文分、田畠給主ニ踏渡上者、相残分一円ニ如福嶋彦大郎時可令知行、弥可抽忠功之状如件、

天文五 丙申 年閏十月廿七日

義元(花押)

由比助四郎殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物」(由比文書)

 駿河国蒲原郷内の南之郷における、山・屋敷・浦などのこと。右は、この度の一乱において由比の城を守備して比類のない忠節を働いたので、新たな給恩として充て行なう。あの郷中での葛山氏の給地8貫文分と武藤氏の給地3貫500文は、田畑の給主に渡すものとする。残る分は福嶋彦大郎の時のように一円を知行せよ。ますます忠功にぬきんでるように。

今度計策之儀、令入魂者、先約不可有相違候、若露顕之上、為在所退出者、於于信州三百貫之地、必可相渡者也、仍如件、

拾月朔日

信玄(花押)

諏訪宰相

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄判物」(武井文書)

1561(永禄4)年に比定。

 この度の計略のこと。昵懇にするならば、先の約束は相違ないでしょう。もし露顕して在所を退出させられたら、信濃国で300貫文の土地を必ずお渡しします。