井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。

1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。

最初に現われたのは今川家当主の義元が発行した判物である。

先行する判形があったが紛失したとのことで重ねて判形を出す。後々に至り、あの紛失した判形が出てきて、譲り状があると虚偽の申請をする者があるならば、取り調べて成敗を加えるものである。

 と書かれており、紛失した判形を改竄して不当な申し出をする者がいることを前提としている。その3日後には元服したばかりと思われる松平元信(家康)がほぼ同文の判物を出している。

前の寄進状を出そうとする者は、盗人とするだろう。

この中でも「前之寄進状出し候ハん者ハ、可為盗人候」と、不穏な文言が含まれている。そしてこの判物に花押はなく、印が据えられている。この印については後述する。

 元信と同日、「しんさう」という人物(恐らく女性)がより生々しい形で告発をする。解釈文を引用しよう。

 返す返すも大仙寺のこと、道幹にも今の三郎にも、私は仕えて来ました。この寺は私の寺ですから、どこであろうとも口出しすることはなりません。
 大仙寺寄進状ですが、前にお出ししたものを誰かに盗まれてしまったと、そのように申してきました。重ねて三郎(元信)が寄進状をお出しします。印判のことは、まだ誰ともこのようなことをしていなかったので、私の押判を押してお出しします。どんな時もこのようなことに判を押す場合は、この寄進状に似せてお出しすることでしょう。前の盗まれた物にも3文字の判はありません。前の寄進状を出す者は盗人でしょう。そのために、私から一筆差し上げました。

 この書状には花押も印もない。それなのに「われゝゝかおしはんをおしてまいらせ候=私の押判を押してお出しします」と書いているのは、元信の判物に押された印が「しんそう」のものだからである。それは以下の書状・寄進状で過去使われていた。

 「たいよ」宛ての寄進状には1542(天文11)年9月20日の日付がある。現在となっては印文は未詳だが、「しんさう」いわく3文字ではないものだったのだろう。これは家康が生まれる直前で、まだ広忠が健在の頃。男系が一旦途絶える前に、彼女は黒印状を発給していた。

 これらの史料から、状況を整理してみる。

 この事件を積極的に解決しようとしたのは「しんさう」で間違いない。文章を見ても怒りが伝わってくる。そこで彼女は義元に訴えて今川家から寄進状を兼ねて寺領を保護する判物を出してもらった。

 しかし、3文字だという偽の印の存在を大仙寺から聞いていたため、元信にも同文の判物を発行させ、その印として自身のものを流用した。更に駄目押しで状況を細かく伝えた書状を送った。

 これだけのことができるのは、この時駿府にいたからだと思われる。また、義元に紋切り型ではなく今回の事情に即した改変を加えさせていることから、発言力もある程度もっていたのだろう。

 このように、一門の長老がいて幼い後継者を輔弼できた点は、井伊谷とは様相が異なっている。今川義元や朝比奈泰能、太原崇孚も色々介入して当地を助けてはいたが、彼らだけではやはり混乱しただろうと思う。偽印まで横行して混乱していた状況が放置されたなら、後に松平元康が自立するのは難しかったのではないだろうか。