鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。
足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権が出来る際に初代義康が頼朝の従兄弟である点を活かし、義康の嫡男義兼の正室に北条時政の娘を迎える。その意図は源家将軍外戚との連携を図ったものだが、3代で源家が途絶えて北条氏が執権として台頭した辺りから風向きが変わってくる。
足利と北条両方の血を引く義氏(義兼の嫡男)は、執権泰氏の娘を娶り嫡男を儲ける。この息子にも、義家以来足利家が名乗っていた通字『義』を与えたかったのだろうが、既に源家が滅亡しており、ここで源氏色を出すのは危険という判断を下したと思われる。嫡男は泰氏の『泰』と義氏の『氏』をもらって泰氏と名乗る。正室は父と同じく北条一族の出身。
その後、時頼から偏諱を受けた頼氏につながるが、その息子は家時という特殊な名乗りである。本来であれば時宗から偏諱を受けて『宗氏』とでも名乗れば規定の路線だが、家時の母は頼氏正室の北条氏ではなく上杉重房(将軍宗尊親王の補佐役)娘であることから、嫡男として想定されていなかった節がある。家時は北条政権に批判的だったと伝わり、最期は詰め腹を切らされたとの説もある。「母が上杉氏の異端児」という点は尊氏につながっていく。
家時の正室も北条一族だが、またしても子がなく新田氏出身の側室が貞氏を産む。貞氏は北条貞時の偏諱を受けたもので、『執権からの偏諱+氏』というパターンが復活する。そして重なることは再三に及び、貞氏の正室北条氏も子がなく、側室上杉氏が産んだのが尊氏(当初は高時偏諱で高氏)だった。
尊氏は源家政権を復活させ、嫡男には北条氏への気兼ねもなく義詮と名乗らせる。皮肉なことに、義詮は尊氏正室北条氏の産である。以降、義昭に至るまで足利惣領家は『義』の通字を徹底させることとなる。
- 義康 足利初代
- 義兼 頼朝が母方の従兄弟
- 義氏 母は北条時政の娘
- 泰氏 母は北条泰時の娘
- 頼氏 母は北条時氏の娘
- 家時 母は上杉重房の娘
- 貞氏 母は新田政氏の娘
- 尊氏 母は上杉頼重の娘
- 義詮 母は北条久時の娘
その一方で、義詮の同母弟が関東公方として別系統を立てる。尊氏はこの次男に『氏』を与えて基氏と名乗らせる。その嫡男氏満は、父の『氏』を先頭にして、京公方義満の『満』を後ろにつけている。関東と京が対等と見るならば妥当な名だが、関東は臣下と考えていた義満は面白くなかっただろう。その嫡男は満兼で、一見義満の『満』を頭にいただいているようにも見えるが、氏満の名ともかぶるために微妙なニュアンスである。
その次の持氏は京の義持の偏諱をしっかり取り込んだ形になっており、一応京の臣下に立ったことが判る。ところが持氏はその扱いに不満で、嫡男に義久と名乗らせた挙句、永享の乱によって義久ともども切腹させられる。
鎮圧後は成氏(義成=義政初名からの偏諱)、政氏(義政からの偏諱)と続いて名乗りの上からは平穏に見えるが、両者ともに徹底して京政権に反旗を翻している。とはいえ、『義』を名乗ることはなかった。父政氏と折り合いが悪かった嫡男は、高(義高=義澄の2番目の名からの偏諱)+基(基氏から引く)と名乗って『氏』を捨てている。
その後晴氏(義晴からの偏諱)、藤氏(義藤=義輝初名からの偏諱)と妥当な名乗りに落ち着いていた。藤氏は後北条氏によって廃され、後北条一族の血を引く梅千代王丸が最期の関東公方となる。その名乗りは、京の『義』と関東の『氏』を合わせた最強のものとなった。京公方家の衰退と、後北条氏の強力なバックアップにより、強い名乗りが可能になったものの、それは皮肉なことに足利家の傀儡化完了を意味していた。最も完成された名前を与えることで、後北条氏は「これで終了」と意図していたのかも知れない。
- 基氏 関東公方初代
- 氏満 母は畠山家国の娘
- 満兼 母は不明
- 持氏 母は一色氏
- (義久) 母は不明(簗田氏?)
- 成氏 母は不明(簗田氏?)
- 政氏 母は簗田直助の娘
- 高基 母は不明
- 晴氏 母は宇都宮成綱の娘
- (藤氏) 母は簗田高助の娘
- 義氏 母は北条氏綱の娘
「義氏」から『義』と『氏』の分裂の遠因を作ったのも、2つを統合させたのも「北条氏」という点はどこか因縁めいている。
鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。
足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権が出来る際に初代義康が頼朝の従兄弟である点を活かし、義康の嫡男義兼の正室に北条時政の娘を迎える。その意図は源家将軍外戚との連携を図ったものだが、3代で源家が途絶えて北条氏が執権として台頭した辺りから風向きが変わってくる。
足利と北条両方の血を引く義氏(義兼の嫡男)は、執権泰氏の娘を娶り嫡男を儲ける。この息子にも、義家以来足利家が名乗っていた通字『義』を与えたかったのだろうが、既に源家が滅亡しており、ここで源氏色を出すのは危険という判断を下したと思われる。嫡男は泰氏の『泰』と義氏の『氏』をもらって泰氏と名乗る。正室は父と同じく北条一族の出身。
その後、時頼から偏諱を受けた頼氏につながるが、その息子は家時という特殊な名乗りである。本来であれば時宗から偏諱を受けて『宗氏』とでも名乗れば規定の路線だが、家時の母は頼氏正室の北条氏ではなく上杉重房(将軍宗尊親王の補佐役)娘であることから、嫡男として想定されていなかった節がある。家時は北条政権に批判的だったと伝わり、最期は詰め腹を切らされたとの説もある。「母が上杉氏の異端児」という点は尊氏につながっていく。
家時の正室も北条一族だが、またしても子がなく新田氏出身の側室が貞氏を産む。貞氏は北条貞時の偏諱を受けたもので、『執権からの偏諱+氏』というパターンが復活する。そして重なることは再三に及び、貞氏の正室北条氏も子がなく、側室上杉氏が産んだのが尊氏(当初は高時偏諱で高氏)だった。
尊氏は源家政権を復活させ、嫡男には北条氏への気兼ねもなく義詮と名乗らせる。皮肉なことに、義詮は尊氏正室北条氏の産である。以降、義昭に至るまで足利惣領家は『義』の通字を徹底させることとなる。
義康 足利初代義兼 頼朝が母方の従兄弟義氏 母は北条時政の娘泰氏 母は北条泰時の娘頼氏 母は北条時氏の娘家時 母は上杉重房の娘貞氏 母は新田政氏の娘尊氏 母は上杉頼重の娘義詮 母は北条久時の娘
その一方で、義詮の同母弟が関東公方として別系統を立てる。尊氏はこの次男に『氏』を与えて基氏と名乗らせる。その嫡男氏満は、父の『氏』を先頭にして、京公方義満の『満』を後ろにつけている。関東と京が対等と見るならば妥当な名だが、関東は臣下と考えていた義満は面白くなかっただろう。その嫡男は満兼で、一見義満の『満』を頭にいただいているようにも見えるが、氏満の名ともかぶるために微妙なニュアンスである。
その次の持氏は京の義持の偏諱をしっかり取り込んだ形になっており、一応京の臣下に立ったことが判る。ところが持氏はその扱いに不満で、嫡男に義久と名乗らせた挙句、永享の乱によって義久ともども切腹させられる。
鎮圧後は成氏(義成=義政初名からの偏諱)、政氏(義政からの偏諱)と続いて名乗りの上からは平穏に見えるが、両者ともに徹底して京政権に反旗を翻している。とはいえ、『義』を名乗ることはなかった。父政氏と折り合いが悪かった嫡男は、高(義高=義澄の2番目の名からの偏諱)+基(基氏から引く)と名乗って『氏』を捨てている。
その後晴氏(義晴からの偏諱)、藤氏(義藤=義輝初名からの偏諱)と妥当な名乗りに落ち着いていた。藤氏は後北条氏によって廃され、後北条一族の血を引く梅千代王丸が最期の関東公方となる。その名乗りは、京の『義』と関東の『氏』を合わせた最強のものとなった。京公方家の衰退と、後北条氏の強力なバックアップにより、強い名乗りが可能になったものの、それは皮肉なことに足利家の傀儡化完了を意味していた。最も完成された名前を与えることで、後北条氏は「これで終了」と意図していたのかも知れない。
基氏 関東公方初代氏満 母は畠山家国の娘満兼 母は不明持氏 母は一色氏(義久) 母は不明(簗田氏?)成氏 母は不明(簗田氏?)政氏 母は簗田直助の娘高基 母は不明晴氏 母は宇都宮成綱の娘(藤氏) 母は簗田高助の娘義氏 母は北条氏綱の娘
「義氏」から『義』と『氏』の分裂の遠因を作ったのも、2つを統合させたのも「北条氏」という点はどこか因縁めいている。
就商買儀、徳政・要脚・国役・年記并永代買得田畠・浜野以下之事、雖為或売主闕所或退転、達勝免許之御判形相調遣上者、任其旨、於此方、於末代、不可有相違者也、自然如此免許令破棄、雖申付、聊不可有相違者也、仍状如件、
天文八
三月廿日
弾正忠
信秀(花押)
賀藤隼人殿
進之候
→愛知県史 資料編10「織田信秀判物」(西加藤家文書)
商売のことについて。徳政・要脚・国の課税・20年紀法、ならびに永代で購入した田畑・浜・野以下のこと、あるいは、売主が欠所、または退去したとしても達勝の免許の証文を調えて提出したので、その趣旨の通り、こちらでは、末代まで相違があってはならない。万一このような免許が破棄とするよう指示があったとしても、少しの相違もないだろう。
判物
明智光秀書状写 に「然而」があるが、引用元の『証言 本能寺の変』でこれを逆説としている。当サイトの用語解説然而で、逆接の用法は辞書に見られるのみで掲出文書に見られないことから、その存在に疑義を呈していた。よい機会なので藤田氏が挙げた文書が逆接かを検討してみたい。
「御返報」とあることから、本文書は返信である。宛所の雑賀五郷・土橋重治(以下、紀州勢)と明智光秀は、これまで書状のやり取りがなかった。紀州勢が上意を受けて出撃準備をしており、その中で同じ上意を奉じる明智に連絡を取ったとする。上意は当時の現職将軍足利義昭から発せられており、彼を京に入れることが目的である。ここまでの藤田氏の説明に異論はない。
但し、何故以下の解釈にしなければならないのかは理解に苦しむ。
なお「然而」を「しかして」と順接に読み、この時点ではじめて光秀が義昭に与同したとする見解もある(桐野、二〇〇一)。これについては、通常は「しかれども」と読み、「しかしながら」「そうであるが」と逆接で解釈するから、成り立たない。これは次に述べるように、本史料全体からもそのように解釈しないと整合的に解釈できないことにもよっている。(同書194~195頁)
このあとの「次に述べるように」というのは、追伸で「詳しくは将軍から上意として示されるので、上洛の件は詳しく書きません」ということを指す。どうも、桐野氏と藤田氏の間で、いつから明智が義昭を奉じていたかで意見が分かれ、そのキーワードとして「然而」を順接・逆接どちらに解釈するかが論じられてように思う。
では純粋に文面だけ見たら順接・逆接どちらが相応しいかを検討してみよう。箇条書きの部分を見ると、紀州勢が最初に送った文面がおぼろに判る。どこかの国と親しい間柄であること・和泉と河内方面へ進軍すること・近江と美濃の情勢を気にしていること。そしてこの3点の前提として、足利義昭を互いに奉じていおり、明智への書状も義昭の指示に基づいていることが推測される。
この箇条書き部分を踏まえて、文頭を見ていこう。最初に、音信が初回であることは間違いないと相手の見解を支持している。そして、義昭を奉じていることを示してもらったことを感謝している。明智は先の書状が来るまで紀州勢が同じ陣営だと認識していなかった。
この後に問題の「然而」が入る。次に続くのは、明智が義昭の上洛を命じられてすぐに了解したこと。その次がこの上洛作戦を前提にして紀州勢活動を依頼している一文である。紀伊国から和泉・河内に進軍するというのは、毛利氏に擁された義昭が攝津に上陸することを想定したものだろう。しかし、紀州勢は上洛作戦をこの返報で初めて知った可能性が高い。追記で「詳細は義昭から来るだろう」と書いたり、「すぐに承った」と急遽決まったことと強調したりしているからだ。
そこで改めて考えてみると、「然而」が逆接だと、
- 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ところが「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」
となり、文意が定かではない。一方順接だと、
- 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ということで「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」
となって問題はない。このことから、無理に逆接に読む必要はないと判断できる。
最近の戦国物のゲーム・ドラマを観ていると、大名なのに身なりが異常な人間が常態になりつつある。現代風の髪型と面貌で、着衣は辛うじて昔風という 😯
各種史料が揃って、本格的な歴史研究が進んでいる昨今に逆行するようで不思議な現象だと、個人的には思う。
一般に、月代を剃っていない武士は失業が長いか元服できていない可能性が高い。また、「お歯黒は今川義元と公家のもの」という変な現代常識があるが、身分が一定以上の武士はお歯黒を染めていた。『おあむ物語』の、首級のランクを上げるために死後お歯黒を塗るという記述がそれを裏付けている。
烏帽子については、着装必須かは微妙だ。室町中期以前であれば、たとえ全裸になっても烏帽子だけは外したくないという意識が強かったのだが、戦国期後半になると頭頂部を晒した肖像画も出てくる。ここは誤差だと見てよい。
戦国でも現代でも変わらない事柄(親子の情や義理人情など)はあるものの、外見を不必要に現代人の感覚に引き寄せるのもいかがなものかと思う。キャラクタービジネスとしてはそれでいいのかも知れないが、「ゲームメーカーやマスコミが研究を踏まえて採用している」と思い込む人が増える…… 🙄
シリアスな戦争をチャンバラ活劇にしてしまった近世の軍記ものと同じ現象が繰り返されるということで、これはこれで歴史の一部と認識するのが正しいような気もするが、どこか釈然としないのも事実である。
(別紙、異筆)「星名小隼人・松田大隈相備之砌、為後鑑、此条目大隈へ被相渡候」
就越河仕置条々
一明日廿五越河手次、別紙ニ進候、
一小旗之儀者、一手之まとい之間、物主之小旗一本、可被為張候、武具之儀者、何もさせゝらるへく候、儀者之儀者御随意、
一於川向館林領、竹本一本成共不可伐取候、郷中へ入者、即刻搦取、可為打捨旨、従小田原被仰越候之趣有覚語、厳蜜ニ可被申付事、
一可為野陣候、可有其覚語事、
一道作、従惣手以出合、陣庭迄為作可申候、可然奉行被差添、六以前当陣へ可給候事、
一船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事、但自其年貮騎可被指置候、
右条ゝ、聊無相違様ニ、可被申付候、以上、
道作ハ四人可被出候、已上、
十二月廿四日
氏照(花押)
箕輪衆
星名小隼人佐殿
→神奈川県史 資料編3「北条氏照条書」(松田文書)
「星名小隼人・松田大隈が備えについた際。後に鑑みるため、この条目は大隈へ渡されたものです」
渡河時の処置条項。
一、明日25日の渡河手順は別紙にて渡します。
一、小旗のことは、足手まといとなるので、物主(責任者)の小旗1本をお張りなさるように。武具のことは、どれも遂行するようにお願いします。儀者のことは任意です。
一、川向こうの館林領で、竹木1本でも伐採したり、郷内に入った者は即座に逮捕して討ち捨てとする旨、小田原より仰せが来ているので、覚悟して厳密に指示すること。
一、道作りは全部隊より作業員を出し合い、陣庭まで作るよう指示して下さい。しかるべき奉行を差し添えて、6日以前にこの陣へよこして下さい。
一、船橋の警護は寄り合い衆で行なって下さい。物主の名簿は、これを承りたいこと。但し、その年から2騎を配置して下さい。
右の条項は少しの相違もないように、申し付けられるものである。以上。
道作りは4人を出して下さい。以上。
条書
一般に『兵農分離』とは、農民を徴兵して増強していた兵員状況を変更して、専業の兵士のみで兵員を構成した行為を指す。よく言われるのが、兵農分離を率先して行なったのは織田信長であり、この改革によって織田方の戦力は増強された。その理由として、
- 農繁期でも作戦が可能になった。
- 高度な訓練を施すことで精緻な作戦行動が可能になった。
という言説である。
では、『兵農分離』というものは本当に行なわれたのか。農繁期に縛られない作戦も、高度な作戦の実行も専業兵士の出現とつながるのは納得できる。管見の古文書によると、後北条氏関係の文書で、兵士確保のため給人に大名から金銭を付与されている例がある。専業兵の利点は戦国大名が意識した形跡はあるといえるだろう。しかし、専従兵にはデメリットも存在する。維持にコストがかかる点と兵数が限られるという点だ。後北条氏でも、天正期には農民の徴兵のほうに躍起になっている。戦国最末期には、低コストで多くの徴兵が掛けられたほうが軍事的に効果的だったと結論付けられる。
但し、『兵農分離』で語られる言説にはもう1つ特異なものがある。
- 織田・羽柴系の大名の方が兵農分離を積極的に行なった。
- 後北条氏は天正後期になっても農兵に頼っていたため滅んだ。
何故このような対比が生まれるか。天正後期の後北条氏徴兵史料が残っているのに比べて、織田・羽柴系の大名ではそのような史料が見当たらないという状況証拠が根拠になっているように見える。織田氏関係の古文書は元々が少なく、「史料がないから現象もない」とは言い切れまい。同時代史料だけを見るならば、この状況証拠は根拠に成りえないだろう。織田氏が極端に異なる徴兵システムを持っていたという同時代史料がないことから、他氏と違いはなかったと考えるほうが理に適っている。
そのように考えて史料を見ていたところ、興味深いものが見つかった。
1582(天正10)年に織田信孝が四国攻めを準備した際、領国の北伊勢から15~60 歳の男子全員を招集している。このような動員形態については1585(天正13)年以降の後北条氏でも同じ文言が見られる。尾張と京都の色合いが強い織田氏、関東公方圏という自意識が強い後北条氏。共通するのは天正後期という時代だけであることから、この時期の関東・関西では専業兵士というよりは皆兵総動員のほうが志向されたと結論付けられる。
そもそも、戦闘規模が大きくなるにつれて専従兵が増えるという図式に無理があるだろう(この時代の城郭は後になるほど規模が大きいのが普通であるから、戦国時代に戦闘の大規模化がなされたのは間違いない)。兵数の大規模な確保は戸籍の把握による徴兵と予備役による経費軽減という組み合わせが最も合理的だ。
どうやら、近世武士が農業兼務ではなくなったという建前をそのまま受け取り、「その進化が戦国時代に行なわれ、なおかつ全国を制覇した織豊政権が端緒となった」という後付の推論があったのではないか。
上記はあくまで試論ではあるが、『兵農分離』の存否については引き続き留意して史料を見ていこうと考えている。
新横浜駅から歩いて5分程度の丘に存在する、小規模な城跡。小机城と関係すると見られている。新横浜駅の篠原口から出て、東海道新幹線の線路に沿って東京方面に歩く。間もなく右手に下の山が見えたら行き過ぎなので、もう1つ下の写真にある曲がり角から正覚院に入る。
西から城跡を見上げる。右手が正覚院墓地につながる。
自販機の角を右に曲がると正覚院となる。裏手の墓地を上り切ると城に行ける。
正覚院の墓地が聳え立っているので、迷わず登る。最上層に行くと、下記石仏があって地続きで藪が広がる。この藪が篠原城である。
正覚院墓地の最高地点に行くと、近世の仏像が立っている。ここから城跡に入れる。
西空堀の外側にある土塁。全く手入れされていないようだが、形が良好に残っている。
意外と深い、主郭西の空堀。往時は鋭い角度を持っていたのかも知れない。
主郭西側に横たわる竪堀。うっすらだが確実に残っている。
3月でもこの藪。みっしり生えていて、軽装では突入不能。
写真で判るように、主郭突入はかなりの重装備が必要となる。「新横浜にある城だから」と気軽に訪れると引き返す羽目になるだろう。
主郭から西の空堀にごく小規模な虎口があった。写真では判りにくいが、奥が主郭。
この虎口を見つけた時は溜め息が出た。北の大手から西の空堀底を進むと、小さな土橋に行き当たる。この土橋はバンクを描きながら主郭へつながる。つまり、空堀を進んできた敵は土橋を土塁代わりにした攻撃を受ける。ここをしのいでも、横の主郭からも攻撃されることとなる。
滝山城や小机城といった支城クラスならともかく、地元に「金子某の城」ぐらいしか伝わっていない城跡で見かけるとは思わなかった。「自然地形か後世の改変では?」と思いよく調べたが、土橋は対岸まで明確に残っていた上、バンクがあるため後世の便宜改変とも思えなかった。そもそも、主郭が藪で覆われれていることから用地として使われているとも思えない。
主郭から北に大手らしい道が下っていく。民家と畑、庭が連なる。
意外なほどちゃんと残っている史跡で、茅ヶ崎城と同じく今後調査と公開が望まれる。正覚院側の高地は住宅街がすぐそばまで迫っており、そちらの遺構はもう判らない。
御書出
一今度大途之依為御弓箭、当根小屋八王子御仕置被仰付候、当郷ニ有之侍・百姓共ニ、為男程之者ハ罷出、可走廻事
一普請之事肝要ニ候、奉行衆如申可走廻事、
一此時候間、於何事も、如御下知可走廻事、
右、御大途御弓箭之儀候条、御国ニ有之為男程之者、此時候、為不走廻不叶候、存其旨、可抽忠信旨、被仰出者也、仍如件、
(印文未詳)
子 正月十一日
三沢
→神奈川県史 資料編3「北条氏照朱印状」(土方文書)
1588(天正16)年に比定。
お書き出し。一、この度大途の戦争のためにより、この根小屋・八王子の処置を仰せつけられました。この郷にいる侍・百姓はともに、男たる者は出てきて、活躍すること。
一、 普請のことは肝要です。奉行衆がいうように活躍すること。
一、この時ですから、何事においても御下知のように活躍すること。
右は大途の戦争のことですから、御国にいる男たる者は、この時です。活躍しなければ叶いません。その旨を理解して、忠信にぬきんでるように仰せ出しされています。
朱印状
「本着到 百九十三人也」
1561(永禄4)年に大藤与七が率いた総数は514人。このうちで与七直轄の人数が193人である。
「北条家定書」
1590(天正18)年。この定書では80人を長浜に配備している。残りが240人で、このうち200人を韮山籠城、40人は半分に分けて在所と小田原の連絡に使うよう指示。この320人が大藤与七の兵数となる。
連絡要員として20人を二手に分けたという点が興味深い。在所の相模田原と小田原は1日で移動できる。情報を矢継ぎ早に伝えるためには、72分以内に1回は出せる体制が必要だった。
ちなみに、「与七(息子)は若輩である」と氏政が告げており、与七(父)が1561(永禄4)年に率いたような、同心16名による500人部隊は任されなかった可能性もある。
永禄当時の与七(父)も7年前に家督を継いだばかりの若輩だった。但し、この代替わりは嫡男の系統が絶えている状態で大藤金谷斎が亡くなったため、金谷斎の末子を相続させたとしている。相続時年齢が高かく、多くの同心を預けられたのかも知れない。
武田晴信(実は勝頼)書状
一方、上記で大藤(父)が1573(元亀4)年に討ち死にしたと判るが、それは韮山籠城の17年前となり、幼児継承だっとしても大藤(息子)は二十歳前後。家督を継いで17年では若輩とは思えない。天正末年、大藤家督は与七(孫)に移っていたという可能性も考慮できるだろう。
以前テレビ番組で、城が好きな芸人が「こいつ、天守閣を見たら何城か判るんだって 😯 」と揶揄されていた。そしていきなりクイズが出た。表示される天守閣を見て城の名前を当てろということだったが、モニターに出てきたのは熊本城。どこからどう見ても熊本城。宇土櫓の辺りから仰角で撮影し、向かって左に大天守という周知のアングル。
その芸人は暫く視線が動いていた。その気持ちは判る。「 🙄 さあこの写真で判るか!」と大上段に構えたクイズである。高知城か掛川城、犬山城か清洲城みたいなひっかけや、名もない復興天守が来るかなと思いきや……熊本城である。どんな罠があるのかと、彼が半分疑問文で「熊本城?」と答えると、スタジオ全体が「ええー」というか「おおー」というか不思議な反応をしていた。その後の司会者が「正解! でもなんで判るんだ?」と訊いて来る。
城好き芸人が困っていた。もし私が訊かれても困るだろうと思う。熊本城天守と何を間違えろというのか。下見板張りが黒いから松本城か岡山城……いやいや、さすがにそれは間違えない。この後、「こんなマニアックな知識をどこで手に入れるのか」とか「『おたく』やマニアは恐ろしい」という展開になったのが印象的だった。
この程度でマニアなのだろうか。姫路城・名古屋城・熊本城・大阪城は国民的常識として天守の形状を覚えているのではないか。それに準じて、弘前・松本・丸岡・犬山・彦根・丸亀・伊予松山・備中松山・高知・宇和島・松江はぼんやりでも判るのではないか。これまではそう考えていた。しかし、いわゆる歴史ブームと呼ばれる昨今であっても、知識は浸透していないようだ。
寺院建築だと見分けがつかないのも止むを得ない気がする。私も多数ある五重塔はごっちゃだ。浅草寺も法隆寺もはっきりとは判らない。しかし、破風や層数、瓦や窓が明快に異なる天守で間違いが生じるとすると、歴史に興味のない人(いわゆる一般人)は地元の天守ですら形を覚えていないのかも知れない。そして覚えている人間のことは強烈な城マニアと受け取るようだ。彼らは天守がないことを指して「城がない」という。逆に、歴史根拠のない模造天守であっても気にしていない。
稜線を歩いていて急に立ち止まり「これ、堀切じゃない?」と縄張りを妄想し出す御仁はマニアと言っていいだろうが、その場合一般人はどう受け取るのだろうか。興味がわきつつもまだ試したことはない。