2人の義氏
鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。 足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権 …
鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。 足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権 …
就商買儀、徳政・要脚・国役・年記并永代買得田畠・浜野以下之事、雖為或売主闕所或退転、達勝免許之御判形相調遣上者、任其旨、於此方、於末代、不可有相違者也、自然如此免許令破棄、雖申付、聊不可有相違者也、仍状如件、 天文八 三 …
明智光秀書状写 に「然而」があるが、引用元の『証言 本能寺の変』でこれを逆説としている。当サイトの用語解説然而で、逆接の用法は辞書に見られるのみで掲出文書に見られないことから、その存在に疑義を呈していた。よい機会なので藤 …
最近の戦国物のゲーム・ドラマを観ていると、大名なのに身なりが異常な人間が常態になりつつある。現代風の髪型と面貌で、着衣は辛うじて昔風という 😯 各種史料が揃って、本格的な歴史研究が進んでいる昨今に逆行するようで不思議な現 …
(別紙、異筆)「星名小隼人・松田大隈相備之砌、為後鑑、此条目大隈へ被相渡候」 就越河仕置条々 一明日廿五越河手次、別紙ニ進候、 一小旗之儀者、一手之まとい之間、物主之小旗一本、可被為張候、武具之儀者、何もさせゝらるへく候 …
一般に『兵農分離』とは、農民を徴兵して増強していた兵員状況を変更して、専業の兵士のみで兵員を構成した行為を指す。よく言われるのが、兵農分離を率先して行なったのは織田信長であり、この改革によって織田方の戦力は増強された。そ …
新横浜駅から歩いて5分程度の丘に存在する、小規模な城跡。小机城と関係すると見られている。新横浜駅の篠原口から出て、東海道新幹線の線路に沿って東京方面に歩く。間もなく右手に下の山が見えたら行き過ぎなので、もう1つ下の写真に …
御書出 一今度大途之依為御弓箭、当根小屋八王子御仕置被仰付候、当郷ニ有之侍・百姓共ニ、為男程之者ハ罷出、可走廻事 一普請之事肝要ニ候、奉行衆如申可走廻事、 一此時候間、於何事も、如御下知可走廻事、 右、御大途御弓箭之儀候 …
「本着到 百九十三人也」 1561(永禄4)年に大藤与七が率いた総数は514人。このうちで与七直轄の人数が193人である。 「北条家定書」 1590(天正18)年。この定書では80人を長浜に配備している。残りが240人で …
以前テレビ番組で、城が好きな芸人が「こいつ、天守閣を見たら何城か判るんだって 😯 」と揶揄されていた。そしていきなりクイズが出た。表示される天守閣を見て城の名前を当てろということだったが、モニターに出てきたのは熊本城。ど …