先段以飛脚如申述候、此度御輿入成就、誠大慶満足、何事歟可過之候哉、爰元之様子、為可洩堅聞、以川尻下野守申候、委細令附與彼口上候、就中当秋行之儀、御輿之儀ニ付而令延引候、此上者、三日之内氏直可致出馬由候、愚拙事者、爰元為仕置候間、令在留候、猶期後音之時候、恐ゝ謹言、

八月十七日

 氏政(花押)

徳川殿 人ゝ御中

→戦国遺文 後北条氏編2564「北条氏政書状写」(名将之消息録)

天正11年に比定。

 先に飛脚にて申し述べました通り、この度のお輿入れの成就、誠に大慶満足、何事がこれに優りましょうか。こちらの様子を堅く聞き漏らすべくように、川尻下野守によって申します。詳細は彼の口上に付与させます。とりわけ秋の作戦のこと、お輿入れの件から延引させていただきます。この上は、3日以内に氏直が出馬するとのことです。愚拙はこちらで仕置きをしますので、留まらせていただきます。また後ほどご連絡します。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、

六月十一日

 氏政(花押)

徳川殿

→戦国遺文 後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

天正11年に比定。

 鈴木をもって申し上げましたところ、朝比奈弥太郎を指し添えられて最初から最後まで丁寧にご回答いただきました。特に7月にお輿入れとのこと、さらにご決定を書面で頂戴できましたので、愚拙の歓喜、これに優るものはありましょうか。心も気持ちも筆紙に尽くしがたい事です。とりわけ5箇条の仰せを受けまして、一つ一つご返答いたしました。そうしたところ、沼田・吾妻を急ぎお渡しいただけるとのこと。ますます心のこもったことで、氏直も大慶です。拙者においてもかたじけないことです。詳細は使者を指し添えて申し入れますので、つぶさなご返答をお待ちします。

房州様当地箕輪御在城附而、我ゝ令得御介抱候之刻、其方不退御薬等神妙ニ進上、依之、為氏邦御内意、合薬之儀、就覃助言、自分江も別而懇意、殊一両月医書悃望之間、肆読之契介申候条、製名字之一分ニ有之、医道之末裔に與、内訴之所、雖遠慮之儀候、右之旨趣、難黙止之間、任承染筆頭候条、仍如件、

天正拾一[癸未]年

五月十六日

 糟尾 法眼寿信(花押)

糟尾養信斎 参

→戦国遺文 後北条氏編2536「糟尾寿信判物写」(武州文書所収児玉郡医者衛次所蔵文書)

 安房守(氏邦)様が当地箕輪にご在城で、我々が介抱しておりました時、あなたが退かずお薬を神妙に進呈、それによって氏邦は回復しました。薬の合わせ方も助言いただき、自分へも特別に懇意にしていただきました。特に1両月は医学書をお望みでしたので、『肆読之契介』を申していますから、苗字の一分を製して医道の末裔にと内々に訴えたところ、遠慮のことではありますが、右の趣旨もだし難く、承ったことに任せて筆を染めました。

此度中山番ニ者相除候、出陣之支度尤候、恐ゝ謹言、
五月三日 氏直(花押)
和田左衛門殿
同兵部丞殿

→戦国遺文 後北条氏編2532「北条氏直書状写」(武家書翰乾)

花押から天正11年に比定。

 この度中山の番からは除外します。出陣の支度をなさるのがもっともです。

[折紙]此度於度ゝ走廻由、自入道殿蒙仰候、誠無比類候、其地御本意、程有之間敷之間、弥可被抽武勇所、専肝候、恐ゝ謹言、

 氏邦(花押)

岸大学助殿

→戦国遺文 後北条氏編2530「北条氏邦書状」(岸文書)

花押から天正11年に比定。

 この度は度々奔走なさったとのこと、入道殿より仰せをこうむりました。本当に比類のないことです。あの地が意のままになるのは程近いことでしょうから、ますます武勇にぬきんでられますのが、大切なことです。

此度入道殿利根川を取越、敵数多討捕候、貴所抽走廻、関口新五郎討捕候、誠無比類候、小田原江茂注進申上候、於此上入道殿御本意、程有間敷候間、各有塩味可被相稼事、専肝ニ候、恐ゝ謹言、

卯月廿四日

 氏邦

矢野新三殿

→戦国遺文 後北条氏編2528「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)

天正11年に比定。

 この度入道殿が利根川を渡り、敵を多数討ち取りました。あなたも突出して活躍し、関口新五郎を討ち取りました。本当に比類がないことです。小田原へも報告いたします。この上は、入道殿が意を遂げられるのはもうじきでしょう。皆様でお考えの上功績を立てられるのが大事なことです。

着到之事

弐本 小旗持 三挺鉄炮放 何も指物可持

三張 射手 何も指物可持うつほ可付 壱本 手鑓

壱騎 自身 三騎 何も指物可指

八本 長柄

 以上弐拾壱人

右、自今以後大方如此可有勤仕候、自前ゝ之筋目ニ候間小幡可為馬寄候条、万事備之上之儀、如彼作意尤候、雖然万一横合非分之扱有之者、一往小幡ニ被相断、猶無承引者可有披露候、分明ニ可遂裁許候、若小幡私曲至于歴然者、於旗本可被走廻、猶以武辺一ヶ条ニ極候間、無二相嗜、至于粉骨者、何分ニも引立候、仍定所如件、

天正十一年[癸未](虎朱印)三月五日

  「信玄」(異筆)

一宮新太郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家着到書出」(堤芳正氏所蔵貫前神社文書)

 着到のこと。2本、小旗持ち。3挺、鉄砲放ち。何れも指物を持つこと。3張、射手。何れも指物を持ち空穂を付けるように。1本、手槍。1騎、自身。3騎、何れも指物を指すように。8本、長柄槍。以上21人。右は、今より以降大体このように勤めるべきものです。前々よりの筋目から小幡に馬を寄せるのがよいでしょうから、軍役全般は彼がいうようにするのがもっともです。そうはいっても万が一理不尽な扱いを受けたならば、一応は小幡に相談し、それでも駄目なら上程するように。きちんと裁許されるでしょう。もし小幡のわがままである事がはっきりしたなら、旗本として活躍してもらいます。なお、武辺が全ての鍵になりますから、脇目も振らず鍛錬なさり、目覚しい活躍をするならば、どのようにもお引き立てになるでしょう。

大戸之地被取立由、殊嶮難ニ候歟、肝要至極候、委細者、氏直可被相達間、閣筆候、恐ゝ謹言、

三月二日

『北条左京大夫』氏政(花押)

安房守殿

→戦国遺文 後北条氏編2506「北条氏政書状写」(諸州古文書武州十二)

天正11年に比定。

 大戸の地を取り立てられたとのこと。格別に峻険な場所なのでしょうか。とても大切なことです。詳しくは氏直に言ってありますから、筆を置きます。

相定法度、

糟屋之郷八幡御社頭、於左右前後、竹木不可剪、并馬不可繋候事、

喧嘩口論不可致候事、并殺生放火事、

出陣之砌、松山家中衆、別而如斯之法度、致覚語、以下之者共ニ、堅可申付候事、

右三ケ条、有違犯之輩者、以書付、都筑豊後守所へ可申来候、其断明白可申付候、仍如件、

天正九辛巳年五月十日

 能登守長則華押

別当法禅坊

→戦国遺文 後北条氏編2237「上田長則法度写」(新編相模国風土記稿大住郡三)

 あい定める法度。糟屋郷八幡の社頭、前後左右において、竹木を切ってはならない。並びに馬をつないでもならないこと。喧嘩・口論をしないこと。並びに殺生・放火も同様のこと。出陣の際に、松山家中の衆は特にこのような法度を覚悟して、配下の者に堅く指示するように。右の3箇条に違反した輩がいたら、書面にして都筑豊後守のところへ持ってくるように。明白に判断するよう申し付けています。

其以来無音之間、令啓候、抑度ゝ於其表敵被討捕、手堅被及防戦候、戦功不浅次第候、将又東敵東口ヘ打出由候間、則武州・下総之者共申付、指向候、定敵敗北程有間敷候、就中上州口へ甲州衆可越山由、雖注進候、実説于今無之候、至于事実者、早ゝ可遂出馬候間、其口弥堅固之備、可為肝要候、将又両種、江川一荷進之候、猶安房守可申越候、恐ゝ謹言、

五月七日

 氏政(花押)

長尾左衛門入道殿

→戦国遺文 後北条氏編2235「北条氏政書状写」(武州文書所収足立郡勘右衛門所蔵文書)

天正9年に比定。

 あれ以来連絡していなかったので、ご挨拶します。そもそも、度々その方面で敵を討ち取られ手堅く防戦に及んでおり、戦功浅からざるものがあります。また、東の敵が東戦線へ出撃したそうなので、武蔵・下総の者たちに指示して向かわせております。きっと敵の敗北は程なくでしょう。とりわけ上野国戦線へ甲斐国衆(武田方)が山越えしたとのこと、報告が入りました。確報は現時点で入っていませんが、事実であるならば、早く出馬するでしょうから、そちらの戦線はますます堅固の防備をするのが大切です。また、両種・江川1荷を進呈します。さらに安房守(氏邦)が申し上げるでしょう。