去酉年四月十二日岡崎逆心刻、自彼地人数宇利・吉田江相移之処、同五月廿日父平左衛門与重時并近藤石見守両三人、於三州最前令忠節、其以後飯尾豊前逆心之砌、遠・三忩劇之処、牛久保・長篠籠城刻、長篠江数度兵粮入置之、牛久保江数多人数送迎、無二令奉公之段、神妙之至也、其上三州一城相踏、人数拘置、殊近藤石見守彼地爾令堪忍、同前爾走廻事、前後共忠節之至也、然者、於三州出置吉河就相違、只今令訴訟之間、為其改替、遠州引間領之内新橋郷・小澤渡郷・人見之郷三ケ所、不及検地之沙汰、永為知行所出置、不可有相違、并寺社領・山芝・河原・野林可令支配、諸役等、自前々就無之者、令免除之、重而忠節之上、可加扶助、守此旨、弥可抽忠功之状如件、
永禄拾[卯丁]年八月五日
 上総介(花押)
鈴木三郎大夫殿
近藤石見守殿

→戦国遺文 今川氏編2138「今川氏真判物」(鈴木重信氏所蔵文書)

 去る酉年の4月12日に岡崎が逆心した際に、あの地より部隊を宇利・吉田へ移ったところ、同年5月20日に父の平左衛門と重時、そして近藤石見守の3人が三河国において前線で忠節いただき、その後飯尾豊前が逆心して遠江・三河が紛争状態に陥り牛久保・長篠に籠城したときも、長篠へ数回兵糧を搬入、牛久保へは多数の部隊を送迎しました。無二の奉公を行なったのは神妙の至りです。その上、三河国で一城となっても踏み止まって部隊を維持しました。特に近藤石見守はあの地で我慢して『同前に』活躍したこと、前後どもに忠節の至りです。ということで、三河国で拠出した吉河で相違があった件について、ただいま訴訟の最中でありますので、替地を出します。遠江国引間領のうち、新橋郷、小澤渡郷、人見郷の3箇所を、検地の対象外として末永く拠出します。相違があってはなりません。そして寺社領と山芝、川原、野林も支配なさるように。諸役などは前々よりなかったので今回も免除します。重ねての忠節の上で扶助を加えるでしょう。この旨を守り、ますます忠功にぬきんでるように。

 尚々其方うたかい申事、神分ゝゝ無御座候、

御状談拝見申候、仍此地へ御越可有候、談合可申候、其方覧よく御入候由、祝着にて候、御出待入申候、恐々謹言、

八月廿一日

 家康御書判

  小坂井より 蔵人

豊後殿 返事

→戦国遺文 今川氏編2OO5「松平家康書状写」(国立公文書館所蔵譜牒餘録前編巻三十三)

永禄7年に比定。6年説もあり。

 お手紙を拝見しました。さて、この地へお越しいただき相談しましょう。あなたの『覧』がよくお入りとのこと、祝着です。お出でをお待ちしております。

 追記:なおなお、あなたを疑うことは、神にかけてもございません。

山室恭子著・講談社学術文庫。結論から言うと、

絶対的な名著なので、時間があるならこのサイトを見るよりこの本を買うべき!

である。ぜひご購読を。

20130623

 

私事ながら、このところ本業がずっと多忙を極めており、書店に顔を出しても、選書や学術文庫のコーナーには寄らずにいた。一つには近所で贔屓にしている書店は歴史棚がそれなりに気が利いていて、それ系の文庫・新書・雑誌も集約してくれている。そんな油断をついて、『中世のなかに生まれた近世』が講談社学術文庫で復刊されていた。……やはり巡回ルートはきちんと守らないと、ろくな事にならないという教訓になった。

それにしても慶事である。いつの間にか絶版に近い状況になってとても悲しく思っていたのだが、定評ある講談社学術文庫に入ったということでひと安心。ひと月遅れという不覚ながら早速入手したので、ご紹介を試みようと思う。

本書は、中世から近世への端境期に生きた戦国大名たちを、黒と白に分けるという印象的な手法で分析している。

黒は印判を用いて本格的な官僚機構を備えた大名家。後北条氏がその代表格で、大量の文書を隅々にまで発行し、徴税能力が高く大規模なインフラ整備も可能な体制を築いている。武田・今川に広がり、織田・羽柴に受け継がれていくシステムだ。

対する白の大名は、印判ではなく自ら花押を付した書状を家臣に渡す手法をとっていて、人と人のつながりを重視したゆるやかな統治を展開している。こちらは西国の毛利氏・大友氏・島津氏など広汎にわたって存在していた。

この黒白の大名たちがどうやって変化し淘汰され生まれてきたかを、それぞれの家別・地域別に検証するのがこの本の目的だ。

だが、その凄さは史料へのアプローチにある。黒白の色分けを、文書1つ1つを詳細に検討しながらコツコツと行なっているのだ。結論には最後の最後まで飛びつかない。書札礼のありようのみを愚直に追い続けて、慎重過ぎるのではないかと焦れて仕方がないほど考えてから、黒の大名の始点を推測するに至る。……ここから先は手にとってご堪能を。

この『中世のなかに生まれた近世』は山室恭子氏のデビュー作なのだが、私の中では『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦)、『新・木綿以前のこと』(永原慶二)に並ぶ衝撃作だった。古文書が持つ妖しい多元解釈の世界を、こうもきれいに編み上げることができるのかと、しばし言葉を忘れたほどだった。いわばこのサイトの出発点と到達点が同時にここにある訳だ。

[懸紙ウハ書]「牧野右馬允殿 氏真」

今度戸田主水助別心、松平蔵人相動、所々致取出之処、被官人稲垣平右衛門尉馳走之由、喜悦候、此時弥忠信肝要候、本意之上可加扶助候、此趣可申聞候也、謹言、

五月十七日

 氏真(花押影)

牧野右馬允殿

→戦国遺文 今川氏編1988「今川氏真感状写」(牧野文書)

永禄7年に比定。

 この度戸田主水助の別心で松平蔵人が動き、諸所に砦を造ったところ、被官人の稲垣平右衛門尉が奔走したとのこと。喜悦です。この時こそますますの忠信が肝要です。本意の上扶助を加えるでしょう。この趣旨を申し聞かせますように。

『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著・吉川弘文館2013)について、もう1点指摘する。

景勝は武田氏旧臣の遠山丹波守(もと右馬助、元来は北条氏家臣の小幡勘解由左衛門尉)に対して沼田在城を承認し、信濃八幡(長野市)で新知行を与えている(「上杉博物館所蔵文書」上越二四三三)。これによって遠山が同城在城衆の一人であったことがわかるが、おそらく遠山は昌幸に従う存在で、同時に景勝に従うという関係にあったのであろう。【同書53ページ】

遠山丹波守というと、後北条氏にとっては特別な名前だ。江戸城代を務めた武蔵遠山氏の初代直景が名乗り、次代の綱景も丹波守を継いでいる。この名を使うのは、後北条氏への遠慮が全くないということだ。ということで文中指摘の文書をアップしてみた。確かに「遠山丹波守」とある。が、この遠山が右馬助を名乗ったということは判らない。黒田氏がどこからこの傍証を得たかは不明だ。

また、小幡勘解由左衛門尉の後身であるという指摘も謎としかいいようがない。この小幡氏は小机領の大豆戸を本領とする旗本であって、上野国小幡氏とは異なる。1561(永禄4)年にも一貫して後北条方であり、途中で武田氏についたという資料は見たことがない(後北条氏人名辞典にもそういった記述はない)。

2年後の1584(天正12)年に景勝が発給した文書では、遠山丹波守に宛て行なわれる筈だった八幡領は元の領主松田氏に安堵されている。この頃真田氏はまだ徳川方だったから、遠山丹波守が真田方の人間である点とは矛盾しない。昭和村の公式Webサイトの中に「加藤丹波守切腹石」というページがある。沼田の端城である森下で合戦があったのは同時代史料で確認できるし、遠山か加藤かは不明だが沼田に丹波守がいた可能性は高い。

就稲荷之地在城申付、八幡領一円預置候、昼夜走廻不可有油断者也、仍如件、

天正十二年 (上杉景勝朱印[立願 勝軍地蔵 摩利支天 飯縄明神])

五月十七日

松田民部助殿

→上越市史2938「上杉景勝朱印状」(長野県松田孝弘氏所蔵)

稲荷の地に在城を申し付けたことについて、八幡領一円を預け置きます。昼夜活躍して油断しないように。

沼田在城尤ニ候、并信州八幡松田一跡、但百卅貫文除、其外知行・同心共ニ出置者也、仍如件、

天正十年 六月廿九日

景勝(朱印[摩利支天月天子勝軍地蔵)

遠山丹波守殿

→上越市史2433「上杉景勝朱印状」(上杉博物館所蔵文書)

新潟県史1023号注によると信濃更級郡八幡宮神主に松田氏あり

沼田在城はもっともなことです。そして信濃国八幡の松田跡地。但し130貫文を除き、そのほかの知行・同心ともに拠出するものである。

『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著・吉川弘文館2013)に、興味深い記述があった。

さらに名胡桃の地については、先の割譲の際に、百姓屋敷のみとなっていたはずであり、城郭は存在しなくなっていたこと【同書134ページ】

 これは、北条氏直条書写にある、

ナクルミノ至時、百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事

を指す。この解釈について考えてみたい。「淵底」については、他の文書の実例を見ても「底の奥深くまで」という解釈で問題はないと考える。敷衍して、「心の奥まで」とか「実情の細かいところまで」という意味にもなる。つまり、「百姓屋敷淵底」とは、「百姓の屋敷に至るまで隅々」で問題はないだろう。この条書で北条氏直は羽柴秀吉に向かって釈明しているので、「名胡桃のあのとき、(武家だけでなく)百姓の屋敷まで詳細に(視察団が)以前ご下向の際に、見極められたのでしょうに」となる。

 だから「百姓屋敷のみになっていた」という解釈は当たらないと思う。

 また、ここで黒田氏の指摘通りに城がなかった(恐らく破却されていた)と考えると、同文書の前段にある、

被城主中山書付、進之候、

が判らなくなる。城主の中山だが、「被」とつくことから「城主とされる中山」であって、任命したのは後北条氏ではないと解釈できる。だが、後北条氏は後にこの中山のために伝馬を4疋徴用しているから、名胡桃城が後北条方となった以降、中山自身は後北条方に抑留されていたのだろう。

同書では上掲文に続けて、

この北条方の弁明はその後、秀吉からは全く根拠のないものとして否定される。恐らく事実はその通りであったと考えられる。

とつなげているが、ここも疑問に思う。事実を捏造するなら本拠地小田原で証拠を作っていけばよいことである。中山のための伝馬手形をわざわざ作ったところで、秀吉方にアピールできる訳でもない。私には、「中山書付」を氏直が本気で信じていたように見える。

 やはり、名胡桃城は温存されていたのだろう。そして沼田にいた猪俣邦憲は『城主』と名乗る中山某から「秀吉裁定で真田方となった岩櫃・名胡桃は上杉景勝に与えられた。越後から接収に向かっているが、この際後北条方につきたい」との連絡を受けたのではないか。邦憲は急遽動員をかけるとともに氏直に急報し、すぐに承諾を得て名胡桃に入ったものと想定している。であるならば、生き証人の中山らを小田原に抑留し、その後必要がなくなったところで沼田に送っているのも合点がいく。

 文書内で「信州川中嶋ト知行替之由候間」とあるのは虚報で、事実は、名胡桃・岩櫃はそのまま、沼田領の替地として南信濃の伊那が徳川家康から真田昌幸に宛て行なわれている。あくまで秀吉の裁定通り昌幸は家康の与力となっている。しかし裁定前の昌幸は景勝与力だったのだから、上方で異変があって名胡桃が景勝直轄になる可能性も全くない訳ではなかった。裁定が反故になったと考えた氏直が名胡桃接収を指示するのは自然な流れといえるだろう。

 ちなみに、後の通説では名胡桃城主は鈴木主水となっているが、これは架空の人物だと考えている。その後の真田氏家臣に鈴木氏はいない。名胡桃問題で考察したように、本件を巡って徳川家康の元に派遣された鈴木(伊賀守?)は氏政・氏規の家臣であるが、通説はその名を使ったのだと推測している。

 また、同時代史料で確認はできていないが、通説では沼田開城後に、名胡桃奪取を問責され処刑されたとされる猪俣邦憲は、氏邦とともに前田家に再仕官したようだ。旧名である富永助盛として存在したようで、弟の勘解由左衛門の名は大野庄用水にちなんで出てくる。

 改めて思うが、名胡桃問題については通説を徹底的に検証して臨むべきだろう。

前々其方就若気、逆心雖仕候、今度味方候上者、吉衛門尉忠節之為候間、約束之分不可有無沙汰、然者大墳之郷一円ニ浦山役所并屋敷共、可為罷成出置候上者、永相違有間敷候、殊長沢為親類之間、同名士へ有同心、陣番可仕、次藤次郎・同藤八郎儀者、如吉衛門尉之時、合力可仕者也、仍如件、

永禄七年[甲子] 五月十四日

 蔵人 家康(花押影)

岩瀬河内守殿

→戦国遺文 今川氏編1987「松平家康判物写」(静嘉堂文庫所蔵集古文書タ)

 以前あなたは若気の至りで逆心をしましたが、この度味方となる上は、吉衛門尉が忠節をしましたので、約束の分を無沙汰にしてはなりません。ということで大塚郷一円の浦・山・役所・屋敷は知行として拠出しますので、末永く相違があってはなりません。特に長沢とは親類ですから同姓として同心して、陣番を勤めるように。次に、藤次郎・同じく藤八郎のことは、吉衛門尉の時のように協力させるように。

岩瀬雅楽助兵粮、今度忩劇之刻、鵜津山城へ籠置分、朝比奈孫六郎へ相断請取之、雅楽助ニ可相渡之者也、仍如件、
永禄七年 二月廿六日
 氏真判
太原肥前守殿

→戦国遺文 今川氏編1965「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵三川古文書)

 岩瀬雅楽助の兵糧について。この度の紛争の際に鵜津山城へ移して保管した分を、朝比奈孫六郎の許可をもらった上で受け取って、雅楽助に渡すように。