後北条氏、小田原・沼田間の伝馬で沼田孫二郎が公用で使うことを通達
伝馬壱疋可出之、沼田孫二■被遣、可為公方伝馬者也、仍如件、 未 十一月十七日 笠原藤左衛門 奉 小田原より 倉内まて宿中 →戦国遺文 後北条氏編「北条家伝馬手形」(設楽己知氏所蔵文書) 1559(永禄2)年に比定。 伝 …
伝馬壱疋可出之、沼田孫二■被遣、可為公方伝馬者也、仍如件、 未 十一月十七日 笠原藤左衛門 奉 小田原より 倉内まて宿中 →戦国遺文 後北条氏編「北条家伝馬手形」(設楽己知氏所蔵文書) 1559(永禄2)年に比定。 伝 …
自白川、去此被指越脚力候、左衛門大夫取次候、返札懇調遣候、其方へも一札被届候哉、不思寄子細候、向後者有間敷之候、惣而佐竹此方通融、雖無所詮候、自遠国難去被申越候之間、可為一旦之通融之由、申断候、以此筋目、可有御返答候、恐 …
就蒲原在城申付、寄子貮拾騎預ヶ置候、急度可相尋候、扶助之儀をは、彼人衆出来之上、披露次第可遣候、彼廿人之者、弓鉄炮致者を可被集候、依人歩侍、依其身馬上可然候条、扶助者人之可為善悪次第者也、仍如件、 永禄十二年 巳巳 七月 …
急度註進申候、今夜子刻、敵新太郎・大道寺、左の手先、是者寄合衆之番所ニ候、彼三口へ同時ニ致夜懸候、何も味方得勝利、敵敗北、討捕注文為御披見、別紙ニ進上申候、随而本郷越前守、於新太郎手前致討死候、其身十廿之間人衆召連、敵取 …
廿六日之一札、昨晦日到来候、抑自當府之誓詞、松本請取、越山候哉、殊誓詞到来、則時ニ可為出張旨、誠以簡要候、畢竟其方馳走故候、弥無手透被打出候様ニ、可被相稼候、将亦如度ゝ申候、追日当陳任存分候、去廿八於山手懸合有之而、信玄 …
善徳寺・天用院越進処、御入魂之由、本望候、殊越へ参苻之儀、余寒雪風之時節難叶付而、松石越山之由候、乍御大儀令満足候、薩埵陣中之様子、山之上之人数半覆へ蹈下之由申来候、去廿六息新太郎者共五六十騎、興津河原迄乗下、敵小荷駄送 …
「伊波知行之書立」 百九拾壱貫五百文 富田 九拾壱貫六百文 生沢 七拾壱貫文 宮分 四拾九貫六百卅二文 杉崎分 卅九貫百文 千津嶋之内 三浦分 以上四百四拾弐貫八百卅二文 此人数 廿八人 此内六騎馬乗 大学 …
如毎年玉縄城米銭百八十文、此米貮斗六升ニ合、但当納法百文ニ一斗四升目積也、当月晦日を切而、小田原付越、安藤豊前ニ可渡之、竹千代殿御飯米ニ被進者也、仍如件、 丙寅 壬八月十日 田名 百姓中 →戦国遺文 後北条氏編 …
伊勢船之兵粮津端■■■■用候、此替安藤不可有之儀■■■■候、請取可申候、若又売可申此趣様ニも安藤相談、此度可走廻依時宜、木折銭永代可有免許者也、仍如件、 辛酉 三月十八日 伊勢 廻船中 問屋中 →戦国遺文 後北条氏編 …
遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、 十二月十八日 氏政(花押) 清水太郎左衛門殿 布施佐渡守殿 大藤式部丞殿 杉山周防守殿 →戦国 …