伝馬壱疋可出之、沼田孫二■被遣、可為公方伝馬者也、仍如件、

十一月十七日

笠原藤左衛門 奉

小田原より

倉内まて宿中

→戦国遺文 後北条氏編「北条家伝馬手形」(設楽己知氏所蔵文書)

1559(永禄2)年に比定。

 伝馬1疋を供出せよ。沼田孫二郎が利用する場合は公用である。

自白川、去此被指越脚力候、左衛門大夫取次候、返札懇調遣候、其方へも一札被届候哉、不思寄子細候、向後者有間敷之候、惣而佐竹此方通融、雖無所詮候、自遠国難去被申越候之間、可為一旦之通融之由、申断候、以此筋目、可有御返答候、恐々謹言、

四月四日

氏康(花押)

太田美濃守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(白川文書)

1556(弘治2)年に比定。

 白川より飛脚をお送りになって、左衛門大夫(北条綱成)が取り次ぎました。返信を丁寧に仕立てて送っています。あなたにも書状が届きましたでしょうか。思いも寄らぬ子細で今後はないでしょう。大まかに申すと佐竹とこちらが通じているということです。詮ずる所がないとはいえ、遠い国から去りがたく申し越しているので、一時的に通じることとして承諾したのです。この方向でご返答いただけますでしょうか。

就蒲原在城申付、寄子貮拾騎預ヶ置候、急度可相尋候、扶助之儀をは、彼人衆出来之上、披露次第可遣候、彼廿人之者、弓鉄炮致者を可被集候、依人歩侍、依其身馬上可然候条、扶助者人之可為善悪次第者也、仍如件、

永禄十二年 巳巳

七月十九日

山角刑部左衛門尉 奉之

布施佐渡守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(増善寺文書)

 蒲原城への駐屯を指示した件について。寄子20騎を預けることとします。取り急ぎ召集して下さい。扶助については、その部隊編成が終わって閲兵してから給付します。20人については、弓と鉄砲を扱える者を集めて下さい。寄子は歩侍、あなたは馬上にあるのが望ましいでしょう。扶助の内容は集めた人の良し悪しによります。

急度註進申候、今夜子刻、敵新太郎・大道寺、左の手先、是者寄合衆之番所ニ候、彼三口へ同時ニ致夜懸候、何も味方得勝利、敵敗北、討捕注文為御披見、別紙ニ進上申候、随而本郷越前守、於新太郎手前致討死候、其身十廿之間人衆召連、敵取懸模様見届ニ、山半腹へ落下、其侭敵ニ出合、越度之間、無了簡仕合候、本郷者一人同時ニ致討死候、其外手負にても無之候、此旨可預御披露候、恐惶謹言、

三月十四日

氏政(花押)

遠山新四郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(小田原城天守閣所蔵文書)

1569(永禄12)年に比定。

取り急ぎ報告します。今夜子の刻、新太郎(北条氏邦)隊、大道寺隊、左の手先(これは寄合衆の番所です)の3方向に同時に夜襲を仕掛けてきました。どれも味方が勝利を得て敵が敗北しています。討ち取ったリストはお見せするために別紙として進上します。よって本郷越前守が、新太郎隊として討ち死にしました。彼は10~20人を引き連れ、敵の攻撃を見定めようとして山の中腹まで滑落、そのまま敵に出合って落命しましたので、思いがけぬ巡り合わせでした。本郷1人がこの時に討ち死にし、その他は怪我人すらいません。このことをご披露下さい。

廿六日之一札、昨晦日到来候、抑自當府之誓詞、松本請取、越山候哉、殊誓詞到来、則時ニ可為出張旨、誠以簡要候、畢竟其方馳走故候、弥無手透被打出候様ニ、可被相稼候、将亦如度ゝ申候、追日当陳任存分候、去廿八於山手懸合有之而、信玄親類ニ、長円寺弟号本郷八郎右衛門人を為始、十余人討捕候キ、其一両日以前も新太郎人衆河原ニ置伏兵、敵廿余人討捕候、至于今日勝利連続候、淵底自其地之人衆見聞之間、一ゝ可有注進候、将亦信州衆動之由得其意候、菟角其口之儀候間、指引可然様ニ貴所御馳走専肝候、恐々謹言、
此状日付も当所も紙キレ候而無之候、北条氏政一家之状ナルヘシ。

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状写」(歴代古案四)

1569(永禄12)年3月1日に比定。

 26日の書状が昨日の晦日に到着しました。こちらからの誓詞ですが、松本が受け取って越山しましたか? 特に誓詞が到着したらすぐに出撃することが本当に大切なことです。そちらが活躍するなら、いよいよ隙なく攻撃して働くのがよいでしょう。そして、度々お伝えしているように、こちらの部隊の判断に任せていたところ、去る28日に山手で交戦があり、武田晴信の親類で長円寺の弟という本郷八郎右衛門をはじめとする10余人を討ち取りました。その日以前にも新太郎(氏邦?)の部隊が河原に伏兵を置いて敵20余人を討ち取っており、今日に至るまで勝利の連続です。真実はその地の人たちかが見聞しているので、逐一報告があることでしょう。一方で信濃国の衆が出動したという報告があります。とにかくそちらの方面のことは、何とかなるようにそちらで活躍いただくのが肝要です。

善徳寺・天用院越進処、御入魂之由、本望候、殊越へ参苻之儀、余寒雪風之時節難叶付而、松石越山之由候、乍御大儀令満足候、薩埵陣中之様子、山之上之人数半覆へ蹈下之由申来候、去廿六息新太郎者共五六十騎、興津河原迄乗下、敵小荷駄送之人数江入馬、五十余人討捕由注進候、日ゝ戦無手透候、其口御遅ゝ、愚老苦労此節候、一日も早ゝ飯山辺へ御人数被打出候様、所希候、委細由信可為演説候、恐々謹言

追而、松石へ及一書候、被相届尤候、以上、

二月二十九日

氏康(花押)

河田伯耆守殿

上野中務少輔殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 善徳寺と天用院経由でお話を進めました。両者と近しいとのこと、本望に思います。とくに越後府中へ行かれた件、寒雪風の時期で実現は難しかったところ、松本石見守が越山されるとのこと、大変なことだと思いますが、満足いたしました。薩埵の陣中の様子ですが、山の上の軍勢は『半覆』へ踏み下したと連絡が来ました。去る26日、息子の新太郎(氏邦)の部隊50~60騎が興津河原まで乗り降りて、敵の輸送部隊へ馬を入れました。50余人を討ち取りそのリストが来ました。日々戦闘に手抜きをせずにおります。そちら方面が遅々としているようですが、愚老の苦労はここにかかっています。1日も早く飯山近辺へ軍勢を出撃させていただけるよう、お願いいたします。詳しくは由良信濃守が申し述べてくれます。
 追伸。松本石見守へ書状を送っています。お届けいただければ幸いです。

「伊波知行之書立」

百九拾壱貫五百文 富田

九拾壱貫六百文 生沢

七拾壱貫文 宮分

四拾九貫六百卅二文 杉崎分

卅九貫百文 千津嶋之内 三浦分

 以上四百四拾弐貫八百卅二文

    此人数

 廿八人 此内六騎馬乗 大学

 廿八人 同      修理

  以上五十六 此内十二騎馬乗

 右、人衆之嗜、如此可致、毎陣両人互相改、厳密ニ可申付、少人衆不定、又者武具以下嗜至于無之者、其者を払、後年ニ者一人ニ可申付者也、仍如件、

弘治二年 丙辰

三月八日

伊波大学助殿

同修理亮殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)

 伊波の知行リスト。191貫500文が富田、91貫600文が生沢、71貫文が宮分、49貫632文が杉崎分、39貫100文が千津島の内の三浦分。以上442貫832文。この人数は28人(うち6騎が馬上)が大学、28人(馬上員数は同じ)が修理で合計56名(うち12騎が馬上)。
 右の軍役の準備はこのようにせよ。陣ごとに両人が互いをチェックし、厳密に行なうように。少しでもあっても員数不足があったり、また武具など準備ができていない場合はその者を外し、どちらか1人に指示するようになるだろう。

如毎年玉縄城米銭百八十文、此米貮斗六升ニ合、但当納法百文ニ一斗四升目積也、当月晦日を切而、小田原付越、安藤豊前ニ可渡之、竹千代殿御飯米ニ被進者也、仍如件、

丙寅

  壬八月十日

   田名 百姓中

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康朱印状」(陶山静彦氏所蔵江成文書)

1566(永禄9)年に比定。

 例年の通り、玉縄城の兵糧用の銭180文分の2斗6升2合(但し当納法により100文=1斗4升での見積もり)について、今月末日で締め切って小田原へ付け越し安藤豊前守に渡すように。竹千代殿の御飯米として進呈されるものである。

伊勢船之兵粮津端■■■■用候、此替安藤不可有之儀■■■■候、請取可申候、若又売可申此趣様ニも安藤相談、此度可走廻依時宜、木折銭永代可有免許者也、仍如件、

辛酉

三月十八日

伊勢

 廻船中

 問屋中

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(大湊町役場所蔵文書)

1561(永禄4)年に比定。

 伊勢船の兵粮は港の(どこか?)で用いて下さい。この替(両替?)は安藤が(異議?)なくあるべきでしょう。受け取って下さい。もしまた売却する場合も安藤に相談して、今回は時宜を得て奔走して下さい。木折銭は永久に免除します。

遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、

十二月十八日

氏政(花押)

清水太郎左衛門殿

布施佐渡守殿

大藤式部丞殿

杉山周防守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)

1568(永禄11)年に比定。

 遠江国のこと、大藤と清水の2人に任せています。その他の部隊は1騎・1人でも出動するならば申請するように。検使は布施佐渡守とします。この掟を捻じ曲げる者は違反者と見なします。