一、於当寺中、殺生不可致之事、

一、山中江木草取之儀、本道計可致往覆、若致脇道、枝木之一本も伐取候者、可処罪科事、

一、板屋ヶ窪壱貫五百文之所、如先規寄進申候事、

 付、諸役不可有之候事、

右条ゝ、申定所、仍如件、

天正十八年[庚寅] 正月廿六日

 直秀(花押)

長泉院 御同宿中

→戦国遺文 後北条氏編3631「松田直秀判物」(長泉院文書)

一、当寺中において、殺生をしてはならないこと。一、山の中へ木や草を取りに行く場合、本道だけを往復するように。もし脇道に入って枝木の1本でも伐採したなら、処罰するだろうこと。一、板屋ヶ窪1貫500文の知行は先の決まりのように寄進いたしますこと。付則、諸役を負担することがあってはならない。右の条々を定めるところである。

猶以近年ハたかいに等閑之様ニ候、此上者引かいられ可仰蒙候、我ゝも兼而貴所江於細事之儀もいこん無之、いかさま以■可申、以上、
蒔田所迄先日内意委細承届候キ、然処ニ向後我ゝふさた有間敷之段、せいし以仰候、誠以祝着よし様もなく候、もちろんなから於我等も向後ハ弥ゝ可申承候、心底不相替候様ニ尤存候、以上、
四日
 直定(花押)
「かけ山長門尉殿 参
 左馬助」
「蔭山■■殿 左馬助」

→戦国遺文 後北条氏編4227「松田直秀書状写」(諸家古文書写)

 蒔田の所まで先日は内意・詳細をお受けして届けました。というところに、今後は私たちの間で行き違いがあってはならないと、誓紙をもって言っていただきました。本当に祝着でこれ以上のことはありません。もちろん私も今後はますますお話をお聞きしましょう。心底は変わらぬようにするのがもっともです。

 さらに、近年はお互いに等閑している状態でした。こうなった上は『引きかいられ』て仰せをお受けしましょう。私たちも兼ねてよりあなたへ細事であっても遺恨はありませんでした。どのようにでもお申し付けくださいますよう。

就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被
八月四日
 井伊兵部少輔 直政(花押)

→戦国遺文 後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)

天正18年に比定。宛所は小幡兵衛尉と推定。

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、

内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、

八月四日

 井伊兵部少輔 直政(花押)

小幡右兵衛尉■

→戦国遺文 後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)

天正18年に比定。

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。

 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

「[切封墨引]岡田新■■ 利世

小幡兵衛尉殿 人々御中」

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、

一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康ヘか内府へ御出候て尤候、

一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、

一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、

一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、

一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、

一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、

一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、

一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、

六月八日

 利世(花押)

→戦国遺文 後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)

天正18年に比定。

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。

 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。

 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。

 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。

 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。

 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。

 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。

 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。

 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、

天正八年八月十六日

 御判

笠原新六郎殿

→戦国遺文 後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

 この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します。

鎌倉山内蔭山屋敷、御大途之御証文ニ自分之一札指添、被売渡筋目、紙面一ゝ見届上、無相違候、以上、

子 十一月十五日

 左馬助(花押)

肥田越中守殿

→戦国遺文 後北条氏編3389「松田直秀証状」(神奈川県立博物館所蔵帰源院文書)

天正16年に比定。

 鎌倉山内の蔭山屋敷は、御大途のご証文に私の書状を指し添えた。売り渡される条件は紙面を逐一見届けた上で相違はない。

鎌倉山内蔭山屋敷、大途之 御証文ニ自分之一札指添、被売渡筋目、紙面見届上、無異儀候、以上、

子 十一月十五日

 尾張守(花押)

肥田越中守殿

→戦国遺文 後北条氏編3388「松田憲秀証状」(雲頂庵文書)

天正16年に比定。

 鎌倉山内の蔭山屋敷は、大途のご証文に私の書状を指し添えた。売り渡される条件は紙面を見届けた上で異議はない。

於貴国当時珍物候鱈三懸送給候、云遠来、云芳志、賞翫不少候、仍北条氏政家臣松田尾張守二男笠原新六郎、豆州戸倉在城、不慮属当手励忠勤候之条、彼国大半属本意候、然者、小田原衆令出勢候之間、当口出馬、去廿日、至敵陣前乗懸、無二可討果所存候之処、取入于大切所蟄居候之間、不及了簡候、但於備万方任存分候条、可御心安候、委曲自是可申候、恐々謹言、
十一月廿二日
 勝頼(花押)
上杉殿

→戦国遺文 武田氏編3627「武田勝頼書状」(米沢市上杉博物館所蔵・上杉家文書)

天正9年に比定。

 今は珍しいものであります貴国の鱈を3懸お送りいただきました。遠い道のりといいお気持ちといい、味わいは少なからぬものです。さて北条氏政の家臣松田尾張守の次男である笠原新六郎は伊豆国戸倉に在城で、思いがけずこちらの味方となり忠勤に励むということで、あの国の大半は本意となりました。ということで、小田原衆が出撃してきたので、その方面に出馬し、去る20日に敵陣の前に乗り込んで遮二無二討ち果たす考えでいたところ、堅固な場所に逃げ込んでしまったのでそうはなりませんでした。但し、備えは思い通り万全にしましたので、ご安心下さいますよう。詳しくはこの者より申すでしょう。

尚以、余人御扶持被成候も同前之儀候間、彼両人被召出候様ニ御取合頼入存候、殊前々御証拠をも両人ニ被下候由候間、左様之儀も御取成尤候、

其地へ御陣被替之由、於府中ニ承候、仍朝比奈又蔵・三浦十左衛門尉罷退候而、如前々被召返候様ニと拙者江相頼被申候、 氏真様御前可然様ニ御取成候而可給候、前ニも相州迄御供申、十左衛門討死跡之儀候間、此時御扶持候様ニ御申頼入候、委細両人可被申入候、恐々謹言、

三月五日

 酒左 忠次(花押)

岡三兵 御陣所

→戦国遺文 今川氏編2618「酒井忠次書状」(滋賀県彦根市彦根城博物館所蔵三浦家伝来文書)

天正10年に比定。

さらにもって、余人をご扶持なされたのも同然のことですから、あの両人を召し出されますようにご検討をお願いいたします。特に前々のご証拠をも両人に下されたとのことですから、そのようなこともお取り成しなさるのがもっともです。

その地へご陣替えとのこと。府中において承りました。そこで朝比奈又蔵・三浦十左衛門尉が退いて、前からの通り召し返すようにと私へ頼んできました。氏真様の御前へしかるべきようにお取り成し下さい。前にも相模国までお供したと言っています。十左衛門が討ち死にした跡目のことですから、この時にご扶持なさるようお頼みいたします。詳細は両人から申し入れられるでしょう。