2007年8月27日にWikiからBlogへ変更されてから、早いもので3年が経過した。Pukiwikiで記事をアップしていた頃から勘定すると、5年超である。紆余曲折ありつつ今川義元敗死の原因を追究し続けてきた。

 450周年であり、私の年齢が義元享年と近づく2010年には一旦結論を出したかったものの、それは叶わなかった。2011年2月に刊行される『戦国遺文 今川氏編2』で史料を見るまでは鳴海原合戦の検証は完結しないためだ。とはいえ現状入手できる史料のアップロードが終了しているため、史料探索は鳴海原からずれていく。興味の対象が徐々に1561(永禄4)年の小田原合戦に移っていることもある。山内憲政を中心に考えると、この遠征にはいくつか疑問点が出てくる。史料を揃えたらそれらを検討してみたい。

 鳴海原合戦に関しては、直接関与する織田氏関係の文書は1点しかない(佐久間信盛書状)。何らかの形で刊行されることがあれば採取したいが見込みは薄い。
 織田氏系の史料として取り上げられているのが『信長公記首巻』だが、当サイトで検証した通り厳密な史料というよりは荒唐無稽な講談に近い内容である。本来であれば『信長公記』全般の記事を全て検証して、首巻の『桶狭間』と比較してみる手法もあるが、書誌学に近くなってしまうこともあって現状では見送っている。

 三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。

A:1516(永正13)年8月5日 今川氏親書状写
奥平貞昌に、上野城への通路確保として細川に城を用意することを提案

 細川は後に大給松平氏が関与する。遠江国から奥三河を経由して矢作川流域確保を考えると、細川の拠点確保は重要だったと思われる。

B:1552(天文21)年6月3日 今川義元感状
松平甚太郎が5月26日、大給城北沢の水源地で敵を討ち取ったことを賞す

C:1556(弘治2)年2月29日 今川義元感状
今川義元、天野小四郎が1555(弘治元)年9月14日に大給・山中筋で平五屋敷攻撃で活躍したことを賞す

 大給城が今川方かの判別は難しいものの、今川方が係争に関与している。また、松平甚太郎が今川方であったことから松平一族の関与も判明する。1556(弘治2)年以前の少なくとも6年間は、大給城は政情が不安定だったようだ。天野氏敗退時に、松井宗信が救援した記述(氏真書状)があるため、激しい実戦もあったようだ。

D:1557(弘治3)年?7月22日 由比光綱・朝比奈親徳連署状
朝比奈親徳と由比光綱、良知善に駿府の状況を知らせる。親乗が吉田の人質である息子を奪還するのではないかと警告する

E:1557(弘治3)年?8月9日 松平親乗書状
松平和泉守、田嶋新左衛門尉に情報を与えて指示を下す。吉田の竹千代への心遣いに感謝し、訴訟の進展を伝える。

 1557(弘治3)年の7月から8月にかけて、大給城主として松平親乗が登場する。彼は吉田に息子を人質として預けて、裁判のため駿府に滞在する。留守中の城内は、良知善左衛門指揮下の田嶋新左衛門が仕切っている。建前上で新左衛門は親乗に伺いを立てているものの、実際は占領に近かったのではないか。というのは、別書状で由比光綱・朝比奈親徳は親乗離反を疑っており、監視の目は細かく行き届いていた。

 以上より、大給松平親乗は自身・子息・城をとられた状態で、留守も今川氏家臣に委ねなければならない状況にあった。

 但し、「和泉方も軈而可被罷上候」(親乗もすぐにそちらに向かわれるでしょう)という文言もあり、親乗が大給城にいれば戦闘力が上がるという面は今川氏も完全に否定できなかったようである。大給城は依然として安定しておらず、本音では否定したい親乗の影響力に期待するという矛盾した状況にあった。

 服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。

1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写

所領の不入を今川氏奉行に認定してもらう

 その後、少なくとも1550(天文19)年までの間に、東三河で大規模な反今川決起が始まったようで、保成は今川方と条件交渉を行なっている。

年未詳 11月25日 牧野保成条目写

今橋跡職は苗字の地、伊奈は本知行であると今川氏に伝える

 牧野保成の本領は伊奈であること、今橋・田原・長沢を今川氏が攻略した後は自分に知行させてほしいと要望を出している。また、松平蔵人佐・安心が在国の際に義元から判形を貰っている点に言及していることから、保成は三河国内において松平蔵人佐・安心の下位者であることが判明する。

 1550(天文19)年、今川氏は攻勢に出る。この中で保成は中心的な役割を果たし、なおかつ占有した長沢城を今川氏に一時的に明け渡す。今川氏被官が揃って感謝し、返還を確約していることから、今川氏が長沢城を求めたのだろう。

8月29日(比定) 太原崇孚書状写

兵粮のこと、他部隊の展開について太原崇孚より指示

9月16日 朝比奈泰能書状写

朝比奈泰能、牧野保成が長沢城を明け渡すことを感謝する

9月19日 太原崇孚・飯尾乗連連署書状写

飯尾乗連・太原崇孚、臨戦態勢が解けたら長沢は牧野保成に返還されると通知

 ところがこの年の12月。「一時的」だったはずの長沢領明け渡しが今川氏によって反故にされる。慌てた保成は、返還を確約していた今川氏被官に抗議。書状として残っているのは三浦氏員・太原崇孚・葛山氏元だけだが、朝比奈泰能や飯尾乗連にも問い合わせはいったことと思われる。

12月14日 三浦氏員書状写

三浦氏員、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行われた件を上訴すると連絡

12月15日 太原崇孚書状写

太原崇孚、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行なわれた件は不法であると連絡

12月15日 葛山氏元書状写

葛山氏元、長沢両人が牧野保成の知行を宛行なわれた件が解決すると予想

 「今川義元に上訴しよう」と約束する氏員、「不法な占拠である」と憤ってみせる崇孚、「必ず解決するだろう」と楽観視する氏元と、3者の反応はそれぞれだが、その後長沢領が保成に返還された痕跡はない。
 このことから、「軍事的理由から一時的に」という名目で領地を召し上げ、義元側近に与えてしまう。そして泣き寝入りさせる、という手法が新領地で行なわれていたと判断できる。

禁制

一 殺生事

一 山林伐取竹木事

一 於寺中并門前狼籍之事

右、於違犯之輩者、忽可被処厳科、仍如件、

天文十四年二月十五日

頭陀寺

→戦国遺文 今川氏編「某禁制」(頭陀寺文書)

『静岡県史料』第五輯によれば今川家のものという。

 一、殺生すること。一 山林で竹木を伐採すること。一 寺中と門前にて暴行すること。
 右に違反した者は、速やかに厳しい罪に処するように。

(今川義元花押)
禁制

一 山林竹木伐取事

一 殺生其外致狼藉事

一 領主寄進之田畠等、他之綺違乱事

右、於違犯之輩者、所可処厳科如件、

天文十四[乙巳]年正月廿五日

  静居院

→戦国遺文 今川氏編「今川義元禁制」(島田市伊太・静居寺文書)

 一 山林・竹木を伐採すること。一 殺生その他暴行を働くこと。一 領主が寄進した田畠などで他から異議申し立てして乱れること。
 右に違反した者は、厳しく罪に処するところである。

[印文「義元」I型]

遠江国万石之内六郎左衛門屋敷、先年信州衆相動時、彼屋敷足懸之間、従前々屋敷之内棟別免許云々、然者五間分停止諸役畢、自然之時者、相当之奉公可致之旨、可被申付者也、仍如件、

天文十三[甲辰]

二月十九日

朝比■■■■

→「今川義元朱印状」(沢木文書)

宛所は「朝比奈弥太郎」か? 『静岡県史料』第五輯により補う。

 遠江国万石の六郎左衛門屋敷は、先年信濃国衆が攻撃してきた際に、あの屋敷を足がかりにしたので棟別を免除していたという。ということで5間の分は諸役を停止することとする。有事の時は、それに見合った奉公をするべきである旨、申し付けられるだろう。

 名胡桃城を巡る古文書に出てくる地をマーキングしてみた。岩櫃は参考用に追記している。真田方の拠点として名胡桃が孤立している様子が窺える。中山城は1584(天正12)年段階で後北条方であったことは確実なので、岩櫃と名胡桃間は分断されている。

 北条氏政が猪俣邦憲に問い合わせた「権現山」については、赤根峠付近や権現峠付近も候補ではあるが、以下の点から名胡桃の1.4キロメートル南の独立2丘陵を検討している。

  • 名胡桃へ「矢丈」という、矢の届く距離が示されている。
  • 真田方は留守中で兵員数も少ないから構築作業も進捗するだろうと推測している。
  •  名胡桃へ至近距離から圧力をかけるのであれば、南の独立2丘陵はうってつけだと考えられる。但し、北側は狼煙台との伝承があり、名胡桃城内に取り込まれていた可能性が高い。となると、南側の無名の山が該当するか。近辺に権現山という伝承が残っていれば確実なので、引き続き調査したい。

    より大きな地図で 名胡桃問題 を表示

     1590(天正18)年7月11日。北条氏政・氏照と松田憲秀の切腹をもって戦国大名後北条氏は滅亡する。この日をグレゴリオ暦に改めると今日、8月10日となる。前年11月24日の羽柴氏宣戦布告状発行から、実に223日間の激闘だった。

     滅亡の主因は、羽柴氏への臣従に消極的だったために武力行使を受けたことによる。但し、直接の原因はいわゆる『名胡桃問題』に集約される。

     この名胡桃問題を、後北条氏側の立場から少し考えてみたい。

     名胡桃は沼田の北西約6kmに位置する城郭で、真田氏の拠点。羽柴秀吉の裁定により、元々真田方だった沼田は後北条氏に明け渡されたが、名胡桃だけは真田氏に残されたままだった。名胡桃は越後からの支援を受けやすい位置にある。このため、後北条氏から見ると沼田防衛に不安を投げかける城だった。
     この城を、後北条氏が秀吉に無断で占拠したのが名胡桃問題だ。

     この名胡桃問題を真田昌幸・徳川家康から聞いた秀吉は北条氏直に怒りを示す。その弁明として氏直は以下の点を挙げている。

    1  名胡桃のことは一切知らない。

    2 城主とされる中山の書付を渡す。

    3 既に真田がこちらに渡したので紛争には至っていない。とはいえ、越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行交換するといっている。ご糾明を願いたい。その上で、それ以降加勢すると沼田から連絡があった。越後は一代以前の古い敵であり、あの方面に彼らが進軍したなら沼田は一日も安泰ではないだろう。

    4 事の詳細は把握できていないので、家康からの忠告に従って究明を行なう。2~3日中に報告できるだろう。

    5 吾妻領は真田が百姓を奪ってしまい1人も残っていない。さらに中条という地では戸籍台帳(?)を渡さなかった。このことは些事と考え報告していない。

     「中山」が人名か地名か不明だが、上記氏直書状では「被城主中山書付」としており、名胡桃の城主であった可能性が高い。後北条氏家臣にも中山氏は存在するが、名胡桃近辺で言及されるとすれば、吾妻郡高山村の字名中山を在所とする人物が考えられる。1582(天正10)年末に中山城が後北条方に落とされた際、名胡桃に入ったのかも知れない。

     また、氏直は家康に宛てた釈明では以下の点を挙げている。

    6 名胡桃城は後北条氏が仕掛けて略取したものではない。それは『中山書付』を見れば判るので渡す。

     氏直は、恐らく中山書付の写しを家康にも渡している。かなり自信があったと考えるべきだろう。但し、それに比べて氏政が同日家康に出した釈明状では、名胡桃の話は直接出てこない。「以前鈴木によって氏直が申し伝えたように……」とのみあり、中山書付には言及していない。この「鈴木」は氏政が氏規宛書状で言及している「鈴木被指遣模様、何も心得申候」から考えて、氏政の使者だと考えられる。氏政自身は中山書付の政治的効果を信用していなかったのではないか。

     そして12月26日に後北条氏が出した伝馬手形が中山書付と関連している可能性が高い。小田原から沼田まで伝馬4疋が出されており、使用者は中山となっている。運ぶ主体が書類だけなら1疋で問題はない。かなりの人数なり物資なりを運んだようだ(過去に鉢形で舞々の一座を搬送した際、伝馬5疋が出ている)。
     それは生き証人として沼田から小田原に拘束された人間ではなかったか。使用者が中山氏だから、彼らは中山氏の監視下にあったのかも知れない。その人々を拘束したまま運送するために伝馬4疋が必要だったと考えられる。

     ここで、これまでの考察を順序だててみよう。

    段階1 秀吉の裁定で分与された吾妻領支配だが、真田氏に妨害されていると氏直は認識していた。

    段階2 真田方の名胡桃城主の中山氏は、離反して後北条方に転ずる。中山氏は「書付」を提出。上杉氏が南下する計画を氏直が知る。

    段階3 名胡桃の服属時、真田方か上杉方の人間が捕縛されて小田原に送られていた。この捕縛は羽柴氏・徳川氏に報告していないことから、中山書付が紛糾された際の補強証拠として確保されたと思われる。

    段階4 中山書付に全く効果がないことを知った氏直は、虜囚を沼田に返送する。

     このことから、中山書付に象徴される出来事は、壮大な囮だったように見える。氏直に対して、宿敵上杉景勝の南下計画暴露・城主が城を明け渡すという好条件・証拠(名分)が豊富にある、という好餌を見せて、「それでも秀吉の裁定を守れるか」という踏み絵を用意したのではないか。そして、氏直は引っ掛かった(氏政は囮だということを薄々感づいていたような気配がある)。

     ここでなりふり構わず上洛して秀吉に哀願するかすれば、後北条氏は伊豆・相模・武蔵を安堵されたと思われる。但し、実力主義を放棄した時点で戦国大名後北条氏は消失し、近世大名への脱皮に入ることになるだろう。

    書状具披見候、なくるミへ矢たけ之権現山取立儀、難成子細候、度ゝ模様不審ニ候、留守中ニ而、自元人衆も可為不足候、普請心易させて、真田者置間敷候、如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候、謹言、

    卯月廿七日

    氏政(花押)

    猪俣能登守殿

    →小田原市史 「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書)

    1587~1590(天正15~18)年に比定。

    書状を詳しく拝見しました。名胡桃へ矢丈の権現山を築城する件。難しい状況にあるとの度々の報告、不審に思います。留守中なので元より兵員数も少ないでしょう。普請を安心して行なわせて、真田は置かないで下さい。どのような状況でしょうか。詳しく図面にして、重ねて早々に知らせて下さい。一段と心もとなく思っています。

    任幸便呈一翰候、抑今度中山地、其方兼而如演説、早ゝ落居、誠感悦不少候、此上沼田口吾妻表一途有之様ニ、御稼可為肝要候、将又任現来、一樽一種、進之候、恐々謹言、 「表 ○」

    正月六日

    氏政(花押)

    一井斎

    →小田原市史「伊佐早謙採集文書十一」(北条氏政書状写)

    1583(天正11)年に比定。

     便があったので一筆差し上げます。そもそもこの度中山の地を、あなたが以前主張していたように早々と落城させました。本当に感悦の少なからざるところです。この上は沼田口と吾妻方面で専心して、ご活躍することが大切です。そしてまたありあわせですが、一樽一種を進呈します。