補2:紀州に残された笠原文書
笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。 この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎ …
笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。 この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎ …
前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。 新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。 武田勝頼書状 武田勝頼 …
ここまでで、通説とは逆に直秀こそが調儀の主役だったことを検証してきた。では、北条氏直と松田直秀、垪和豊繁の秘密交渉を暴いた松田の「弟」とは何者なのか。いくつか候補がいる。内応していたのは直秀だとして、その「弟」と考えて検 …
北条氏直の出した、松田直秀宛ての書状が疑問点の始まりだった。これは1590(天正18)年6月、炎暑の小田原城での出来事……。既に羽柴方の大軍に攻囲され、分国内の支城も次々に陥落していた状況である。陸奥の伊達政宗も恭順し、 …
織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急 …
六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。 斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年 …
六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。 斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙に …
『歴史研究 第592号』の「特別研究 沓掛城の新発見」にて太田輝夫氏が、沓掛城の比定地を考察している。要旨は以下の通り。 ■現在城跡公園になっている遺構は蓬左文庫の『沓掛村古城絵図』と規模・縄張りが合致しない。発掘物も決 …
2回目の行程は名鉄前後駅から始めた。まず合戦の死者を埋葬したという伝承が残る戦人塚。多少の木立があるものの、全方向に見通しが利く。特に二村山とは悪天候でも狼煙で通信可能だと思われる。 もしかしたら、緒川から大高への出撃を …
これまでずっと古文書で実態を追ってきたが、鳴海原を実際に歩いてみる機会が2度あったので、その際の感想を書き残しておこうと思う。 鳴海駅から北に向かうと、ぐっと坂が急になった途中に鳴海城関連の案内板が見える。円龍寺は、旧名 …