笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します。

笠原政晴は僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われているが、遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議になった。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうも胡散臭い感触……。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、政晴が陣代を命ぜられた笠原家は、後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門
奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の通字「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

実はこの記述、混乱している。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。以前政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きではあっさりと「助左衛門」になっている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

そうなると前掲の徳川家康書状写も怪しく思えてくる。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する緩やかな戦いだった。この戦いで家康が喜ぶほどの契約とは何かよく判らない。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」と書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに、下記のサイトで笠原政晴の墓についての記述がある。

松田家の歴史

44ページ

笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある。

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているような感じだ。本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。

前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。

新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。

  1. 武田勝頼書状
    武田勝頼、曽禰河内守に、伊豆戸倉での松田新六郎援助を命ず
    「如顕先書候、今度松田新六郎忠節無比類候、併其肝煎故候」
    1581(天正9)年10月29日 年は比定

  2. 武田勝頼書状
    武田勝頼、上杉景勝に、新府城への転居前に伊豆出兵する旨を伝える
    「氏政家僕松田尾張守次男笠原新六郎」
    1581(天正9)年11月10日 年は比定

  3. 武田勝頼感状
    武田勝頼、小野沢五郎兵衛に、韮山での戦功を賞す
    「寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処」
    1581(天正9)年12月8日 年は比定

※3の文書から、政晴が上総介の官途を名乗っていた可能性がある。

松田家の仮名は「六郎」なので、「新六郎」と名乗っている点から見ても政晴が次男であることは確定事項と見てよい。

政晴の名前は、軍記類で「政尭」とあることから混同されているが、下記記録から政晴が正しい。

笠原政晴署判写
笠原政晴、伊豆国衙で署判を発す
1580(天正8)年7月3日

ただ、政晴が次男であるとはいえ、直秀の弟ではないように思う。偏諱から考えて、氏政の「政」をもらった政晴の方が元服は早かったはずだ。

さらに、政晴は早々に登場する一方、直秀は随分遅れて名を表わす。政晴の初出は1575(天正3)年3月2日。笠原家の当主が幼少のため9年間の陣代を氏政から命じられている。この時氏直は元服していないから、当然偏諱は氏政からのものだ。対する直秀は1588(天正16)年11月15日に、父憲秀と連署で売却文書に名を出すのが初見だ。13年も間がある。

このため、政晴には名の伝わらない兄がいて、その後早世。政晴は武田に寝返ったため家督を継げず、遅れて生まれてきた直秀が松田家後継者となったと解される。

ところが、名前には改名があるのと、文書初出は年齢と厳密な関係を伴わないというトラップがある。一族の松田康長は初出時に46歳、康郷は44歳という例がある。

憲秀も、娘(松田殿)が氏康の側室となって産んだとされる桂林院殿は1564(永禄7)年の生であることは確かなので、孫まで20歳平均でつないだとすると、

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1544(天文13)年生?
  • 憲秀   1524(大永4)年生?~1590(天正18)年没(享年66歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で34歳。

ぼんやりした中で1つの試案ができた。憲秀の従兄弟たちの生年も列記してみる。

  • 氏繁 1536(天文5)年生 1558(永禄元)年初出・22歳
  • 康長 1537(天文6)年生 1583(天正11)年初出・46歳
  • 康郷 1540(天文9)年生 1584(天正12)年初出・44歳

文書の残存具合にも左右されるのだろうが、改めて初出からの年齢割り出しが当てにならないことが確認できた。ただ、これら父方・母方の従兄弟たちの生年分布と憲秀生年が大きく外れているのも気がかりだ。出産年齢を平均20歳から15歳に引き下げてみる。

  • 桂林院殿 1564(永禄7)年
  • 松田殿  1549(天文18)年生?
  • 憲秀   1534(天文3)年生?~1590(天正18)年没(享年56歳?)

となる。初出の鶴岡八幡参詣が1558(永禄元)年で24歳。

あくまで仮想年齢だが、こちらの方が収まりがよいと感じる。氏政が1538(天文7)年生まれだから、氏繁・康長・康郷も含めて同年代集団となり、最年長が憲秀という感じだ。

もう1人、微かな手がかりがあるのが政晴だ。

北条氏政判物
北条氏政、松田新六郎に笠原千松の陣代を命じる
「笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡」
1575(天正3)年3月2日

天正3年時点で、幼少の千松に変わって笠原家の軍事指揮をとることになっている。通常陣代は一族の長老格が勤めるもので、実戦経験は必須である。このことから、政晴は少なくとも20歳以上で何度か実戦も経験していたと考えられる。仮に20歳として生年を逆算してみる。

  • 政晴 1555(天文24)年? (1590(天正18)年には35歳?)

となると、長男は松田殿(天文18年)~政晴(天文24年)の間に生まれていたことになる。この人物、全く文書に残されていない。身体的に問題があって元服もできずにいたか、既に亡くなっていたか。勝頼が「次男」と認識していた点については、勝頼正室が政晴姪の桂林院殿だから、既に長男が亡くなっていても「次男」とした身内的感覚もあるかも知れない。それ以上は判らない。

そして直秀だが、氏直偏諱を受けていることから、前項でも取り上げたように直長と同年か年下ということになる。直長は氏直偏諱の最長老ともいえるからだ。

  • 直長 1562(永禄5)年 1590(天正18)年・28歳初出

ただそうなると、前項の直長=弟説との整合が苦しくなる。ここは今後の課題としたい。

検討可能な異説

政晴の後身が直秀と考えると、憲秀跡取りが実質1人しかおらず、ほとぼりが冷めたところで名乗りを変えさせて再登場させたと考えられる。陣代赴任を9年にきっちり限定していたこととも辻褄が合う。8歳年下の直長が「弟」と受け取られたことも符合する。

もう1つ、何らかの理由で長男の元服が30歳以上になったという可能性もある。実例がないので何ともいえないが、30歳を過ぎて正常化し、直秀と名乗った。このパターンだと、直秀の弟である政晴が密告したことになって収まりがよい。

また、後北条氏の後で仕えた前田家で直秀は「四郎左衛門」の仮名を名乗っている。官途である左馬助を捨てたものと思われる。直秀の仮名が松田家の「六郎」でない点は重要だ。実は後北条家にも松田四郎右衛門尉という似た名前の人物がいる。念のため事蹟を掲げておく(参考:四郎右衛門尉は、所領役帳に記載があり1582(天正10)年8月12日に死去した山角四郎右衛門もいる)。

  • 1578(天正6)年1月18日 氏政から義氏への年頭挨拶使者となる
  • 1581(天正9)年5月3日 氏照から来住野氏へ、氏直へ感状を斡旋すると約束した書状の奉者となる

憲秀には新次郎康隆という弟がいたとされるが、1536(天文5)年に鶴岡八幡造営に参加していることから年次が早過ぎ、憲秀というより盛秀の弟の可能性の方が高いように思う。

ここまでで、通説とは逆に直秀こそが調儀の主役だったことを検証してきた。では、北条氏直と松田直秀、垪和豊繁の秘密交渉を暴いた松田の「弟」とは何者なのか。いくつか候補がいる。内応していたのは直秀だとして、その「弟」と考えて検討すると候補者は3名。

  • 松田康郷:50歳。盛秀弟の康定次男。大雑把にいうと「弟の家柄」である。
  • 松田政晴:40歳代? 憲秀次男。但し1581(天正9)年以降史料から消える。
  • 松田直長:28歳。康郷の兄康長の嫡男。直秀の又従兄弟。

直秀の年齢は不明だが、氏直から偏諱をもらっているから、氏直が元服する1577(天正5)年3月以降の元服ではある。直長は永禄5年生まれなので、氏直偏諱では最も早い組に当たる。直秀の元服が遅れた可能性もあるので、ここでは暫定で20代後半~30代前半と考えておく。

康郷は直秀より年長であることから弟とは考えづらい。羽柴方からすれば「叔父」ぐらいに受け取ると思われるので除外。康郷の嫡男定勝(孫太郎・六郎左衛門、母は山角紀伊守某の女)が寛政譜にあり、1645(正保2)年8月11日に87歳で卒したという。逆算すると天正18年に32歳となるが、なぜか後北条関係の文書に名が出てこない。名も少し違和感があるため、今回の候補者から外している。旗本として大奥奉行になった人物なので、何か理由があって雌伏していたのかも知れない。ここは要検討。

憲秀次男の政晴は筆頭候補なのだが、武田家への寝返り後に姿を消している(翌年に武田家が滅亡)。助命されていれば、出家状態で松田家にいた可能性は高い。偏諱から見ても、政晴は氏政、直秀は氏直と関係が深く、氏直の無断開城を氏政に訴えたのが政晴という図式は納得がいく。しかし、後に考察するように年齢から見て直秀の弟とは思えないため除外。助命後の政晴が赦免され名を変えて直秀となった可能性は残されているが、そうであっても本人になってしまうため「弟」ではない。

直長は28歳で、直秀の又従兄弟ではあるものの「弟格」にはなるだろう。父康長の率いた兵は山中城で失っているから余力はなかったはずで、本家の直秀に陣借していた可能性が高く、その動向を見知っていただろう。

直長の心情を考えると、兵力差から到底勝てぬと判っていながら最前線に立って死んだ父がいて、その一方で、堂々と開城交渉をするでもなく、秘密裏に工作している氏直・直秀がいる。父の壮絶な死を茶番の前座にしないためには、告発は当然の流れだったのだろう。

ちなみに、直秀の親類には、津久井の内藤直行もいる。憲秀の娘が内藤綱秀に嫁して直行を産んでいるから、直秀から見れば甥に当たる。直行は小田原開城後に直秀と行を供にし、氏直の高野山に同行したのち、羽柴秀次、前田利家に仕えている。心情的に告発したとは考えにくいので除外した。

一方の直長はどうかというと、完全に別行動をとっていた。1595(文禄4)年に徳川家康旗本となり父の知行である相模国荻野郷を給されている。後北条時代の本領が安堵されたのは珍しく、父の奮戦と自身の内応阻止が評価されたのではないかと思う。

北条氏直の出した、松田直秀宛ての書状が疑問点の始まりだった。これは1590(天正18)年6月、炎暑の小田原城での出来事……。既に羽柴方の大軍に攻囲され、分国内の支城も次々に陥落していた状況である。陸奥の伊達政宗も恭順し、籠城している後北条方は、日本全土を敵に回して孤立していた。

通説では、松田憲秀とその長男の政晴が「これでは勝てない」と敵を城内に引き入れる計画を立て、羽柴秀吉から伊豆・相模をもらう約束を取り付けたという。実行の直前で、政晴の弟である直秀が氏政・氏直に報告し、憲秀・政晴は捕縛され事なきを得たとする。

これまで私も疑問は持っていなかったが、一つの書状を見て確信が持てなくなった。この書状は、父と兄の悪事を暴いた直秀を、氏直が賞したものだという。

北条氏直、松田直秀の忠信を賞す

この度の忠信、本当に古今ないことです。内容は紙に書かれません。本意を達したら、どの国でも(知行を)お渡しします。氏直一代において、この厚志は忘れません。時間が経とうとも些細なことでも、他とは異なり親しくします。

実に模糊とした内容である。たとえば今川家であれば、こんな曖昧な言い方はしていない。

「今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処、存代々奉公之忠信、最前馳参之条、甚以粉骨之至也」

たとえばこのように、正々堂々と裏切り行為の摘発を褒めるのが普通だ。

また、「内容は紙に書かれません」の部分の原文も少し違和感がある。通常であれば「難尽紙面候」と書くものを「紙面不被述候」としている。「書きつくせない」ではなく、「書くに書けない」という意味が込められているようだ。

何か事情があるに違いないと、詳しく調べてみた。まず小田原合戦についての時系列を整理。

 3月29日 山中陥落(グレゴリオ暦5月3日)
 4月06日 秀吉が早雲寺に着陣
 4月17日 山中で戦死した松田康長の跡目を嫡男直長が継ぐ
 4月20日 松井田開城
 4月23日 下田開城
○4月26日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
○4月29日 氏直が上田氏に、戦勝後は駿河・甲斐の知行を与えると約束
 5月23日 氏直病気のため氏政が執務代行?
 5月24日 岩槻開城
 5月27日 堀秀政没
○6月01日 氏直が林氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
 6月05日 伊達政宗が秀吉に出仕
●6月08日 伊豆・相模を安堵する秀吉の意向が某に発せられる
●       岡田利世が6日~7日に氏直と面会したと小幡信定に伝える
●6月12日 氏直が降伏交渉の存在を小幡信定に告げる
?       瑞渓院殿と鳳翔院殿が死去
 6月14日 鉢形開城
●6月16日 松田の内応が弟の返り忠で手違いとなり、松田成敗と徳川方に伝わる
?6月17日 氏直が松田左馬助に、今度の忠信は生涯忘れないと伝える
○6月20日 氏直が木呂子氏に、戦勝後は駿河・上野の知行を与えると約束
●       城中で内応があるとして徳川方が臨戦体制(国替は近日との話)
 6月22日 篠曲輪合戦(グレゴリオ暦7月23日)
 6月23日 八王子陥落
 6月24日 津久井開城
 6月26日 秀吉が石垣山に着陣、小田原城へ一斉射撃
 6月27日 徳川方で中間の逃亡が始まる
●7月01日 氏直が小幡信定に、本領安堵での降伏を了承したと告げる
 7月04日 韮山開城
●7月05日 氏直・氏房が出城
 7月10日 氏政が出城(グレゴリオ暦8月09日)

●は開城に向けた動き・○は徹底抗戦に向けた動き・?は現段階でどちらともとれるもの

こうしてみると、氏直が徹底抗戦から開城に心変わりしている様子が判る。このことは以前に遠過ぎる石垣山 その4 で言及していたが、更に細かく見ていこう。

4月下旬の段階から、氏直はいくつかの空手形ともいうべき督戦状を出している。上田・木呂子・林の各氏に宛てたものが残されているが、実際にはかなり広範囲に発給していたのだろう。これらの督戦状は紋切り型だが、総じて駿河・上野・甲斐の組み合わせで新知行を約束している。

その後6月6日に、氏直は羽柴方の岡田利世と単独面談している。

「六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候」

恐らくは開城への交渉だったと思われる。そうなると、その2日後の日付がある安堵状がこの交渉と関連すると考えるのは自明だろう。

「然ハ伊豆相摸、永代可被扶助旨候」

この文書は差出人と宛名が失われており、従来は羽柴秀吉から松田憲秀に宛てられたものと解釈されてきた。しかし、家臣筆頭とはいえ2カ国を得るような約束を憲秀が得られるものだろうか。ちょうどこの頃の氏直は開城に向けて邁進している点からも、これは氏直が得たお墨付きだと考えるのが自然だろう。

さらに、のちの7月1日に氏直が小幡信定に伝えた本領安堵の確言から考えても、宛て先は氏直で間違いない。

「殊本国之儀妄ニ雖成来候、既出仕之上者、先規不可有異儀由候」

しかし、この開城交渉は内々で行なわれたため難航する。岡田利世が「氏直様御壱人」としか話していなかったと証言しているように、その席に氏政・氏照らはいなかった。だからといって厳密に秘した訳でもなく、氏直は信定に開城のことを縷々告げているし、「扱之取沙汰ニ付而、諸役所油断之由候」→「開城の噂について色々な持ち場が油断しているそうだ」と氏直自身が12日に注意している程に情報は漏れていた。

その12日に城内で氏政の母と妻が亡くなる事件が発生する。同日ということから自害したと考えられているが、恐らく彼女たちは氏直の近くにいてその動きを察知し、諫死したのではないか。ここに来て、城内各所にいた氏政・氏照らは異変に気づいた。彼らは氏直の近辺を調べ上げたに違いない。そうした中、16日に松田の弟の証言によって状況が判明し、告発された松田は拘束される(岡田利世を城内に手引きした垪和善七郎(豊繁)も拘束・もしくは殺害されたと思われる)。

この時の様子を城外から見たのが家忠日記の6月16日項である。

「城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候」

「松田成敗」とあるが、これが即座に死刑を表わすことは限らず、『処罰』を指すケースが多い。松田は存命だったものの閉じ込められた。直前までの氏直の動きを見る限り、松田が単独で動いていたとは考えにくく、氏直の指示で開城工作を行なっていたと考えた方が自然だ。

では「松田」とは誰か? まず羽柴方にとっての「松田」とは憲秀・直秀のいずれかを指す。北条家人数覚書 には、「松田尾張入道 同左馬亮 父子 千五百騎」とある。

父の尾張入道憲秀が「松田」だった場合

弟ではなく息子に告発されたことになる。また、直秀への書状も、冒頭に書いたように氏直から明確に忠節を賞されたものになるはずだ。通説ではここを回避するため、内応の主役を直秀の兄政晴にして、父・兄への不忠を直秀が憚ったような表現をしている。しかし政晴は天正18年時の実在を史料上確認できないし、返り忠を憚るような風習は戦国期には見られない。

息子の左馬助直秀が「松田」だった場合

 告発者とされている直秀だが、氏直と連動していたとすれば、告発された側に立った方が判りやすい。事情を知る氏直があの奇妙な書状を送ったと考えると、曖昧な文章にも合点がいく。氏直が直秀に宛てた書状を改めて見てみると、捨石となって軟禁されていた直秀に「事情は判っている。恩に着る」と告げたかったように解釈が導き出される。威勢のいい新知行の約束もなく、むしろ「どのような身の上になっても便宜を図りたい」という気弱な囁きしか窺えない。告発した弟については項を改めて検討するが、対象者がいない訳ではない。

やはり、内応に加担した「松田」は直秀の方が可能性が高い。

家忠日記では、20日に城内調儀があるとして雨の中終夜待機している様子が描かれている。松田調儀の決行日が20日だったため、不発に終わったと判っていながら念のため臨戦体勢を敷いたものと思われる。

開城のための手駒を失った氏直は、この20日になって木呂子氏に例の督戦状を出しているが、これは城内首脳を欺く意図があったように思う。

氏直自身は側近に罪を負わせて自由な身柄を確保した。だからこそ、その後の7月1日に氏直は小幡信定に開城の準備が出来たと告げることができた。さらに5日には城を出て織田信雄の陣所に弟の氏房と駆け込んだ。

織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急死するとは思ってもいなかっただろう。

それを見透かして今川義元は西三河領有化を進める。美濃を巡って武田晴信がすでに信長と交誼を結んだこともあり、義元としても信長をどうするか早く決める必要があった。完全に従属させることが第一だが、晴信が遠山氏に行なったような半従属のような形でも構わなかっただろう。また、西三河には刈谷・緒川に織田方の水野氏がいた。まずこの国衆を従えなければならない。

義元の文書分布を見ると、永禄元年4月頃から減り始め、同2年5月から不自然な程に発給数が減っている。また、義元の感状発行日数で考察したことを合わせて考えると、この頃から義元は西三河の前線にいたのだろう。永禄3年3月に一旦駿府に戻った形跡があり戦国遺文では3つ記録が残されているが、同月20日に関口氏純が「近日義元向尾州境目進発」と書いたのを最後に記録は途絶える。正式な家督継承はなかったと見えて、氏真の文書はまだ少ないため、この時期の今川分国は行政不在に近い状況になっていたようだ。

ここで視点を変えて、義元敗死の状況を考えてみる。氏真の「尾州於鳴海原一戦」という言葉から、義元は沓掛から鳴海への補給行程で相原郷付近で戦闘に及んだ。その段階で朝比奈親徳は銃撃にあって負傷し戦線を離脱する(川の柳に隠れたという伝承あり。扇川か?)。その後、同じ氏真書状にある「父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」という記述があるので、義元は松井宗信に援護されながら退却を開始した。太原崇孚香語にある「礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣」から、義元たちは鴻仏目辺りを渡って二村山を目指しつつ、麓の田楽窪で全滅したと導き出せる。

なぜ義元が二村山を降りて鳴海原にいたのだろうか。最も有力な考えは、義元自らが沓掛・鳴海間の補給を指揮していたということだ。毎月19日に行なわれていた鳴海から大高への補給はこの日も行なわれていたのは、大高城周辺でも合戦があったことからはっきりしている。であれば、沓掛から鳴海、鳴海から大高への補給が同じ日に行なわれていた可能性が高い。大高への補給で空いた倉庫にそのまま沓掛から補給できる。

このことは、鳴海城にいた岡部元信がなぜ眼前の鳴海原へ救援に動かなかったかの理由付けにもなる。丸内古道を通って大高に向かう補給部隊を出してしまった鳴海城では、沓掛からの補給部隊が来るまで身動きがとれない。

この同時補給は挑発の一環でもあるだろうが、隙を見せ過ぎな面が大きい。このような用兵を少なくとも半年以上、律儀に毎月19日に行なっていたのだとすれば、織田方としては作戦が立て易かっただろう。

この時、5月19日だけ偶然義元がいたという考えも可能だが、信長が美濃との国境を空ける危険を冒してまでの強襲をかけたのだから、やはり織田方の狙いは、二村山を降りて鳴海城に入るまでの義元の身柄にあったのだと思う。であれば、4月19日の時に義元は姿を見せていたのだろう。ここまで来ると挑発というより油断としかいいようがない。

そもそも今川方のちくはぐさは前年10月19日から現われている(検証a46)。補給部隊警護の奥平監物は、後方の菅沼久助が襲撃されて慌てて引き返している。敵の攻撃を誘う挑発行為であるならば、もっと警戒して然るべきではないだろうか。挑発はあくまで手段であり、目的は敵兵力を引き付けることにあるのだが、この頃すでに挑発している自覚がなくなり毎月19日の補給自体が目的化してしまっていた兆候が出ている。

また、幸か不幸かちょうどこの頃は旱魃が続いていた(甲斐の記録で「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始」とある)。結果、濃尾国境の河川は水位が下がっていたと思われ、美濃からの侵攻が容易になっていた。このことがさらに今川方の油断を誘ったのではないか。

それを裏付けるように、5月19日の大きな戦果にも関わらず、織田方はその後作戦を継続していない(大高・沓掛は自落、鳴海は自主開城)。なるべく一瞬で片をつけて美濃に備えたかったと判る。傍若無人な挑発を繰り返す今川方を放置するのも限界に来ており、水野氏からの救援要請もあって叩いておくことにしたのだろう。もし義元を討てなかったとしても、「いつでも全兵力を南下できる」という威嚇は成功する。信長が濃尾国境をがら空きにするという発想は義元にはなかった。この点が敗因の1つだと考えている。挑発の結果、相手が危険を冒してでも反撃してくるというシナリオを考えていなかったのだと。

もう1つの敗因は、本来攻守同盟を結ぶべきだった義龍と連携していなかったことだ。信長と晴信が友好関係にあるため、彼らの共通の敵へ具体的な連絡をとることを義元は躊躇した。だからこそ、毎月19日という隠微なメッセージを義龍に送り続けたのかも知れない。しかしそれは甘い考えだったのだろう。後で何と言われようと、義龍と連携を取って信長を追い込み、しかる後に晴信と共に義龍を攻めればよかったのだ。

1545(天文14)年に晴信は、北条氏康攻めに固執する義元を宥めている(武田晴信書状写)。松井山城守宛だが、実質義元宛といっていい。また、文中で「有偏執之族者」と書いているのは暗に義元の頑なさを示唆しているようにも見える。刻々と変わりゆく状況に柔軟に対応する能力と、変節漢と言われようと笑っていられる厚顔さが義元には足らなかったのかも知れない。それはまた、正当な後継者ではなく内戦によって今川家当主となった負い目が影響しているようにも思える。

六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。

斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候

義賢は何故このような妨害を行なっているのだろうか。その理由には、この条書で多数触れられている土岐頼芸の問題があった。天文末年から美濃を巡る最大の関心事はここにあった。

1551(天文20)年と思われる年に、近衛稙家は今川義元に、『土岐美濃守入国之儀』を成功させるために織田信秀と和睦するよう依頼している。元々美濃守護だった土岐美濃守頼芸は斎藤氏によって国外に追い出されていたが、彼を復帰させようと足利義輝が画策。この時に間を取り持ったのは家督相続前後の六角義賢であった。

近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める

その9年後にも、土岐頼芸を擁した六角義賢はもとより、朝倉・織田にとってもこの事案は継続案件として扱われているのは条書写でよく判る。しかし、何とこの和睦を主導した義輝・近衛前久(稙家の息子)は、頼芸を追い出した斎藤義龍と交誼を結んでいた。別史料になるが、更に『一色』の名前を与えようとしていた。義賢が不満に思ったのも無理はない。

そして、実はこの前年、織田信長は短時間上洛している。その要因の一つに、頼芸帰国交渉についての義輝の真意を質す目的があったのではないか。

各種日記における、『永禄2年の織田信長上洛』の記述

同じ陣営の六角義賢の協力もあって行きはスムーズだったが、国許が慌しくなり5日程で帰国している。上洛を察知した義龍の後方撹乱によるものだろう。信長が義輝と面談できたかは定かではない。

頼芸帰国は、信長にとって美濃侵攻の強力な大義名分であり、この案件がある限りは今川義元の西進を抑制できる一石二鳥の旗印でもあった。無理な上洛をしてでも維持したかったのかも知れない。

信長はこの6年後にも似たような状況を利用しようとしている。

美濃国の氏家直元ら、甲斐国の某に織田信長の美濃出兵失敗を伝える

横死した義輝の後継者である義昭からの檄に応じて、斎藤龍興と共同で上洛作戦を行なうことになった。しかし、尾張からの上洛経路を整備させた挙句に作戦から離脱を宣言し、美濃への侵攻を行なったという。

この例を敷衍すると、頼芸入国の裏でも、それに乗じて美濃侵攻を虎視眈々と狙っていたものと思われる。ところがその名分は瓦解。あまつさえ、将軍の後ろ盾を得て守護家格の一色氏となった義龍が、守護代格の織田氏を圧倒する可能性すら出てきたとすれば、信長はかなり焦っただろう(上記書状の斎藤氏家臣の苗字は、何れも一色氏のものに改名されている)。

一方、西三河の統制強化を行なっている矢先の今川義元は、この綻びを聞きつけて尾張への圧力を強めていったのではないだろうか。

六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。

斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙になっていた。また、織田信長・遠山景任とも敵対していた。

また六角義賢は縁戚の畠山義綱との関係で朝倉義景と敵対しつつも和睦を模索しており、「六角と組んで朝倉とは断交する」という斎藤義龍の発言を信用していなかった。

  1. 六角義賢と六角義弼の親子は以前に仲違いしており、六角義弼は佐和山にいた。
  2. 六角義弼が佐和山から城に戻る際に、六角義賢に服従することを誓約していた。
  3. 斎藤義龍との婚姻は六角義弼が主導で行なっており、六角義賢は反対していた。
  4. 土岐家と六角家は複数の婚姻関係にあり、土岐頼芸は数年前から六角氏の元に滞在している。
  5. 斎藤義龍は将軍の足利義輝と政所の伊勢貞孝、関白の近衛前久(この年9月19日に越後下向『諸家伝』)と親しかったが、六角義賢は常々妨害と諫言をしていた。
  6. 朝倉義景との婚姻は継続協議中だが、以前は能登の畠山義綱との関係で失敗していた。
  7. 斎藤義龍は朝倉義景と婚姻関係があったが、六角氏との同盟を重視して破棄すると申し出ていた。
  8. 朝倉義景は揖斐五郎を擁して美濃侵攻を企図し、土岐頼芸を介して織田信長と協議しているとの噂を義賢が入手している。
  9. 斎藤義龍は、越前の朝倉義景、尾張の織田信長、東美濃の遠山景任と紛争状態にあり、六角氏に何かあっても援軍を遅れないと義賢は考えていた。

ちなみに、『戦国史研究54号』の「斎藤義龍の一色改姓について」(木下聡・著)によると永禄期から斎藤義龍は一色義龍に改名しており、主要な家臣も一色氏家臣と同じ苗字に変えていたという。

安東日向守 → 伊賀伊賀守 守就
桑原三河守 → 氏家常陸介 直元
竹越新介  → 成吉摂津守 尚光
日根野備中守 → 延永備中守 弘就

将軍である足利義輝は土岐頼芸を擁護しつつも、土岐氏と並ぶ家格の一色氏の名を斎藤義龍に与えたものと考えられる。両天秤外交かも知れない。

『歴史研究 第592号』の「特別研究 沓掛城の新発見」にて太田輝夫氏が、沓掛城の比定地を考察している。要旨は以下の通り。

■現在城跡公園になっている遺構は蓬左文庫の『沓掛村古城絵図』と規模・縄張りが合致しない。発掘物も決定的なものは出ていない。

■公園の西にある聖応寺周辺に空堀・土塁などがあって、絵図とも条件が合いそう。

■鳴海・大高方面が眺望できる聖応寺側遺構の方が比定地として有利ではないか。

詳しくは直接文面をご確認いただきたい。

私も太田氏の推測は妥当だと考えている。直接訪れると判りやすいが、戦国期の城郭として現在の城跡公園は「比定地としておかしい」という印象が強い。手頃な丘陵地に囲まれている窪地で、川や崖がある訳でもない。

恐らく、城跡公園の沓掛城は天文年間以前の古態で居館ベースではないか。その後、より戦闘を意識した聖応寺側遺構に移ったと。

ただ私は永禄3年限定で、もう1つの沓掛城の存在を考えている。位置は二村山である。今川方から見れば、鎌倉道を鳴海まで確実に掌握する必要があり、それには聖応寺遺構ですら東に寄り過ぎているといえる。二村山はこの近辺の最高地点であるし、西に向かってそそり立つ地形から見ても要害といえる。

上の図で、峠地蔵から西に坂を下った辺りに茶色で分類される草地があるが、ここは曲輪状の地形である。ここのさらに西に笹(黄色エリア)が位置するが、この境目は土塁と空堀の組み合わせになっているのだ。

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

北に延びる土塁面

北に延びる土塁面

土塁を左右に置いた城門的地形

土塁を左右に置いた城門的地形

南へ延びる土塁面

南へ延びる土塁面

この曲輪の中央を鎌倉道が抜けているが、貯水池のあるピークと展望台のある峰に挟まれており、かなり防御力は高い。

展望台からの下り道。

展望台からの下り道。

展望台からの連絡通路はかなりの急坂。ここを攻め上るのは至難だろう。

2回目の行程は名鉄前後駅から始めた。まず合戦の死者を埋葬したという伝承が残る戦人塚。多少の木立があるものの、全方向に見通しが利く。特に二村山とは悪天候でも狼煙で通信可能だと思われる。

戦人塚は東西に延びる峰で最も見晴らしのよいピークにある。

戦人塚は東西に延びる峰で最も見晴らしのよいピークにある。

もしかしたら、緒川から大高への出撃を監視していた今川方の拠点だったかも知れない。その後丘陵を一旦降りてひたすら歩き、沓掛城跡公園を目指す。

沓掛城跡は公園になっている。堀も土塁も小さく周囲の丘陵から見下ろせる立地。

沓掛城跡は公園になっている。堀も土塁も小さく周囲の丘陵から見下ろせる立地。

この規模の小ささには驚いた。構造物も小ぶりだし、何より「城内からは何も見えず、城外からは城内が見える」という占地が謎だ。はっきり言ってここが今川方拠点とは思えなかった。

二村山展望台より鳴海方面を望見。

二村山展望台より鳴海方面を望見。

沓掛城跡公園から坂を上って二村山へ。豊明神社や曲輪上の平地などが位置し、沓掛側からは緩やかな上り坂になっている。その後、峠の頂上から北側に峰が続き、その西側は崖になっている。北峰に展望台があり、鳴海城・大高城へ眺望が開ける。

西から二村山に向かうと、まず土塁らしき構造物に囲まれた平場が出てくる。これは西から見た入口付近。

西から二村山に向かうと、まず土塁らしき構造物に囲まれた平場が出てくる。これは西から見た入口付近。

今度は西からのアプローチを実体験する。まず通過するのが曲輪状の地形。上の写真で判るように、道の両側に土塁がある。

二村山の鎌倉道は、西からアプローチすると急な上り坂になっている。

二村山の鎌倉道。西の曲輪状地形の背面は急な上り坂になっている。

そこを抜けると、峰に取り付く山道となる。東から来るより急勾配。

今川義元の死亡比定地である田楽窪。画像右は濁り池、左側には大きな病院がある。

今川義元の死亡比定地である田楽窪。画像右は濁り池、左側には大きな病院がある。

二村山から更に西に行くと、田楽窪になる。当時の鎌倉道が濁り池の北・南どちらを通っていたかは諸説あるようだが、現在の道路は南側を抜けていた。写真の向こう側にある森は丘になっている部分で、この辺りが窪地となっていることを示す。妙に気味の悪い空間だった。

相原郷諏訪神社の背後にある大形山には、公園がある。最高点は藪の中だったので状況は不明。

相原郷諏訪神社の背後にある大形山には、公園がある。最高点は藪の中だったので状況は不明。

田楽窪から鎌倉山・尾崎山の辺りを抜けて鴻仏目の渡しを通り、相原郷へ。諏訪神社の背後にある大形山に行ってみた。公園の奥に山道が続いていたが、藪がきつくて進入を断念。何か構造物があったかも知れないが、その西の緑高校敷地の方が標高が高く、相原郷から鳴海への鎌倉道監視であればそちらの方が適しているように思った。

成海神社境内の西端。切り立った断崖になっている。

成海神社境内の西端。切り立った断崖になっている。

緑高校から鎌倉道を見下ろすように西へ行き、殆ど丘陵の態を残していない作山を右手に見つつ成海神社へ。規模は鳴海八幡より大きい。西側は崖になっており、鎌倉の下の道を監視するには絶好の位置。

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成海神社西側の光明寺。1556(弘治2)年創建という。

神社から西へ坂を下り、一般に『丹下砦』跡と言われる光明寺に行く。門前の石碑には1556(弘治2)年創建とあり、これは大高の春江院と同じ。何かの関係があるのだろうか。位置としては成海神社から見下ろされる形なので、砦というよりは関所だったのではと想像した。

扇川左岸から見た瑞泉寺。元は諏訪山にあり、瑞松寺と称していたという。

扇川左岸から見た瑞泉寺。元は諏訪山にあり、瑞松寺と称していたという。

そのまま旧東海道を南下して鳴海本陣を経て、前回行けなかった瑞泉寺へ行く。川を前にして小高い位置にあり、城郭構造を髣髴とさせる。

瑞泉寺山門から扇川・手越川の合流点を見る。距離は100メートルもない。

瑞泉寺山門から扇川・手越川の合流点を見る。距離は100メートルもない。

扇川と手越川の合流点は瑞泉寺の目前で、その向こう側と伝わる『中島砦』とは距離が殆どない上、眺め下ろす形になる。この場所は、大高に向かう丸内古道、扇川・手越側、緒川道が一点に集約されるポイントで、ここを織田方に制圧されていた場合、鳴海城が堅固に維持できるとは思えない。

これまでずっと古文書で実態を追ってきたが、鳴海原を実際に歩いてみる機会が2度あったので、その際の感想を書き残しておこうと思う。

鳴海駅から北に向かうと、ぐっと坂が急になった途中に鳴海城関連の案内板が見える。円龍寺は、旧名『善照寺』といい、元々はこの丘陵の東端に位置していた寺院。鳴海城と根小屋城が分かれて表記されているのが少し不思議だった。

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案内図をアップにしてみると、それぞれの位置関係が判る。近世の東海道は、鳴海城のある丘陵を迂回して北方に向かっている。

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下の図は以前私が検討した、永禄頃の鳴海城。三方向に崖が張り出しているなか、唯一なだらかな稜線となっているのが北面である。

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

では現代の地形から上記は確定できるのか、実際に歩いて調べてみた。

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↑鳴海城・根小屋城の間にある道路から、北方の成海神社方面を見る。道路の向こう側に小さく見える森林が成海神社。現在の地形は比較的なだらかに伸びており、もし北方からの攻撃を想定するなら堀切や土塁は必須だったと考えられる。

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↑東にある善照寺砦跡に向かう途中、鳴海城のある西方向を撮影。10メートル程度の高低差があり、建物のなかった当時は城内を見通せただろう。ここから鳴海小学校ぐらいが最高所で、少し下って善照寺砦が現われる。つまり、善照寺砦と鳴海城は丘陵の両端にあって互いに見えない位置関係にあるということだ。

いわゆる『善照寺砦』は現在『砦公園』になっている。東側以外は急斜面で帯曲輪状の段もある。

いわゆる『善照寺砦』は現在『砦公園』になっている。東側以外は急斜面で帯曲輪状の段もある。

砦公園を出て更に東の相原郷を目指す。雨が激しくなってきたなか、ゆるやかに下っていくルートだ。鳴海側の方が若干ではあるが標高が高いように感じた。

相原郷の諏訪神社。階段の前を横切っているのは鎌倉道。

相原郷の諏訪神社。階段の前を横切っているのは鎌倉道。

相原郷は諏訪神社で折り返す。神社の裏には大形山と呼ばれる丘陵がある。ここまでは国道沿いに移動したが、ここからは鎌倉道を通ることとした。

浄蓮寺は今川旧臣が創建した伝承を持つ。本堂を西側から撮影した。画像の左、本道の裏にあるのが鎌倉道。

浄蓮寺は今川旧臣が創建した伝承を持つ。本堂を西側から撮影した。画像の左、本道の裏にあるのが鎌倉道。

浄蓮寺を抜ける辺りは曲がっているが、比較的直進が多い。但し、鳴海に向かって右手が小高い丘になっていて、そこから側面を衝かれると厳しいだろうと感じた。丘の上には現在名古屋市立緑高校が建っている。大形山との連携次第だろうが、鎌倉道を移動中の部隊に攻撃をかけるには適した地点だ。

鳴海八幡。微高地にあるようで、周囲の前之輪地域は洪水に強いという。知多半島入口の要衝。

鳴海八幡。微高地にあるようで、周囲の前之輪地域は洪水に強いという。知多半島入口の要衝。

鳴海駅に一旦戻り、そこから南下して鳴海八幡へ。ひたすら平坦な地域が続くが、そのぶん東の丘陵地帯が目立つように感じられる。

大高城本曲輪の南東から撮影。画面左手に壇状曲輪があって神社が鎮座している。

大高城本曲輪の南東から撮影。画面左手に壇状曲輪があって神社が鎮座している。

更に進んで大高城。縄張りの構造はシンプルだが、本曲輪に相当する部分がかなり大きい。説明板によると史跡としての指定面積は40,613平方メートル。沓掛城址公園が約10,000平方メートル、鳴海城は非掲示だったので推定だが広く見積もっても12,000平方メートル程度。かなりアンバランスな印象がある。

周囲の春江院、津島社を巡ったが、大高城は東側の丘陵地からだと見下ろせることが判った。