中世の文書によく出てくるのが、「役」(やく)と「職」(しき)だ。この二つは現代語でもよく使われるが、意味が異なるので注意が必要となる。ここでは戦国時代を中心にこの二つの使われ方を紹介する。
役
領主から賦課される、税金の一種。すべてを貨幣で支払わせる現代の税金と違って、実働を建前とした。武士が負う役としては、軍事出動を意味する「軍役」と、拠点の守備任務を意味する「番役」、土木工事任務の「普請役」がある。一般民衆である百姓には、夫役(労働)・陣夫役(戦時労働)・伝馬役(通信運輸)として課された。職人や寺社にも特殊な役が賦課されることがあった。百姓・寺社では実働を嫌って金銭による費用負担を希望するケースが多かった。
職
元々は荘園のシステム内にあった職務。後に職権に伴う収益権益も指すようになり、職の体系という独自の仕組みを持つ。武士階級によって荘園解体が進むと、守護職や地頭職・名主職が出てくる。一方で商工業者の職も現われて後の「職人」につながる。職は一代限りのものから始まり、世襲が行なわれた後、売買の対象物となった。
醜悪な殺人を描いた、ある意味著名なパート。ディケンズがこの殺人部分を晩年に何度も朗読のモチーフに選んでいる。個人的には、ドストエフスキーの「悪霊」はこの件に着想を得たように思う。ただ、仲間内の殺人が冷酷なものであったにせよ、窃盗団全体がこの殺人に動揺したり崩壊したりするのは微妙ではないかと疑問を持った。そんなお人よしで窃盗団をやってられるのか……と。とはいえ、この作品は当時の大衆に大いに受けた訳だから、我々から見て奇妙に映る状況でも、当時は違和感なく溶け合っていたものと理解せねばなるまい。
実はこの殺人劇はサイクスの悪夢だった、という展開だとカフカっぽい分析になる。ただ、サイクスの精神が崩壊していく様を描いた象徴劇であるならば現代人にとっては判りやすいのかも知れない。
オリバーの幼馴染ディックを延命させず、幸福感溢れるエンディングにピリっと緊張感を取り混ぜたのはさすが。バンブルの恐妻家ぶりで笑いをとった若きディケンズは、この前年キャサリンと結婚している。何か思うところがあったのか注意しながら読んだが、余り得るところはなかった。まだ読みの深さが足りないかも知れない。
「千賀与五兵衛殿 上総介」
去四月七日於富永城計策候砌、最前令馳走鈴一討捕之旨、太以神妙也、弥可抽戦忠之状如件、
永禄五
七月三日
上総介(花押)
千賀与五兵衛殿
→静岡県史 資料編7「今川氏真感状写」(千賀家文書)
去る4月7日に富永城で作戦した際、最前線で奔走し、鈴一が討ち取ったとのこと。大いに神妙である。ますます戦忠にぬきんでるように。
感状写
「牧野右馬允殿 上総介」
今度於富永・広瀬合戦、被官人稲垣平右衛門合鑓、殊敵一人付伏候旨神妙云々、弥可存忠信之旨可申聞之状如件、
永禄五年
七月三日
上総介(花押)
牧野右馬允殿
→静岡県史 資料編7「今川氏真感状」(牧野文書)
この度の富永と広瀬における合戦で、被官の稲垣平右衛門が槍を合わせ、特に敵1人を突き伏したことは神妙であるという。ますます忠信に思うように、申し聞かせることはこのようである。
感状
去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻リ、依之、設楽郡於田口村ニ、徳分拾五貫文可進処務候、縦地頭設楽三郎雖企訴訟、一切不可許容候、向後於令忠節者、可加扶処者也、
永禄五年三月
氏真判
渡部平内次殿
→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(今橋物語)
去る戌年の冬、三河国津具の白鳥山において忠節を行ないました。先の判形に記述があります。その後武節の城に立て篭もった時に奔走し、これにより、設楽郡の田口村において給付分15貫文の収入を進呈するでしょう。たとえ地頭の設楽三郎が訴訟を企てたとしても、一切許容することはありません。今後も忠節であるならば、扶助を加えるでしょう。
『去戌三冬』を、「去る戌年の三月である冬」と読むと、戌年はこの判物が発行された1562(永禄5)年3月となり、「去る」という表現がおかしくなる。先の判形という表現があることから、庚戌の1550(天文19)年冬(三冬は冬の美称・もしくは12月か)のことと比定する。
判物写
於蔵王城本間走廻之由候、神妙之至候、弥可尽粉骨由可被申聞候、
九月廿六日
氏親(花押)
福嶋左衛門尉殿
→静岡県史 資料編7「今川氏親判物」(本間文書)
1501(文亀元)年に比定。
蔵王城において本間が活躍したとのことで、神妙の至りです。ますます粉骨を尽くされるようにとお伝え下さい。
感状