至息誾千代譲状之趣、銘々令披見、以袖判申候、殊当城置物等、堅固被申与候次第、乍案中感心候、親類・家中衆被申諌、向後其堺弥静謐之調儀肝要候、猶重々可申候、恐々謹言、
六月十八日
 義統(花押)
 宗麟(朱印)
麟白軒

→北九州戦国史史料集下巻801「大友義統・宗麟連署書状」(大友宗麟資料集・立花文書)

天正3年に比定。

 子息誾千代への譲状の内容、一つ一つ披見し、袖判を記します。特にこの城の備品などを手堅く言及している次第は、思った通りですが感心しました。親類・家中衆が諌言して、今後もこの境界をますます静謐に調整することが大切です。さらに重ねて申しましょう。

立花城家督之事、道雪於無男子者鎮連兄弟之内、以分別可被申与之由承候、尤肝要候、連々如申候、当城之事、其堺覚候之条、倍堅固之格護、不及申候、然者向後、右之内一人登城之儀可為若輩候歟、成人之間者、鎮連同前令在城勤番可然之段、兼日能々御入魂専一候、此由至鎮連モ以状申候、可被得其意候、恐々謹言、
五月十日
 義統(花押)
 宗麟(朱印)
戸次伯耆入道殿

→北九州戦国史史料集下巻797「大友義統・宗麟連署書状」(大友宗麟資料集・立花文書)

天正3年に比定。

 立花城の家督のこと。道雪に男子がないので鎮連兄弟のうちから、検討して決めるだろうとのこと聞きました。ごもっともで大切なことです。いつも申しているように、この城のことは、その境界は注視しているところですから、倍して手堅く覚悟することは申すまでもありません。ということで今後は、右のうち1人が登城するとして、若輩ということでしょうか。成人までの間は鎮連が同行して在城し番を勤めるのは当然ですから、兼ねてからよくよくご昵懇となるのが専ら大切です。このことを鎮連にも書状で申します。その意を得ますように。

何比御帰候哉、我ゝ者、與風罷帰候、其時分迄者、御帰之沙汰不承候キ、先日者、自小田原御札、殊船之 御印判調候而、我等迄満足ニ候、態是又御札、殊ニ初物給候、則致賞味候、然者御世上強敷候而、咲止ニ候、我ゝ罷帰砌者、以之外之様ニ候つる、近日者如何候哉、静ニ候、乍去自京都津田・富田と申人、于今沼津ニ有之由申候、石巻方をハ城中ニ小者一人ニ而指置、莵ニ角ニ是非者、来春と存候、此度以御使如去年証人之義、各ヘ被 仰付候間、其趣一両日已前申届候、御使衆へも具ニ申分候、併御国なミ人次之所、無了簡候、扨又籠城之支度、早ゝ可有之候、万吉重而可申候、恐々謹言、
極月十八日
 上野 康英(花押)
高橋丹波守殿 参

→戦国遺文後北条氏編3578「清水康英書状」(高橋文書)

天正17年に比定。花押後筆の可能性あり。

 いつ頃お帰りになりましたか。私達はふと思い立って帰りました。その頃まだお帰りになるとは聞いておりませんでした。先日は小田原よりお手紙をいただき、特に船のご印判をご用意いただいて、私も満足でした。わざわざこれまたお手紙で初物をいただきました。すぐに賞味いたしました。ということでご世情が不穏になってきて、残念なことです。私達が帰る際には、もってのほかの状況でした。近頃はいかがでしょうか、静かなものです。ではありますが、津田・富田という人が京より沼津に今来たといいます。石巻方を城中に小者1人で差し置いています。とにもかくにも、是非は来春と思われます。今回は去年と同じように、使者を送って人質を集められますので、その旨を一両日以前に申し届けます。お使いの衆へも詳しく説明をします。そしてご分国一斉に全ての人とのことで、了見がありません。さて、また籠城の準備を早々にお願いします。色々とまた申します。

於京都、来初春、関東立之陣触有之由告来候、兼覚之前ニ候、弥閣万事、一途ニ可遂防戦支度、火急ニ可有之事、専一候、猶様子可追而可申候、恐々謹言、
十二月廿四日
 氏直(花押)
長尾左衛門殿

→戦国遺文後北条氏編3585「北条氏直書状写」(石北文書)

天正17年に比定。

 京都において、来る初春に関東へ出撃するとの陣触れがあったそうです。兼ねてから覚悟していたことです。ますます万事をさしおいて、一途に防戦の支度をして下さい。緊急のこととするよう、専らになさって下さい。なお、状況は追ってお知らせします。

貴札之趣、氏直父子具為申聞候、委細直被申達候、有御得心、可然様御取成所仰候、可得御意候、恐々謹言、
極月九日
 北条美濃守 氏規(花押)
駿府 貴報人々御中

→戦国遺文後北条氏編3571「北条氏規書状写」(古証文五)

天正17年に比定。

 お手紙の内容を氏直父子に詳しく申し聞かせました。詳細は直接申し渡しました。お心得あり、しかるべきようにお取り成しをと仰せのところです。御意を得ますように。

森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也、仍如件、
追而、先証文両通返遣候、以上、
己丑八月廿四日[「有効」朱印]
 山角紀伊守 奉
原若狭守殿
同大炊助殿

→戦国遺文後北条氏編3488「北条氏政朱印状」(千葉市立郷土博物館所蔵・原文書)

天正17年に比定。

 森山方面で穀物を留めていること。先の規則の通り堅く申し付けられました。万一大途(北条氏直)が必要とする場合は、印判で申し出るものとする。

 追伸:先の証文2通は返します。以上。

今度御内書被成下候、忝奉存候、寔生前大事不可過之候、随而御馬一疋[青毛]、致進上候、併御内義之条如此候、御取成可為本望候、恐惶謹言、
十二月廿日
 織田三介 信長
大館左衛門佐殿 人々御中

→織田信長文書の研究52「大館左衛門佐宛書状写」(古簡雑纂十一)

永禄7年に比定。

 この度御内書を下されました。かたじけなく存じます。本当に生前の大事としてこれに過ぎるものはありません。従いまして御馬1匹(青毛)を進上いたします。そして内々の事柄はこのようになります。お取り成しいただければ本望です。

慶長三年戊戌八月十八日、太閤様御他界、其前兼御遺言秀頼十五歳成候迄、家康輝元一年代り大坂に被相詰仕置き御頼候、其外諸大名も一年代はり相詰候様にとの儀、秀頼江無沙汰仕間敷旨、各起請文仕候得之由、諸大名不残上巻に起請文致、此時家康公明年中大坂御詰に成る、景勝越後より奥州江国替仕候に付、三年在京御免に候然共、諸大名誓紙景勝一人不被致候、景勝登誓紙可有旨、家康公被仰越候得共、景勝返事、三年在京御免にて罷登申間敷候返事に付、家康公より再三被仰遣候得共、兎角得心不仕候て荒々敷返事故、家康公御立腹、我等迎に可参との御事にて江戸へ御下り被成、諸大名景勝むほん仕候とて追々関東江下り被申候、家康公御先手被遊候何も宇津宮迄御出陣被成候処に、上方にて石田治部少輔むほん企候に付、家康公ハ私成仕置ふとゝき成儀にて御坐候とて、毛利殿御上り候て大坂御番被成候得と、安国寺を使に遣し、早速輝元大坂へ上り被申候、此旨宇津宮江聞へ家康公被仰様々、景勝を致退治候後上方江打向可申候、各大坂に妻子在之間、是より早々上方へ御上り候得と被仰付候、其時福島左衛門太夫被申候ハ、私義治部少輔と一味仕候筋目無御坐候、大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにてハ無御坐候、たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間捨候と申候て、惣領刑部是江召れ候間家康公へ人志ちに進候、是より上方へ御先手可仕候、上方にて御人数・兵粮之義、私太閤様より十万石御代官所預七年分之米尾州に納置候間三十万石程と御用可罷立候、景勝義ハ先御捨置、上方江御出馬御尤に奉存候と被申候、左衛門太夫様々申候故、細川越中守殿・池田三左衛門殿・浅野紀伊守殿・田中筑後殿・堀尾信濃守殿、其外諸大名家康公御味方可仕と被申候共、家康公上方江之御出馬跡より御登り可被成との義に付、井伊兵部殿御名代に御登せ被遊候

<後略 以下、池田輝政と交互に先陣として移動しつつ清州に達し岐阜城を攻略するくだりに至る>

 

冨士上方之内屋敷分之事
一、大橋佐野兵庫助分 一、後藤大炊助分
一、大窪北原長貫事 一、大宮屋敷半分停止諸役事
一、水沼代官分、此内社役如年来相勤之、其外内徳分可所務事
 已上、
合参拾八貫六百七拾九文者、
[但此内七貫九百四十文余、今度以奉行人令検地之上、増分出来之間、令扶助之也]
右、就善三郎東西陣番、借銭借米過分引負、依進退困窮、伊賀娘伊勢千代エ、善三郎子千熊令契約、知行相渡之由、任善三郎証文之旨、永領掌畢、縦親類被官人雖令難渋、一向不可許容、若千熊伊勢千代令離別者、借銭借米過分爾令弁償、其上善三郎存生之間、加扶持之上者、知行等可為伊勢千代計、任善三郎証文、永可令取刷、但千熊為幼少之間、陣番以名代可相勤者也、仍而如件、
永禄十[丁卯]年八月五日
 上総介(花押)
井出伊賀守殿

→戦国遺文今川氏編2139「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸州古文書三下)

富士上方のうち屋敷分のこと。一、大橋佐野兵庫助分。一、後藤大炊助分。一、大窪北原長貫のこと。一、大宮屋敷の半分で諸役を停止していること。一、水沼代官分。このうち社役は年来のように勤め、そのほかの内徳分は所務するべきこと。以上。合わせて38貫679文。但しこのうち7貫940文余、この度奉行人が検地した上で増分ができたので、扶助させる。右は、善三郎の東西陣番について、過分な負債で赤字となり、家計が成り立たなくなったため、伊賀守の娘伊勢千代へ、善三郎の息子の千熊を婚約させ、知行を渡すとのこと、善三郎の証文の内容の通り、末永く掌握する。たとえ親類・被官人が反対したとしても、全く許容しない。もし千熊と伊勢千代が離別する場合は、過分な負債は弁償させるように。その上で善三郎が存命であれば扶持を加えるので、知行などは伊勢千代だけにするように。善三郎の証文の通り、末永く取り扱うように。但し千熊が幼少の間は名代として陣番を勤めるように。

[懸紙ウハ書]「井出千代寿殿 治部大輔」
駿河国冨士上方之内稲葉給、并被官百姓居屋敷等、井出甚右衛門尉遺跡之事
右、依無男子、女子松千代仁千代寿申合、譲与之旨、証文明鏡之条、永領掌了、然而為蔭居分、弐拾貫地共、一円可令知行之、并道者坊之事、可為如年来、但自道者坊内、弐貫五百文宛之儀者、為造営分、毎年大宮代官江相渡、知行之内宮分神事諸役等、如前々不可令怠慢、至于無沙汰者、宮分可令改易、遺跡之儀、於自今已後、兄弟・親類・縁類等、雖企競望、一切不可許容者也、仍如件、
弘治二年 五月廿六日
 治部大輔(花押)
井出千代寿殿

→戦国遺文今川氏編1284「今川義元判物」(杉並区今川・観泉寺所蔵浅川井出文書)

 駿河国富士上方のうち稲葉給、ならびに被官百姓の居屋敷など、井出甚右衛門尉の遺産のこと。右は、男子がいないため女子松千代に千代寿を申し合わせ、譲与の旨は証文で明確なので、末永く掌握すること。そして隠居分として20貫文の地共々一円を知行するように。そして道者坊のことは年来のようにせよ。但し道者坊のうちより2貫500文分のことは、造営分として毎年大宮代官へ渡すこと。知行のうち宮分神事の諸役などは、前々のようにして怠慢してはならない。無沙汰に至るならば、宮分は改易させる。遺産のこと、今後以降は兄弟・親類・縁類などが望んだとしても、一切許容しない。