新儀ニ申付四艘之早船、乗組四十人、此扶持給貮百四拾貫文、自来暮速ニ可被下候、従前ゝゝ定少雖不足候、先当年一廻ハ此分可請取、走廻次第、従来年御加恩可被下者也、仍如件、

[朱印]

天正三年[乙亥]三月廿五日

安藤豊前入道 奉之

梶原吉右衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編 1782「北条家朱印状」(紀伊国古文書所収在田郡古文書二)

 新規で申し付けた4艘の早船と乗組員40名、この扶持給240貫文は、この年末より速やかに下されるでしょう。前々からきっと少なくて不足しているとはいえ、先ずこの年1巡りはこの額で受け取るように。活躍次第では来年より御加恩が下されるであろう。

今度於佐貫前、敵船ニ懸合、陸地へ押上、早船三艘切取、殊数ケ所、致鎗手、自身愛河[を]被討捕ノ事、誠ニ無比類候、仍太刀一腰[未紀]遺之候、弥可抽忠節之状、如件、
天正五年[丑]
十二月二日
氏規在判
山本太郎左衛門尉殿

→戦国遺文 後北条氏編 1957「北条氏規感状写」(水月明鑑十二)

 この度佐貫前において、敵船と交戦して陸地へ押し上げ、早船3艘を切り取った。特に数箇所槍傷を負って、自身で愛河を討ち取られたこと、本当に比類がないことです。よって太刀1腰を遣わします。ますます忠節にぬきんでるように。

一、対当方へ罪科人、越国没落之上、何分ニも当方之策媒ニ有之儀候、如下知被申付尤候、一、大石甚之事、不心得由先段申候、何分ニも越国之者、大途之扶助人者、大途之下知次第候処、其方自分之様ニ取成、我ゝ状をも不為渡、我侭ニ被成様不審与之儀候、惣別五人衆とて一所ニ可置儀無之候、此度もおのれゝゝか知行へ在郷とて申出候人、先段ニ被成様無届候、恐ゝ謹言、

卯月十二日

氏政(花押)

安房守殿

追而■彼者召寄儀、争河田なと可遂疑心候、始喜多条結句彼者ハ不忠■■かたゝゝ取合故、致我侭、家中之者迄致緩怠とて、無興之こと致久、不可過分別之咎、人を咎ニ行候とて、咎もせさる忠信之者、争機遣■すへく候、無塩味之手■被存候、以上、

→2064「北条氏政書状写」(松代古文書写)

天正7年に比定。

 一、こちらに対する罪人、越後国から没落した上、何分にもこちらの策謀にありましたこと、下知のように申し付けられたのはもっともです。一、『大石甚』のこと、不心得であることは先に申しました。何分にも越後国の者で、大途の扶助対象者は、大途の下知次第であるところ、あなたは勝手に取り成して、我々の書状も渡さず好きなようになさっているのは不審とのことです。大体、5人衆にしても1箇所に置くこともありませんでした。この度も各々の知行へ帰郷したいと申し出た人、先になさったことの届けはありませんでした。

 追記:あの者を召し寄せたこと。河田を争うなど疑心を遂げますように。喜多条をはじめ、結局あの者は不忠で、方々で紛争があったので勝手をして、家中の者までいい加減で詰まらないことを長々としており、分別の罪は留まることを知らず。人を罪に陥れようとして、罪のない忠信の者を、機を争って送りつけようとしています。よく考慮して評価して下さい。

今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由、対陸奥守証文披見候、肝要至極候、先書当表参陣与申遣ハ、小官之申合不知以前ニ候、於何口之走廻も同前候、殊佐竹定而可出張間、城主近藤与相談、堅固之防戦専一候、恐ゝ謹言、

九月五日

氏政(花押)

酒井伯耆守殿

→戦国遺文 後北条氏編 1943「北条氏政書状」(岡本貞烋氏所蔵文書)

天正5年に比定。

 この度、この方面で手間取っている件で、榎本に300の人数で在陣して活躍なさるだろうとのこと、氏照に対しての証文を拝見しました。とても大切なことです。先の書状でこの方面に参陣せよと申し遣わしたのは、『小官』の申し合わせを知らない、以前のことです。何れの方面への活躍でも同じことです。特に佐竹がきっと出撃してくるので、城主近藤と相談し、堅固の防戦だけを心がけて下さい。

(切紙)書出

右、佐竹衆寄来之由、注進候、覚悟之前ニ候間、抽而軽身命就走廻者、望之知行、可遣之候、下妻衆可為先勢候之条、彼衆討捕候者、当日之可為本意、各存其旨、尽粉骨可走廻者也、仍如件、

天正五年丁丑

九月十五日

氏繁(花押)

高井新八郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 1945「北条氏繁判物」(大久保文書)

 右、佐竹衆寄せ来たるとの報告がありました。覚悟の上のことですから、ぬきんじて身命を軽んじ活躍すれば、希望の知行はこれを与えましょう。下妻衆が先鋒をなすでしょうから、あの衆を討ち取れば本日の目的は達成となるでしょう。各自このことを知って、粉骨を尽くして活躍するように。

爰元在城七月迄申付候処、無相違御請申、於自今可引立候、鉢形知行親出置候、知行役等、当月廿五日より可申付候間、早ゝ在所へ人被越可申付者也、仍如件、

卯[「翕邦把福」朱印]四月五日

→戦国遺文 後北条氏編 2063「北条氏邦朱印状写」(武州文書所収秩父郡源八所蔵文書)

天正7年に比定。宛所欠損。

 こちらに在城を7月まで申し付けましたところ、相違なく承知したと言ってくれました。これより以後は引き立てましょう。鉢形の知行は親に拠出しました。知行役などは今月25日より申し付けますので、早々に在所へ人を派遣して申し付けるように。

一宮正木藤太郎逼迫候間、合力候、今廿三日より四・五・六、四日之間ニ、兵粮支度出来次第、百四十俵一宮へ遣、正木代自旗本之検使両人之請取状を、可被取候、仍如件、

追而彼兵粮、用ニ立様ニ可被申付候、

八月廿三日[虎印]

左衛門大夫殿

→戦国遺文 後北条氏編 1800「北条家朱印状写」(伊藤賢之丞氏所蔵文書)

天正3年に比定。

 一宮の正木藤太郎が逼迫していますので、助力します。今23日より24・25・26の4日の間に、兵糧の準備が出来次第、140俵を一宮へ送り、正木の代理と旗本よりの検使、両人の受取状を取って下さい。
 追記:あの兵糧は役に立てるようにと、申し付けられました。

鎌倉御領之内、経師谷尊養院屋敷分之事、四貫百二文、彼寺其方実子相拘ニ付而渡置、彼替従其方手前可出由御心得被成候、自今以後、尊養院へ年貢不可有催足候、以此印判、代官へ可及断、然者、彼替四貫百二文、岩本一騎合、於小田原給置間、自来給、速於小田原可相渡者也、仍状如件、

天正三年[乙亥]三月七日[虎朱印]

垪和刑部丞 奉之

布施佐渡守殿

→戦国遺文 後北条氏編 1776「北条家朱印状」(妙本寺文書)

 鎌倉の御領のうち、経師谷にある尊養院の屋敷分4貫102文のこと。あの寺があなたの実子が抱えているので渡してあり、その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと、ご納得なさいました。これより後は、尊養院へ年貢は催促してはなりません。この印判状をもって、代官へ通達するように。ということで、あの替地4貫102文(岩本一騎合)は、小田原において給付するので、到着次第速やかに小田原で渡すであろう。

一、先河越・松山之立馬候、別ニ仕置とても有間敷候、沼田普請人数可遣、又厩橋此一二ケ城可申付、其外東表似合ゝゝ普請仕置等可申付候、此外指当用無之間、軈而可明隙候事、

一、豆州にて雑説申廻儀、竪可被申付、当時努自甲抜手致得間敷候、去又態工而、豆州境之者ニさわか候事をハ、必ゝ可申廻候、専者韮山一ケ城堅固之備無油断候へハ、其外不入事候、畢境惑説申廻事、堅可被制候、いかにも静ニ境目可被申付事、 一、此度者、仕置一理、其上上田庄喜多条打明、凶事之砌、無所詮候条、氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候、我ゝ計立候て、身かろくあなたこなたかけ廻可申付候、返ゝ雑説申廻事、諸人可被停止候、去又右ニ如申候、韮山番之事をハ、いかにも手堅可被申付候、恐ゝ謹言、

二月廿四日

氏政(花押)

清水入道殿

→戦国遺文 後北条氏編 2055「北条氏政書状」(宮崎求馬氏所蔵文書)

天正7年に比定。

一、まず川越・松山の馬を立てました。別の処置はないでしょう。沼田の普請は人員を送るでしょう。また、厩橋にこの1~2城を申し付けるでしょう。その他、東部方面は適切な普請・処置などを申し付けるでしょう。このほかにさしたる用事はないので、すぐに手が空くでしょう。

 一、伊豆国にて雑説が流布している件、必ず指示なさって下さい。この時に、間違っても甲斐国より引き抜きなどされないように。さてまた、念入りに細工して、伊豆国堺の者たちが騒ぐようなことを、必ずや流布させるでしょう。韮山1城だけを専ら堅固に防備して油断しなければ、その他は不要です。最終的に不穏な噂が流布されることは堅く制止するように。静かに国境で指示すること。 一、この度は、処置一理で、その上、上田庄で喜多条(景広?)が打ち明け(退却?)、凶事の際に、所詮がなかったので氏直は同心(同行)させませんでした。この城に馬を立てるよう伝え、心得を連絡しました。我々ばかりが立ちまして、身を軽くしてあちらこちらを駆け巡って申し付けるでしょう。返す返すも、雑説の流布は諸人に止めさせますように。さてまた、右に申したように、韮山城番のことは、とても手堅く指図なさいますように。

長尾・成田・深谷各返答披見、何も下知之筋目相済間、尤候、 一、由良善筋へ及行、百余人討捕由、物始之仕合、誠肝要至極、心地好候、 一、満水推量候、曲時分之連雨、無是非候、乍去今日晴候間、此侭可属晴候歟、普請之儀、雖不及申候、念を御遣専一候、毎度愚身之少見、残所者、はやぬたにて候、以前も此塩味申候つる、此度之極普請申候、又と云儀者、三年之内者、成間敷候、猶重而可申候、又模様節ゝ可承候、恐ゝ謹言、
二月十一日
氏政(花押)
安房守殿

→戦国遺文 後北条氏編 1833「北条氏政書状」(本多夏彦氏保管黒沢文書)

天正4年に比定。

 長尾・成田・深谷おのおのの返答を拝見、いずれも下知の筋目を済ましているので、もっともなことです。一、『由良善』方面へ邀撃に及び、100余人を討ち取ったとのこと。作戦の第一歩は本当に大切です。心地よく思いました。一、満水の推量。間の悪い雨が続いたのは仕方のないことです。さりながら今日は晴れていますから、このまま晴れが続くのでしょうか。普請のこと、申すまでもないとはいえ、念を入れられることが専ら大切です。毎度の愚見ですが、(普請が)し残されたところはもうぬかるんでいます。以前もこの考慮について申していますが、この度の作戦は普請に極まるのです。又の機会は3年は巡ってこないでしょう。さらに重ねて申しましょう。その他状況を折々にお聞きしましょう。