重而預脚力候、御書面一ゝ披見申候、 一其表堅固之御備之由、自何肝要存候、 一御状則 御両人殿入御披見■■、御取込ニ而、御返事無之儀者不苦候、幾度 御両殿様へ、其口堅固之備并深沢表之模様御注進肝要候、幾度直書を以、可被御申上候、 一当表之儀、先書如申候、梶原源太於小田之地属御味方候、如此御吉事相重候、敵者弥折角之躰、無是非候、敗軍程有間敷候、陣庭を引出ニ付而者、此度可被討果候、可御心易候、猶期後音候、恐々謹言、

六月廿一日

氏照(花押)

那波駿河守殿 参

→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状」(色部文書)

1584(天正12)年に比定。

重ねて飛脚に預けます。ご書面を逐一拝見しました。一、その方面は堅固な備えとのこと、何より肝要だと思います。一、ご書状をすぐご両人(氏政・氏直)にお見せしたところ、取り込み中でして、お返事がないのも仕方ありません。何度も両殿様へその口の堅固な備えと深沢方面の状況をご報告するのが肝要です。何度も直接の書状をもって、申し上げられるべきでしょう。一、この方面のこと、先の書状でもお伝えした通り、梶原源太が小田の地で味方に属しました。このように吉事が重なっています。敵はますます困難なことになったのは明白です。敗軍となるのもほどなくです。陣地に引き出したら、今度こそ討ち果たしましょう。ご安心下さい。さらにご連絡をお待ちしております。

中公新書で割合気軽に入手できる(寒川旭著・2007年)。考古学のアプローチがメインで描かれており、先史時代から阪神・淡路大震災までを網羅している。液状化の痕跡は縄文時代の遺跡からも出てくるそうで、地割れで引き裂かれた住居がいくつも紹介されていた。地質学の解説もあるので、本格的に調べてみたい場合に便利だろう。こういった書籍を読むと、文献史学の限界を本当に痛感する。折り重なった地層と遺物から年代を測定する際、もうちょっと細かく比定するのを手伝うぐらいしか役に立っていないようだ。

古文書が本格的に蓄積されるのは16世紀後半からで、せいぜい500年(実情が判るものだと18世紀を待たねばならない)。地震は数千年単位の評価軸が必要になる訳で、「史料がないから」発生しないなどということは全く当てにならない。21世紀に入ってから、地層解析は急速な進歩を遂げ、かなりのことが明らかになってきた。そうなると文献史学は本当に補助的な位置づけになるだろう。

明応地震については、東海と同時に南海地震が併発したことが確証されたそうだ。高知県四万十市・徳島県の板野郡と徳島市、大阪府東大阪市で相次いで砂脈(液状化現象跡)が発見されたのだ。684(天武13)年~1498(明応7)年の期間で、大体200年以内の間隔で南海地震が規則的に発生した可能性が高く、また同時に東海地震も伴っていたという。その後、1605(慶長10)年の慶長地震・1707(宝永4)年の宝永地震を考えると100年刻みになっている。1855(安政2)年では150年間隔が空き、今年2011(平成23)年に至るまで156年間発生していない。※1944(昭和19)年の昭和東南海地震をカウントすると100年周期に戻ったことになるが、個人的には微妙だと思う。

筆者は後書きで警告する。

都市化が進んだ地域では、開発によって地形が改変され、池や川や海を埋めた場所でも、ほとんどの人が知らずに住んでいる。土地の名称がむやみに改変されている現状では、地名から土地の履歴を察知することも難しい。明治時代前期に参謀本部が作った仮製地形図は昔の地形を知る貴重な資料で、大きな図書館で閲覧できるはずである。また、考古学の遺跡発掘調査は、地面の近くの地盤を知ることに役立つ。地震の被害は地形や地盤によって異なるが、発掘現場で地層や地震の痕跡を見て、将来の地震による被害を推測できる。

確かに明治の地図なら近代の改変は余り入っていないので参考になるだろう。また、地名も古いまま残されている。近所の図書館の規模が小さい場合には、その自治体の通史(~市史通史編のようなもの)とか、郷土の歴史本を読んでみるといいかも知れない。

 

地震に関しての個人的体験を、何かの参考になる可能性もあると思い書き留めておく。

 

関東大震災

これは祖母に聞いた話。1923(大正12)年の9月1日、小田原の酒匂にいたという。たまたま、祖父とともに庭にいたところ、グラグラと横に揺れた。それが収まったと思った瞬間、縦に大きく身体を突き上げられたそうだ。勿論立ってなどいられず、転倒した後四つん這いになった。座敷の奥に乳児だった長男(私から見ると伯父)がいたので、祖母は何とか進もうとしたが、バウンドして前に行かない。転がるようにして祖父が力ずくで駆け込み、長男を抱えだしたという。「怖い」と思う余裕はなく、身体が撥ねて困ると考えたという。

祖父母宅は国道1号線沿い。【酒匂県営住宅入り口交差点】のすぐそばにあった。暫くすると海水がくるぶしより上に浸された。とはいえ酒匂はずっと平地だったので覚悟を決めていたところ、水はそれ以上来なかった。母屋は無事だったが、裏にあった蔵は横転していた。既に零落していたが往時は大地主だったので、祖母は蔵の敷地を掘ってみた。残念なことに、何も出なかったそうだ。

伊豆大島近海地震

私が実際に経験した地震1978年近辺に起きた。一番大きかったのは1月14日の震度5~6だが、その前後で何十回も地震があったことを記憶している。当時住んでいた箱根では、夜中だと地響きの音が微かに聞こえ、「来る!」と思った瞬間、軽く突き上げられた後に横揺れがかかった。最初の頃は家族が全員集まって様子を見ていたが、その後は回数が多いこともあって放置状態だった。最も大きく揺れた本震は土曜。放課後の体育館で横向きに揺ら揺ら来て、かなり長かった。震度は5だったように記憶している。

夜間が多かったように思うが、昼間でも何回か震度4程度はあり、友人と平均台に乗ったり徒競争をしたりで遊んでいた。今から考えると地震酔いもあったようだ。

ちなみに、それなりに揺れた体験だったので、東京に来てからもこれを基準に地震を判断している。今回の地震と比べると、同じくらいに感じた(間に33年も挟んでいるので定かではないが)。但し、3月11日の私は千代田区のビルの5階におり、それなりにしなったと思われる。8階では蛍光灯が落ち、キャビネットが倒れたという。地下の食堂にいた者の話を聞くと、ラーメン丼の中身が飛び散った程度。

1978年の経験から「揺れは何度も来る」と注意を促したが、その場にいた20~30代のメンバーは1度で収まると考えていたようだ。「このような揺れは初めて」と語る者が殆どだった。そう言われれば、2000年の三宅島噴火を除き、関東が震源地の地震は絶えている。

その後色々と判ったことがあるので再び覚書。考古学の地層研究で2009年に色々と動きがあったようだ。地震関連の予算は、2006(平成18)年が中越地震の影響を受けて補正予算がかかっているものの、大体が100億円前後。2007年度以降はコツコツと研究を積み重ねたのだろう。

地震調査研究推進本部の資料

宮城県沖地震における重点的な調査観測 平成21年版

3.4 地質調査・津波シミュレーションに基づく地震発生履歴に関する研究 2009(平成21)年3月2日

文書内101ページ目から抜粋。防波堤に囲われた部分が請戸港。赤丸が貞観津波堆積物検出地点。青丸は掘削地点。

2011年の震災時は左側の予想範囲まで浸水し、港周辺は壊滅した。貞観津波の到達点と適合する結果となった。

赤丸の北側で半島状に突出している白いエリアは請戸城跡。

 

 

 

文書内102ページの福島県北部沿岸の津波浸水域想定図。

請戸港は完全に浸水するものの、福島第一原発付近は浸水エリアが狭いこともあって余り書かれていない。

地層調査が充分に行なわれておらず未知数だった可能性もある。

 

 

 

経済産業省の資料

総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会の耐震・構造設計小委員会内、地震・津波、地質・地盤 合同WGの議事録

第32回 2009(平成21)年6月24日

16ページで、委員の岡村氏が貞観地震が連動型の巨大なものであった可能性を指摘。それまでの、双葉断層からの震動対策一辺倒だった議論に疑問を示す。東京電力側は被害を示す史料がないと回答。事務局は今後の対応を約束。

第33回 2009(平成21)年7月13日

2ページで、東京電力が貞観地震想定対応を回答するが、やはり双葉断層絡みでの震動に終始。岡村氏からはスマトラ沖地震のような連動型は従来の枠組みで捉えきれないとの指摘があり、引き続き調査することとなる。

間に合わなかった研究成果

中部地震で震動が問題視されたことから、活断層とその震度が東京電力の最大の関心事だった。そのことから、スマトラ沖のような連鎖地震で津波が発生することに注力できなかった。また、福島沿岸が津波の文献伝承を持たなかった故に災害予見に達するのに時間がかかった。但し、関係者が全力かつ最優先で臨んだとしても、どれだけ被害を抑えられたかは判らない。1.5年では短過ぎて準備期間とすらいえない。もう3年あれば状況は大きく変わっていたかも知れない。

史料上の制約から明応地震の文献上の調べは諦めつつあったが、信州大学工学部の『東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)』(地震予知連絡会会報35巻)を読んで少し認識が変わった。最初にまとめ部分がある。

  1. 四地震共に遠州灘沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在するが,宝永・安政東海地震のそれは駿河湾奥まで広がっている。
  2. 四地震共に伊勢湾沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在する。
  3. 宝永・安政東海地震では甲府盆地でも震度Ⅵ以上となった。安政東海地震では富士川両岸の村々でも震度Ⅵとなった。
  4. 震度 V の範囲は宝永・安政東海地震共に近畿以北においては,ほぼ同じであるが,宝永地震がやや小さい。これは史料の量が少ないことによるのかもしれない。東南海地震のⅤの範囲は前の 2 つの地震に比べあきらかに小さい。
  5. 明応地震については史料が少なく決定的なことはいえないが,今の史料状況からいえることは,安政東海地震の震度分布と良く似ていて,その震度枠は超えない。

明応地震が江戸期の宝永・安政東海の大地震と同じ構図であったとすると、富士川両岸と甲府盆地が甚大な被害を受けたこととなる。これは妙法寺記(勝山記)が記す、武田信縄・信恵の和睦とそれに伴う足利茶々丸の切腹と適合する。

信縄と信恵が和睦したのは、甲斐国での地震被害が大きかったことを窺わせる。そして、茶々丸を伊豆から追い出した伊勢宗瑞と都留郡で紛争していた小山田氏は信恵派だった。そうなると、山内上杉氏を経由して甲斐入りした茶々丸を支えていたのは信縄だと思われる。

甲斐が地震で壊滅した場合内戦停止は当然の措置である。その際、今川氏親・伊勢宗瑞と関東管領上杉顕定のどちらを採るかが議論されただろう。駿河・伊豆・相模も被害を受けたとは思うが、それよりも甲斐が厳しい状況になったと想定すると、損害軽微だが遠隔地の顕定よりも、より被害の大きな甲斐を狙っている近接地の氏親・宗瑞のほうが脅威だったと。

安政東海地震の被害が上記レポートに抜粋されているが、被害家屋がなかった元吉原と、503軒中で全壊276・半壊145だった吉原は、約2km程しか離れていない(元吉原は今井の元吉原小学校付近・吉原は吉原本町駅付近)。こういった事例があると、同じ震災地でも拠点が壊滅した地域と軽微だった地域に分かれるだろう。

拠点それぞれについては、明応の史料が殆どないため難しい。また、安政東海を援用するとしても、沈降・隆起のほか埋め立てなどで地形が変わっている可能性も考慮せねばなるまい。とはいえ、可能性が出てきたのはよいことだ。

2月発売の予定が1ヶ月ずれ込んだと月報にあった。ただ、震災で物流が滞っていたようで3月も末日になって本当にようやく入手できた。1547(天文16)~1560(永禄3)年が収録されている。完結編の第3巻は2012年3月刊行予定とのこと。1561(永禄4)年から1570(元亀元)年がメインで、後は補遺かと予想。この後、上杉氏編を刊行してくれたら嬉しい。山内限定、顕定からでもよいので。

現在ざっと目を通したところだが、静岡県史・愛知県史と比較すると以下の点が異なるようだ。

  1. 公家の日記類が収録されていない
  2. 「検討の余地がある」とされている文書が異なる・花押影の違いなどに言及している
  3. 禁制などで何点か新しく採録されたものがありそう

ここまでアップした文書と比較しつつ、いくつかアップ・校訂していこうと思う。