『信長公記』の内容を探るため、『信長公記を読む』という書籍を参照したが、若干気になる箇所を発見したので備忘しておく。同書40頁にて太田牛一の来歴が記載されている。

太田牛一は、『信長公記』池田家文庫本巻十三の奥書に「慶長十伍二月廿三日 太田和泉守/牛一(花押)/丁亥八十四歳」と記す。(中略)また加茂別雷神社文書中の、丹羽長秀が加茂社宛に出した永禄十一年から元亀年間(1570-73)頃の文書の筆跡が牛一のものであり、牛一が長秀の右筆であったことも判明している(染谷光廣
・一九九三)。天正十年(一五八二)に信長が死ぬと加賀の松任に赴いたというが、これも長秀が賤ヶ岳の戦いの後、勝家の旧領である越前一国と加賀能美・江沼二郡を与えられ、越前府中に住したのに随ったのであろう。

参考文献 染谷光廣「『信長公記』未載の信長関係の事跡について - 太田牛一は丹羽長秀の右筆だった -」米原正義先生古稀記念論文集刊行会編『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年

 ここで気になるのが、丹羽長秀の仮名/官途名である。実際の古文書には当たっていないが、『信長公記』と『戦国人名事典』によれば、丹羽長秀は五郎左衛門となっている。
 私が収集した史料に水野和泉守近守の寄進状があるが、ここに 水野近守の給人と思われる『丹羽五郎左衛門尉』の名前がある。1525(大永5)年の書状なので、長秀本人ではなくその祖父か父と思われる。つまり、水野近守-丹羽五郎左衛門尉-太田牛一という主従関係が想定される。別記するが『刈谷市史』に記述されているように、水野近守と信元で家系の断絶が考えられることから、丹羽長秀・太田牛一が織田信長に仕えることになった経緯も関係しているかも知れない。
 また、太田が『信長公記』首巻にて、1560(永禄3)年の『鳴海原(桶狭間)合戦』を8年巻き戻した理由にも、このつながりが関係している可能性がある。今後の課題である。
※『戦国人名事典』によると、丹羽長秀の家は代々斯波氏に仕えていたが、1550(天文19)年から織田信長に仕えたという。生没年は1535(天文4)年~1585(天正13)年となっている。
※太田牛一が水野近守の陪臣だったとするならば、その官途名が同じ『和泉守』であることにも因縁が感じられる。

 物語空間における破綻は既に開陳した通りだが、現在の世上で『信長公記』が1級史料として流布している以上、本サイトでは何故史料として扱わないかを明言しておく必要があるだろう。虚構としてすら破綻していることは示したので今更理由を出さなくてもよいという判断もあるが、念のため以下に記述する。
1)年次を誤った点
 実はこの点が史料としての信頼性を著しく損ねていると考えている。『信長公記』が信憑性が高いとされる根拠として、筆者とされる太田和泉守が1560(永禄3)年より前に成人していた人物であるという奥書がある(『信長公記を読む』40頁)。同奥書によれば太田和泉守は1527(大永7)年生まれ。1560(永禄3)年当時33歳だった太田和泉守が、8年もの記載ミスをするだろうか。
 後世の異筆で誤った年次を入れたという説も目にしたが、3箇所も入っている上干支まで毎回記載している後筆は異例である。更に、文頭1箇所を除く2箇所の年月日書き込みが、筋の盛り上がりに関連していることから後筆とも考えにくいのではないか。
 これを記述したのが太田和泉守晩年のことで記憶違いをしていた可能性もある。ただ、もしそうなら「他の記述もどこまで記憶できていたのか」という根本的な不安が生じる。この叙述を読むか聞くかした人物たちは、今川義元が敗死した合戦が8年遡って1552(天文21)年となっても気づかなかったことから考えても、年代的な隔たりを感じる。
2)低湿地から丘陵地を攻めて勝っている点
 暴風雨の直後から、一瞬で45,000の今川方が崩壊しているのに、何の説明もない。具体的には以下の部分である。

空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれゝゝと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

 天文廿一年壬子五月十九日

 旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。

 雨上がりに「黒煙立てて」もないだろうと思うが、それは修辞だとしよう。前後の脈絡を除いてしまえば、織田・今川の戦いは「黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり」で終わりである。後は掃討戦が展開するのみで、2,000人足らずの織田方に追い立てられる45,000人の今川方の姿がある。
 この奇妙な叙述を説明するため、小瀬甫庵に始まって現代の戦国史研究者に至るまでが延々と頭を捻ってきた。迂回奇襲説・謀略説・略奪散開時の奇襲説など多数が議論されてきたが、そろそろ『信長公記』自体を疑い始めてもよいのではないだろうか。『信長公記』が語る本能寺での信長の最期の様子も、別史料である『本城惣右衛門覚書』とは様相を違えている。
 このような考えに基づいているからこそ、私は本サイトでの仮説構築に『信長公記』は用いない。『桶狭間合戦』の呼称も同書によるものだから、その記述を信頼していない以上、本サイトではこの合戦を『鳴海原合戦』(今川氏真書状より)と呼ぶべきではある。ただ、管見の限りでは『桶狭間合戦』のほうが一般的であるため、『鳴海原(桶狭間)合戦』と記載しようと考えている。

 2回に分けて『信長公記』で信憑性に疑念のある点を検証したが、物語として破綻していることは確実となった。筆者は何故このような破綻を招いてしまったのだろうか。
 ここから先は推測である。但し、本叙述が史実を忠実に描写したという確証がない以上は、物語の解釈として充分にその破綻経過を説明できるものと考える。
 破綻を生み出す仕組みを例示してみる。ある作者が、義元敗死の話を語らなければならなくなったと仮定しよう。作者と観衆は合戦の結末と信長のその後の活躍も知っている。ところが作者は実際の合戦を体験した訳ではなく、大まかな伝聞のみを知っていた。そこで作者は、義元が何故敗死したかを考察し、敗因として以下の項目を案出した。
■敵から丸見えの布陣により、居場所を捕捉された。
■作戦の徹底がなされず、勝手な突出で前線部隊が敗退した。
■兵力が不足していた。
■展開地点の足場が悪い上、雨にたたられた。
■強敵を弱敵と誤認して突出した。
 そのマイナス要因は、物語を語る上で当初は今川方に付せられたのではないか。プロトタイプを再現するならば以下のように考えられる。こちらのほうが、義元敗死への導入としては理に適っている。
a’)誤った判断
01)前線情報への非対応と家臣の嘲笑
 18日夕方、大高・鳴海の部隊から義元に報告が寄せられる。「大高城への兵粮搬入に乗じて、織田方は大潮になる夜に海上を移動、未明より攻撃してくるだろう」とのこと。ところがその夜、今川方の会議では作戦準備は議案に上がらなかった。雑談で時間ばかりが過ぎ、深夜だから帰るようにと指示が出た。今川の家老たちは「運が尽きる際は知恵の鏡も曇るというのはこのことだ」と嘲弄して帰った。
02)臨戦態勢構築の遅れ
 19日、予想通り、夜明けに大高・鳴海の部隊から「早くも鳴海と大高が攻撃された」と報告があった。義元は武装して食事、出陣した。主従6騎、雑兵200人程度で全速で沓掛の峠へ行くと、大高陥落と思しき煙が見えた。更に桶狭間へ移り、そこで部隊を編成した。
03)部隊の誤認
 攻撃直前、鳴海を攻囲する織田方を「あの武者は、昨夕に兵粮を使って、徹夜で行軍、大高で手間をかけ、辛労して疲れた武者だ。こちらは新手である」と誤認。それは信長本隊を含む部隊で、大高攻略部隊ではなかった。
b’)物理的不利
01)兵数
 織田方は45,000人。今川方は2,000人。今川方は先陣300名が攻撃をかけるが、50名が戦死する。
02)地勢
 信長は善照寺で休息。義元は沓掛から移動した部隊で鳴海手前の低地に布陣。畦道の両側は深田であり、高地にいる敵から行動が丸見えであると、家臣が鳴海方面への進撃時に制止。義元はそれを無視して進軍する。
03)天候
 攻撃直前、松巨島丘陵地手前に到達したものの低地から抜け出ていない今川方に、東方向より暴風雨。楠の巨木が倒れる程の突風。風雨によって、泥濘地帯にある今川方は身動きがとれなくなる。
 そしてこの直後、織田方の攻撃を受けた義元が敗死。ということであれば、筋運びの上で全く問題がない。
 ところが、この物語は単調で受けがよくなかったのではないだろうか。観衆は信長の英雄的な勝利譚を期待している。観衆を惹きつけるためには、物語前半で意外な危機に陥っている信長を語るのが効果的だ。できる限り不利な立場に追い込み、突然の天変地異で一転勝利する物語のほうが受けがいいだろう。そこで、マイナス要素を安直に信長へ転化した。そうすると、起伏に富む上スリルがあった。全ては観衆の受け狙いであり、そのための説明は省かれた。
 もしこの例のとおりであるなら、この叙述は講談のような口述であった可能性が高い。書面となると読み返しができるため、破綻している物語が目に付いてしまう。そしてその備忘録が世に出たのが『信長公記』首巻ではないか。それならば、首巻のみ記述の順番が前後している疑問点も解消される。年次の誤りも書面よりは追求されにくいだろう。
 諸々勘案すると、『信長公記』の『桶狭間合戦』は口述された物語で、事実性よりも娯楽性に重心を置いているという可能性が高いと思われる。従って、本サイトではこの叙述を機軸にした仮説構築は行なわず、同時代史料のみで1560(永禄3)年5月19日の合戦を考察する。
 本稿は『信長公記』の信憑性を完全に否定するものではない。ただ、その物語空間において叙述自らが招来した矛盾を解析したものである。

 前回までに挙げた要因を素直に受け取り、合戦までのあらましを再構築してみる。
 圧倒的に優勢な兵力を使って、義元は尾張国沓掛に進んだ。対する信長は清須から動かず、前線部将から攻撃予測が来ても作戦会議を行なわなかった。このため、家臣は信長を嘲笑した。
 5月19日未明、前線部将が予想した通り、鷲津・丸根の攻撃が始まる。その報告を受けた信長は、舞を舞った後で自らの武装・食事を行ない、全速で熱田、丹下、善照寺と移動する。側近の者5人と兵200人が従った。
 善照寺に信長が到達した時に、部隊編成が行なわれる。先に展開していた部隊300名が今川方に攻撃を行ない、50名の死者を出して退却。信長は中島に進もうとするが、家臣に「兵数が少ないことが丸見えであり、両側は深田、畦道は一人ずつしか通れない」と制止される。しかしこれを押し切って中島まで進撃。さらに進軍を続けようとするも再度家臣から制止される。信長はこれも押し切って「あの部隊は鷲津・丸根を攻撃して疲れ切っている。こちらは新手だから勝てる。首級は取らずに打ち捨てにせよ」と指示する。
 織田方が山麓に至ると、東から猛烈な風雨が襲う。沓掛峠の巨木が倒れるほどだった。
 この風雨が収まったのち合戦が描写される。ところが、ここまでの叙述を読む限りでは、織田方が壊滅し信長が討ち取られるほうが自然である。理由は以下の通り。
■織田方は2,000人以下であり、45,000人の今川方に比較して圧倒的少数である。
■事前の作戦会議が行なわれず、各部隊の作戦行動が統制できていない。
■鷲津・丸根の砦は陥落し、本隊に先行して攻撃した300人も敗退していた。
■敵対部隊の体力を誤認。
■足場の悪い低湿地上で暴風雨に襲われた。丘陵地に位置する今川方に比べ、隠れる場所もない低地にいる織田方のほうが足場が悪い。
■部隊の配置を今川方に把握されていた。
 ところがこの後の文章では、これだけのマイナス要因を背負い込んだ織田方が快勝し、義元が討ち取られる。あたかも、織田方のマイナスが一瞬にして今川方に転化されているかのように。このため、『桶狭間合戦』と呼ばれる出来事には多くの矛盾が発生し、多数の解釈がなされてきた。
■織田方は2,000人であり、45,000人の今川方に比較して圧倒的少数である。
→今川方は遠征軍であり非戦闘員が過半であった。
→尾張国の石高は高く、実は2,000人より大部隊だった。
→今川方は散開しており義元本隊は少人数だった。
■事前の作戦会議が行なわれず、各部隊の作戦行動が統制できていない。
→信長は情報漏洩を恐れ誰にも作戦を明かさなかった。
→今川方の意表を衝くため単独で急速な移動を行なった。
■鷲津・丸根の砦は陥落し、攻撃した300人も敗退していた。
→両砦陥落・300人の攻撃失敗は織り込み済みで今川本隊誘出の好餌だった。
■敵対部隊の体力を誤認。
→前進に消極的な家臣を意図的に誤導した。
■足場の悪い低湿地上で暴風雨に襲われた。
→既に丘陵地帯に移動済みだった。
→風は今川方にとっての逆風だったので損害は今川方に発生した。
■部隊の配置を今川方に把握されていた。
→低地から攻撃する筈がないだろうとの油断を誘った。
 一つずつ論考すべきであるがそれは他日を期す。総じてまとめるならば、兵数検証以外の解釈は全て「義元が敗死し信長が生き残った」という結果から逆算された結果論に過ぎない。兵数検証にしても近世石高からの敷衍となっており根拠に乏しい。
 多数の試論がありながら決着を見ない背景には「この叙述は史実に近いもの」という思い込みがあるからではないだろうか。これだけ破綻したストーリーが貴重に扱われているのは、『信長公記』で他の叙述が同時代史料と符合する、織田方の同時代史料に1560(永禄3)年5月に関連したものが殆どない(織田方から見た情報は本叙述が唯一となる)という理由が考えられる。ところが、『信長公記』本体と首巻は成立を異にするとの見解もあり、自筆本も見つかっていない(『信長公記を読む』参照)。首巻と本体の信憑性は異なると考えるべきだろう。そもそも、記載年次が8年も異なっており史料としての前提すら成り立たない。
 では、本叙述はどのように成立したのだろうか。次回それを推理してみる。

 『信長公記』首巻「今川義元討死の事」は2段で構成される。第1段はいわゆる『桶狭間合戦』の叙述、第2段は因果説明(山口左馬助を誅殺した義元が左馬助の元所領で敗死したという点)と合戦後日譚である。
 このうち、第1段(以下「本叙述」と記載)は論理的・物理的に破綻した構成になっている。他の史料との比較は行なわず、まずこの文章がその物語空間においてどのように破綻しているかを摘出し、何故破綻したかの推測を行なってみる。
 文章の前半は、織田信長の誤った判断と不利な状況の説明に費やされている。
a)誤った判断
01)前線情報への非対応と家臣の嘲笑
 18日夕方、佐久間大学・織田玄蕃の部隊から信長に報告が寄せられる。「大高城への兵粮搬入に伴い、織田方の援軍が来ないように潮の干満を考慮し、夜に砦を取り払うように今川方は指示を受けるだろう」とのこと。ところがその夜、織田方の会議で作戦準備は議案に上がらなかった。雑談で時間ばかり過ぎ、深夜だから帰るようにと指示が出た。家老たちは「運が尽きる際は知恵の鏡も曇るというのはこのことだ」と嘲弄して帰った。
02)臨戦態勢構築の遅れ
 19日、予想通り、夜明けに佐久間大学・織田玄蕃の部隊から「早くも鷲津山と丸根山が攻撃された」と報告があった。信長は敦盛の舞を舞った後で武装して食事、出陣した。主従6騎、雑兵200人程度で全速で熱田へ行くと両砦陥落と思しき煙が見えた。更に丹下の砦から佐久間氏が陣を張る善照寺砦へ移り、そこで部隊を編成した。
03)部隊の誤認
 攻撃直前、西に展開した今川方を「あの武者は、昨夕に兵粮を使って、徹夜で行軍、大高へ兵粮を入れた後、鷲津・丸根で手間をかけ、辛労して、疲れた武者だ。こちらは新手である」と誤認。それは義元本隊を含む部隊45,000名で、鷲津・丸根攻略部隊ではなかった。
b)物理的不利
01)兵数
 今川方は45,000人。織田方は2,000人足らず。織田方は佐々隼人正・千秋四郎の300名が別途攻撃をかけるが、50名が戦死する。
02)地勢
 義元は『おけはざま山』という高地で休息。場所は近世の桶狭間村近辺の丘陵上だと考えられる。
 信長は清須から移動した部隊が鳴海の南、中島近辺の低地に布陣。畦道の両側は深田であり、高地にいる敵から行動が丸見えであると、家臣が中島への進撃、中島からの進撃時に制止。
03)天候
 攻撃直前、織田方が山麓に到達した際に東方向より暴風雨。楠の巨木が倒れる程の突風。
c)指示の矛盾
01)首級の打ち捨て指示
 信長は「打拾てになすべし」と指示するが、その直後に前田又左衛門・毛利河内らが首級を持参。また、攻撃成功後は「若者たちが追いつきながら、二つ三つと、手に手に首級をとって御前へ来た。首級はどれも清須で首実検すると仰せであった」という状況となる。信長の指示はその前後にわたって守られていない。
 このように、本叙述筆者自らが織田方のマイナス要因を列記している。個々に検討してみよう。
 a-1,2から、今川方侵攻への対処が遅れていること、対策についても家臣に指示がなく嘲られていることが描かれる。また、抜き打ちに近い形で信長が出陣しており作戦の周知徹底はない。さらにa-3では、対峙する敵部隊の体力を読み違えている。実際にどうだったかはともかく、本叙述においては、大高攻撃部隊と義元本隊は別に描かれている。筆者誤記でない限り、本叙述内の信長は誤認識をしている。
 b-2から、信長が最前線まで進出しており、それを今川方が看取していることが描写されている。今川方は信長本隊を狙うことが可能だった。300人の部隊が突然攻撃をかけたのは、a-1と関係して作戦の立案とその周知ができていなかったことを暗示している。また、b-1では今川方が4.5万人と圧倒的兵力を持っていると記述。さらにb-3では、深田に位置する織田方の背後からすさまじい暴風雨がやってきたと述べている。中島近辺の足場が悪いことは繰り返し描写されており、素直に読むならば風雨によって織田方は身動きとれなくなることは確実である。
 c-1では、織田信長の首級打ち捨て指示と矛盾する、首級獲得の描写が多数あるのが問題である。ただ、この指示が描かれなかったなら矛盾は生じなかったため、この部分だけ、他の叙述から複製したのではないかと思われる。もしそうならば、c-1は織田方不利の根拠とはならない。

 一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。

 一、翌年四月上旬、三州梅ヶ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死侯。爰にて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長も御感なされ、豹の皮の大うつぼ、蘆毛の御馬下され、面目の至りなり。野陣を懸けさせられ、是れより高橋郡一御働き、端ゝゝ放火し、推し詰め、麦苗薙ぎせられ、爰にても矢軍あり、加治屋村焼き払ひ、野陣を懸けられ、翌日、いぼの城、是れ叉、御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、直ちに矢久佐の城へ御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、御帰陣。

 一、上総介殿信長公の御舎弟勘十郎殿、龍泉寺を城に御拵へなされ侯。上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合はせられ、信長の御台所入り篠木三郷、能き知行にて侯。是れを押領侯はんとの御巧みにて侯。勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。勝ちに乗って奢り、柴田権六を蔑如に持ち扱ひ候。柴田無念に存じ、上総介殿へ又御謀叛おぼしめし立つるの由申し上げられ候。是れより信長作病を御構へにて、一切面へ御出でなし。御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、御袋様並びに柴田権六異見申すに付いて、清洲へ御見舞に御出で、清洲北矢蔵、天主、次の間にて、

 弘治四年戊午霜月二日

河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。此の忠節仕り侯に付て、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ侯。

→改訂信長公記 「家康公岡崎の御城へ御引取りの事」(首巻)

一、家康は岡崎城へ立てこもり、居城とした。

一、翌年4月上旬、三河国梅ヶ坪の城に軍を派遣し、麦苗をなぎ倒したところ、、屈強の射手が出撃して厳重に防衛した。足軽合戦となり、前野長兵衛が討ち死にした。平井久右衛門が上手な射撃を行ない、城内から褒美として矢を送った。信長も喜んで、豹の皮の大うつぼと蘆毛の馬を下賜された。名誉の至りである。野外に陣をおいて、ここから高橋郡で軍事展開し、すみずみまで放火して派遣し、麦苗をなぎ倒した。ここでも矢の応酬があり、加治屋村を焼き払った。再び野外に陣をすえて、翌日は伊保城に軍を派遣、麦苗をなぎ倒し、すぐに八草城へも派遣して麦苗をなぎ倒し、帰陣なさった。

一、上総介殿(信長公)の弟である勘十郎殿は、龍泉寺を城に仕立て上げられた。尾張国上郡岩倉の織田伊勢守と申し合わせて、信長の御台所の収入となる篠木三郷はよい知行だったので、これを差し押さえてしまおうという計画だった。勘十郎殿の若衆に津々木蔵人がいた。家中の主だった侍たちは皆津々木の配下となったところ、彼は勝ちに乗って奢り、柴田権六をないがしろに扱っていた。柴田は無念に思い、上総介殿に「(勘十郎が)再び謀叛をお考えのようだ」と申し上げた。そこで信長は仮病を使い表には一切出ないようにした。兄弟だから見舞に行くべきだと御袋様と柴田権六が意見し、勘十郎殿は清洲に見舞に行った。そして清洲北矢蔵の天主、次の間にて、

 弘治四年戊午霜月二日

 河尻と青貝に指示して、殺害なされた。この忠節によって、のちに越前という大国を柴田に預けられた。

 天文廿一年壬子五月十七日

 一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆

 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

 是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、

 御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

 天文廿一壬子五月十九日 午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へば、〓(口+童)とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より又、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よくゝゝ承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

 前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

 右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍かと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれゝゝと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

 天文廿一年壬子五月十九日

 旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付きゝゝ、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

 一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化侯へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷取出に構へ、山口左馬助居陣なり。此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下ゝゝと生害させられ侯。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきなり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく侯ひしなり。山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御目に懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し、討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ事、此の節なり二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死侯なり。

 爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟千艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、町人どもよせ付けて、〓(口+童)と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り侯ひき。

 上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日頸御実検侯ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上侯。近比名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ侯なり。御手柄申す計りもなき次第なり。

 さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り侯。降参申し侯間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。

→改訂信長公記 「今川義元討死の事」(首巻)

天文21年壬子5月17日

一、今川義元が沓懸へ参陣した。大高城へ兵粮入れで、助けがこれないような潮の干満を考慮し、19日朝に砦を攻略するのは確実だとの情報を聞き、18日夕方に佐久間大学・織田玄蕃より報告申し上げた。その夜の話では、作戦関係は一切なく、色々と世間の雑談だけだった。すでに遅くなったので帰宅するようにと指示が出た。家老たちが言うには「運の末には知恵の鏡も曇るとは、この状況だろう」と各自嘲弄して帰って行った。予想通り未明に、佐久間大学・織田玄蕃より「早くも鷲津山・丸根山へ敵が攻めてきた」との報告が次々入った。この時信長は、敦盛を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と舞った後、「法螺貝を吹け、具足をよこせ」と指示して、物具を装備し、立ちながら食事して兜をかぶり出陣なさった。その時お伴した御小姓衆は、

 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

 これら主従6騎、熱田まで3里(約12km)を一気に駆けて、辰刻(08時頃)に源大夫殿宮の前から東をご覧になると、、鷲津・丸根の陥落と思われる煙が上っていた。この時、馬上は6騎、雑兵は200程度であった。浜手から行けば距離は近いが、満潮が入り込み馬が通れなかった。熱田より『かみ道』を、揉みに揉んで駆けつけ、まず丹下の砦にお出でになり、そこから佐久間が陣を張る善照寺へ赴かれ、部隊を編成。軍勢を揃えられてその状況をご覧になる。

 敵の今川義元は45,000を率いて桶狭間山で人馬の休息を行なっていた。

 天文21年壬子5月19日 午刻(12時頃)、戌亥(北西)に向かって備えを構えた。鷲津・丸根を攻め落して、これ以上の満足はないということで、謡を三番うたったとのこと。この度家康(松平元康)は、朱武者として先鋒とされて大高に兵粮を搬入し、鷲津・丸根で苦労してお疲れになったので、人馬の休息として大高に陣を張っていた。信長が善照寺に現われたのを見て、佐々隼人正・千秋四郎の二首が、300名程度の人数で、義元に向かって足軽に出撃したところ、どっと反撃され、その鎗の下に千秋四郎・佐々隼人正を初めとする約50騎が討ち死にした。これを見て、(義元は)「義元の矛先には、天魔鬼神も耐えられないだろう。心地よい」と喜んで、ゆっくりと謡をうたわせて、陣を据えた。信長はこれをご覧になって中島へ移ろうとするのを「道の脇は足場のない深田で、一騎打ちの道です。(織田方が)寡兵である様子が敵方から確実に見えます。恐れ多いことです」と家老たちが、馬の轡の引手に取りついて口々に申し上げたが、それを振り切って中島へ移った。この時、2000名に足らない人数であると報告があった。中島から更に部隊を出そうとした。今度は無理やりすがりついて、(家老たちは)留まるよう申し上げたのだが、ここでのお言葉は、「各自よく聞くように。あの武者は、宵に兵粮を使って徹夜で来ている。大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根で苦労して疲れた武者である。こちらは新手だ。その上、兵数が少なくても大軍を恐れないように。運は天にある。この言葉を知らないか。攻撃してきたら退き、相手が退いたら引きつけよ。事ここに至っては、覆い倒して追い崩すことは考えの内である。(首級は)分捕をせず、打ち拾てにせよ。合戦に勝つならば、この場にいる者は家の面目となり、末代の高名となるだろう。ただ励むように」というお言葉のところに、

 前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

 右の衆が、手に手に首級を持ってやってきた。右の(衆の言う)趣旨を、一つ一つお聞きになり、山際まで部隊を進められたところ、急な雨が、石や氷を投げるように、敵の顔に打ちつけた。味方には後ろから降りかかっていた。沓掛の峠の松の下にある、2抱えから3抱えの楠は雨で東に倒れた。あまりのことに「これは熱田大明神の神軍か」と申したことだ。空が晴れるのをご覧になって、信長は鎗を取って大音声を上げ、「それ、かかれ」と仰せになる。黒煙を立てて攻撃してくるのを見て、(今川方は)水がまくれるように、うしろへ『くわっ』と崩れた。弓、鎗、鉄炮、幟、指物などを乱すのと同じく、今川義元の塗輿も捨てて崩れて逃げた。

 天文21年壬子5月19日

 「旗本はこれだ。これを攻撃せよ」との命令があり、未の刻(14時頃)に東に向かって攻撃した。初めは300騎ばかりが円形になって義元を囲み退却したが、2~5回ほど帰して戦ううち、次第に人数がいなくなり、ついには50騎ばかりになった。信長は(馬から)下りて若武者たちと先を争う。突き伏せ、突き倒して、猛り立った若者たちは、乱れかかって、鎬を削り鍔を割り、火花を散らし、火焔を降らした。そうはいっても、敵味方の武者で色は紛れなかった。ここにおいて馬廻と小姓の方々の負傷・戦死は数知れず。服部小平太は義元に攻撃し、膝の口を切られて倒れた。毛利新介が義元を打ち伏せて首級を取った。これは、先年清洲城で武衛様(斯波氏)をことごとく攻め殺した際、弟を1人生け捕りにして助けられた。その果報がたちまち来て義元の首級をとったのだろうと人々の噂になった。運が尽きたということだろうか。桶狭間という所は、谷間が入り組んで、深田は足場が悪く、高低や茂みなどで危険な場所は限りなかった。深田に逃げ込んだ者は、動けずに這いずり回るのを若者たちが追いついて2つも3つも手に手に首級をとって御前へと向かった。首級は全て清洲で実験するとの指示があり、義元の首級をご覧になってご満足この上なかった。往路と同じ道を通って帰陣された。

一、山口左馬助と九郎二郎の父子に対して、信長の父織田備後守は長年目にかけて鳴海城に入れていた。思いがけずお亡くなりになったところ、程なくして厚恩を忘れ、信長へ敵対して今川義元へ忠節をなして鳴海城へ引き入れ、智多郡を今川方にして、その上、愛智郡に押し入って笠寺という所に拠点を構え、岡部五郎兵衛・葛山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助が在城した。鳴海には子息の九郎二郎を配置し、笠寺に隣接する中村郷に砦を構えて、山口左馬助の陣とした。このように重ね重ね忠節していたところ、駿河へ左馬助と九郎二郎が呼ばれ、褒美は少しもなく、むざむざと殺されてしまった。世は末だとはいっても日月はいまだ地に堕ちていないようで、今川義元が山口左馬助の在所へ来て、鳴海で45,000の大軍をなびかしたが、それも役には立たず、1000分の1である信長のわずか2,000の兵に追い立てられ、逃げて死んでしまった。浅ましい巡り合わせで、因果は歴然、善悪2つの道理、天道は恐ろしいことだ。山田新右衛門という者がおり、本国は駿河の人で義元が格別目をかけていた。討死のことを聞いて馬を返して討死した。本当に命は義に比べれば軽いものということは、このことを指す。二股城主の松井五八郎とその一門一党200人は枕を並べて討ち死にした。このように(今川方の)お歴々はあらかた討ち死にした。

 河内郡二の江の坊主で『うぐゐらの服部左京助』が、義元への援軍として武者舟1,000艘ほど、海の上で蜘蛛の子を散らしたように、大高の下である黒末川口まで乗り入れた。ところが別段活躍もせずに乗り帰すこととなり、帰りしなに熱田の湊へ舟を寄せて、遠浅の所から下船して町ロヘ火をかけようとしたところを、町人たちが駆けつけてどっと攻撃し数十人を討ち取った。そこで何も得ずに河内へ帰っていった。

 上総介信長は、馬の前に今川義元の首級を持たせ、お急ぎになったので日のあるうちに清洲に着かれた。翌日頸実検となった。首級の数は3,000余だった。そうしたところ、義元の差された『鞭』、『弓懸』を持っていた同朋を下方九郎左衛門という者が生け捕りにして進上した。近年珍しい名誉だとして褒美があり、大変喜ばれた。義元の前後を指定し、その他の首級も逐一見知っていたので、名字を書きつけた。この同朋には、熨斗つきで大刀・脇差を下賜され、その上で、10人の僧衆を編成し、義元の首級を同朋に持たせて駿河国にお送りになった。清洲より20町(約2.2km)南にある須賀口で、熱田へ向かう海道に義元塚を築かれて、弔いとして千部経の読経と大卒都婆を建立された。今度の鹵獲物から、義元が普段差していた秘蔵の左文字の刀を召し上げられて、何度も試し切りをしてから、信長が普段差されていた。お手柄は申し上げられるものではない次第である。

 さて、鳴海城に岡部五郎兵衛が立てこもっていた。降伏を伝えてきたので、一命は助けてやった。大高城・沓懸城・池鯉鮒城・原・重原城、5箇所は同時に退散した。

 一、鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんげと云ふ古屋しきこれあるを御取出にかまへられ、

 水野帯刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 真木与十郎 真木宗十郎 伴十左衛門尉

 東に善照寺とて古跡これ在り、御要害に侯て、佐久間右衛門、舎弟左京助をかせられ、南中島とて小村あり。御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、

 一、黒末入海の向ふに、なるみ、大だか、間を取り切り、御取出ニケ所仰せ付けらる。

 一、丸根山には、佐久間大学をかせられ、

 一、鷲津山には、織田玄蕃・飯尾近江守父子入れをかせられ侯ひき。

→改訂信長公記 「鳴海の城へ御取出の事」(首巻)

一、鳴海城は、南側は黒末川があり、潮の干満が城下まである。東には谷があり、西は深田。北から東には山が地続きとなっている。鳴海城から20町(約2.2km)隔てて、丹下という古屋敷があったのでこれを砦として構えられ、(以下の人員を配した)
 水野帯刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 真木与十郎 真木宗十郎 伴十左衛門尉
 東に善照寺という遺跡があり要害の地だったので、佐久間右衛門とその弟、左京助を配した。南に中島という小村があったので砦として梶川平左衛門を置いた。
 一、黒末の湾を挟んだ鳴海と大高の間を遮断する砦を2箇所指示した。
 一、丸根山には佐久間大学を配置し、
 一、鷲津山には織田玄蕃と飯尾近江守父子を入れて置いた。