治部少輔存命不定ニ相煩由候、只今境ヒ目ニ候間、於江城可養性候、彼番頭ニ定置候間、此状明日八日可為参着候、九日ニ必其地ハ打立、十日ニ関宿へ可打着候、定テ煩珍重ノ由候間、番渡彼是ノ儀、無届ノ儀可有之候、治部少輔同心・被官相談、左様ノ処トハ心静ニ致シ、彼地へ打着候ハ、則治部少輔トハ江城へ可相返候、猶ゝ大事ノ城ニ候間、番渡ノ処トハ同心・被官表立衆ト留置、厳重ニ可致之候、謹言、

  追テ、人衆ハ四百ノ積ニ候、

七月七日

 氏直(花押)

島津左近太夫殿

伊丹三郎兵衛殿

中条出羽守殿

→戦国遺文 後北条氏編2365「北条氏直書状写」(小田原編年録附録四)

天正10年に比定。

治部少輔が病んで危篤とのこと。現在前線にいますから、江戸城で療養するべきでしょう。そちらの番頭を命じますので、この書状により明日8日に到着して下さい。9日に必ず出発し、10日に関宿へ達するように。きっと症状が厳しいでしょうから、番を渡す手続きなどはこちらに届けなくても進めて下さい。治部少輔の同心・被官に相談する際は冷静に対処して、あの地へ打ち着いたらすぐに治部少輔は江戸城へ返して下さい。なおなお、大事の城ですから、番を渡すところとは同心・被官のうち表立った衆と留め置いて、厳重にして下さい。

今度一戦敵三千余討捕、歓喜更難尽紙面候、殊氏直独立之出馬得大利、子孫長久歴然ニ候、就中従最前被走廻、父子共ニ敵被討捕由、誠ニ心地好大慶候、委細幸田口上ニ附与候、随而一箪一合■候、恐ゝ謹言、

八月廿四日

 氏政(花押)

垪和伊予守殿

→戦国遺文 後北条氏編2359「北条氏政書状写」(垪和氏古文書)

天正10年に比定。諸家蔵文書七・安得虎子十所収では「六月」となっている。

 この度一戦して敵3,000余を討ち取り、歓喜は更に紙面に尽くし難いことです。特に氏直が独り立ちしての出馬で大利を得て、子孫長久は歴然のこととなりました。とりわけ最近までご活躍なさって父子ともに敵を討ち取ったとのこと。本当に心地よく大慶です。詳細は幸田の口上に付け与えました。1箪1合をお送りします。

2007年8月27日の桶狭間合戦に挑むが最初のエントリだった。

このサイトを開設してちょうど5年目となる(実際にはその前に同じドメインでPukiwikiを使ったプレサイトもあったが、余り更新していなかったのでカウントしていない)。これも一つの契機、日頃思っていることを取り留めなく書いてみようと思う。

いわゆる『桶狭間合戦』(このサイトでは『鳴海原合戦』)について、1次史料だけで再構築しようと考えていたのだが……思ったより史料の読み込みが必要で、データ入力作業をしているだけの展開になっている。5年を経て登録文書数は未だ千にも満たぬ。

現在の主題である鳴海原合戦については、2~3の仮説は既に出来上がっている。とはいえ戦国遺文今川氏編の完結が2013年秋となるため、それを待って仮説を完成できればと考えている状態だ。後2年といったところか……。

私事だが、去る3月の初旬に心臓を患うこととなった。不惑を大きく越えて桑年の方が近くなってしまった身。『終わり』は意識していたが、これ程強烈に思い知らされるとは予期していなかった。発作時の対応を誤らず無理をしなければ何事もないのだが、油断は禁物と医師に言われている。

一方奇遇なことに、生業も多事多端となってきた。私が勤めているのは小さな出版社だが、最早斜陽となって長い業界だから大変だったりする。ここ数年は、自分の部署だけではなく全社案件を扱う事が激増しているが、今夏から兄弟会社の諮問も相次いでいる。恐らく後1年は落ち着かないだろう。

とにもかくにも、図書館や古書店に立ち寄る回数も減り、歴史への着想に思いを巡らす頻度も落ちてきた。この隙のなさとGalaxyNoteによる古文書入力の簡便さから、ついついサイトの内容も文書アップばかりになっている。これは少し危険で、文書を読む度に小さな発見や解釈の迷いがあって「今度まとめてみよう」と思いつつも放置している。これを書き残しておかなければ、私の半端な解釈がそのまま流布してしまいそうだ。何とかせねば。

今振り返ると、5年前の文書解釈は結構未熟だ。それなりに解釈をこなしてきた目で見ると汗顔の至りである。何れ修正を試みたい。などと偉そうに書いているが、私は完全に自己流の解釈でしかない。以前「下行米」への指摘を匿名の方から頂戴したが、このような系統だった知識がないのだ(高校2年の日本史が最後)。戦国期の文書は解釈が難しく、識者の方もまだまだ勘で解釈している部分があると思う。だから私のような素人が跋扈する余地があるのだけれど、それでよいのかは自分でも疑問に思う。

江雪帰洛ニ付而、一筆令啓述候、去十九日御目見申候、種ゝ様ゝ御懇意之御諚共、誠過分忝候、毎度如申候、連ゝ御取成故ニ候、就中女房衆昨日罷着候、是又御肝煎故、旁参洛之上、会面を以可申宣候、恐ゝ謹言、

八月廿八日

見性斎 氏直(花押)

施薬院 床下

→小田原市史2089「北条氏直書状(折紙)」(東京都目黒区 尊経閣文庫所蔵)

天正19年に比定。

 板部岡江雪が京に帰るに当たり、一筆申し上げます。去る19日にお目見え申しました。色々様々なご懇意のお取り計らいがあり、本当に過分でかたじけないことです。毎度申しているように、ずっと折に触れお取り成しいただいたからです。とりわけ女房衆は昨日到着しました。これもまたご手配によるものです。何れにせよ京に行った上でお目にかかって申し上げましょう。

「上包」

「山上強右衛門尉殿 従小田原」

参百五拾石

 此内

弐百五拾石 関東糺明之上、郷名可顕之、

百石 河内之内

 此内 六十六石 野中村之内

    卅四石 丹上之村之内

以上

右知行、為堪忍分先遣候、氏直身上之依是非、追而可重恩賞候、併走廻次第候、仍如件、

天正十九年[辛卯]

八月廿五日

山上強右衛門尉殿

→小田原市史2088「北条氏直判物写(折紙ヵ)」(相州文書 大住郡和田仲太夫所蔵)

 350石。このうち、250石は関東で協議した上で郷の名前を明らかにするだろう。100石は河内国の内でこの内66石は野中村のうち、34石は丹上之村のうち。以上。右の知行は堪忍分としてまずお渡しします。氏直身上の是非により、追って重ねての恩賞もあるでしょう。そして活躍次第です。

此度御祈念頼入候処、今迄之儀者存侭ニ候、然ニ来春ハ唐口之御動、我ゝも罷立候間、御本尊其元ニ被指置、弥御祈念頼入候、猶様子山角治部大輔可申入候、恐ゝ謹言、

八月廿四日

見性斎 氏直(花押)

高室院 玉床下

→小田原市史2087「北条氏直書状写」(和学講談所本集古文書七十三)

天正19年に比定。

この度ご祈念を頼み込んでおりましたところ、今までのことはご存知のままですが、来春の唐方面の作戦、我々も出立することとなりましたので、ご本尊はそちらに指し置かれ、ますますご祈念を頼み入ります。さらに山角治部大輔が申し入れるでしょう。

此間者、御物遠候間、内ゝ従此方可申入候由存候処、■給候、忝存候、仍小田原へハ、如何様之御番手候哉、模様無心元候、承度存候、当口替儀無之候、滝川ハ厩橋在城、万端可有御推量候、爰許ハ五日之内大普譜を存立候、其地も可為御同意歟、然者、一名物花被懸御意候、当口ニ花も無之候、如何様以次自是可申候、恐ゝ謹言、

五月廿三日

 安 氏邦(花押)

大駿 御返事

→戦国遺文 後北条氏編2342「北条氏邦書状」(小田原城天守閣所蔵安居文書)

天正10年に比定。

 ここのところご無沙汰しておりましたので、内々にこちらからご連絡しようと思っていましたところ、ご連絡をいただきかたじけなく思います。さて、小田原にはどのような番手だったのでしょうか。ご様子心もとなく、お伺いできればと思います。こちらの口で変化はありません。滝川は厩橋に在城しています。万端ご推量下さい。こちらは5日以内に大普請を存じ立てています。そちらもご同意なのでしょうか。ということで、名物の花、御意にかけられました。当口には花もありません。諸々、次の機会に申し上げましょう。

態令啓上候、其以来御無音罷過候之間、内ゝ以愚札可申宣候之処、往還不自在付而遅延、不意御無沙汰被申候、然者今度長ゝ留守中無怠慢御精誠之由其聞ヘ候、単ニ御祈念故拙者不及申家中各無異儀候、殊当口御動之様子者甲州号若御子地ニ被立馬候、家康者本府中ニ在陣又新府中と申にも人衆二三千在陣候、彼地へ当御陣庭候間、六七里程ニ而毎日鉄炮合候、無二可被遂御一戦由候、敵者無衆御当方者大軍其上信甲之衆悉御味方ニ被参、逐日御威光増進候間、於御勝利者眼前候、我ゝ事者先衆ニ候之間随分可走廻候、尚以御祈念聊無御油断可在之儀、専要奉存候、何様当表於落成者、重而可捧愚状候、此由令得得尊意候、恐惶敬白、

追啓、山椒被遂御意候、即賞翫被申候已上、

八月十二日

 高城下野守 胤辰(花押)

→戦国遺文 後北条氏編2390「高城胤辰書状写」(甲斐国志百二十一)

天正10年に比定。宛所欠。

 折り入ってご挨拶申し上げます。あれ以来ご連絡もなく過ごしておりましたので、内々に私から書状でご挨拶するところ、交通が途絶して遅延し、意にならずご無沙汰申しておりました。ということで、この度長々の留守中、怠慢もなく精を入れられているとのこと、聞こえております。単なる祈念ですから、私が申すに及ばず家中おのおの異義はありません。当口での作戦の様子。甲斐国若御子の地に馬を立てられました。家康は本府中に在陣し、また新府中と申すところにも部隊2~3,000が在陣しています。その地へこちらの御陣庭がありますので、6~7里ほどで毎日鉄砲を撃ち合って、無二に一戦を遂げるだろうとのことです。敵は少数で御当方は大軍、その上信濃・甲斐の衆は全て御味方に参り、日を追ってご威光が増進していますから、御勝利は目前です。我々は先衆なので随分駆け巡りまいsた。さらにご祈念をもっていささかの御油断もなさらないこと、専要に存じます。こちら方面であったことはまた書状でお伝えします。このことをご了承下さいますように。

[切紙]去十二、於深沢表敵一人討捕候、誠感悦候、弥可抽戦功者也、仍如件、

二月十五日

(北条氏政花押)

増田三左衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編 2137「北条氏政感状」(村田武氏所蔵文書)

天正8年に比定。

去る12日、深沢方面において敵1人を討ち取りました。本当に感悦です。ますます戦功にぬきんでるように。

「上包 大津六右衛門殿」

[切紙]去十二、於深沢表敵一人討捕候、誠感悦候、弥可抽戦功者也、仍如件、

二月十五日

(北条氏政花押)

大津六右衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編 2138「北条氏政感状写」(相州文書所収大住郡六右衛門所蔵文書)

天正8年に比定。

去る12日、深沢方面において敵1人を討ち取りました。本当に感悦です。ますます戦功にぬきんでるように。