北条氏直、北条治部少輔の危篤に伴い、島津・伊丹・中条の3氏を番頭とする
治部少輔存命不定ニ相煩由候、只今境ヒ目ニ候間、於江城可養性候、彼番頭ニ定置候間、此状明日八日可為参着候、九日ニ必其地ハ打立、十日ニ関宿へ可打着候、定テ煩珍重ノ由候間、番渡彼是ノ儀、無届ノ儀可有之候、治部少輔同心・被官相談 …
治部少輔存命不定ニ相煩由候、只今境ヒ目ニ候間、於江城可養性候、彼番頭ニ定置候間、此状明日八日可為参着候、九日ニ必其地ハ打立、十日ニ関宿へ可打着候、定テ煩珍重ノ由候間、番渡彼是ノ儀、無届ノ儀可有之候、治部少輔同心・被官相談 …
今度一戦敵三千余討捕、歓喜更難尽紙面候、殊氏直独立之出馬得大利、子孫長久歴然ニ候、就中従最前被走廻、父子共ニ敵被討捕由、誠ニ心地好大慶候、委細幸田口上ニ附与候、随而一箪一合■候、恐ゝ謹言、 八月廿四日 氏政(花押) 垪 …
2007年8月27日の桶狭間合戦に挑むが最初のエントリだった。 このサイトを開設してちょうど5年目となる(実際にはその前に同じドメインでPukiwikiを使ったプレサイトもあったが、余り更新していなかったのでカウントして …
江雪帰洛ニ付而、一筆令啓述候、去十九日御目見申候、種ゝ様ゝ御懇意之御諚共、誠過分忝候、毎度如申候、連ゝ御取成故ニ候、就中女房衆昨日罷着候、是又御肝煎故、旁参洛之上、会面を以可申宣候、恐ゝ謹言、 八月廿八日 見性斎 氏直( …
「上包」 「山上強右衛門尉殿 従小田原」 参百五拾石 此内 弐百五拾石 関東糺明之上、郷名可顕之、 百石 河内之内 此内 六十六石 野中村之内 卅四石 丹上之村之内 以上 右知行、為堪忍分先遣候、氏直身上之依 …
此度御祈念頼入候処、今迄之儀者存侭ニ候、然ニ来春ハ唐口之御動、我ゝも罷立候間、御本尊其元ニ被指置、弥御祈念頼入候、猶様子山角治部大輔可申入候、恐ゝ謹言、 八月廿四日 見性斎 氏直(花押) 高室院 玉床下 →小田原市史20 …
此間者、御物遠候間、内ゝ従此方可申入候由存候処、■給候、忝存候、仍小田原へハ、如何様之御番手候哉、模様無心元候、承度存候、当口替儀無之候、滝川ハ厩橋在城、万端可有御推量候、爰許ハ五日之内大普譜を存立候、其地も可為御同意歟 …
態令啓上候、其以来御無音罷過候之間、内ゝ以愚札可申宣候之処、往還不自在付而遅延、不意御無沙汰被申候、然者今度長ゝ留守中無怠慢御精誠之由其聞ヘ候、単ニ御祈念故拙者不及申家中各無異儀候、殊当口御動之様子者甲州号若御子地ニ被立 …
[切紙]去十二、於深沢表敵一人討捕候、誠感悦候、弥可抽戦功者也、仍如件、 二月十五日 (北条氏政花押) 増田三左衛門殿 →戦国遺文 後北条氏編 2137「北条氏政感状」(村田武氏所蔵文書) 天正8年に比定。 去る12日、 …
「上包 大津六右衛門殿」 [切紙]去十二、於深沢表敵一人討捕候、誠感悦候、弥可抽戦功者也、仍如件、 二月十五日 (北条氏政花押) 大津六右衛門殿 →戦国遺文 後北条氏編 2138「北条氏政感状写」(相州文書所収大住郡六右 …