武田法性院信玄公御代惣人数之事
御親類衆

一、武田典厩(様) 旗黒地に白丸 二百騎

一、逍遥軒(様) 旗色きれて見えず 八十騎

一、勝頼公 旗白地に大文字 二百騎

一、一条右衛門大夫殿 旗白地にすそあか 二百騎

一、武田兵庫殿 旗色書付なし (百)十五騎

一、武田左衛門(佐)殿 旗色書付なし 百騎

一、仁科殿 旗色きれてみえず 百騎

一、望月殿 旗色きれて見えず 六十騎

一、かづら山殿 旗色書付なし 百廿騎

一、板墻殿 旗色書付なし 百廿騎

一、木曽殿 旗色書付なし 二百騎

一、穴山殿 旗色きれてみえず 二百騎

御譜代家老衆

一、馬場美濃守 旗白地黒山道 百廿騎

一、内藤修理正 旗色白地どうあか 二百五十騎

一、山県三郎兵衛 旗黒地に白桔梗 三百騎

一、高坂弾正 旗くちばの四方 四百五拾騎

一、小山田弥三郎 旗色きれてみえず 二百(五十)騎

一、甘利左衛門ノ丞 旗白赤晴(段)々 百騎

一、栗原左兵衛 旗白地黒わくのて 百騎

一、今福浄閑(同息 兄丹波守 弟市左衛門) 旗きれて見えず 七十騎

一、土屋右衛門ノ丞 旗黒地に白鳥井 百騎

一、秋山伯耆守 旗きれてみえず 五十騎

一、原隼人佐 旗色きれて見えず 百廿騎(内五十騎は外様近習)

一、小山田備中守 旗色きれてみえず 七十騎

一、跡部大炊助 旗色きれて見えず 三百騎

一、浅利 (旗)きれてみえず (三百)百廿騎

一、駒井右京 (旗)きれて見えず 五十五騎(内五十騎外様近習、常は在郷に居る)

一、小宮山丹後 (旗)きれてみえず 三十騎

(一、跡部美作 旗色きれてみえず 五十騎)

足軽大将衆

一、横田十郎兵衛 騎馬三拾騎 足軽百人

一、原与左衛門 騎馬十騎 足軽五十人

一、市川梅印 騎馬拾騎 足軽五拾人

一、城伊庵 騎馬拾騎 足軽(三)拾人

一、多田治部右衛門 足軽(二)十人

一、遠山右馬ノ介 騎馬十騎 足軽三十人

一、今井九兵衛 足軽十人

一、江間右馬丞 足軽三十人

一、関甚五兵衛 足軽十人

一、小幡又兵衛 騎馬三騎 足軽十人

一、大熊備前守 騎馬三十騎 足軽七十五人

一、三枝新三(十)郎 騎馬三騎 足軽十人

一、長坂長閑 騎馬四十騎 足軽四十五人

一、下曽禰(根) 騎馬廿騎 足軽五十人

一、曽根内匠 騎馬十五騎 足軽三十人

(一、上原民部入道随翁軒 騎馬三騎 足軽三十人)

一、曽根七郎兵衛 足軽七十人

一、武藤喜兵衛 騎馬十五騎 足軽三十人

一、三枝勘解由左衛門 騎馬三拾騎 足軽七十人

一、あんま(三右衛門)(騎馬五騎) 足軽五十人

一、小幡弥左衛門 騎馬十二騎 足軽六十五人

→甲府市史 「武田信玄時代の家臣団書き上げ」(甲陽軍鑑)

新人物往来社刊『甲陽軍鑑』より甲府市史が再録。

今度為加勢親父式部丞于至遠州出陣候之処、以不慮之仕合、於二保中鉄炮死去、無是非次第候、雖氏政御下知候、当方同陣之上如此之儀、併対信玄忠節之至候、芳情末代不可令忘却候、誠其方悲歎察入候、於信玄愁欝難露紙面候、因茲只今以興禅院申候、仍為香典金襴三巻進之候、恐々謹言、

六月廿一日

信玄(「晴信」朱印)

(宛所欠)

→甲府市史 資料編第1巻 「武田晴信書状」(甲州古文書)

1573(元亀4)年・大藤与七宛に比定。

 この度、加勢のため父親の式部丞が遠江国に出陣した際、不慮の合戦があり、二俣において鉄砲に当たって死去しました。是非の次第もありません。氏政の命令とはいえ、当方と同陣の上このようなこととなりました。そして信玄に対する忠節の至でもあります。芳情は末代まで忘却することはありません。本当にあなたの悲歎は察し入ります。信玄の悲しみは紙面に表わし切れません。ということで只今興禅院が申します。香典として金襴三巻を進呈します。

去月以来向白川御張陣由候、節躰如何、無御心元候、因茲関宿様被成和睦、御下知由被仰下候、哀ゝ任 上意被申念願候、委曲新介方申候、恐々謹言、

九月十九日

氏康(花押)

佐竹殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状」(佐竹文書)

1560(永禄3)年に比定。

去る月以来白川に向かって陣を張っておられるとのこと。様子はいかがかとお心元なく、このことにより関宿様(足利義氏)が和睦なさるよう、御下知を仰せ下さいました。『哀々』と上意に任せて念願を申されています。詳しくは新介方より申します。

追而 一樽一種進之候

久不能音問候、抑去年就越衆令出張、太田美濃守・成田下総守、忘年来重恩、度ゝ背誓句血判旨、忽企逆心事、誠以無是非候、抑近年当方為可静遠国弓箭、為始左衛門大夫、宗面ゝ向地指置、手本ニ人数無之付而、備不及了簡、城ゝ引籠躰、無念千万候、然間、国中乱入故、山野躰経年月ハ、弥侍・人民共可退転間、至于来秋者、一途ニ一戦落着候、甲州晴信同意候、然者、於一戦可得勝利致様、又者仏神三宝願力、如何様ニ可有之候、老師可任御意見候、就中関宿様御事迄、(後欠)

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状」(箱根神社文書)

1561(永禄4)年に比定。

 ご無沙汰しております。そもそも、去る年に越後衆が出撃してきた際、太田美濃守と成田下総守が年来の恩義を忘れ誓文や血判の内容に背きました。本当に是非もないことです。近年は我々も遠い国の紛争を沈めるために北条左衛門大夫をはじめとする主要な面々を派遣しており、手元には人数もおりませんでした。結果有効な手段も行なえず城に引きこもる状態となり無念千万でした。ということで国中に乱入されてしまったので、山野が荒らされ戻るまでに時間がかかりますから、いよいよ侍・人民が逃げ去って行くでしょう。来る秋になったら、一途に決戦を挑むことに落着して、甲斐国の武田晴信も同意しました。ですから決戦で勝利できるように、または仏神三宝の力を、どのようにするべきか老師のご意見に任せましょう。特に関宿様(足利義氏?)のことまで(後欠)

重而企使僧候、先日者、雖聊尓千万ニ候、愚存申達候キ、遠境与云、深雪之時分候之条、参着難量間、幾筋茂令申候キ、参着候哉如何、無御心許候、抑如露先書、駿・甲・相親子兄弟同前之間ニ候之処、国競望之一理を以、信玄駿州へ乱入、今川殿苻中敗北、遠州懸川之城江被相移候、自当方以船三百余人加勢被指遣候間、於彼城先堅固ニ候、自信玄当方へ如被申越者、此度之手切、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然候、然間信越之境深雪不及人馬砌、駿州可有仕置候、以此一理、動干戈之由候、然則今般当方有御一味、対信玄累年之可被散積欝事、所仰候、就御同意者、早ゝ御報待入候、行之模様其上可申合候、更御存分難計間、先愚存計令啓候由、可得御意候、恐ゝ謹言、
正月七日
北条源三
氏照(花押)
越苻江

→甲府市史 資料編第1巻 「北条氏照書状」(上杉家文書)

1569(永禄12)年に比定。

 重ねて使い僧を送ります。先日は不躾ながら私の考えを申し上げました。遠距離でもあり、雪の深い季節でもありましたから到着は難しいと考え、何通りにも伝達しています。到着しましでしょうか、心もとなく思います。先の書状で披露したように、駿河・甲斐・相模は親子兄弟も同じ間柄だったのですが、国がほしいというだけの理由で信玄が駿河に乱入し、今川殿は府中で敗北、遠江国掛川の城へ移られました。当方より船で300余人を加勢として派遣していますので、あの城はとりあえず堅固です。信玄より当方へ通達してきたのは「今度の手切れは、年来今川殿が越後と通じて信玄を滅ぼす企みを持っていたことが歴然となったためである。だから信濃国と越後国の国境が雪で覆われ人馬が通れない時期に駿河国を処置するべく、この一理をもって兵を動かした」とのこと。そのような訳で現在当方に与していただき、信玄に対する累年の鬱憤を晴らすべきです。仰せのところ、御同意いただけるなら早々にご連絡をお待ちしております。具体的な内容はその上で話し合いましょう。お考えを更に推し量るのは難しいところですが、先ずは私の考えを申し上げました。ご納得いただけますように。

内ゝ自是可申届候処、預御使候、本望候、

御所様小金迄被移 御座之由、先以目出度令存候、証人衆近日相調可申候、可御心安候、先ゝ、御台様遠行、誠以無是非次第候、氏康心中過御察候、抑去年以来関宿之地御籠城、被尽粉骨候、御忠信無比類候、何様以面可申延候、恐々謹言、

七月十五日

氏康(花押)

野田殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状写」(野田家文書)

1561(永禄4)年に比定。

 内々にこちらから申し届けたところ、使者を預けてくれて本望です。
 御所様(足利義氏?)が小金までお移りになったことを聞き、まずはめでたいことと思っています。人質となる人々を近いうちに揃えますので、ご安心下さい。ともあれ、御台様が亡くなったことは本当に是非もない次第です。氏康の心中をお察し下さい。去る年以来、関宿の地で籠城、ご活躍は比類のない忠信です。直接お会いした際に色々申し述べることとします。

館林之下ニ舟橋為懸、急用之間、諸道具各申付候ヘ共、猶不足候、誠乍御無心之儀、不顧思慮申届候、五日之■■相調奉行ニ渡給候者、可為喜悦候、恐々謹言、

十月六日

氏康(花押)

野田殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状」(野田家文書)

1561(永禄4)年に比定。

 館林の下(南?)に舟橋を懸架して下さい。急用なので、諸道具の用意を各自に指示しましたが、まだ足りません。本当に無心のこととなりますが、思慮を顧みずお願いします。5日(以内?)に調達して奉行に渡していただけるなら、とても嬉しく思います。

如来意、依無題目、久不能音問候、向■城取普請、悉出来、人数三日以前納候、可御心易候、就中 大上様御不例之由候、相替儀候者、可承候、委曲岩本可申候、恐々謹言、

五月廿八日

氏康(花押)

野田殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状写」(野田家文書)

1560(永禄3)年に比定。

 来意のように、用件もなかったのでご無沙汰しておりました。城攻め用に普請して全て完成し、軍勢も3日前には収容します。ご安心下さい。とりわけ『大上様』が亡くなったそうで、その相続の件は承りました。詳しくは岩本が申します。

幸便間、令啓候、於御当地無二被遂忠信、被尽粉骨段、御高名之至、誠以不及是非次第候、然者、早ゝ可出馬候処、両総相調子細依有之、令遅ゝ候、此上ハ急度致出陣、葛西筋儀、涯分可走廻候、条ゝ義板橋申含候処、路次不自由故、于今江城逗留、無曲候、恐々謹言、

卯月十五日

氏康(花押)

野田殿

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状写」(野田家文書)

1560(永禄3)年に比定。

 幸いにして伝手があったのでお便りします。ご当地において無二の忠信を遂げ大活躍されたとのこと。ご高名の至りであり本当に是非もないことです。早々に出馬しようとしたところ、上総・下総の調整で問題があり遅れています。この上は取り急ぎ出陣して、葛西筋のことは頑張って奔走します。それぞれのことは板橋に申し含めています。連絡路が不自由で現在は江戸城に留まっています。宜しくない状態です。

横瀬敵陣へ出候付而、其地初口ニ成候、此度可抽忠儀事、専要候、仍鉄炮薬玉進之候、猶用所付而重而可進候、委曲使者可申候、恐々謹言

十月四日

氏康(花押)

(宛所欠)

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状」(千葉県市立郷土博物館所蔵文書)

1560(永禄3)年・富岡氏宛に比定。

 横瀬の敵陣に出撃するに当たり、その地での緒戦となります。今回忠義にぬきんでることが大切です。鉄砲の火薬と弾丸をお送りします。更に必要であれば追加で送ります。詳しくは使者が申します。