[折紙]此度可致忠信由、しんみやうニ候、はたらきしだい、大くるみあいわたすに付而者、馬上之者に十貫つゝ、かちしゆニ者三貫つゝ、いといもり下く屋ぬます之内をもつて、ふちよすへしく候、いつれもあひたんち、きつそくちうしんもつともに候、当地中山、今夜ほん意に候条、すくニくらうちとりつめへく候、大て者なくもかいとうをほさせられ候、しんたいの儀者、のそミのことくひき立へき者也、仍如件、
壬[「翕邦把福」朱印]
極月廿四日
新木河内守殿
同大前殿
新木六郎兵衛殿
同千助殿
もろ田雅楽助殿
林出雲守殿
和田ぬき平左衛門尉殿
新木与兵衛尉殿
同与三衛門殿
同大学助殿
角田大前殿
新木七郎衛門尉殿
賀藤筑前守殿
同丹後守殿
藤井内匠助殿
もろた采女殿
新木弥十郎殿
つゝミ筑後守殿
新木雅楽助殿
宮沢甚左衛門尉殿
此外
弍百四人
[奥上書]「衆中」
→戦国遺文 後北条氏編2467「北条氏邦朱印状」(林厚一氏所蔵文書)
天正10年に比定。
この度忠信なさるだろうとのこと、神妙です。活躍次第で大胡桃をお渡しする件については、馬上の者に10貫ずつ、徒歩衆には3貫ずつ、糸井・森下の小屋『ぬます』の中から扶助するでしょう。それぞれが相談して、急いで忠信を行なうのがもっともです。この中山は今夜手に入れたので、すぐに倉内へ取り詰めるでしょう。『大て者なくもかいとうをほさせられ候』(=大手は南雲街道を干させられました?)、進退については望みの通り引き立てるでしょう。
朱印状
[切紙]去年十月廿八日、向倉内相動、於森下、敵一人討捕、高名無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、
未 二月十五日
(北条氏邦花押)
荒木主税助殿
→戦国遺文 後北条氏編2496「北条氏邦感状」(林厚一氏所蔵文書)
天正11年に比定。
去る年10月28日、倉内に向かって出動し、森下において敵1人を討ち取りました。高名は比類がありません。ますます戦功にぬきんでるように。
感状
[竪切紙]急度令啓候、今般遠境御長陣、万端御苦労令察候、遠国就令在陣、疎意之様ニ存計候、仍徳川家康和親望之趣、頻而申候間、時儀落着、尽未来際可有入魂ニ相定候、然者今十二武州へ被納馬候条、三日之内令帰宅候、軈而可為御帰国候、遂面上時分可申承候、恐ゝ謹言、
追啓、松川美作守致死去候由、無是非候、御陣中無御心元候間、自小田原以使可申候、以上、
霜月十二日
松田尾張入道 憲秀(花押)
上野筑後守殿
御陣所
→戦国遺文 後北条氏編2446「松田憲秀書状」(高橋義隆氏所蔵文書)
天正10年に比定。
取り急ぎご連絡します。今般遠い前線で長陣となりまして、色々とご苦労なさっていることお察しします。遠い国での在陣いただき、懇意にできなかったという思いばかりです。さて徳川家康から和睦を望んでいるとの趣旨、しきりに言ってきましたので、タイミングもあって落着しました。未来の際が尽きるまで入魂にするよう定めました。ということで、今日12日に武蔵国へ馬を納めましたから、3日以内に帰宅します。すぐにご帰国なさるでしょうから、面談を遂げた折にお話を承ります。
書状
[切紙]去月廿七沼田衆向津久田相動砌、及仕合押崩、敵二人討捕候、高名之至、神妙候、弥可走廻候也、
霜月十二日
(北条氏直花押)
狩野大学助とのヘ
→戦国遺文 後北条氏編2443「北条氏直感状」(狩野勝次郎氏所蔵文書)
天正10年に比定。
去る月27日に沼田衆が津久田に向かって攻撃した際に、戦って押し崩し、敵2人を討ち取りました。高名の至りで至妙です。ますますご活躍下さい。
感状
[切紙]去月廿七沼田衆向津久田相動砌、及仕合押崩、敵一人討捕候、高名之至、神妙候、弥可走廻候也、
霜月十二日
(北条氏直花押)
須田弥七郎とのヘ
→戦国遺文 後北条氏編2444「北条氏直感状」(須田文書)
天正10年に比定。
去る月27日に沼田衆が津久田に向かって攻撃した際に、戦って押し崩し、敵1人を討ち取りました。高名の至りで至妙です。ますますご活躍下さい。
感状
[切紙]去月廿七沼田衆向津久田相動砌、及仕合押崩、敵一人討捕候、高名之至、神妙候、弥可走廻候也、
霜月十二日
(北条氏直花押)
須田勘丞とのヘ
→戦国遺文 後北条氏編2443「北条氏直感状」(須田文書)
天正10年に比定。
去る月27日に沼田衆が津久田に向かって攻撃した際に、戦って押し崩し、敵1人を討ち取りました。高名の至りで至妙です。ますますご活躍下さい。
感状
去秋当方江一味之由、及聞ニ付而、可及一翰雖覚悟候、二三ヶ年隠遁、閉口之間、乍存打過候、然珍札并馬一疋[河原毛]、鮭十尺、到来喜悦候、何様自是可申候条、不能具候、恐ゝ謹言、
十二月二日
氏政(花押)
長尾左衛門入道殿
→戦国遺文 後北条氏編2449「北条氏政書状」(志賀慎太郎氏所蔵文書)
天正10年に比定。
去る秋に当方へ一味とのこと、聞き及びましたので、一度書状を送ろうと決めていましたが、2~3年隠遁して口を閉ざしており、存じながらも時間を過ごしてしまいました。そうしていたら、書状と河原毛の馬1頭、鮭10尺が到着して喜悦しています。どのような様子かはこの者が申しますから、詳しくは申しません。
書状
[切紙]三挺 鉄炮
三張 弓
十本 鑓
四人 歩者
已上廿人
右、小諸為当番、大道寺駿河守指置候、依之上州衆指添候、大切之番候間、右之員数一人無不足、同名衆同心衆之内覚之衆を以、可相勤候、何も記交名可指上、番帳ニ可留置候、於小諸走廻様ハ、何分ニも城代候間、大道寺如申可走廻段、指越物主候、堅ゝ可申付者也、仍如件、
[虎朱印]霜月五日
倉賀野淡路守殿
→戦国遺文 後北条氏編2441「北条家朱印状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)
天正10年に比定。
3張、弓。10本、槍。4人、歩者。以上20人。右は、小諸の当番として、大道寺駿河守にお預けします。これにより上州衆を指し添えます。大事な番ですから、右の員数に1人も不足なく、一族・郎党のうち腕に覚えのある者たちによって勤めますよう。全員の名簿を提出し、番帳に控えて下さい。小諸においての活躍は、なにぶん城代ですから大道寺の指示に従って活躍なさるよう、物主を派遣して手堅く指揮なさるように。
朱印状
去十七於甲州北谷表、敵一人討捕候、高名之至感悦候、弥可走廻者候也、
八月廿二日
(北条氏直花押)
山本与太郎とのヘ
→戦国遺文 後北条氏編2401「北条氏直感状写」(武州文書所収秩父郡清右衛門所蔵文書)
天正10年に比定。宛所は「旧埼玉県史古文書調査票」から補ったという。
去る17日甲斐国北谷方面で敵1人を討ち取りました。高名の至り感じ入りました。ますます活躍なさいますよう。
感状写
[切紙]去十七於甲州北谷表、敵一人討捕候、高名之至感悦候、弥可走廻者也、仍如件、
八月廿二日
(北条氏直花押)
→戦国遺文 後北条氏編2400「北条氏直感状」(加藤嘉之氏所蔵文書)
天正10年に比定。宛所欠。
去る17日甲斐国北谷方面で敵1人を討ち取りました。高名の至り感じ入りました。ますます活躍なさいますよう。
感状