来十六日、下総松戸へ可為着陣候、道筋者、房州然与一同可為尤候、恐ゝ謹言、

十一月五日

 氏直(花押)

小幡縫殿助殿

→小田原市史1708「北条氏直書状写」(東京都杉並区小幡徹氏所蔵)

小田原市史・後北条氏年表ともに天正13年に比定。

 来る16日、下総国松戸へ着陣なさいますように。経路については、安房守と同行なさるのが一番でしょう。

今度者、乍毎度之儀人衆在陣、苦労之至候、仍任現来、両種一樽、進之候、委曲令期末信之時候、恐ゝ謹言、

七月三日

 氏直(花押)

小幡上総介殿

→小田原市史1747「北条氏直書状」(東京都練馬区松田仙三所蔵小幡文書)

小田原市史・後北条氏年表ともに天正14年に比定(市史は氏直花押から)。宛所は尊経閣文庫所蔵には「小幡兵衛尉殿 自小田原」の上書のある懸紙がある写しが存在する。

 この度は毎度のことながら部隊を在陣させ苦労の至りです。手持ちの物ではありますが、酒肴2種と酒1樽を進呈します。詳しくは『末信』の機会を期します。

御本領之儀者、武田家之砌相違以来、小幡拘来候条、無是非候、然間永禄十年[丁卯]武田信玄被申合候後閑之儀、進置候、相当之軍役、厳重之儀、可然候、自今以後、武辺別而於御稼者、涯分引立、可懇切申候、恐ゝ謹言、

天正十一年[癸未]正月十一日

 氏直

後閑宮内少輔殿

→小田原市史1500「北条氏直判物写」(群馬県前橋市 群馬大学附属図書館所蔵文書)

 ご本領のことは、武田家になった際に相違して以来、小幡氏が知行していました。是非もありません。そこで1567(永禄10)年に武田晴信が策定した後閑のこと、ご進呈いたします。相当する軍役は厳重に勤めますように。これより以降、軍事について格別に戦果を挙げるなら、とりわけ引き立てると親しく申しましょう。

[前欠]所壱貫余為作用水も、無相違、何事も如先規両郷申合可致之旨、依仰状如件、

天正五年[丁丑]卯月十日[虎朱印]

 評定衆 上野介 康定(花押)

小幡太郎左衛門尉殿

→小田原市史1244「北条家裁許朱印状写」(諸氏家蔵文書)

 所1貫文余りの用水も相違なく、どんなことも前の規約通りに両郷が合意して進めるように。

今度不慮之造説出来由候、余無心元間、令啓候、抑薩埵陣之内、及数度於諸口戦功走廻、難尽紙上候、其上小幡三河守・同長根両人を引付、不浅忠信処、証據も証文も無之義、浄法寺申出歟、誠非可取上候、無証文而加様之義申懸付者、誰有而安隠可遂味方哉、殊更其方老母鉢形へ指越、本城・中城ニ此方人数指置由候、一点疑心無之候、尚以其方無越度致給者、中城・本城新太郎人数可指置義専一候、浄法寺ハ無証據義申出間、可払当方候、恐ゝ謹言、

七月朔日

 氏康(花押)

安保左衛門尉殿

→戦国遺文 後北条氏編1271「北条氏康書状」(埼玉県立文書館所蔵安保文書)

永禄12年に比定。

 この度思いがけない雑説が出てきたとのこと。あまりに心許ないので、ご連絡しました。そもそも薩埵の陣では数度にわたり諸口で戦功に活躍したことは筆舌に尽くしがたいものです。その上、小幡三河守と小幡長根の両名を引き抜いたのは忠信浅からぬところを、証拠も証文もないことを浄法寺が申し出たものでしょうか。本当に取り扱ってはならないことです。証文がなくてこのようなことを訴えるのでは、誰であっても安穏と味方になってくれるでしょうか。とくにあなたの老母が鉢形へ行き、本城と中城へこちらの部隊を配置しています。1点の疑心もありません。さらに、あなたに落ち度がないと判れば、中城と本城は新太郎の部隊を配備するのが大切でしょう。浄法寺は証拠もなく訴え出たのですから、当家へは出入り禁止とするでしょう。

小机筋大豆戸郷出置之候、可知行者也、仍状如件、

永禄四年 辛酉

七月七日

 氏政判

小幡源太郎殿

→小田原市史492「北条氏政知行充行状写」(記録御用所本古文書二)

 小机の大豆戸郷を拠出します。知行するように。

今井之村百姓等、早ゝ在所へ罷帰、可作毛候、横合狼籍之儀、不可有之者也、仍如件、

壬子[虎朱印]三月十四日

小幡尾張■殿

→小田原市史283「北条家虎朱印状」(埼玉県本庄市 鈴木弘所蔵文書)

天文21年に比定。

 今井村の百姓を早々に居住地へ戻らせ、作付けを行わせて下さい。横合いから無理をいうことは認めません。

如来札、三日以前、於結城外張際取切所、敵出人衆候条、先衆四手五手申付追崩、随分之者数百人討捕候、委細安房守可申遣候、恐ゝ謹言、

潤七月八日

氏政(花押)

富岡六郎四郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 1926「北条氏政書状写」(富岡家古文書)

天正5年に比定。

 いただいた報告のように、3日より前、結城の外郭線を攻撃したところ、敵が部隊を出してきたので、先鋒4手と5手を指示して追い崩し、随分の者たち数百人を討ち取りました。詳しくは安房守が連絡するでしょう。

今度於奈胡桃、敵壱人討捕候、高名感悦候、弥可走廻候、仍如件、
十一月十日「小田原之御判」

塚本仁兵衛殿

→戦国遺文 後北条氏編 2112「北条氏政感状写」(上毛伝説雑記二)

天正7年に比定。

 この度名胡桃において、敵1人を討ち取りました。高名に感悦しました。ますますご活躍下さい。

茂呂御陣より罷越兵粮并馬のかいれう、其外かい取度由、いか様之手引頼候共、一駄ハ不及申、一俵なり共、不可出、若出候ハゝ、荷馬を取へし、此儀、松山根小屋之足かる衆心ニ入、見まハり、かたく可申付、但、陣衆へ者、一さい少之義なり共、いろうましき者也、以上、

寅 八月十六日[「長則」朱印]

松山根小屋足かる衆

本郷宿中

→戦国遺文 後北条氏編 2013「上田長則朱印状写」(武州文書所収比企郡要助所蔵文書)

天正6年に比定。

毛呂のご陣より来た者に兵糧と飼葉その他を買い取りたいと言われても、いかなる手引きだったとしても、一駄はいうに及ばず、1俵であっても出してはならない。もし出されてしまったら、荷馬を奪うように。このことは、松山根小屋の足軽衆は心に留め、見回りを堅く申し付ける。但し、陣衆には僅かたりとも間違いがあってはならない。