1562(永禄5)年に葛西城を乗っ取ったとされる本田正家について、戦国遺文の文書を中心に同時代史料から追ってみる。文の前の引用部分は抜粋なので、全文はこの記事後半をご参照のこと。

<1562(永禄5)年>

●3月21日

「今度忠節致様」
「於江戸筋一所、足立ニて二ヶ所可遣候」
「於当方走廻見届付者、如何程も可任望候」
→戦北748「北条氏康判物」

「各同心者共、此方へ馳来上、於何之地も、郡代非分儀申懸処、罪科事、背在之間敷候、殊更太田指南上ハ、聊横合義、不可有之候、心安存可走廻者也、仍如件」
→戦北749「北条氏康判物」

これってよくよく読むと、本田が敵方から寝返る予定だったんじゃないかと思える。江戸筋で1か所と足立で2か所と書いている知行は「可遣=つかわすだろう」となっている。戦北749の方も、諸書では「本田は太田康資の寄子だった」としているが、原文は「後北条に寝返ったら太田指南の保護下にあるから安心できる」という保証であって、太田康資が寄親であるとは限らない。

「それぞれの同心の者も、こちらに馳せて来るのだから、どの地の郡代も異議は唱えない。特に太田が指南するのだから、横合いは僅かでも許さないだろう。安心して活躍してほしい」

何れも氏康の花押が据えられている。この時の当主は氏政だが、隠居氏康の独断で寝返りの褒賞が決められたように思う。

●3月22日

「葛西要害以忍乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事」
「一ヶ所、曲金」
「二ヶ所、両小松川」
「一ヶ所、金町」「
「代物五百貫文は同類衆中江可出事」
→戦北750「北条氏康判物」

相変わらず氏康の花押だけで「氏康(花押)」ではなく花押のみという略式な書状。この段階でも交渉は続いていて、恐らく本田から「具体的な知行地を教えて」という要望が出されて応じたものと思われる。「指示したのだからご褒美として知行を下されるだろう」としていて、まだ本田は作戦を実行していないようだ。

この3年前に完成した所領役帳で確認すると、遠山丹波守が深く関わっていることが窺えた。

葛西郡(給人は全て江戸衆)
金曲   遠山丹波守 150貫文
東小松川 遠山丹波守 45貫文
西小松川 太田大膳亮 15.3貫文
金町半分 荻野    17貫文
     豹徳軒   34.8貫文

●4月16日

「一ヶ所、葛西、金町」
「一ヶ所、同、曲金」
「一ヶ所、同、両小松川」
「一ヶ所、江戸廻飯倉」
「現物五百貫文、衆中」
→戦北759「北条氏政判物」

ここでようやく当主の氏政が出てきて、知行候補として飯倉が足されている。役帳で飯倉を見ると、3名が知行している。

飯倉之内前引   御馬廻衆・大草左近大夫 39.78貫文
飯倉内桜田善福寺  江戸衆・島津孫三郎  38.15貫文
飯倉之内      江戸衆・飯倉弾正忠  2.87貫文

このうち大草左近大夫(康盛)は、氏康死去後に隠居する程の氏康派で、ここでも氏康の意向が微妙に入り込んでいる気配がある。

●4月30日
「去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候」
→戦北765「北条氏政感状」(吉田文書)

この文書で、4月24日に青戸にある葛西城が乗っ取られたことが判る。次に取り上げる8月12日の文書では「去春忠節」とあることから1~3月の春の間に作戦は決行されたと思っていた。4月下旬は夏だが、ここは現代の感覚と異なる表記なのかも知れない。

●8月12日

「去春忠節ニ付而金町郷被下候之処、自小金兎角横合申候歟、是ハ可為一旦之儀候、此上者無相違可致入部者也、仍如件」
→戦北774「北条家朱印状」

ここからは後北条家の当主印である虎朱印状が出てくる。「小金(高城氏)から、金町の知行について異議が唱えられたのだろうか?」と疑問文があって、本田から後北条氏へ、高城氏の入部妨害を訴え出たのだと思われる。ただそれに対する指示が奇妙。「これは暫定的な措置です。この上は相違なく入部なさって下さい」として、言い訳というより言い抜けを指示しているように見える。また、奏者がいない点、これまで一貫して「本田とのへ」だった宛所が「本田殿」といきなり厚礼になっている点から考え、氏康が独断で発給したイレギュラーな印判状の可能性が高いのでは、と思う。

●8月26日

「於足立郡知行義可被下由、御約諾雖在之、越谷・舎人被下与ハ御留書ニ無之候」
「然者雖両郷大郷候、重而一忠信致之付者、速可被下候」
(虎朱印)遠山左衛門奉
→戦北783「北条家朱印状」

その後もこの案件は氏政と本田の間でこじれ続けたようで、「足立郡において知行を下されるとのお約束があるが、越谷・舎人を下さるとは御留書にはない」としている。御留書は氏康が手元に置いた備忘録のようなものか。本田は、越谷・舎人を与えられる筈だと抗議したようだ。どちらも大郷だから、更なる活躍によって与えるかどうかを決めるという建前的な回答。こちらは奏者もいて「本田とのへ」であることから氏政の正式ルートだろう。

越谷については情報が見当たらなかったが、舎人は戦北から本田には与えられていないことが判った。

舎人郷   永禄8年に太田氏資が宮城四郎兵衛に与える
舎人中之村 元亀4年宮城四郎兵衛着到内記載・20貫文
舎人本村  元亀4年宮城四郎兵衛着到内記載・60貫文

●8月29日

「飯倉郷左近私領卅九貫文」
「此外内所務卅貫文」
「公方領卅貫文」
(虎朱印)石巻勘解由左衛門尉奉
→戦北784「北条家朱印状」

恐らくこれが最終的な落着点だろう。飯倉で大草康盛の私領39貫文が拠出されている。「内所務」「公方領」は内容が判らない(書籍によっては内所務を検地外所領、公方領を後北条氏直轄領とする)。

<1563(永禄6)年>

●8月12日
「先年葛西忠節之時被下候御判形両通、可被成御披見候、可致持参候、仍如件」
(虎朱印)山角奉
→戦北825「北条家朱印状」

翌年、知行について本田がまた抗議したようだ。だったらその時の御判形両通を見てやるから持ってこいという流れになっている。文書は「亥年」とあるから永禄6年比定でよいと思うが、「葛西忠節之時」が「先年」としているのが気になる。「去年・昨年」と書くのが通例だと思うので、殊更過去形にしたかったのか、もしくは比定年として1575(天正3)年が正しいのか。現段階では判断できない。

この文書からは「本田殿」となっていて、被官としての地位は確定したと思われれる。

<1569(永禄12)年>

●閏5月20日

「父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件」
(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉
→戦北1251「北条家朱印状」

時は流れて、葛西での活躍をした本田がなくなり、息子が幼少だったので「来年いっぱいまでは伯父甚十郎が手代になれ」と指示した上で家督を継承させた。宛所は「本田熊寿殿」となっていて、完全に武家被官となっている。この後、本田熊寿は無事家督を継いで、近世は旗本となった。

——————————-データ編

●原文一覧(戦国遺文後北条氏編)

1562(永禄5)年

3月21日

今度忠節致様、無紋就馳来者、於江戸筋一所、足立ニて二ヶ所可遣候、但、於当方走廻見届付者、如何程も可任望候、仍状如件、
三月廿一日/(北条氏康花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0748「北条氏康判物」

各同心者共、此方へ馳来上、於何之地も、郡代非分儀申懸処、罪科事、背在之間敷候、殊更太田指南上ハ、聊横合義、不可有之候、心安存可走廻者也、仍如件、
三月廿一日/(北条氏康花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0749「北条氏康判物」

3月22日

葛西要害以忍乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事。一ヶ所、曲金。二ヶ所、両小松川。一ヶ所、金町。以上。一、代物五百貫文、同類衆中江可出事。以上。右、彼地可乗取事、頼被思召候、此上ハ不惜身命、可抽忠節者也、仍状如件、
永禄五年三月廿二日/氏康(花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0750「北条氏康判物」

4月16日

知行方。一ヶ所、葛西、金町。一ヶ所、同、曲金。一ヶ所、同、両小松川。一ヶ所、江戸廻飯倉。以上。一、現物五百貫文、衆中。以上。右、葛西地一力ニ乗取、至于指上申者、無相違可被下候、仍状如件、
永禄五年卯月十六日/(北条氏政花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0759「北条氏政判物」

4月30日

去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候、神妙ニ候、向後弥可走廻者也、仍如件、
壬戌卯月晦日/(北条氏政花押)/興津右近との■
戦国遺文後北条氏編0765「北条氏政感状」(吉田文書)

8月12日

去春忠節ニ付而金町郷被下候之処、自小金兎角横合申候歟、是ハ可為一旦之儀候、此上者無相違可致入部者也、仍如件、
壬戌八月十二日/(虎朱印)/本田殿
戦国遺文後北条氏編0774「北条家朱印状」

8月26日

於足立郡知行義可被下由、御約諾雖在之、越谷・舎人被下与ハ御留書ニ無之候、然者雖両郷大郷候、重而一忠信致之付者、速可被下候、涯分不惜身命可走廻者也、仍如件、
戌八月廿六日/(虎朱印)遠山左衛門奉/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0783「北条家朱印状」

8月29日

飯倉郷左近私領卅九貫文、此外内所務卅貫文、公方領卅貫文、以上九拾九貫文、此分請取可申者也、仍如件、
戌八月廿九日/(虎朱印)石巻勘解由左衛門尉奉/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0784「北条家朱印状」

1563(永禄6)年

8月12日

先年葛西忠節之時被下候御判形両通、可被成御披見候、可致持参候、仍如件、
亥八月十二日/(虎朱印)山角奉/本田殿
戦国遺文後北条氏編0825「北条家朱印状」

1569(永禄12)年

閏5月20日

父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件、
永禄十二年己巳壬五月廿日/(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉/本田熊寿殿
戦国遺文後北条氏編1251「北条家朱印状」

●戦国遺文後北条氏編地名索引

金曲 項目なし
金町 1-249/252/256、4-37/42
両小松川 1-249/252
飯倉 1-252/259、2-189
舎人郷 1-258、2-8
舎人中之村 2-210
舎人本村 2-210

●武蔵田園簿 関係地の生産高

曲金 468.956石
曲金新田 355.171
金町 1499.993
西小松川 1438.474
東小松川 1855.254
飯倉 149.76

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●参考1:永禄3年比定で、野田氏が葛西筋での活躍を指示されている

幸便間、令啓候、於御当地無二被遂忠信、被尽粉骨段、御高名之至、誠以不及是非次第候、然者、早ゝ可出馬候処、両総相調子細依有之、令遅ゝ候、此上ハ急度致出陣、葛西筋儀、涯分可走廻候、条ゝ義板橋申含候処、路次不自由故、于今江城逗留、無曲候、恐々謹言、
卯月十五日/氏康(花押)/野田殿
戦国遺文後北条氏編0626「北条氏康書状写」(野田家文書)

●参考2:永禄7年比定で、太田康資が葛西を包囲する敵陣に移って寝返る

葛西へ敵動ニ付而、新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候、寄子・加世者事不及申、中間・小者迄相改、葛西へ不紛入様可申付候、若又其地江敵動候者、為始両人悉妻子を孫二郎ニ相渡、中城江入候て、可走廻候、先忠此時候、恐々謹言、
正月朔日/氏康(花押)/太田次郎左衛門尉殿・恒岡弾正忠殿
戦国遺文後北条氏編0835「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三)

□付論:本田氏出自について

『後北条氏家臣団人名辞典』によると以下のような記述。

千葉忠常の五代目の本田左衛門尉親幹の孫信濃守親恒が頼朝に仕え、のちに島津忠久に属し数代島津氏に仕え、のち将監親正の時に北条氏康に仕えた。戦国期は親正、正勝、正家、正次と続く。子孫は野田市在。

『戦国遺文今川氏編』で一貫して「本田」として登場するのは水運と関係の深い縫殿助で、天文頃に活躍が見られることから、葛西乗っ取りに助力した本田氏はこの支族かも知れない。通字「正」が同一ではある。

●戦国遺文今川氏編人名索引

本田正忠(縫殿助)2-20/98/132/153
本田(伊奈)2-228/285、3-97

●参考3:天文17年比定で三河伊奈などに知行を貰っている本田氏がいる。

参河国知行分之事。一所、伊奈。一所、前芝湊并湊役、東西南北傍示如前々。一所、渡津・平井村船役。以上。右、年来任令為知行之旨、所宛行之也、此上於抽忠節者、重可加扶助者也、仍如件、
天文十七二月十五日/義元(花押影)/本田縫殿助殿
戦国遺文今川氏編0863「今川義元判物写」(摩訶耶寺文書)

●参考4:天文22年に奥平監物丞に知行を与えた際、「佐脇郷野院本田縫殿助為急帯之条、以去年雪斎異見」とあって知行の痕跡が残る。

一、知行分本知之事者、不入之儀領掌訖、新知分者可為如前々事、一、親類・被官・百姓以下、私之訴訟企越訴事、堅令停止之、但敵内通法度之外儀就有之者、可及越訴事、一、被官・百姓依有不儀、加成敗之処、或其子、或其好之人、以新儀地之被官仁罷出之上、至于当座被相頼主人、其輩拘置、彼諸職可支配之由、雖有申懸族、一向不可許容、并自前々知行之内乍令居住、於有無沙汰之儀者、相拘名職・屋敷共可召放事、一、雖為他之被官、百姓職就相勤者、百姓役可申付事、一、惣知行野山浜院、如先規可支配事、付、佐脇郷野院本田縫殿助為急帯之条、以去年雪斎異見、為中分之上者、如彼異見可申付事、一、神領・寺領之事、定勝於納得之上者、可及判形事、一、入国以前、定勝并被官・百姓等借銭・借米之事、或敵同意、或於構不儀輩者、万一有訴訟之子細雖令還住、不可令返弁事、右条々、領掌永不可有相違也、仍如件、
天文廿二年三月廿一日/治部大輔判/奥平監物丞殿

戦国遺文今川氏編1141「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)