古文書データの削除に続いて、独自解釈を基にした仮説も全て非公開化した。これで後片付けが完了したことになる。

戦国遺文を改めて読み返すことから、少しずつではあるが文書データの蓄積も進んできた。確たる目的もなく史料を読んでいくのもまた心満たされる一時であり、公私の煩いごとからしばし解放される愉悦は何にも代えがたい。

ただ、やはり専門家の解釈とのずれはしばしば出てきてしまう。趣味で調べている範囲では、仮説を立てることはやはり無理があると痛感し続けている。

その一例として「真手者」の解釈方法を巡って、専門家との見解の相違が浮かび上がったことを説明してみる。

まず原文は以下の通り(戦国遺文後北条氏編3027「北条氏政書状」(早稲田大学中央図書館所蔵文書))。

十一日之状、今十五披見候、 一、彼惑説偽之由、肝要候、其注進状披見之間、翌日肝要之年寄共を、以行召寄様ニ與分別候而、氏直へ愚拙案書進候而、態飛脚を被遣候キ、右之塩味故候、 一、証人之儀者、何も奏者中ヘ下知候、如何様専一之者撰、自白井者可被召寄候、自然相違之儀有之而者、沼田之備大切候、塩味過間敷候、上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候、恐ゝ謹言、

十一月十五日

氏政(花押)

安房守殿

この解釈を私流で行なう。

[note]11日の書状、今日15日に拝見しました。一、あの惑説が偽りであるとのこと。大事なことです。その注進状を拝見するため(披見之間)、翌日に主だった家老たちを、使者を送って(以行)呼び寄せるようにと判断して、氏直へ私の下書き(案書)を提出しまして、折り入って飛脚を出したのです。これは右の検討のためです。一、人質のことは、いずれも奏者たちへ指示します。どのようにしても重要な者(専一之者)を選んで、白井の者より呼び寄せますように。万一相違があっては、沼田の備えが大切ですから、考えを誤ってはなりません(塩味過間敷候)。上野国で城を持つ者としては、あの人だけです。物主は両手ほどいますが、家中に無駄な者が多いのです。[/note]

結構難解で、慎重な解釈が必要だ。偽りだったという「あの惑説」で、氏政が弟の氏邦対して騒いでいてるのが粗筋なのだが、何となく天正10年のとっちらかりようが連想される。あの時もそうだったが、氏政は氏邦に対して「情報を確かめて早く報告しろ」と急き立てることが多い印象がある。

まず最初に、一点原文に誤記があると思うので注記しておく。「塩味過間敷候」は語順が誤っており、正しくは「過塩味間敷候」=「塩味をあやまつまじく候」だろう。これは戦国遺文後北条氏編2395の北条氏政書状では「過塩味間敷候」となっていること、返り点の位置を考えると「過塩味」が本来正しい表記であることから判断できる。

さて、この11月15日の書状の比定は『戦国時代年表後北条氏編』(下山治久編・以下『下山年表』とする)と『後北条氏家臣団人名辞典』(下山治久編・以下『家臣団辞典』とする)によると、天正14年比定。その一方で『北条氏邦と猪俣邦憲』(浅倉直美編)所収の『猪俣邦憲について』(平岡豊著・以下『平岡論文』とする)では天正17年とされている。

両説何れが正しいのかを検討するために、まず自力で比定を試みる。

文中で氏政が「氏直へ自分の下書きを見せた」と書いていることから、この時の当主は氏直である。氏直が家督を継承したのは1580(天正8)年8月だから、この年から天正17年までに限定される。

次に、沼田城の守備が大切だとしているから、11月15日時点で沼田城が後北条方である年を挙げればよい。ここでまず下山説との齟齬が出てくる。

この書状の部分は、下山年表では以下の記述になっている。

北条氏政が北条氏邦に、羽柴秀吉の関東出馬は贋情報と判明した事、上野衆の人質の件は何れも奏者中に下知しており、同国白井城からは召し寄せる事。同国沼田城真田氏への守備は大切で、同家中には不穏な者もいるから注意せよ等と伝える。

ここでは「沼田之備大切候」を「沼田城への守備は大切」、「物主者真手者ニ候へ共」を「物主は真手者=真田の手の者」としている。これまで読んできた文書と比べると、違和感が大きいと言わざるを得ない。後北条氏は真田は一貫して「真田」と書いているし、「~への備え」であれば「対」や「為」「向」が併用される筈だ。例を挙げてみると、下の文では「北敵為備」となっている(小田原市史 小田原北条2 2067「北条氏直判物」)。

今度西国衆就出張、従最前参陣、河内守者北敵為備松山在城、掃部助者当地在陣、旁以肝要候、弥竭粉骨可被走廻候、本意之上、於駿甲両国之内一所可遣候、仍状如件、

天正十八年[庚寅] 卯月廿九日

氏直(花押)

上田掃部助殿

同河内守殿

とはいえ、下山氏は後北条氏に関しては造詣の深い泰斗である。何か要因があるのかも知れないが、私の手の届く範囲では論拠を見つけられず、行き止まりである。下山説の検討は終えるしかない。

平岡説がまだあるということで、やむをえず、このまま自己流の推論を続けてみる。

1580(天正08)年 ? 5月4日に藤田信吉が武田方に降伏(下山年表)
1581(天正09)年 ? 11月に海野氏内応未遂(下山年表)
1582(天正10)年 × 滝川氏→真田氏へ移管
1583(天正11)年 × 真田氏保有
1584(天正12)年 × 真田氏保有
1585(天正13)年 × 真田氏保有
1586(天正14)年 × 真田氏保有・羽柴との臨戦態勢
1587(天正15)年 × 真田氏保有
1588(天正16)年 × 真田氏保有
1589(天正17)年 ○ 7月に真田氏→後北条氏へ移管

天正8年と9年の領有者は明確には判っていない。どちらも、下山年表に記述はあるものの文書名が記されていないためだ。ただ、両年ともに沼田周辺で後北条氏の支配を窺わせる文書がなく、むしろ武田氏の攻勢に苦慮している様子が見て取れる。前記のように下山説は解釈に追随できないこともあって、天正14年比定も含め候補から外してよいと考えられる。

ということで残された天正17年が最も適合する比定となるが、それを採った平岡説をそのまま受け入れられるかというと、ここにも実は疑問がある。平岡論文から、この文書に該当する部分を抜き出してみる。

そして、猪俣能登守が富永氏の出身であったということは、天正17年と推定される11月15日付の北条氏邦宛北条氏政書状のなかに「沼田之備大切ニ候、塩味過間敷候、上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者、真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」とあるが、沼田城主は猪俣能登守であり(後述する)、彼が「真手者」であると氏政が言っていることに符合する。もし猪俣能登守が新参者である猪俣氏に出自を持つものであったなら、氏政がそのように言うはずがない。

まず、「真手者」の解釈も理解できない。平岡氏が用いているのは「まて=真面目・律儀」という意である。これは時代別国語辞典にも掲載されているのだが、表記は「真手」ではない。このため、当て字を使ったという推測を間に入れなければならないし、前後の文とも整合性がとれなくなる。

ここでの焦点は「上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」の解釈なのだが、平岡説だと、以下のようになってしまう。

上野国にて城を持つ者はあの人だけです。物主は律儀なのですが、家中に無駄な者が多いのです。

つまり、当てになるのは物主=猪俣邦憲だけでその家中は無駄な者だという解釈になる。それを受けると前文の「白井の者から召し寄せろ」という指示は、邦憲被官たちの人質が白井にいたということになる。これを直接示す史料がないため、解釈に無理があるようにしか見えない。

ついで私が疑問に思うのは、「沼田之備大切」があるが故に「彼仁迄」と高評価された人物を沼田城主猪俣邦憲に安直に比定している点だ(沼田城主が邦憲であることは私も疑問は持っていないが、この「彼仁」を指すのが邦憲がは判らないということだ)。氏政が氏邦に強く要請しているのは人質の招集であり、中でも白井からの人質は特に重視せよという内容だから、邦憲本人か被官の人質が白井にいたということになる。

後北条氏が上野国の人質を集めていたのは厩橋であるから、邦憲の関係者だけが白井に証人を置いていたのだろうか。ところが、白井城には白井長尾氏が城主として存在しており、厩橋のような直轄城ではないし、白井長尾氏自身がその人質を小田原に預けている事実もある。天正10年7月頃と想定される北条氏政書状写(戦国遺文後北条氏編2473)では、北条氏政が長尾憲景に宛てて、炎天の時に小田原城に参府して息子の鳥房丸を人質に差し出した忠節を称賛し、北条氏直も懇意にすると伝えている。また、翌年10月9日には、北条氏直が、長尾鳥房丸の母が病気のため、長尾家臣の矢野山城守に人質を代えることを認めている(戦国遺文後北条氏編2580)。

であるなら、「彼仁」は長尾輝景で、彼は沼田城守備に関係していたという仮説が最も信憑性が高いと考えられる。氏政の指示は「長尾輝景の人質をまずは白井から出させよ」と解釈した方がより自然である。天正10年頃とは違って、この時に白井長尾氏の人質は小田原にいなかったのだろう。

白井長尾氏の来歴の一部を列挙してみる。括弧内は全て戦国遺文後北条氏編の文書番号。

天正7年3月12日 北条氏政が北条氏邦に向け、長尾憲景帰属を認めると伝える(2149)
天正9年5月7日 氏政が憲景に上野国で武田方と交戦した忠節を賞す(2235)

天正10年2月25日 長尾輝景初出。伊香保郷へ宛行(2317)
3月12日 氏邦が憲景経由で真田昌幸へ音信(2325)
4月2日 輝景が渋川市双林寺に寄進(4742)
7月頃 憲景の息子、鳥房丸が小田原へ行く(2473)
12月2日 氏政が憲景に去秋後北条氏へ出仕したことを賞す(2449)

天正11年3月25日 憲景が伊香保に掟書(2516)
4月24日 氏邦が矢野新三に、憲景が利根川を越えて攻撃した忠節を褒める(2528)
8月13日 父憲景から家督譲渡。口上は氏邦(2563)
8月17日 憲景が伊熊に制札を発給(2567)
10月9日 鳥房丸が母の病気を受けて一時帰国(2580)

天正12年4月2日 憲景死没
12月6日 輝景が矢野山城守に先代の席次を保証(2744)

天正13年12月11日 氏直が輝景に不動山城留守を任せる(3969)

天正14年4月8日 輝景が野村左京に憲景の時と同じ安堵を与える(2947)

天正15年12月25日 氏政が輝景に倉内での真田氏夜襲を警戒するよう指示(3240)

この中では一貫して氏邦が白井長尾氏の取次を務めており、懸案の書状写で氏政が氏邦に「白井から人質を呼び寄せるように」と伝えている点とも符合する。

してみると、「上州ニ而城持者」は白井長尾氏を含む「上州国衆」を指すとみてよい。当主側近出身の猪俣邦憲は当てはまらないのではないか。そして「物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」での「真手」はそのまま「両手」を指して「両手の数ほど」だろうと考えられる。何故なら、逆接を伴って「十指ほどにもいるものの、家中に無駄な者が多い」とすればすんなり読めるからだ。

「家中」が、城持者たちそれぞれの家中を指しているのか、後北条家中全体を指すのかは判断ができない。ただ前提として「上州ニ而」としているから、前者なのかも知れない。

そうやって更に考察を続けて、白井長尾氏に関してもっと情報を集めようと考えてみたりはする。だが、下山説・平岡説を独自に否定している点が引っかかって逡巡を覚えて仕方がない。それを無視して『桶狭間再考』『椙山陣考』『松田調儀』を何とか検討してみたものの、やはり引っかかる。

本来であれば未熟な私見を鍛えるいい機会になる筈が、専門家諸氏の考察とは平行線のままで解消できていない。

やはりこの道は誤りなのかという思いが大きくなっている。より多くの史料を調べて、少しはまともに見識が持てるようにならなければ。とは思うものの、調べが進むほどにどんどんひどいことになっている感覚しかなく、最早改善の見込みはないのではないかと結論が出かけている。

文書を読むこと自体は好きなので、もう少しだけ悩ませてもらいつつ、最終的には撤収しなければならないだろう。

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