去辰年錯乱之刻、無二爾自構父子共令供、老母・兄弟共無残召連、妻子之義者、大草次郎左衛門妻子同前ニ豆州江相退、懸河籠城中昼夜父子於三輪構、別而無油断走廻、殊敵天王山江取懸刻、合首尾無比類走廻之段、粉骨之至也、然本地・代官職代々之判形数多雖有之、於葉梨大澤令失膓云々、前々本地田畠・山屋舗所々、府中居屋舗、抱之屋舗并冨士又七郎分為替地、前須津代物方出置分不可有相違、増分荒地・芝河原切起、新田等前出来之、随其勤其役、兼又天澤寺殿御代一乱之時茂、父元辰構江相移、其後長久保・三州苅屋・重原所々於陣中、無比類射矢走廻之段、代々之忠節感悦也、縦本地・所々代官職如何様之横合雖有競望之輩、忠節無紛之条、一切不可許容、弥奉公可抽軍忠者、仍如件、

元亀二[辛未]年 卯月廿一日

 氏真(花押影)

三浦八郎左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2482「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵記録御用所本古文書十三)

去る辰年の騒乱の際、躊躇なく『構え』より父子で随行し、老母と兄弟も残らず帯同した。妻子については、大草次郎左衛門の妻子と同じく伊豆国へ避難させた。掛川の籠城では三輪『構え』において昼夜特別に油断なく活躍し、ことに敵が天王山へ攻撃した時には、手順を合わせて比類なく活躍しているから、粉骨の至りである。しかるに、本知行・代官職において、代々の判形が多数あるとはいえ、葉梨の大沢において紛失(?)したとかいうことで、前々の本知行の田畑・山屋敷の処々、府中の居館と保持している屋敷、ならびに冨士又七郎分替地、前に須津代物方から拠出した分は相違があってはならない。増産分や荒地・川原を開墾した分、新田など以前に出来た分は、その勤務内容や役職に従う。かねてより、天沢寺殿(義元)が家督を取った一乱の時も、父の元辰は『構え』へ移り、その後は長久保・三河国刈谷・重原などの陣中において、比類なく矢を射ち活躍したのは、代々の忠節として感悦である。たとえ本知行・処々の代官職でいかなる異議が出て係争しようとも、忠節が本物であるのだから、一切許容しないだろう。ますます奉公し軍忠にぬきんでるように。

至于永禄三稔庚申四月、洪兄濫詐于礼部、々々決之、以拈鬮住持焉、霊鑑之所至乎、上坐看于臨在、洪兄住持本寺也、同五月十九日、礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣、嗣太守上総介氏真公命上座司後因、号天澤寺殿、創墳寺於府之傍也、礼部始之諱者承芳也、

→戦国遺文 今川氏編2634「護国禅師雪斎遠諱香語写」(静岡市葵区大岩町・臨在寺所蔵)【一部のみ抜粋】1587(天正15)年10月の明記あり。

永禄3年庚申4月、『洪兄濫詐』が礼部(今川義元)からこれを決し、くじを捻って住持となる。霊鑑の至るところか。上座して臨在を看る。洪兄住持は本寺なり。同年5月19日、礼部は尾張の田楽窪で一戦して自刎する。太守を継いだ上総介氏真公が上座を命じて『後因』を司る。号して天沢寺殿。菩提寺を駿府の傍らに創る。礼部初めの諱は承芳なり。

 

割と等閑にされる話だが、ゴシック体は歴史の研究と相性が悪い。インターネットの隆盛によって、今までは「まあいいか」で済まされてきた誤字が許されなくなってきたと思う。下記を見てほしい。

Art000

 

MSWord上で擬似的に再現したものだが、左がゴシック体、右が明朝体となっている。明朝体にすると違いが判るものの、ゴシック体ではほぼ見分けがつかないことが判る。特に「ニ」と「カ」は手ごわい。システムで明朝体を用いるのと、入力方法を変えるのが効果的ではある。要注意の「ニ」であれば、カタカナなら「n+i」と入力してカタカナ変換、数字はそのまま数字キーから変換と、使い分けている。それでも、これまでアップした文書でも間違っている箇所がありそうな気がする……。間違えてしまうと、検索でヒットしなくなるので本当に危険だ。

 

城中自始馳走感悦也、弥忠節奉公不可有由断由肝要候、然者同名将監跡職   被官給共、知行分宛行所不可有相違候也、仍如件、

三月廿三日

興津摂津守殿

→戦国遺文 今川氏編2244「北条某書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

 城中で最初から奔走しており感悦である。ますます忠節と奉公をして油断のないことが大切です。ということで同姓将監の相続は被官給ともに、知行分を宛て行なうところは相違があってはなりません。

於其地昼夜其[共]走廻由候、誠御忠節候、弥被尽粉骨此時候、氏真御本意上者、御褒美儀、必可申立候、為其及一札候、恐ゝ謹言、

氏康(花押影)

興津摂津守殿

→戦国遺文 今川氏編2243「北条氏康書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

永禄11年に比定。

その地において昼夜ともにご活躍とのこと。本当にご忠節です。ますます粉骨を尽くされるのはこの時です。氏真が御本意の上はご褒美するようにと、必ず申し立てましょう。そのために一筆をしたためました。

東京の浜松町駅から見下ろせる位置に、旧芝離宮公園がある。

近世に小田原を治めた大久保氏は一度失脚しており、その後盛り返したのが大久保忠朝。老中にもなった忠朝が四代家綱から埋立地を拝領したのが、ここに庭園ができるきっかけになったそうだ(園内パンフレットより)。

先日浜松町で空き時間ができたため、以前聞き及んでいた『謎の石柱』を見に行った。

2014-05-10 13.35.05
↑築山から見下ろしたところ。4本が短辺3メートル×長辺5メートルで配置され、池に突き出た位置にある。周囲の風景からちょっと浮いている。

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↑近寄ってみると、古風な立て看板がある。旧芝離宮恩賜庭園「謎の石柱」:電脳日和下駄によると、

この石柱が何のために設けられたか謎である。楼閣の跡、馬つなぎの石、熊野信仰に関係ある石造物、海運の標識塔などいくつかの説があるが確かなことは不明である。

と書いてあるという。さてそこでさらに進んでみる……。

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↑上から貼り紙が。松田憲秀の屋敷にあった門柱を、大久保氏が小田原で再利用し、更に江戸に運んできて茶室の柱にしたらしい。

などと白々しい前振りはさておき(最初からこの考証があることを知っていて来た)。でも、最近まで謎だったのは本当に知らなかった。上記ブログが2006(平成18)年に書かれた際は、まだ上の訂正文は貼っていなかった模様。公園の入り口でも案内パネルに「長い間謎でした」と書いてあった。いつどうやって判ったのだろう。

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↑石柱は高さ2メートルほど。幅は50センチ程度だった。上の方が焼けているのは、関東大震災時の火災によるそうだ。石が痩せるほどなので、結構高温だったのかも知れない。

2014-05-10 13.26.30
↑よく観察すると、割れた部分はセメントで補修している。穴は、江戸へ運ぶために空けたのか、松田氏時代から空いていたのか判らない。

庭園をそぞろ歩いている人たちは「なんだこれ?」的な視線で見ていたが、事情を知る身としては非常に感慨深いものがあった。この門柱は、松田康長や笠原政晴が出入りしたのだろうかとか、憲秀切腹を伝える使者が通ったのだろうかとか、黙想にふけること暫し。

松田憲秀屋敷については、いつも有益な情報をくれる萩真さんのブログに記事がある。ご興味のある方はぜひご一読を。

小田原城開城の日に歩く、北条の小田原:マリコ・ポーロの後北条見聞録

[懸紙ウハ書]「西郷監物殿 氏真」

就今度錯乱、各雖令逆心、自最前懸河ヘ相越、無二令奉公之儀、太以神妙也、於本意之上、可加相当之扶助、弥可抽忠功者也、仍如件、

永禄十一年 十二月廿八日

 氏真(花押影)

西郷監物丞殿

→戦国遺文 今川氏編2223「今川氏真感状写」(東京大学史料編纂所架蔵諸家文書所収西郷木工所蔵文書)

この度の騒動について、各々が反逆したのですが、最前より掛川へやって来て、無二に奉公していること。大いに神妙である。本意の上は相応しい扶助を加えましょう。ますます忠功にぬきんでるように。

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私は折りを見て古書店を訪ねるのが好きだが、ブックオフは特に行くよう心がけている。不本意に二束三文で売りに出されている良書をサルベージするためだ。秋葉原店では、『日本城郭大系』の福岡・熊本・鹿児島編が1,000円で売られていたりした。

そんななか、ブックオフ多摩センター店で驚くような掘り出し物を発見した。羽深律が完訳を目指した『南総里見八犬傳―完訳・現代語版 』の第2巻が、なんと100円で売られていた。私が古文書を読むきっかけになった思い出深い本だ。もちろん購入。

あれは1998年頃だったと記憶しているが、近所の図書館でこの羽深版八犬伝を借りて世界が変わった。八犬伝は様々にリヴァイズされて現代に流布しているが、羽深律氏のように原文を遂一解釈している詳訳はなかった。登場人物や作者が何かの由来を語り出すとそれが無闇に長い。多くの現代版はこの冗長さを嫌い、そしてまた現代語のリズムに置き換えてしまっている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』も同じような状況だが、どちらも原書に忠実な方が圧倒的に面白い。現代人の賢しらな小細工などはかえって興醒めである。
それはさておき。とにかくこの八犬伝は無類に面白く、一気に読んでしまったのだけれど、第6巻で途切れていた。物語としては不安定な箇所が一応終わって、後は犬江親兵衛の独壇場と関東大戦の予定調和だったから「まあいいか」という気にもなったのだが、やはり先は気になる。他に出版されているのは抄訳か原書しかない。さんざん逡巡した挙句、結局「続きを読みたい」という衝動のままに、岩波文庫の原書版に挑戦した。と、意外にもすらすら読める。曲亭翁の流れるような文体と総ルビに助けられながら最後まで読み通した。これで弾みがついて、戦国期の古文書を読み始めた。

第2巻は特に寂莫道人肩柳こと、犬山道節が華麗に登場する。表紙も火遁を使う道節。『忠』の珠を持つ彼は八犬士の中でも贔屓にしているので、何度読んでも楽しい。

[端裏書]「原河讃岐入道殿」
今度忩劇之砌、捨財宝兄弟共ニ懸川ヘ相越走廻之儀、忠節之至也、於本意之上可加相当之扶助、弥可抽忠節者也、仍如件、
永禄十一年 十二月廿八日
 氏真(花押影)
原河讃岐入道殿

→戦国遺文 今川氏編2222「今川氏真感状写」(埼玉県・足立文書)

 この度の紛争の際に、財宝を捨てて兄弟ともに掛川へやって来て活躍したこと。忠節の至りである。本意の上は相応しい扶助を加えましょう。ますます忠節にぬきんでるように。

就今度駿府錯乱、懸河城江相移之処、西原善衛門尉有同心、捨身命馳走之段、無比類候、本意之上、此旨氏康へ可申立候、恐々謹言、

十二月十六日

氏真(花押)

西原源太殿

→戦国遺文 今川氏編2205「今川氏真書状」(西原文書)

永禄11年に比定。

 この度の駿府錯乱について。掛川城へ移動したところ、西原善衛門尉が同心して、身命を捨てて奔走してくれたことは、比類がありません。本意の上でこのことを氏康へ申し立てるでしょう。