去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段、忠節也、因茲菅沼孫大夫給之内、塩瀬内下方六貫文、大豆弐斗、陣夫一人、任去年之判形、永所宛行之、為一所領掌了、至于後年於増分出来者、可令所務、弥可抽忠節者也、仍如件、

弘治三年 九月五日

治部大輔 御判

菅沼左衛門次郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(浅羽本系図)

 去る年菅沼十郎兵衛尉と同姓八右衛門尉が帰参した際、林左京進・菅沼三右衛門が布里を攻撃したところ、敵が強襲をもって臨むことを夜中に通報し、軍勢を相違なく撤収させたことは忠節である。このことから、菅沼孫大夫給より塩瀬内の下方6貫文・大豆2斗・陣夫1人を、去る年の判形の通り永く宛行なう。一所として掌握すること。後年に至り増分が出来たら、徴税せよ。ますます忠節にぬきんでるように。

於調儀成就之上者、本知行無相違可令還附候、然者彼一人生害之段、堅可申付者也、仍如件、

七月十七日

義元 判

奥平監物丞殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 『調儀』が成就した上は、本知行を相違なく還付させるだろう。ということであの者が自害すること、堅く指示するものである。

去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段、神妙也、又至于三月菅沼大膳亮お源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨、甚以忠節之至也、因茲同名源三跡職知行一円、為新給恩去二月所出置之也、若於向後源三雖企競望、一向不可許容、縦経後年彼者致忠節雖望之、貞守事者以先忠宛行之条、永不可有相違、弥可抽忠節者也、仍如件、

永禄元 戊午 年

七月四日

治部大輔(花押)

伊東右京亮殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物」(早稲田大学図書館所蔵文書)

 去る1月、河合源三郎が逆心して敵を引き入れたところ、一味などを奥山能登守の屋敷に渡し、無二の味方となってくれた件は神妙である。また、3月に至って菅沼大膳亮を源三郎が誘って屋敷の構えに攻め込んだ際、苦労を尽くし、とても忠節の至りであった。このことから、同姓源三の遺産である知行一円を新給恩として2月より拠出している。もし今度において源三郎が争うことがあっても、一向に許容しない。たとえ年を経てあの者が忠節を行なって望んだとしても、貞守のことは先の忠義によって宛行なったので、永く相違はない。ますます忠節にぬきんでるように。

今月四日、於三州千両口大代官所、合鑓敵追入、蒙鑓疵矢疵三ヶ所之条、粉骨之至也、弥可抽忠節之状如件、

弘治二年

八月十三日

義元判

能勢甚三殿

→愛知県史 資料編10「今川義元感状写」(御系譜類記上中下)

 今月4日、三河国千両口の大代官所で、槍を合わせ敵を追い入れた。槍傷と矢傷を3箇所受けたとのことで、苦労の至りである。いよいよ忠節にぬきんでるように。

去四日、作手筋諸口苅田動之儀申付之処、名化筋同名美作守等相動、依為切所各味方及難儀之刻、尽粉骨於鑓下敵一人討捕之段、甚以感悦也、弥可抽忠功者也、仍如件、

弘治弐年

八月十六日

義元(花押)

小笠原孫二郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元感状」(小笠原文書・和歌山県)

 去る4日、作手方面の諸口で刈田作戦を指示したところ、名化方面で同姓美作守などが出動して、地勢が悪く味方各隊が困っていた際に、苦労を尽くして槍で敵1人を討ち取った。とても感悦である。いよいよ忠功にぬきんでるように。

去月廿四日当城江敵相働候之処、尽粉骨数多手負仕出、奥平市兵衛・松平彦左衛門其外五人討捕之段、感悦之至也、弥可抽忠忠功者也、仍如件、

弘治ニ

六月三日

義元

粟生将監殿

→愛知県史 資料編10「今川義元感状写」(三川古文書)

 去る月24日、当城へ敵が攻撃してきたところ、苦労を尽くして多数の負傷者を敵に出させ、奥平市兵衛・松平彦左衛門その他5名を討ち取ったのは感悦の至りである。いよいよ忠功にぬきんでるように。

参河国龍泉寺之内年来拘置屋敷并名田、同付来山等之事

右、如年来不可有相違、然ハ料所其以後福嶋因幡守私領之時茂為各別拘置之間、只今阿部大蔵仁為知行雖出置、可為如前々、但相定年貢之儀者可令納所之、縦地検増分雖申懸、為本知行之条、有由緒拘置上者、不可準他■百姓者也、仍如件、

弘治二年

正月廿二日

  今川義元也、判後藤ノ文書ニ同、

治部大輔 判

上野三郎四郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(藩中古文書)

 三河国龍泉寺の内で年来保持していた屋敷と名田、同じく付来山などのこと。右は、年来のように相違ないように。であるから、所領はそれ以後、福嶋因幡守の私領だった時分も各々が別に保持していたので、現在は阿部大蔵に知行として拠出しているものの、以前のとおりにせよ。但し、定められた年貢のことは納所させるように。たとえ検地による増分を出したとしても、本知行とするので、由緒があって保持する上は他の百姓に準じてはならない。

今度駿河衆郡内江乱入仕候時節、雑人共対御寺江申致不儀候事、無是非次第候、雖然■拙疎略不存、■意趣■■■依申上■、被聞召■■■■■■■■、猶自今以後■堅申付、■栄■■■行并祖父全久如■■、■■有相違所如件、

永正拾伍稔 戊寅 正月卅日

田原左近尉 政光(花押)

進上 長興寺 参 衣鉢侍者御中

→静岡県史 資料編7「戸田政光請文」(長興寺文書・田原市)

欠損部分は先頭から、愚・其・数ヶ度・候・分御堪忍忝奉存候・者・玉・様御一・置文・不可と補う。

 この度駿河衆が郡内へ乱入した時節、雑人たちが御寺へ不法を言い立てました。是非もない次第です。私自身は疎略にしていなかったとしても、その意向は何度も申し上げました。お聞きになった分はご容赦いただけるとのことで恐れ入ります。さらに今より後は堅く申し付け、玉栄様ご一行、並びに祖父全久の遺言のとおりに、相違ないようにいたします。

  祐福寺并寮舎

一濫妨狼籍并伐竹木、不可陳取之事

一兵粮米・津銭并諸課役、不可申懸之事

一不謂敵味方、越物已下不可改之事

一俵物等出入、不可相留之事

一寺中引得之田地等、不可有違乱之事

右条々、於末代不可有相違、若当年面々於令違犯者、可処厳科者也、仍而如件、

天文廿 辛亥 五月日

水野藤九郎

清近(花押影)

→愛知県史 資料編10「水野清近禁制写」(祐福寺文書)

清近は信近の誤写である可能性あり。

 祐福寺と寮舎について。一、武力行使と竹木の伐採、陣地構築が不可であること。一、兵糧米と港湾税、並びに諸々の徴発を指示するのは不可であること。一、敵味方を問わずの臨検は不可であること。一、俵物などの流通停止は不可であること。一、寺方が取得した田地などを乱してはならないこと。右の諸項目は、末代まで相違があってはならない。もし味方で違反した者があれば、厳しく罰する。
1.6:100:260:0:0:清近と信近_草書比較:left:1:1:青柳衡山草書フォントを利用:0:

桑子殿御寺領御沽却之分、致走舞、悉請返寄進申候条、如元可為御寺領候、然者我々往生仕候者、於毎月当日、可預御廻向者也、仍為後日一筆如件、

大永六年 丙戌 十一月廿八日

九郎衛門(略押)

都筑小三郎 忠資(花押)

根石新四郎 忠次(花押)

→静岡県史 資料編7「都筑忠資等連署証状」(妙源寺文書)

 桑子殿の寺領で売却された分、奔走して、全てを買い戻して寄進いたしますので、元のように寺領として下さい。私は往生するべく毎月この日に御回向を預かりたく思います。後日のため一筆このように残します。