今度就忩劇犬居七人之者、令同道走回候段、喜悦之至也、然間為其賞、本意之上、於駿・遠両国之内、以望之地百貫文領地可充行、守此旨弥於山中筋、無相違様子可令馳走者也、仍如件、
永禄十二[己巳] 正月廿日
 氏真判
鈴木尉殿

→戦国遺文 今川氏編2255「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

 この度の紛争で犬居七人の者について、同道して活躍した段は、喜悦の至りである。ということなのでその賞与として、本意の上、駿河・遠江両国のうち、希望する土地に100貫文の領地を宛て行なうだろう。この旨を守り山中筋において相違の様子なく奔走するように。

今月十二日星崎入城候、当城之儀灘手にて万自由候、今度我等人数武具以下馳走之段、殊外被成御褒美候条本望ニ候、其許火用心其外多時不可有緩事肝要候、将又内ニも碁石可有之候間、誰そ申候て急便ニ可差上候、呉々番衆中能々申聞候、日夜在番不可油断候、謹言、

三月十五日

 広家 御判

佐平兵

→愛知県史資料編14 補488「吉川広家書状写」(藩中諸家古文書纂 巻一三)

天正18年に比定。

 今月12日に星崎へ入城しました。当城は海のそばにあるので万事自由です。この度は私の部隊の武具などで奔走いただき、ことのほかご褒美を受けたのは本望です。そちらでは火の用心のほか注意事項が多い時で気を緩めないことが大切です。また、うちに碁石があるでしょうから、誰か人に言って急いで差し上げて下さい。くれぐれも番衆中によくよく申し聞かせまして、日夜の当番で油断してはなりません。

最近になって知ったが、非常に趣旨の近しい論文が発表されていた。

「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか?
―竹井英文氏「その後の「杉山城問題」 」における批判に応える―
中西義昌・著

史学論叢第 44 号(別府大学史学研究会)

湯河原の「椙山」に着眼した点が私と同じであったが、竹井・斎藤の両氏が年次比定の考古学的根拠としていた『藤澤「編年案」』自体に信憑性がない点を指摘しており、大変興味深かった。

また、『山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』(黒田基樹・戎光祥出版)が2014年5月に刊行されたが、その中に今回多く言及した竹井英文氏の論文「 戦国前期東国の戦争と城郭 「杉山城問題」に寄せて」が所収されている。従来は広く閲覧することが難しい研究機関誌でしか読めなかったものが、一般に公開されたことは喜ばしいことだと思う。ぜひご一読を。

去九月廿九日於参州八幡合戦之刻、被官人稲垣藤介頸一討捕之旨太神妙也、弥可抽軍忠之旨可申聞之状如件、

永禄五年 十一月十三日

 氏真(花押影)

牧野右馬允殿

→愛知県史資料編14 補292「今川氏真判物写」(藤原姓・稲垣氏家譜禄)

 去る9月29日に三河国八幡合戦のとき、被官人の稲垣藤介が首級1つを討ち取ったことはとても神妙である。ますます軍忠にぬきんでるように聞かせなさい。

去五月八日於富永口長次郎構之人数相動刻、無比類走廻之旨神妙也、弥可抽忠功之状如件、

永禄五 八月七日

 氏真(花押影)

池田小左衛門殿

→愛知県史資料編14 補290「今川氏真感状写」(御系譜類記 上中下)

 去る5月8日に富永口において長次郎の構えの部隊が働いたとき、比類なく活躍したことは神妙である。ますます忠功にぬきんでるように。

去五月八日於富永口長次郎構之人数相働之刻、被官稲垣藤介蒙鑓疵之所神妙也、弥可抽軍忠之旨可申聞之状如件、

永禄五 八月七日

 氏真(花押影)

牧野右馬允殿

→愛知県史資料編14 補289「今川氏真感状写」(藤原姓・稲垣氏家譜禄)

 去る5月8日に富永口において長次郎の構えの部隊が働いたとき、被官の稲垣藤介が槍傷を受けたのは神妙である。ますます軍忠にぬきんでるように聞かせなさい。

『歴史街道』2014年9月号39ページにおいて、新発見されたという『斎藤利三宛長宗我部元親書状』の大意が掲載されていた。この文書は、本能寺の変直前に長宗我部元親が織田信長に従っていた根拠という触れ込みで報道されている。

この記事での解釈は歴史作家の桐野作人氏によるものだが、管見の限りでは他例が見当たらない独自の解釈をされていた。私自身はこの文書は改竄された写しであると想定しており、その視座から内容を検討してみる。

※現物については林原美術館にて概要と画像が紹介されており、テキストデータ化されたものはtonmanaangler氏のサイト『国家鮟鱇』の記事「長宗我部元親書状(斎藤利三宛)修正版」を参照した。

私が違和感を感じた部分について、原文の下に読み下し、そして桐野氏解釈を並べてみよう。

原文:追而令啓候、
読下:追って啓せしめそうろう
解釈:書状拝見しました。

「書状拝見」だとするならば原文は「貴札忝致拝見」もしくは「来翰披閲」となる筈なので、この解釈は成立し得ない。「追ってご連絡させていただきます」とするのが妥当だ(ただそれでも、先行する書状について言及していないのが不審だ)。

そもそも桐野氏はこれを本文文頭としているが、「追而」で始まる表現は見たことがない。内容も元親の心情が語られているだけの補足文であり、書状の文頭とは思えない(後半に条書を伴う場合、最初に、相互の通信状態の確認や、発信者の近況を語るものが多い)。いきなり箇条書きで始まる書状例も複数あるので、無理に本文としなくてよいから、これは追而書の一種であるか、後世挿入された文と見た方が自然だ。ちなみに、追而書でも「令啓」と続ける例は管見では存在しない。

原文:今度御請、兎角于今致延引候段、更非他事候、進物無了簡付而遅怠、
読下:このたびのお請け、とかく今に至り延引そうろう段、さらに他事にあらずしてそうろう、進物に了簡なくて遅怠、
解釈:今度、(信長の朱印状の趣旨を)お請けすることが延引したことは他意はありません。進物は考えが及ばず遅怠しました。

「他事にあらず」の内容が「進物に了簡なくて」を指す点は、両文が直接つながっていることから間違いない。延引と進物不備が別文になるのであれば、「加之」や「将又」を入れて区別すると思われるためだ。進物不備を形ばかりの理由にした白々しい外交文言であると私は考えた。

原文:此上にも 上意無御別儀段堅固候者、御礼者可申上候、
読下:この上にも上意ご別儀なき段堅固にそうらえば、お礼は申し上げそうろう
解釈:このうえは、(信長公の)上意に逆意はない(元親の)気持ちは固いので、お礼は申し上げます。

「別儀」が丁寧語になっていることから、別儀がないのは上意であって元親の気持ちではない。この「御礼」は割譲合意の挨拶を指すと思われ、前項の「御請」と同じ意味だろう。「織田信長の意思が変わらないのであれば合意の挨拶をするだろう」という文脈だと思われる。

余談ながら、武田攻めを指すと想定されている条項が唐突で曖昧な点はとても気になっている。

原文:東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候
読下:東州が平均に属したてまつったの砌、お馬・貴所の帰陣をもって同心そうろう
解釈:東国(武田勝頼領)を平定なされた時節、信長公と貴方がご帰陣なされたので味方します。

「東州」を平定して「御帰陣」したのをもって「同心候」とあるが、であれば、「御成敗候ヘハとて無了簡候」(殺されようと了承しかねる)と、断固たる決意で大西・海部の保持を表明していた前項と齟齬が生じてしまう。実は、ここが書状の解釈を判りにくくしている。この条項を除外すると文意が鮮明になるため、ここは後世書き加えられた可能性が高いと考えている。前述『国家鮟鱇』での原文をベースにした解釈の復元案を挙げてみる。

○復元案(後世挿入と想定した部分は打ち消し線で表示)

[追而書]なお、頼辰へ残らず申し達したので内々の書状には及びませんが、心底の通り、粗々ではこのようになります。お計らいがないなどありませんように。

追ってお知らせします。私の身上のこと、いつも気にかけていただいて、いつまでもご配慮下さり、なかなかに全てを書き尽くせません。

一、この度の受諾、とかく今にいたるまで延引していることは、更に他事がある訳ではありません。進物で了簡もなく怠けていました。既に早くも時節・都合を延期していますから、この上は贈るには及ばないことでしょうか。但し、来る秋に重宝(調法)をもって申し上げれば、お目にかなうこともあるのだろうかと、その覚悟をしております。

一、一宮を始めとして、夷山城、畑山城、牛岐の内の仁宇、南方は残らず明け渡します。御朱印に応じたこのような次第をもって先ずご披露いただきたく、いかがでしょうか。これでもご披露はなり難いと頼辰も仰せになるので、いよいよ考えに残すところがなくなります。つまるところ、『時が来た』ということでしょうか。そして多年粉骨にぬきんでたのは、真意では毛頭ありませんのに、思いもかけぬご指示を受けたことは、了簡に及びません。

一、この上にも、上意は変わらないとの事が堅固でしたら、お礼申し上げましょう。どのような事態になろうとも、海部・大西の両城は保持しなければ叶いません。これは阿波・讃岐と競り合うためでは絶対ありません。ただ当国の門としてこの2城を保持しなければ叶わないのです。それでご成敗なさろうと了簡に及びません。

一、『東州』をご平定の際に、御馬があなたのところへ御帰陣なさるのをもって同心しました。

一、何事も何事も頼辰と話し合って下さい。ご分別が肝要です。万慶は後の連絡を期します。

後世挿入が事実であるとして、その動機は憶測するしかないが、「了簡に及ばぬ」と繰り返す、元親のやや挑発的な言辞を和らげ、長宗我部氏が根底では恭順していたと誘導したかったように見える。

などと色々書いたが、私は長宗我部元親の文書を殆ど見ていないため、合っているかは怪しい。もしかしたら元親はこのような表現をするかも知れない。2015年には今回発見された文書を含む研究成果が吉川弘文館から刊行されるとのことなので、詳しくはその内容を待ちたい。

※「追而令啓候」で始まる書状の本文について、その例を知らないと記したが、以下の例が見つかったので補記しておく。

追って申し候。京都の儀、先途竜蔵坊下国の砌か、しからざれば、態と脚力をもって申せしめべきのところ、林平右より具に注進の由に候。殊更先書に申すごとく、時に方々の注進を合わせ、此方より飛脚を差し登せ申すに、少しあい替わる様に候。諸侯の衆あい果てられ候様体、三好方へ出でられ候衆、変わるがわるに注し下し候条、承り合わせ申し入れべきと存じ候ところ、結句御使僧に預かり候。本意に背き存じ候。

[note]直江実綱宛の朝倉景連書状(読み下し)『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・吉川弘文館)126ページ「添えられた追伸」[/note]

これは、足利義輝横死の状況を上杉輝虎に質問された朝倉景連が、使僧に渡した表向きの書状とは別に、同じ日付で発行したものだ。公には書けなかった情報や、親上杉派としての自身の活躍を記している。また、この書状を預かったのは景連側の人間だったようで、追伸とはいいながら、伝達経路は別立てである。

もしこの例が「斎藤利三宛の長宗我部元親書状」に援用されるならば、斎藤利三宛の表向き書状が同時に用意されていたのは確実といえるだろう。裏向き書状のみが石谷家に伝来したのは表向きしか渡さなかったためか。

それでもやはり私は気になってしまう。景連書状のように表・裏がセットで残らなかったのは何故か。そして、景連は追伸書状で「ただ、いまは(輝虎様へ)御披露なさらないでください。長い目でおとりなしいただければと思っています」(上記書・129ページ)と、実綱に輝虎への伝達方法を明記している。これが元親書状には見られないのはどういう訳か。

去六日於号地尻地遂一戦、及刀切々疵・鎗疵弐ケ所被之由尤神妙也、弥可励戦功之状如件、

永禄四年 四月十二日

 氏真(花押影)

池田小左衛門殿

→愛知県史資料編14 補267「今川氏真感状写」(御系譜類記 上中下)

 去る6日に池尻という地で一戦を遂げ、刀の切り傷と槍傷で2箇所を負ったのはとても神妙である。ますます戦功に励むように。

昨十三夜・於薩埵山、敵夜掛之刻、敵壱人新井小次郎与合討、高名感悦候、弥可竭粉骨者也、仍如件、

永禄十二年[己巳] 三月十四日

 (北条氏政花押)

清田内蔵佐殿

→戦国遺文 今川氏編2312「北条氏政感状」(浄光寺文書)

 昨日13日夜、薩埵山において、敵が夜襲してきた際に、敵1人新井小次郎と相打ちとなり、高名に感悦しました。ますます粉骨を尽くすように。

今月廿四日武節本城ヘ敵取懸之処、従最前無比類相動之由甚感悦也、向後弥可抽忠功之状如件、

永禄三[庚申] 十二月廿九日

 氏真(花押影)

池田小左衛門尉殿

→愛知県史資料編14 補241「今川氏真感状写」(御系譜類記 上中下)

 今月24日武節の本城へ敵が取り掛かったところ、最前線で比類のない働きをしたそうで、とても感悦している。今後もますます忠功にぬきんでるように。