極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候
12月12日の日付がある白川義親書状を、北条綱成は昨日9日に読んだとしている。中26日で白川から到着したことになる。到着地点は綱成居城の玉縄と考えてよいと思う。後の文で氏政が小田原にいて、そこに綱成と氏繁が行くと書いている。
条々御懇志本望至極候
義親書状は用件が箇条書きになっている条書だったことが判る。懇ろな志しを受け取って本望の極みであると伝えている。
[note]前年の氏繁書状によると、義親の取次役は氏繁が務めている。同じ年と思われる綱成書状(宛名欠なので相手は某氏)では、某から書状を受け取った綱成が、自身の息子である氏繁と、某の子息「左衛門太郎」が交流していることに言及しながらも、某からの使者に情報を公開している。このケースでは、綱成・某がともに隠居していたので息子同士のルートと並行する形になったが、義親の場合は正規の氏繁のほかに綱成にも副次的なルートを持てたと思われる。また、蘆名氏への取次は氏繁と同時に北条氏照も書状のやり取りを行なっている。こちらのルートがどのような役割をしていたのかは不明。[/note]
仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望
「仍」でここからが本題。旧冬とあるので対象期間は前年の1574(天正2)年、10月から12月。この年は閏11月が存在しているので4ヶ月。対象となる場所は関宿。「始」とあるので、その後の人称は複数へかかる。「佐」は佐竹義重、「宮」は宇都宮広綱で問題ないだろう。「東方之衆」は、文頭の「始」が「~を初めとする」という意味合いから考えて、佐竹義重・宇都宮広綱と並立する周辺の国衆だろう。具体的には、この頃反後北条方にいた白川義親の同族結城晴朝を指している可能性が高いと思う。氏政については、懇望した側・された側のどちらになるか慎重に考えてみる。
[help]A 氏政も懇望してきたという立場に立つ場合、この懇望は諸勢力から義親への出動要請だろう。上杉輝虎の書状で、「武田晴信が北条氏政の懇望を受けて出動した」という文言があるので、懇望=出動要請は、語の使い方としては問題がない。この関宿合戦で氏政が武田勝頼に出動要請をかけていることは確実なので、義親にも常陸北方の牽制を要請した可能性は高い。以前、1573(天正元)年とされる氏政書状では、蘆名盛興に対して佐竹義重挟撃を提案している。同時に、佐竹・宇都宮のほか結城晴朝からも中立か援兵の要請が来た可能性もあると考えれば、多数の要請が寄せられたと説明できる。但し、文面だけを見た場合にはB説の方が判り易い。[/help]
[help]B 氏政が懇望を受けたという立場に立つ場合、懇望は佐竹・宇都宮が懇望して関宿開城に至ったことを指すだろう。関宿に籠城していた簗瀬父子は開城後に後北条氏方となっていることから、懇望の内容は晴助・持助の赦免だろう。それがなった上で開城したものと思われる。懇望が関宿において行なわれたことから「於関宿」の語が最も自然に読み取れる。また、佐竹・宇都宮の懇望があったとする他史料(足利義氏書状)から考えるとB説の可能性も高い。[/help]
就此儀、御存分具被露御紙面候
「このことについて」とわざわざ断っていることから、義親書状の内容は上記懇望についての自身の考えが書かれていたと判る。
[help]A説ではこの内容を「両陣営から要請を受けて動けなかった経緯を弁明した」と考える。先の解釈で義親書状は条書と判ったが、弁明書であれば一々理由を挙げて細かく説明したのも首肯できる。[/help]
[help]B説はここの解釈が少し難しい。条書で切々と書いてきたということは、義親は懇望を受諾することに反対でその理由を列挙したのだろうか。しかし、関宿開城は閏11月19日。それに先立ち義重が退陣したのは16日だから、懇望状態の下限は15日と見てよい。その26日後の12月12日になって話題に出すのは、懇望を受けての一和・赦免についてではないだろうか。義親は懇望状態にこだわったので綱成は「佐・宮一和」もしくは「関宿赦免」とは書けなかったのか。この点を補強するために他の強い要因が必要だろう。[/help]
尤子候左衛門大夫ニ申付、氏政具為申聞候様ニ、随分意見可申付候
文頭に「尤」が来る例は珍しいが、前年の綱成文書を見ると1例ある。文頭「尤」は後でも出てくるのでそこで検討する。息子である左衛門大夫は氏繁のこと。前述のように取次は既に引き継ぎが終わっているから、氏政に取り次げるのは既に氏繁だけになっているのだろう。「具」や「随分」を入れているので、何らかのハード・ネゴシエイションだったことが窺われる。
[help]Aなら日和見の弁明なのでハードネゴは判りやすい。Bで考えるとするなら、「懇望を退けて佐竹と対陣し続けてほしい」か「停戦時条件で白川氏に有利な条項を付帯してほしい」になるか。しかし、既に時日を経過し不可能に近いことは義親も判っていた筈である。ここはAの方が自然だと思われる。[/help]
幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪之由、深存候
「幸いにして・都合のよいことに」という書き出しのこの文は難解。佐竹・宇都宮を列挙して「和」としている。ここでは、懇望のくだりで出てきた「東方之衆」は除外されている。また、こういう表現だと、佐竹・宇都宮の間で和睦があったと理解するのが自然だと思われるが、少し事情が異なるようだ。佐竹氏は関宿開城に当たって後北条氏と和睦しているから、「佐・宮(、当方)和之上」と補ってよいだろう。一方で「其口」は義親宛て書状である点から、白川方面を表わすと仮定できる。「調儀」は軍事・外交的な攻勢を示す。「これあるまじく」は「あってはならない」か「ありえない」のどちらかだろうが、現段階では判断できない。
「之由」は殆どの場合伝聞内容を示すと理解されているが、その場合「由」単体は「とのこと」までしか意味しない。その後に来る文言として「申来候・其聞候・被聞召届・長尾新六注進・可申聞之状如件・令校量間・及聞ニ付而・富永能登守披露・被仰下候」という例がある。この場合は伝聞の内容を取りまとめる形で「由」が用いられていると考えられる。そのかたわら「喜悦候・甚以感悦也・太以感悦也・尤神妙也・嘉悦之至候・令満足候」が続く例もあるが、その大半を感状が占めているようで、一種の様式だった可能性がある。この書状での用法は「定苦労可有之由、令校量間」に近いのではないかと推測している。これは「きっと苦労が多いだろうとのこと」を氏政が「校量」したので「氏照・武蔵・下総衆を今朝出動させた」という文脈で用いられており、「由」は伝聞とは絡まない。同様に、「幸い佐竹・宇都宮と(後北条が)和睦したからにはそちら方面に攻撃はないこと」を綱成が「深く存じています」という解釈でよいと思う。和睦先の「当方」を略したのも、綱成主観で書かれているとすれば自然だ。
一方で、綱成が既に氏政の内意を把握しており、それを遠回しに書いている可能性もある。これは小田原参府の部分で後述する。
此一事委氏政為申聞候様、左衛門大夫可申付候
「この一事」は、上の「之由」の前文=「幸い佐竹・宇都宮と和睦した上は白川方面に攻略をしてはならない」ことを表わすだろう。氏政に詳しく言い聞かせるように、綱成が氏繁に申し付けようと書いている。「可」があるので未来に向けて開いた状態で、この文書が書かれた際はまだ氏政に話していない(と、少なくとも綱成は書いている)。
今月十日小田原愚老父子致参府之間、尤以早速可為申聞候
この「今月十日」はおかしい。この書状を書いているのは書状の始めにある「昨九日」と、書状自体の日付「正月十日」から、1月10日だ。なぜ「今日」か「今十日」と言わないのか。小田原に自分と息子が参府するので、とつなげている。綱成の書いてあることを是とするなら、9日に義親書状を受け取り、翌日息子と小田原に行く予定があった。そこで小田原へ立つ前に急いで書いているように見受けられる。そのような慌しい状況でこれから行なう参府を「今月十日」と表現するだろうか。妙に客観的であって、やはり変だ。10日に氏政の内意を得たのだが、それを文面で告げることを禁じられ、後日書く際に日付を遡って書いた。しかしここだけ見落としてしまった……氏政説得についてやけに自信ありげに書いていることから、この推測も充分可能であると考えている。
そして、再び文頭の「尤」が来る。綱成が用いた例を並べてみる。
「紙面にてお考えを詳しくお書きいただきました <尤も> 子である左衛門大夫に申し付け」(本書状)
「今月10日に小田原へ私ども父子が参府いたしますから <尤も> 早速申し聞かせましょう」(本書状)
「お立ちになり面会を遂げ本望に思います。 <尤も> 今後においてはあなた方父子へ疎隔の意はないでしょう」(某宛書状)
「尤」の原義から考えて「それがもっともなことで」という意味合いで使っているように曖昧に推測はできるが、判断まではできそうにない。他の文書でも「、尤」で検索して検討してみたが、どうにも曖昧な語用になっている。これは今後の課題とするので、解釈には組み入れない。
申迄雖無之候、累年申合意趣今般不預思慮申達候
言うまでもないことだが、と前置き。多年にわたって合意した内容は、「今般」の思慮に預からず申し達します、書いている。申し達するとは、確実に連絡するような意味かと思う。これには「可」がない。ということは、これは氏政にこれから報告する内容ではない。書状を通じて義親に伝えた、ということか。
[help]ここは材料が少なくA・Bともに解釈を当てはめるのが難しい。ただ、A案だと累年の意趣=長期間の同盟関係、今般思慮=関宿攻防で微妙になった関係という解釈が可能。B案は、累年の意趣はAと同じ、今般思慮=新たに和睦した佐竹・宇都宮への配慮という解釈になる。[/help]
莵角ニ対佐竹無油断其御用心専要迄候
前文で何を誰に申し達するのか、恐らく義親にも曖昧なまま、「とにかく」と話をまとめてしまっている印象がある。「佐竹義重に対して油断せずに、そのご用心がもっぱら大切な事柄なまでです」。「無油断」と「御用心」の間に「其」が入っているのがちょっと変わっている。ここはA/B両案での違いはない。前文と合わせると、括弧でくくった一種の倒置表現にできる可能性がある。
「申すまでもないことですが (累年にわたり申し合わせている意趣は考えるまでもなく申し達します) ともかくも、佐竹に対してご油断なさらぬことが大切です。」
これなら自然につながりそうな気がする。
珍説候者重而可蒙仰候、猶委細者御使僧口上ニ申達候、恐ゝ謹言、
何か変わったことがあったら再度連絡をほしい、という言葉で事実上結んでいる。口頭での連絡を委託された「御使僧」は、前年に氏繁が義親への書状で言及した人物だろう。
[note]「今月十日」で、綱成が日付操作を行ない、氏政内意を得ていない前提で書状を書いたという仮説を書いたが、この使僧は戦闘中の前線を氏繁と共に移動したような人物である。日付や参府事実を偽るなら、彼も共犯で、書状を持ち帰った時に「実は氏政には会っていて」と語る前提となる。それが果たしてあり得るのかは、本文書だけでは判らないため今回は保留とする。[/note]
最後に、今後の参考として上記解釈の積み残し課題を列挙しておく。
- 白川氏については『戦国期の奥州白川氏』(岩田選書 地域の中世11 菅野郁雄・著)に詳しいが、こちらは未読で解釈を行なっている。
- 蘆名氏・佐竹氏の動向を1次史料から丹念に追う必要がある。今回の検討では『戦国遺文 後北条氏編』『小田原市史』が出典の殆どとなり、偏向は否めない。佐竹義重が1574(天正2)年から翌年を通じて奥州口を攻めるという表現が複数見られるが、実際のところどうだったのかは綿密に検討してみないと何とも言えないだろう。
- 同様に、佐竹・後北条氏が決定的に対立する契機となったのは、皆川・壬生氏が後北条方に転じたためであると思われる。この周縁の情報も追ってはいない。