原文はhttps://old.rek.jp/?p=7544。

このかた、てきけひいて候て、せひなく候、

出だしからいきなり難物なのだが、「てきけひいて」をどう読むかが判らない。関連文書の為敵船後巻、数艘令渡海以下の部分から「敵の警固船」が関連しているのだろうという予想は立つのだが、類似の文が見つからず具体的にどのような漢字が当てられるのかを決められずにいる。豊前市史では「敵下ひいて」と示唆している。何れにせよ、「この方、敵の警固船がいて致し方ありません」という程度の意で良いと思う。

さりなからゝゝめつらしき事ハ、あるましく候、まゝ、御こゝろやすく候へく候、

「とはいえ珍しいことではありませんので、ご安心下さい」この解釈は特に問題はない。

ちんちうのきたうにて候まゝ、一ふてくたしおき候、

この文は前段の「特殊な事情が起きた訳ではない」を補強する文となる。「陣中の祈祷があるので、一筆申し上げました」という文は平易で解釈に問題なし。ただ、相手を落ち着かせようと細かく事情を書き立てている点は、必死さを感じる。

このき御きやうてん候ましく候、ゝゝ、けん大郎ことわたり候、

相手に平静を訴えつつ、子息と見られる「けん大郎=源太郎」が宮島に渡ったことを告げている。「このことで驚かれませんように」と「源太郎は渡海しました」の間にある「ゝゝ」記号が、隆兼のためらいを感じさせる。

きよ水又むせやらん、

紹介書によっては「水を咽るほど驚くでしょうか」としているものもあるが、「又」とあることから、前にあったことが繰り返される前提がある。そして、弘中氏の縁者と思われる清水寺尊恕という存在が知られている(大内輝弘、清水寺尊恕に知行を約束する)ことから、「きよ水=清水寺」と考えてよいように思う。この書状の宛所にも清水寺は入っている。

多分に推量が含まれるが、清水寺尊恕は隆兼から「せいすい」と呼ばれており、さらに泣き上戸・過保護・世話焼きな人だったのではないだろうか。源太郎を死地に伴ってしまった事の重大さは隆兼もまた認識していたからこそ「こん」に伝えたかったのだろうけれど、伝えた後で不安に押し潰されることを避けるため、「感情豊かな尊恕が知ったら、また大げさにむせび泣くでしょうか」と心配が杞憂であることを納得させようとしている。

つしまニよほくところへ、あてところにて候、

ここにある「よほく」は全く判らない。対馬守は別の清水寺・無量寺宛書状で、宛所に「弘中対馬守殿」とあるので一族の有力者だろう。用例がないため言い切り難いが、全体の文意、関連書状から推測すると「よほくところ=主だったところ」という意味かと考えている。

むめれう人ある事に候、頼申おくとの事候、

「梅を料人にすること、頼みを伝えておくと伝えました」で問題ないだろう。関連文書でも確かにそれを委託している。

めてたき■■■申候へく候、

「めでたい■■■をお送りしたいと思います」となる。消えた部分には「知らせ」を推定している。これは他文書の「しせんよきちうしんもあるへく候やとまち入」「吉事可申候」と合わせた形になる。勝負は判らないのだから、「吉報を待て」が自然だろう。

なをゝゝ申候、

ここから先は追伸となる。

むめれう人ある事に候、まゝ人体之事ハ、それの御はうたいにて候へく候、

「むめ=梅」を「れう人=料人」とすることとし、続けて「人体=身柄」はそこの「御はうたい=御法体=出家」にするようにとも指示している。料人にしてほしいというのは、財産相続権を持てる身分の女性にしてほしいということで、その希望は「大内義長の相続許可」で叶えられている。そして、その相続後は仏門に入ってほしいとしている。諸書で「然るべき相手と結婚するように」と解釈されているが、その場合は婿なり嫁なりと書く筈なので、隆兼の意図としては相続・出家だと見てよい。

かやうに申候とて、きやうてんハあるましく候、申候やうに、ちんちうのならいしか候、まゝ申事候ゝ、

このくだりは、再び「こん」を宥めるための文言が続く。「陣中の習いで言っているに過ぎない」と言いながら、何度も「驚くな」と書いているのは、隆兼がこういった書状を書いたのはこれが初めてだったからだろう。

こんとの動かるゝとすも■■■神領衆又けいこ三浦なと申て、

この文で読みづらいのは「すも■■■」で当初は「相撲人」としていたが、トロロヅキさんのコメントで「すもし候へ=となるだろう→推量」ではないかというご指摘をいただいた。得体の知れない相撲人より意が通りやすいので「今度の作戦は楽々できるだろうと神領衆や警固・三浦などが言って」と変更した。

如此候、口惜候、

「このようになりました。悔しいことです」というこの一文に隆兼の無念さが凝縮されているように感じる。ここまで踏み込んだ言葉は、清水寺・無量寺宛では書かれていない。

古はくになかもちおき候、しせんの時ハめしよせ候へく候、又太刀も古はくに候、とりよせ候へハ候、

ここからは財産分与の指示なる。琥珀院に、万一を考えて長持を置いているという。この長持の存在を「こん」が普段から知っていたらこの指示はないだろうから、緊急時には琥珀院から返却される段取りになっていたのだろう。ただやはり心配で、長持・太刀の存在を「こん」に伝えている。

極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候

12月12日の日付がある白川義親書状を、北条綱成は昨日9日に読んだとしている。中26日で白川から到着したことになる。到着地点は綱成居城の玉縄と考えてよいと思う。後の文で氏政が小田原にいて、そこに綱成と氏繁が行くと書いている。

条々御懇志本望至極候

義親書状は用件が箇条書きになっている条書だったことが判る。懇ろな志しを受け取って本望の極みであると伝えている。

[note]前年の氏繁書状によると、義親の取次役は氏繁が務めている。同じ年と思われる綱成書状(宛名欠なので相手は某氏)では、某から書状を受け取った綱成が、自身の息子である氏繁と、某の子息「左衛門太郎」が交流していることに言及しながらも、某からの使者に情報を公開している。このケースでは、綱成・某がともに隠居していたので息子同士のルートと並行する形になったが、義親の場合は正規の氏繁のほかに綱成にも副次的なルートを持てたと思われる。また、蘆名氏への取次は氏繁と同時に北条氏照も書状のやり取りを行なっている。こちらのルートがどのような役割をしていたのかは不明。[/note]

仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望

「仍」でここからが本題。旧冬とあるので対象期間は前年の1574(天正2)年、10月から12月。この年は閏11月が存在しているので4ヶ月。対象となる場所は関宿。「始」とあるので、その後の人称は複数へかかる。「佐」は佐竹義重、「宮」は宇都宮広綱で問題ないだろう。「東方之衆」は、文頭の「始」が「~を初めとする」という意味合いから考えて、佐竹義重・宇都宮広綱と並立する周辺の国衆だろう。具体的には、この頃反後北条方にいた白川義親の同族結城晴朝を指している可能性が高いと思う。氏政については、懇望した側・された側のどちらになるか慎重に考えてみる。

[help]A 氏政も懇望してきたという立場に立つ場合、この懇望は諸勢力から義親への出動要請だろう。上杉輝虎の書状で、「武田晴信が北条氏政の懇望を受けて出動した」という文言があるので、懇望=出動要請は、語の使い方としては問題がない。この関宿合戦で氏政が武田勝頼に出動要請をかけていることは確実なので、義親にも常陸北方の牽制を要請した可能性は高い。以前、1573(天正元)年とされる氏政書状では、蘆名盛興に対して佐竹義重挟撃を提案している。同時に、佐竹・宇都宮のほか結城晴朝からも中立か援兵の要請が来た可能性もあると考えれば、多数の要請が寄せられたと説明できる。但し、文面だけを見た場合にはB説の方が判り易い。[/help]

[help]B 氏政が懇望を受けたという立場に立つ場合、懇望は佐竹・宇都宮が懇望して関宿開城に至ったことを指すだろう。関宿に籠城していた簗瀬父子は開城後に後北条氏方となっていることから、懇望の内容は晴助・持助の赦免だろう。それがなった上で開城したものと思われる。懇望が関宿において行なわれたことから「於関宿」の語が最も自然に読み取れる。また、佐竹・宇都宮の懇望があったとする他史料(足利義氏書状)から考えるとB説の可能性も高い。[/help]

就此儀、御存分具被露御紙面候

「このことについて」とわざわざ断っていることから、義親書状の内容は上記懇望についての自身の考えが書かれていたと判る。

[help]A説ではこの内容を「両陣営から要請を受けて動けなかった経緯を弁明した」と考える。先の解釈で義親書状は条書と判ったが、弁明書であれば一々理由を挙げて細かく説明したのも首肯できる。[/help]

[help]B説はここの解釈が少し難しい。条書で切々と書いてきたということは、義親は懇望を受諾することに反対でその理由を列挙したのだろうか。しかし、関宿開城は閏11月19日。それに先立ち義重が退陣したのは16日だから、懇望状態の下限は15日と見てよい。その26日後の12月12日になって話題に出すのは、懇望を受けての一和・赦免についてではないだろうか。義親は懇望状態にこだわったので綱成は「佐・宮一和」もしくは「関宿赦免」とは書けなかったのか。この点を補強するために他の強い要因が必要だろう。[/help]

尤子候左衛門大夫ニ申付、氏政具為申聞候様ニ、随分意見可申付候

文頭に「尤」が来る例は珍しいが、前年の綱成文書を見ると1例ある。文頭「尤」は後でも出てくるのでそこで検討する。息子である左衛門大夫は氏繁のこと。前述のように取次は既に引き継ぎが終わっているから、氏政に取り次げるのは既に氏繁だけになっているのだろう。「具」や「随分」を入れているので、何らかのハード・ネゴシエイションだったことが窺われる。

[help]Aなら日和見の弁明なのでハードネゴは判りやすい。Bで考えるとするなら、「懇望を退けて佐竹と対陣し続けてほしい」か「停戦時条件で白川氏に有利な条項を付帯してほしい」になるか。しかし、既に時日を経過し不可能に近いことは義親も判っていた筈である。ここはAの方が自然だと思われる。[/help]

幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪之由、深存候

「幸いにして・都合のよいことに」という書き出しのこの文は難解。佐竹・宇都宮を列挙して「和」としている。ここでは、懇望のくだりで出てきた「東方之衆」は除外されている。また、こういう表現だと、佐竹・宇都宮の間で和睦があったと理解するのが自然だと思われるが、少し事情が異なるようだ。佐竹氏は関宿開城に当たって後北条氏と和睦しているから、「佐・宮(、当方)和之上」と補ってよいだろう。一方で「其口」は義親宛て書状である点から、白川方面を表わすと仮定できる。「調儀」は軍事・外交的な攻勢を示す。「これあるまじく」は「あってはならない」か「ありえない」のどちらかだろうが、現段階では判断できない。

「之由」は殆どの場合伝聞内容を示すと理解されているが、その場合「由」単体は「とのこと」までしか意味しない。その後に来る文言として「申来候・其聞候・被聞召届・長尾新六注進・可申聞之状如件・令校量間・及聞ニ付而・富永能登守披露・被仰下候」という例がある。この場合は伝聞の内容を取りまとめる形で「由」が用いられていると考えられる。そのかたわら「喜悦候・甚以感悦也・太以感悦也・尤神妙也・嘉悦之至候・令満足候」が続く例もあるが、その大半を感状が占めているようで、一種の様式だった可能性がある。この書状での用法は「定苦労可有之由、令校量間」に近いのではないかと推測している。これは「きっと苦労が多いだろうとのこと」を氏政が「校量」したので「氏照・武蔵・下総衆を今朝出動させた」という文脈で用いられており、「由」は伝聞とは絡まない。同様に、「幸い佐竹・宇都宮と(後北条が)和睦したからにはそちら方面に攻撃はないこと」を綱成が「深く存じています」という解釈でよいと思う。和睦先の「当方」を略したのも、綱成主観で書かれているとすれば自然だ。

一方で、綱成が既に氏政の内意を把握しており、それを遠回しに書いている可能性もある。これは小田原参府の部分で後述する。

此一事委氏政為申聞候様、左衛門大夫可申付候

「この一事」は、上の「之由」の前文=「幸い佐竹・宇都宮と和睦した上は白川方面に攻略をしてはならない」ことを表わすだろう。氏政に詳しく言い聞かせるように、綱成が氏繁に申し付けようと書いている。「可」があるので未来に向けて開いた状態で、この文書が書かれた際はまだ氏政に話していない(と、少なくとも綱成は書いている)。

今月十日小田原愚老父子致参府之間、尤以早速可為申聞候

この「今月十日」はおかしい。この書状を書いているのは書状の始めにある「昨九日」と、書状自体の日付「正月十日」から、1月10日だ。なぜ「今日」か「今十日」と言わないのか。小田原に自分と息子が参府するので、とつなげている。綱成の書いてあることを是とするなら、9日に義親書状を受け取り、翌日息子と小田原に行く予定があった。そこで小田原へ立つ前に急いで書いているように見受けられる。そのような慌しい状況でこれから行なう参府を「今月十日」と表現するだろうか。妙に客観的であって、やはり変だ。10日に氏政の内意を得たのだが、それを文面で告げることを禁じられ、後日書く際に日付を遡って書いた。しかしここだけ見落としてしまった……氏政説得についてやけに自信ありげに書いていることから、この推測も充分可能であると考えている。

そして、再び文頭の「尤」が来る。綱成が用いた例を並べてみる。

「紙面にてお考えを詳しくお書きいただきました <尤も> 子である左衛門大夫に申し付け」(本書状)
「今月10日に小田原へ私ども父子が参府いたしますから <尤も> 早速申し聞かせましょう」(本書状)
「お立ちになり面会を遂げ本望に思います。 <尤も> 今後においてはあなた方父子へ疎隔の意はないでしょう」(某宛書状)

「尤」の原義から考えて「それがもっともなことで」という意味合いで使っているように曖昧に推測はできるが、判断まではできそうにない。他の文書でも「、尤」で検索して検討してみたが、どうにも曖昧な語用になっている。これは今後の課題とするので、解釈には組み入れない。

申迄雖無之候、累年申合意趣今般不預思慮申達候

言うまでもないことだが、と前置き。多年にわたって合意した内容は、「今般」の思慮に預からず申し達します、書いている。申し達するとは、確実に連絡するような意味かと思う。これには「可」がない。ということは、これは氏政にこれから報告する内容ではない。書状を通じて義親に伝えた、ということか。

[help]ここは材料が少なくA・Bともに解釈を当てはめるのが難しい。ただ、A案だと累年の意趣=長期間の同盟関係、今般思慮=関宿攻防で微妙になった関係という解釈が可能。B案は、累年の意趣はAと同じ、今般思慮=新たに和睦した佐竹・宇都宮への配慮という解釈になる。[/help]

莵角ニ対佐竹無油断其御用心専要迄候

前文で何を誰に申し達するのか、恐らく義親にも曖昧なまま、「とにかく」と話をまとめてしまっている印象がある。「佐竹義重に対して油断せずに、そのご用心がもっぱら大切な事柄なまでです」。「無油断」と「御用心」の間に「其」が入っているのがちょっと変わっている。ここはA/B両案での違いはない。前文と合わせると、括弧でくくった一種の倒置表現にできる可能性がある。

「申すまでもないことですが (累年にわたり申し合わせている意趣は考えるまでもなく申し達します) ともかくも、佐竹に対してご油断なさらぬことが大切です。」

これなら自然につながりそうな気がする。

珍説候者重而可蒙仰候、猶委細者御使僧口上ニ申達候、恐ゝ謹言、

何か変わったことがあったら再度連絡をほしい、という言葉で事実上結んでいる。口頭での連絡を委託された「御使僧」は、前年に氏繁が義親への書状で言及した人物だろう。

[note]「今月十日」で、綱成が日付操作を行ない、氏政内意を得ていない前提で書状を書いたという仮説を書いたが、この使僧は戦闘中の前線を氏繁と共に移動したような人物である。日付や参府事実を偽るなら、彼も共犯で、書状を持ち帰った時に「実は氏政には会っていて」と語る前提となる。それが果たしてあり得るのかは、本文書だけでは判らないため今回は保留とする。[/note]

最後に、今後の参考として上記解釈の積み残し課題を列挙しておく。

  1. 白川氏については『戦国期の奥州白川氏』(岩田選書 地域の中世11 菅野郁雄・著)に詳しいが、こちらは未読で解釈を行なっている。
  2. 蘆名氏・佐竹氏の動向を1次史料から丹念に追う必要がある。今回の検討では『戦国遺文 後北条氏編』『小田原市史』が出典の殆どとなり、偏向は否めない。佐竹義重が1574(天正2)年から翌年を通じて奥州口を攻めるという表現が複数見られるが、実際のところどうだったのかは綿密に検討してみないと何とも言えないだろう。
  3. 同様に、佐竹・後北条氏が決定的に対立する契機となったのは、皆川・壬生氏が後北条方に転じたためであると思われる。この周縁の情報も追ってはいない。

依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づいた。

返々南方衆ハ沼田・我妻之間中山之地取詰候、沼田一途無落着者、当表行努々有間敷候、扨亦遠州御人衆近日至于甲府御着候、為始曾下駿州衆大略甲へ御着候、可有五日内候、以上、

自兵庫殿注進候趣、具得其意候、南方衆越山之儀努々不可有之候、次ニ正月之礼儀可為如何之由候、三ヶ日之内者、何方も用心大切候、御遅延候も不苦候、可然時分相計可及御左右候、其分御人可申候、只今之儀者城内用心ニ相極候、内々之儀ハ無沙汰之様ニ候共、少も不苦候、此分異見可申候、将又小諸通用無相違様ニ堅可被申付候、御大堵其分ニ候、必々無御無沙汰様可被申候、恐々謹言、

 「南方衆」が後北条氏を指し、沼田・吾妻・中山が上野国であることは確実だろう。ところが、後北条方が中山城を押さえたのは1583(天正11)年と比定されている(抑今度中山地、其方兼而如演説、早ゝ落居)。また、永禄4年からは上杉輝虎が上野国を制圧しており、沼田も後北条方から失陥している。また、遠江衆と駿河衆が別々に甲府へ到着している。永禄6年頃に、東上野国を巡って武田氏と後北条氏が係争した事実はなく、また、今川氏が武田氏に一方的に加担した記録もない。そもそも、依田信蕃の活躍時期を考えると永禄年間というのはおかしい筈だ。

 となると、1582(天正10)年の天正壬午の乱が妥当だと考えられる。駿河・遠江の軍を甲斐に集結させたのは徳川家康で、依田信蕃は徳川方だ。今川・武田を巡る奇妙な推測を入れなくても、文意は明快となる。

 そこで問題になるのが日付だろう。閏12月が存在するのは宣明暦だと1563(永禄6)年しかないが、東国で用いられた三島暦では1582(天正10)年にも存在する。織田信長が殺された遠因として挙げられるように、この年の閏月は東西で大きく異なっているのだ。京の暦では翌11年に閏1月が入るのだが、三島暦だと閏は前年の12月の後に入る。つまり、正月が東西で違う日になっていたのである。実際、後北条氏の年表を見ても、天正10年12月の後にすんなりと閏12月が入っている。

 このことから、該当文書の年代比定は1582(天正10)年が正しいと修正した。

 なお、『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一)によると、1585(天正13)年に閏月を7月の後に持ってくる暦が東北に存在した模様(同書26ページ)。この年の閏は京も三島も8月の後ろなので、これまた別の計算によるものだろう。

かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。

写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。

戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状』海老沼真治氏

東大史料編纂所の『木簡画像データベース・木簡字典』『電子くずし字字典データベース』連携検索で調べてみると、確かに似ている。

こういう事案が発生してしまうと、活字化された文書しか見られない私のような手合いは困ってしまう。3日なのか6日なのかのずれは何とかなると思うのだが、3月と6月の取り違えということになると、問題は大きい。これからは注意して解釈していこうと思うが、頭の痛いことだ……。

以前にアップした菅沼伊賀宛の今川義元判物写にて、記事見出しとして「今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する」としていた。当時の私の解釈では、敵方に既にあった菅沼伊賀が、今川方についたと考えていた。ところが、原文を詳細に見ると、いくつか疑問が出てきたため検討して訂正しようと思う。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、

 「年来」とあるので、この文書が発行された1553(天文22)年より複数年前、少なくとも天文19年以前からという意味になるだろう。菅沼一族の三郎左衛門尉・織部丞・新左衛門尉が主語になる。「令」を純粋な使役と捉えると、伊賀がこの3名を逆心に同意させたことになる。しかし、これまで見たようにこの時代の「令」は他者の行動を指したり、「させていただく」的な謙譲語として使われることが多い。この場合だと、3名の行動を指すだろう。彼らは逆心に同意した、ということだ。「之儀」でとりまとめて次の文に続いている。

先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、

 前文の事柄を、「先年」というから前年より前の天文20年以前に、奥平八郎兵衛尉が申し出ている。「訴人」は原告を意味する。「為訴人」を、「訴人となして」と読むと、八郎兵衛尉を訴人としたのは菅沼伊賀だと断定できる。というよりも、ここで伊賀が主語に立たないと、「之上」が意味としておかしくなる。八郎兵衛尉が誰の指示でもなく訴人として立ったのなら、次文での主語は伊賀となるため、それを切り替えるべく「之上」ではなく「之処」となる筈だ。

今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、

 「菅沼の3名が逆心に何年も同意していた」という訴えを奥平八郎左衛門尉にさせた上で、その2年以上後に菅沼伊賀は林左京進に相談する。そして、返り忠を明言して忠誠を誓う証文を提出する。義元はこれを忠節の至りとしている。返り忠ということは、三郎左衛門尉ら3名の何れかは伊賀の主筋に当たる。

 実は、このような状況は東条松平氏にも発生していた。1551(天文20)年12月2日に発生が告げられる。

今川氏家臣、松平甚太郎に甚二郎領地の継承を安堵する

 甚太郎の兄である甚二郎が「別儀」となったので、跡を甚太郎に継がせようとしている。その直後の11日、義元が2通の文書を発行する。松井左近尉への「今度甚二郎逆心之儀訴出之旨、忠節之至也」と、松平甚太郎への「今度兄甚二郎構逆心、敵同意之処、為返忠申出之段、甚以神妙也」という言葉は、菅沼伊賀への書状に近い。

今川義元、松井左近尉に、松平甚二郎逆心時の対応を賞し、甚太郎同心として奉公するよう指示

今川義元、松平甚太郎に兄甚二郎の所領を与える

 松平甚二郎事件では、弟の甚太郎と家臣である松井左近尉は甚二郎が「別儀」に及ぶことに反対していた。ここの別儀はほぼ逆心と同じで、今川方から敵方へ乗り換えることを指すと考えて間違いない。そして、その事実は通報したのが松井左近尉、返り忠をなしたのが甚太郎である。それぞれを、奥平八郎兵衛尉、菅沼伊賀に置き換えると2つの事件はほぼ同じ進展だったと判る。

 但し、時系列は大きく異なる。松平甚二郎事件では12月初旬であっという間に済んでいるが、菅沼三郎左衛門尉事件では、訴人が立ったのが2年以上も前の話で、しかもその訴えには「年来=前々から」とあるため、天文16年くらいまで遡っての訴えになるだろう。今川氏が「田原本意」を遂げて三河に侵入してきた頃と同じである。訴状としては時間が経過し過ぎているように見える。

 一方、この事件が発覚した天文22年というのは、今川氏が東尾張までも席捲した最盛期に当たる。その後弘治・永禄になると戦線は膠着するから、義元が最も自信を持っていたのはこのぐらいの年だと考えられる。尾張領有が現実的になった今川氏は、後顧の憂いを断つために、動静の怪しい三河国衆を粛清した可能性が高いように思う。何故なら、菅沼氏の反今川方が行動に出るのは弘治年間以降であり、むしろこの事件によって分裂したと思われるからである。

 上記訂正を受けて、下記ページを修正した

鳴海原合戦関連時系列
検証a22:北方戦線(奥三河)を中心とした時系列
今川義元、三河国菅沼伊賀が同三郎左衛門尉らを訴えたことを賞し、知行を安堵する

今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。

同去年配当形之厚分等之事

という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと」としていた。この結果『厚分』なる用語が不明なままだったが、文書全体を視野に入れてみると、ここは奥平定勝の弟である日近久兵衛尉の知行分を指している。

去年息千々代・同名親類等依忠節

 この忠節は、前年の1547(天文16)年8月25日に今川義元が作手仙千代・藤河久兵衛尉に宛てて約束した判物と呼応する。何らかの事情によって当主定勝が不在だった奥平氏に対して、義元が成功報酬を約束したものである。「藤河(ふぢかは)」となっているのは聞き違いからの当て字で、義元文書でもその後一貫して呼称している「日近(ひぢか)」が久兵衛尉の苗字であろう(但し、1541(天文10)年に義元が久兵衛尉に対して藤河を給したという記述が『作手村誌』にあるそうで、一概に断定はできない)。

 その翌年1月26日になって、義元は定勝の弟である久兵衛尉の謀叛が明確になったといって、久兵衛尉の本知行のほか、前年宛て行なった知行を定勝の所有とした。

 さてここで「厚」とされている字をよく似た「原」に読み替えてみる。この文書は「写」であるから、書写上誤っていた可能性は高い。そうすると、「形之原=形原」が浮かび上がってくる。日近久兵衛尉は、形原を恩賞として与えられていた。奥平氏本拠、山中七郷からも離れてはいるが、同文書中にある「遠江国高部」(静岡県袋井市)よりはよほど近いといえよう。

 形原については形原又七(松平家広)が牢人から復帰したことを竹谷与次郎(松平清善)に告げる文書の日付が天文16年閏7月23日なのが興味深い。書中で誇らしく給人として復活したことを告げている又七は、本知行が回復したかは書いていない。「今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共」とあるので、手元に戻ってきてはいない可能性もある。

 ここで形原の知行について整理すると、天文16年閏七月以前には、形原又七の手元からは離れていた。それが、田原侵攻を機に一気に西進してきた今川方によって、恐らく9月~12月の間に奥平一族の日近久兵衛尉に与えられている。となると、形原又七を牢人させ、本知行を所有していた人物は今川方によって追い払われていたと考えられる。又七が給人に回復できたのも、今川方の侵攻による政変があったからだろう。

 対抗勢力については、検証a21:小豆坂合戦の趨勢から、織田信秀の後ろ盾を得た岡崎の松平広忠と考えてほぼ間違いないだろう。

 形原については、1556(弘治2)年と思われる荒川義広宛今川義元書状でも触れられており、そこでは「荒河殿幡豆・糟塚・形原堅固候」とあって荒川氏所領になっている。

今川氏真が簗瀬九郎左衛門尉に宛てた文書について、私が当初試みた解釈が誤っていたため訂正を行なった。備忘録として、修正内容と根拠、適用範囲を書き記しておこうと思う。具体的にいうと、

為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討取段

という文を、「奥平久兵衛尉、鱸九平次たちによって多数の者を討ち取った」としてしまった。他の文書を見ると、「為初」もしくは「為始」=「はじめとして」が用いられた場合、その後ろに「討捕」があったらその中間にある人名は討ち取られた対象を指す。

為始北条孫次郎、宗者数百人被討捕

「北条孫次郎」は後北条方であるのは明確で、文書を発行した正木時茂が上杉方であるのも自明なので、討ち取られたのが孫次郎であるのは確実である。

信玄親類ニ、長円寺弟号本郷八郎右衛門人を為始、十余人討捕候キ

目的語が入れ替わっているが「信玄の親類で長円寺の弟と号している本郷八郎右衛門の人」は本来「為始」の後に来る言葉である。発給者と思われる北条氏政はこの頃武田晴信と敵対しており、討ち取った対象者は本郷八郎右衛門である。

今でも解釈に至らぬ点が多いのだが、これをアップした頃は未熟どころの問題ではない拙劣さで、該当文書の後半に「両人」とある割に宛所が簗瀬九郎左衛門尉だけだったので、ではこの2名は奥平と鱸だろうと早合点してしまった。その後、下記文書を解釈したので当然誤りに気づいてよかったものを、見過ごしていた。

原田三郎右衛門尉・簗瀬九郎左衛門尉宛、今川義元判物

原田三郎右衛門尉は簗瀬九郎左衛門尉とセットで動いているので、この文書の宛所に三郎右衛門尉がなかったとしても、両人といえばこの2名で通じたものと思われる。

上記を受けて、関連する下記ページを改めた。

今川氏真、簗瀬九郎左衛門尉の戦功を賞す

検証a11:各人物の所在

鳴海原合戦関連時系列

この文書の年次比定は従来永禄4年とされている。「酉」とあるから自ずと12年おきに限定されるからだ。「禄寿応隠」の虎印判初見は1518(永正15)年と言われるから、本文書の上限は永正10年には遡れるだろう。下限は後北条氏滅亡前の天正13年となる。

  • 永正10年(癸酉)
  • 大永5年(乙酉)
  • 天文6年(丁酉)
  • 天文18年(己酉)
  • 永禄4年(辛酉)
  • 天正元年(癸酉)
  • 天正13年(乙酉)

天文18年をまず考えてみる。この段階では新田横瀬氏・足利長尾氏は山内上杉方であるから、人質を後北条氏に送ったとは考えにくい。同様の理由で、上杉憲政が上野国にいた天文18年以前は対象外となる。

引き続き消去法で考えていく。永禄4年は、ちょうど越後勢の侵攻と合っている。人質を伊豆三島に退避させる観点からは問題ない。ただ、関東幕注文に横瀬・足利両氏は名を連ねている。天文末年から永禄3年までの間で後北条氏が人質を取るまでの支配透徹をこなせたかが問題になるだろう。永禄4年説は保留としておこう。

天正元年以降。こちらは、奉者の大草左近大夫(康盛)が、氏康没後に当主側近から北条宗哲家臣に変わっているため、除外される。

後は永禄4年説の留保事項をクリアすれば比定は完了する。ところがこれが意外に難しい。

長尾景虎が上野国に駐屯を始めた永禄3年9月、北条氏政が浦野氏に人質提出を求めた書状がある。浦野氏も関東幕注文に名前があるから、横瀬・足利両氏も同様に氏政から人質提出を求められていた可能性が高い。しかし、上野国衆が実際に人質を出したかは微妙だ。大戸の浦野氏は近隣の倉賀野に人質を出すよう依頼されている。来襲直前になって「実子を倉賀野へ」と依頼しているのだから、それ以前には人質をとれていないということだ。さらに、「川越へ」とすら言えていない。利根川以南へ出せという高圧的な言辞は使えなかったのだろう。

また、永禄4年説では、直前まで小田原を攻囲されていた事から人質を安全な三島に移送したとされる。だが、上で考えたように、小田原に「新田証人」がいた可能性は低い。

逆に、小田原から人質がいなくなるデメリットは大きいだろう。小田原城が安全ではないという宣言になるし、人質引き渡しによる交渉を小田原で行なえなくなる。退嬰的で不可解な政治判断ではないか。永禄4年説もこうなると適合性が低い。

ここで天正13年を検討してみると、実は自然な流れである事に気付く。まず、前年末より北条氏照が利根川を渡って新田と館林に侵攻している。1月4日の氏照書状では両所とも降伏して接収完了しており、11日には進軍してきた氏直が館林城主の長尾顕長を接見。氏直は2月13日以前に小田原へ戻る。この時連れて来た人質が3月7日に三島へ移動。この時の由良・長尾氏は完全降伏であるから人質を強制的に移送するのも可能だ。ちなみに、人質の正体は国繁と顕長兄弟の母妙印尼と、その従者だったのではないかと推測している。

更に、当時後北条氏は徳川氏と同盟しており、三島はその国境に当たる。羽柴氏は両氏共通の敵国であり、佐野氏を介して羽柴方となった新田・館林の由良国繁と長尾顕長もまた敵であった。氏直からすれば、両者からの人質を豆駿国境に置く事は、徳川氏と共有する人質だというアピールにもなり、政治的な利点があったように思える。

天正13年説のネックは1点。この文書の奉者を大草康盛とするなら、康盛は既に丹後守となって北条宗哲家臣になっていることだ。しかし、この大草左近大夫を康盛ではなく、残存文書が1通しかないもう1人の大草左近大夫(康盛の後継者)だと考えるなら、天正13年の方が比定として妥当であると考えられる。

 北条氏政が、実母瑞渓院殿の看病を清水上野入道(康英)に命じたとされる書状だが、少しおかしな点がある。

「御太方御煩、経年月大病候間」御太方(大方)は瑞渓院殿を指す。年月を経て大病しましたので、とあるが瑞渓院殿が夫氏康と同じ年齢だと仮定すると1515(永正12)年生まれなので比定される1575(天正3)年時には満60歳。当時としては高齢なので問題はない。「更難治候」はさらに治しがたく、となってこちらもすんなり読める。

「土用中極ゝ養性候」とあるが、1575(天正3)年の夏の土用は旧暦の6月4日~21日。書状の日付は23日なので、一昨日までの状態を告げている。この間はとてもよく養生した、ということだ。

 この次、「無少験気候」の「験気」は病状が快方に向かうこと。「少しの験気もなく候」となり好転が見られないことになる。

 難解で奇妙に感じるのが最後の部分だ。上までの文を読む限り、氏政は母の病状を説明している。老齢期の病気で治りにくいこと、土用の間は養生していたこと、快方の兆しがないこと。これらは遠方にいる清水上野入道への通信文であると思われる。ところが、「此上も勿論於保養者、少も不足有間敷候」と続いている。「この上ももちろん、保養においては少しも不足あるまじく候」という一文を上野入道への指示と考えると、瑞渓院殿が上野入道の在所(伊豆)で療養しているように受け取れる。『家臣団辞典』と『年表』はそのように解釈しているが、どうだろうか。

 氏政は「由」や「云」という伝聞表記を用いていない。つまり、母親の状態を細かく実見していると解釈できる。病人は氏政の手元にいるのに、書状で伝えなければならない距離にいる上野入道に「少しの不足もないように」という指示を出すだろうか。最後の最後で「有間敷」が入ったために「清水上野入道への指示」という予断が入って上記2書も解釈全体がおかしくなったという考え方もできるだろう。

 その場合、「有間敷」はどう考えればよいのだろう。瑞渓院殿は土用の間小田原にいて、その後自身の保養を命じた書状と共に伊豆へ移動したのだろうか。6月23日はグレゴリオ暦でいう8月9日に当たり、暑気が厳しく重病人の移動には適さないし、小田原から伊豆へは山越えか海路となる。彼女は小田原に居続けたと考えるべきだ。

 逆に上野入道を呼びつける方法もあるがこの文面に指示はないため、断定はできない。

 指示ではなく「少しの不足もあってはならないのです」という通信文だと解釈もできる。しかしそれだと、今度は氏政が何を言いたかったのか判らなくなる。返信ではないようなので、上野入道が瑞渓院殿の容態を問い合わせ、その返事を書いた訳でもなさそうだ。

 他の史料による裏づけがないのでこれは推測でしかないが、小田原から離れた場所へ瑞渓院殿が参加する用事があったのではないか。それを仕切っていたのが上野入道だった。ところが、病状がそれを許さず、氏政はぎりぎりまで待って上野入道に不参加を伝えた。恐らくそれは、単に瑞渓院殿の私的な案件だったと思われる。氏政は不参加に伴う処置を指示していないからだ。瑞渓院殿が行かないなら自然と沙汰止みになるような事柄だったのだろう。清水氏が関係している事から、三嶋大社への願掛けだった可能性がある。

 この後の文書をいくつか採集して、引き続き考察を進めてみよう。

後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。

今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、

「今度」は「この度」と表記している。これは、現代語の「今度」とは微妙にニュアンスが違う感触がするためだ。彦九郎という人物が上洛と称して途中まで行った、としている。その事前にか途中でかは不明だが、親類・被官に起請文を書かせたようだ。

対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、

起請文の内容が書かれる。彦九郎が書かせた起請文は清房という人物への逆心=謀叛を企てる内容だったとしている。「一跡」は相続を指し、それを「押して」=強引に譲り受けようと「催」=活動した、という。「甚以」は現代語と同じ「はなはだもって」、不孝の至りとしているから、清房は彦九郎の尊属に当たると判る。

殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、

「殊」は「ことに」と読み、最近では余り使われなくなったので「特に」と解釈では記述している。城を1つ預けているのだから、と書いている。これは清房に城を預けているということだろう。「毛」は音読みして「も」、「なんどきもげぢをえず」と読み下す。今川当主の了解と指示を得ずにという意図だろう。「自由」は当時悪い意味で使われており、今川家の管理を経ない相続は「勝手・無責任」だとしていることになる。

此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相渡、

「この上」という言葉は実は「一跡あい渡すべからず」にかかる。その中間には、前提確認(清房・彦九郎が同意していても)条件提示(彦九郎の「進退」を確認していないから)が入る。「進退」は様々な意味があるが、ここでは「振る舞い=言動と性格」を指すと考える。

清房納得之上、表向雖申付、知行等之事者、彦九郎覚悟不見届間者、可為清房計、

ここはしつこい。前文と極めてかぶる内容だ。清房が納得の上で「表向き」に申し付けたのだとしても……つまり、清房が個人的にも合意して正式に家督継承を指図したのだとしても、ということを書き立てる。言外に「自分が納得していないのだから」という氏真の非難が篭められており、それは続きの「知行などのことも彦九郎の覚悟が確認できていないのだから、清房しか認められない」という文で炸裂する。

致今度之企本人有之由申之条、遂糾明、其段歴然之上、可加成敗、

「致~条」は難解なのでおいておく。その後ろを見ると、糾明を遂げ、その段を歴然とした上で、成敗を加えるだろう、となっている。ということは、一旦読み飛ばした前段は、「条」は前段を順接する語なので、氏真が断罪する前提が書かれているのだろう。

「致」の目的語がどこまでかがポイントだが、「今度之企」を致す「本人」が「これにある」という「由」を申している「条=ので」と把握すると自然だと思われる。誰が告げたかは特定していないが、氏真が把握している情報では、本人である彦九郎が主体だと断定できる、としている。

縦山林不入之地仁雖令居住、父子之間如此取持事、依為奸謀、如清房存分加下知、

彦九郎が山林・不入の地(=アジール)に住んだとしても、父子の間を取り持つことは今川家に対する策略と見なす。だから清房の存分の如く(思い通りに)下知を加えよ。「加」の前に「可」が付くはずが欠字している。

ここで疑問が湧く。清房は息子と仲違いしているのか……。父子の間を取り持つ者が出てくる想定がある、ということは現段階で父子に意思疎通がないと見てよい。そうなると、前文で「本人が主体で謀叛を企てた」と告げた人物が清房だと断定できる。文書の宛名も興津左衛門尉=清房だから、訴えは実の父親から出され、氏真の判物を得たのだ。

ここからは推測だが、清房は興津家で孤立していたのだろう。息子や親戚に言いくるめられて家督を手放したが、何かの理由があって取り返したくなった。そこで、『城を預かる家は家督継承を今川当主に承認してもらわねばならない』という点をついて訴え出たと。

今度之子細取持輩之知行分於有之者、任先判形之旨、清房可為支配、

氏真の怒りは続く。この度の子細=事情を仲介する者の知行は、先の印判状に則って清房の知行としてよいとしている。仲介する者というのは興津家親戚や家中だろうから、改易して清房に与えるのは理に適ってはいる。適用根拠として「既に出された印判状の通りに」という一文を入れているが、これは根が深い。本当にそんな印判状を出していたのだろうか。実物が出てきたらアップロードしようと思う。

重父子之間取持公事 申出、如何様之道理雖有之、最前之首尾条々為曲事上者、一切不可許容者也、仍如件、

なおも氏真は牽制する。父子の間の訴訟を申し出ても、ここまで書いたことが首尾=徹頭徹尾、条々=細かいところまで「くせごと=けしからんこと」なので、一切受け付けない。と言い切っている。

この書状の面白い点は、家督継承に際して彦九郎が上洛しようとしたことにある。京の将軍に仕える直属軍=奉公衆であればその行動も判る気がするが、興津氏もそうだったのか。興味は尽きない。