解釈覚書

覚書:北条綱成、結城義親に、関宿での和議に対する義親の意見を氏政へ伝えると約束する

極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候 12月12日の日付がある白川義親書状を、北条綱成は昨日9日に読んだとしている。中26日で白川から到着したことになる。到着地点は綱成居城の玉縄と考えてよいと思う。後の文で氏政が小田原 覚書:北条綱成、結城義親に、関宿での和議に対する義親の意見を氏政へ伝えると約束する

解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~

依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づ 解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~

三と六の衝撃

かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 三と六の衝撃

解釈訂正:奥平久兵衛尉の知行地記載『厚分』について

今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。 同去年配当形之厚分等之事 という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと 解釈訂正:奥平久兵衛尉の知行地記載『厚分』について

覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝える

 北条氏政が、実母瑞渓院殿の看病を清水上野入道(康英)に命じたとされる書状だが、少しおかしな点がある。 「御太方御煩、経年月大病候間」御太方(大方)は瑞渓院殿を指す。年月を経て大病しましたので、とあるが瑞渓院殿が夫氏康と 覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝える

覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する

後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する