覚書:弘中隆兼、こんに、厳島の戦況を伝え後事を託す
原文はhttps://old.rek.jp/?p=7544。 このかた、てきけひいて候て、せひなく候、 出だしからいきなり難物なのだが、「てきけひいて」をどう読むかが判らない。関連文書の為敵船後巻、数艘令渡海以下の部分か … 覚書:弘中隆兼、こんに、厳島の戦況を伝え後事を託す
原文はhttps://old.rek.jp/?p=7544。 このかた、てきけひいて候て、せひなく候、 出だしからいきなり難物なのだが、「てきけひいて」をどう読むかが判らない。関連文書の為敵船後巻、数艘令渡海以下の部分か … 覚書:弘中隆兼、こんに、厳島の戦況を伝え後事を託す
極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候 12月12日の日付がある白川義親書状を、北条綱成は昨日9日に読んだとしている。中26日で白川から到着したことになる。到着地点は綱成居城の玉縄と考えてよいと思う。後の文で氏政が小田原 … 覚書:北条綱成、結城義親に、関宿での和議に対する義親の意見を氏政へ伝えると約束する
依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づ … 解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~
かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 … 三と六の衝撃
以前にアップした菅沼伊賀宛の今川義元判物写にて、記事見出しとして「今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する」としていた。当時の私の解釈では、敵方に既にあった菅沼伊賀が、今川方についたと考えていた。ところが、 … 解釈訂正:菅沼伊賀の返り忠について
今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。 同去年配当形之厚分等之事 という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと … 解釈訂正:奥平久兵衛尉の知行地記載『厚分』について
今川氏真が簗瀬九郎左衛門尉に宛てた文書について、私が当初試みた解釈が誤っていたため訂正を行なった。備忘録として、修正内容と根拠、適用範囲を書き記しておこうと思う。具体的にいうと、 為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討 … 解釈訂正:簗瀬九郎左衛門尉宛の氏真文書について
この文書の年次比定は従来永禄4年とされている。「酉」とあるから自ずと12年おきに限定されるからだ。「禄寿応隠」の虎印判初見は1518(永正15)年と言われるから、本文書の上限は永正10年には遡れるだろう。下限は後北条氏滅 … 「新田証人」の年次比定について
北条氏政が、実母瑞渓院殿の看病を清水上野入道(康英)に命じたとされる書状だが、少しおかしな点がある。 「御太方御煩、経年月大病候間」御太方(大方)は瑞渓院殿を指す。年月を経て大病しましたので、とあるが瑞渓院殿が夫氏康と … 覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝える
後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 … 覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する