態申遣候、抑今般世上之風波、各ゝ是非之言上無之候、不審候、縦対氏康者、恨繁多候共、累代之忠信云、非見除可被申候、仍長尾景虎越河、至于豆相武令出張候、二三代至取来弓矢之上、無是非次第候、然者氏康以外戚之好、対御当家、万乙景虎可存無沙汰覚悟候共、諸家中各ゝ相談、可被加意見儀、非可譲他候歟、於御当代、毫髪毛相違之御刷無之候、君臣父子兄弟、以理非各別之筋目、太平ゝ和之儀、古今有之例候覧、対御当家可奉恨題目、為一事無之候哉、畢竟諸家中、不可過塩味候、委存分被聞召届、重而尚以可申遣候、謹言、
二月晦日
義氏(花押)
那須修理大夫殿
→神奈川県史 資料編3「足利義氏書状写」(那須文書)
1561(永禄4)年と比定。
折り入って申し伝えます。そもそも今どきの世の風潮では、誰からの是非の言上もありません。不審なことです。たとえ氏康に対して恨みが繁多であったとしても、代々の忠信を考えるならば、見限ってはならないと申されるべきです。長尾景虎が渡河して伊豆・相模・武蔵に出撃してきました。2~3代にわたり仕えてきた弓矢の家ですから、是非もない次第です。ということで、氏康は外戚の好みをもって御当家を遇しています。『万乙』景虎とは無沙汰の覚悟でいるでしょうが、諸家中でおのおの相談し、意見を加えて下さい。他に譲るべきではないでしょう。あなたの代においては、僅かでも間違った扱いはありません。君臣・父子・兄弟、理非によるそれぞれの筋目、そして太平と平和のこと。古今例にあることです。御当家に対してお恨みする題目など、一事のためにありましょうか。結局、諸家中は判断を誤るべきではありません。詳しい存分をお聞き届け下さい。重ねてさらにお伝えするでしょう。
書状写
国土変遷アーカイブにある写真には、終戦直後の鳴海城が写っている。大雑把にトレースすると以下のようになる。

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示
北の成海神社から伸びてきた稜線が、扇川手前で崖を形成する。それが瑞泉寺から鳴海城にかけてのラインとなる。その北東にある『砦』は字名。通説に善照寺砦と呼ばれるもので、東に向かって崖を形成する。
鳴海城・砦・瑞泉寺の3拠点は、三河から東海道を上る敵に対して効果を発揮したものと思われる。黒末川を渡った三河勢はすぐに瑞泉寺からの攻撃に晒される。辛うじて鳴海宿に侵入しても、北からの高地に晒されながら進まねばならない。鳴海城の手前で北に折れるが、道は城の眼前に取り込まれており、容易には進めない。
一方で砦は東に向かって構えを持っており、相原郷から来る鎌倉街道方面へ睨みを利かしている。部隊を2手に分けても対応可能ということだ。
東西南に強い鳴海だが、北からの攻撃には弱い。傾斜も緩く川もないため、土塁・空堀などで防御線を構築しなければならないだろう。
つまり、この城を今川方が確保するのは難しかっただろうと思われる一方、織田方には有利に働いたものと推測される。しかし、史料にある鳴海城は今川方の岡部元信が5月19日以降も堅守している。
この矛盾を次回から検討していきたいと思う。
先日知り合いより、冷泉家主催の和歌についての講演会に誘われた。私が歴史好きなのを知っているので、打診してくれたようだ。しかし、残念ながら苦手なのである。クラシック音楽を聴くのと同じで、鑑賞すると猛烈な眠気が襲ってくる。生まれついての散文人間なのだと思う。
ところが、史料の読み込みで和歌が出てくることも多いのが悩みどころ。冷泉為和の日記に「河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉」という意味深な表記が出てくる。川面・島が禁句であり、特に「新島」は一段と不吉だというのだ。謎の死を遂げた今川氏輝について、今川系図で「入水」とつなげられていることが思い起こされる。安倍川に出来た新しい中州で何かあったのか……。
という辺りで私の探求は終わる。何故なら、川面・島を禁句とするのがどの程度異常なのか不明なのだ。その時の歌も引用されているものの、アップ時の解釈文では完全に省略している始末。やはりある程度は和歌のたしなみがないと、今後どんどん厳しくなってくる予感がしている。
以前神保町にて掘り出した『戦国時代和歌集』(1944年・川田順著)を紐解いてみようかと思う今日この頃。
信越川中嶋合戦之刻、北越之押抜群之事候間、依之永五拾貫文加増并腰刀一振被下置候条、被仰出候、仍而如件、
永禄四[辛酉]十月二日
中村大倉殿江
馬場美濃守
奉之
→神奈川県史 資料編3「武田家朱印状?写」(新編相模国風土記稿津久井郡五)
信濃・越後の川中島合戦の際、北越の押さえとして抜群でしたので、これにより永楽銭50貫文を加増し、刀1振を下賜なされました。仰せによりこのようにします。
朱印状写
2007(平成19)年のNHK大河ドラマが『風林火山』だったことから、数多の武田系書籍が刊行されたが、その殆どが真摯な実証よりは通説を重視した内容だった。
その中で、新書ながら異彩を放った本格派『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書・鴨川達夫著)を紹介したい。
武田晴信の武勇伝を期待した向きには肩透かしになるだろうが、本書は古文書の解説に内容を絞っている。羊の皮をかぶった狼といおうか、NHK大河ドラマに仮託した古文書入門書である。ある程度『武田信玄』ガイドっぽく書いてはいるものの、「はじめに」の2ページ目で古文書の写真を掲載してしまっている辺り、失敗しているような感がある……。とはいえ、具体的を見ながら古文書の仕組みを学んでみたいという方には最適な1冊である。
改めて紹介すると、戦国時代の大名がどのように文書をやり取りしたのか、そしてその制約は何かを具体的な古文書で解説してくれている。外交辞令から親しい相手への愚痴、秘密めいたやり取りなどをじっくり解きほぐしてくれるので、歴史が苦手な方でもすんなり読めると思う。武田氏固有の文書形式だけでなく、禁制や判形を巡る当時のルールもきちんと説明されているため、当サイトをご覧になる際にも参考になるだろう。
主役となるのは武田晴信。ドラマや講談に出てくるキャラクターとは異なり、裏切りに怯えて細かい報告を求める小心さと、朝廷相手にブラフをかける大胆さが複雑に入り混じった、リアルな晴信がそこに浮かんでくる。本人証明の署名である花押にしても、晴信の場合は意外に手間のかかる描画方法を使っていたことが紹介されており、「目が痛くて……」「手を怪我して……」と言い訳しながら花押を略す姿も微笑ましい。
具体的には晴信期が殆どで、勝頼は晴信代筆のようなポジションにいたことが語られるに留まっている。勝頼の文書も個性的なものが多いので、この点は物足りなかった。とはいえ新書という枠を考えるならば、驚くほどの文章を内包した良書であることに変わりはないだろう。
大村家盛紀行文によると、彼は1日辺り8~9里(32~36km)歩いて旅行している。1日頑張るのであれば現代人でも可能だと思うが、備中国から武蔵国までこのような速度で移動するのは不可能だと思う。
とはいえ不可能だと思うのは戦後以降になって初めてかも知れない。私の親戚の話を聞いたことがあるが、太平洋戦争最末期から戦後の混乱期にかけて、静岡県三島の楽寿園のそばから神奈川県小田原の酒匂まで10歳前後の兄弟二人、1日かけて歩いて来ていたというのだ。国道1号線をまっすぐなので、迷うことはない。また、見つけた自動車が止まってくれて、よく乗せてくれたともいう。近年でも浮浪者が徒歩で箱根越えをしている。
しかし、往路それで遊びに来て、帰路に祖母が汽車賃を与えても「もったいないから小遣いにしたい」と言ってまた歩いて帰ったという。とても信じられない話だが、当事者から直接話を聞いたのでソースとしては確実である。
三島と小田原の距離は大体30km。山越えという点を考慮すると、戦国期の大人以上の移動能力を発揮したことになる。さすがにそれはないと思うので、ヒッチハイクの成功率が高かったような気はする。ただし、ヒッチハイクできなければ30kmを歩かねばならない訳で「それなら子供でも1日で歩ける」という感覚を当時の人々は持っていたことは確実だ。
禁制
右、当手之軍勢甲乙人等、於月行寺濫妨狼籍之事、若此旨至于違犯之輩者、可処罪科之状、依仰如件、
閏三月三日
時茂(花押)
→「里見義弘禁制」(妙本寺文書)
右、こちらの軍勢と軍属が月行寺において暴行を行なうことについて。もしこの趣旨に違反する者がいれば、処罰するものである。仰せによってこのようにする。
閏3月より1561(永禄4)年と比定。
禁制
閉館時刻間際の国会図書館。机上には『愛知県史』、『戦国遺文 武田氏編』。付箋でマーキングした文書は20件以上で、とても間に合いそうにない。が、今を逃せばデータ起こしできるのは2ヶ月以上先になってしまう……。
ところが、変体漢文を普通の変換処理で入力すると、途轍もなく手間がかかる。「候へく候」は、「sourou heku sourou」とやたら長いし、「ところ」と入力した場合も「所」か「処」のどちらかになるのだが、まともに変換するとずらっと候補が並んで見づらいことこの上ない。「鬮」や「訖」は出てこないし、「廿」「卅」も変換不能である。
ということで、時間短縮するため、ユーザ辞書を作り出すことにした。頻出の「候」は「sr」、「仍如件」は「yk」、「処・所」は「sy」を当てている。GPLによる配布となるので、ソース明記があれば改変も再配布も自由である。興味がある方はご活用を。
具体的な内容は、元号からと西暦の何れかから、元号(西暦)に変換できるものと、以下のリストのような変体漢文の具体的入力に特化したものに分かれている。WindowsのIMEであれば、ユーザ辞書ツールの「ツール → テキストファイルからの登録」で読み込めばインポート完了となる。
rek_jp_dic(29.76KB)←ここをクリックしてダウンロード
WindowsIMEへの登録方法が判らない方はこちら
□hentai_kanbun.txtの内容一覧
読み |
変換候補 |
品詞名 |
sr |
候 |
名詞 |
srj |
候条 |
名詞 |
sら |
候間 |
名詞 |
sy |
処 |
名詞 |
sy |
所 |
名詞 |
yk |
仍状如件 |
名詞 |
yk |
仍如件 |
名詞 |
あらためて |
改而 |
名詞 |
ある |
有 |
名詞 |
いい |
ゝ |
名詞 |
いい |
々 |
名詞 |
いえども |
雖 |
名詞 |
いじょう |
已上 |
名詞 |
いみな |
諱 |
名詞 |
いよいよ |
弥 |
名詞 |
いらん |
違乱 |
名詞 |
いんぱん |
印判 |
名詞 |
う |
于 |
名詞 |
うえもん |
右衛門 |
名詞 |
うちとり |
討捕 |
名詞 |
うちとる |
討捕 |
名詞 |
うへい |
右兵衛 |
名詞 |
うへえ |
右兵衛 |
名詞 |
おいて |
於 |
名詞 |
おわんぬ |
訖 |
名詞 |
か |
歟 |
名詞 |
かげ |
景 |
名詞 |
かさねて |
重而 |
名詞 |
かねて |
兼而 |
名詞 |
きょうこう |
向後 |
名詞 |
ぎょうぶ |
刑部 |
名詞 |
くじ |
鬮 |
名詞 |
くるわ |
曲輪 |
名詞 |
げ |
偈 |
名詞 |
げち |
下知 |
名詞 |
ごうりき |
合力 |
名詞 |
こきゃく |
沽却 |
名詞 |
ここ |
爰 |
名詞 |
ここにより |
因茲 |
名詞 |
ここもと |
爰許 |
名詞 |
こにだ |
小荷駄 |
名詞 |
これ |
此 |
名詞 |
こんぼう |
悃望 |
名詞 |
さえもん |
左衛門 |
名詞 |
さて |
扨 |
名詞 |
さね |
真 |
名詞 |
ざね |
真 |
名詞 |
さへい |
左兵衛 |
名詞 |
さへえ |
左兵衛 |
名詞 |
さんじゅう |
卅 |
名詞 |
しかれば |
然者 |
名詞 |
しき |
職 |
名詞 |
しゅう |
刕 |
名詞 |
じょう |
尉 |
名詞 |
じょう |
允 |
名詞 |
じょう |
據 |
名詞 |
しょうゆう |
少輔 |
名詞 |
しょむ |
所務 |
名詞 |
じんぷ |
陣夫 |
名詞 |
すえ |
季 |
名詞 |
すけ |
資 |
名詞 |
すなわち |
輒 |
名詞 |
すんしゅう |
駿州 |
名詞 |
そうふ |
崇孚 |
名詞 |
たい |
對 |
名詞 |
たか |
鶻 |
名詞 |
たしか |
慥 |
名詞 |
ただ |
忠 |
名詞 |
たのみ |
憑 |
名詞 |
だゆう |
大輔 |
名詞 |
ちか |
親 |
名詞 |
ちくぼく |
竹木 |
名詞 |
ちゅう |
抽 |
名詞 |
ついて |
就 |
名詞 |
つきて |
付而 |
名詞 |
てっぽう |
鉄炮 |
名詞 |
とかく |
菟角 |
名詞 |
とも |
朝 |
名詞 |
なかんずく |
就中 |
名詞 |
ならび |
并 |
名詞 |
に |
貮 |
名詞 |
にんしゅう |
人衆 |
名詞 |
にんそく |
人足 |
名詞 |
にんぷ |
人夫 |
名詞 |
のうしゅう |
濃州 |
名詞 |
のり |
憲 |
名詞 |
はしりめぐ |
走廻 |
ら行五段 |
はしりめぐり |
走廻 |
名詞 |
はたまた |
将又 |
名詞 |
はなはだ |
甚 |
名詞 |
はなはだ |
太 |
名詞 |
はんぎょう |
判形 |
名詞 |
びしゅう |
尾州 |
名詞 |
ひてい |
比定 |
名詞 |
ひょうろう |
兵粮 |
名詞 |
ふ |
苻 |
名詞 |
べき |
可 |
名詞 |
べく |
可 |
名詞 |
べっして |
別而 |
名詞 |
ほう |
炮 |
名詞 |
ほうき |
伯耆 |
名詞 |
まこと |
寔 |
名詞 |
まさ |
政 |
名詞 |
まじく |
間敷 |
名詞 |
みち |
逵 |
名詞 |
みつ |
光 |
名詞 |
むねべつ |
棟別 |
名詞 |
もうし |
申 |
名詞 |
もうしいれ |
申入 |
名詞 |
もうしつけ |
申付 |
名詞 |
もうす |
申 |
名詞 |
もって |
以 |
名詞 |
やがて |
軈 |
名詞 |
よって |
仍 |
名詞 |
より |
依 |
名詞 |
より |
頼 |
名詞 |
よりおや |
寄親 |
名詞 |
よりこ |
寄子 |
名詞 |
よる |
依 |
名詞 |
らくきょ |
落居 |
名詞 |
られ |
被 |
名詞 |
どの戦で天守が「司令塔」だったのか??
上記はいつも拝読している『城の再発見!』ブログのエントリーだが、大坂夏の陣屏風絵で描かれた天守では窓に女性の顔があることを指摘している。また、城主が天守に登るのは落城が決定的になった時であること、天守は大奥・詰めの曲輪に連結していることも触れられている。そして、天守自体は鉄炮・大砲の的になるのに、なぜ女性が存在するかは疑問だとされている。
天守は人質を入れていたと考えると、ある程度納得はいく。陣地の奥なら守り易く逃げられにくいだろう。ただ、天守から戦場を見下ろした女性たちが、軍監も兼ねていたと考えることも可能だ。戦っている父・兄弟・夫・息子の活躍を熱心に見て勤務評定につなげただろうし、男たちもそれを意識して指物や前立を目立つようにしたのだろう。
鈴木眞哉氏は『戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像 』(歴史新書y)にて、戦場での勤務評定が具体的にどのようになされていたかは不明としているが、野戦も含めて女性軍監がいたと考えるのも一案ではないかと思う。その利点・不利点を挙げてみる。
利点
- 男が敵前逃亡できない
- 居住地域ごとに軍監も編成されており、抜け駆けなどは軍監同士で相互監視
- 他人の監査ではないため、納得性が高い
- 人質も兼ねて軍と移動を共にするため、留守中敵方に内通できない
不利点
- 急速に戦線が崩壊した場合、軍監(人質)まで拉致される危険がある
- 女性内での序列が勤務評定に影響する可能性がある
- 軍監部隊が大きくなり、補給物資の量が増大する
現在この考えに史料的根拠はないが、後北条氏が人質の管理を民間に委託していたりという意外な事実が徐々に明らかになっていることもあり、可能性はゼロではない。この留意点に立って、いくつか史料を当たってみようかと思う。
女性たちが熱心に見守り、声援を送る。これは兵士のモチベーションを上げる最強の手段だと思う。そう考えて改めて天守を観察すると、優美な様式のものが存在する理由も判りやすい。そして、会津若松の天守が燃えていると勘違いした白虎隊の絶望には「母や姉妹が焼かれて誰も見守るものがいない」という切迫したものが含まれていたのかも知れない。
制札
木村奏者
右、江嶋房中之義、不可有相違候、自当地之衆乱妨令停止候了、併小屋之者共ハ、可被押払者也、仍如件、
永禄四酉
三月廿七日
江嶋
房中
→「北条康成制札」(岩本院文書)
右、江ノ島房内のこと、相違があってはなりません。当地よりの部隊が暴行することは禁止する。そして小屋の者たちは、押し払われること。
制札