今度阿形岩江相働、敵金田妙嘉之介討取、働無非類之由、嘉悦之至候、依之、廿壱貫三百五拾文、野上用土分・新井共ニ為合力之間、慥ニ請取、向後弥可抽忠信者也、仍如件、

 午

八月廿一日

山崎弥三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2398「北条氏邦朱印状写」(新編武蔵国風土記稿秩父郡六

天正10年に比定。

 この度阿形岩へ出撃し、敵の金田妙嘉之介を討ち取り、戦果が比類なかったこと、嘉悦の至りです。これにより、21貫350文・野上用土分を、新井と共に力を合わせたので受け取るように。今後はますます忠信にぬきんでるよう。

其手之模様注進遅ゝ間、機遣候キ、江雪所へ之状、具ニ見届候、然者大事之様子、七日ニ箕輪原へ陣寄以来、一切無是非候、不審千万ニ候、至于対陣ハ、別ニ勘も無之候間、能ゝ模様見聞之上、遂出馬、甲州へ打入外有間敷候、不然ハ於彼表之対陣之落着、別ニ可如何候、其元弥被改人衆専一ニ候、若今度之無仕合ニ、道具なと不足之模様有之ハ、無用捨書立、可被越候、於当地調可越候、万端弥無油断入精、可被走廻候、恐ゝ謹言、

八月十六日

氏政(花押)

太田備中守殿

春日下総守殿

→戦国遺文 後北条氏編2393「北条氏政書状」(西村光〓[臣+矢]氏所蔵文書)

天正10年に比定。

 そちら方面の状況報告が遅れていたので気がかりに思っていました。江雪斎宛ての書状、詳しく拝見しました。ということで戦況ですが、7日に箕輪原へ陣を寄せて以来、一切連絡がありません。不審千万なことです。対陣に至っては特に考えもありませんので、じっくり状況を見聞した上で出馬し、甲斐国へ侵攻するほかありません。さもなくばあの方面での対陣の収拾はどうするのでしょう。そちらではますます部隊の確保に専念して、もし今回の準備不足で装備などが不足しているようでしたら、遠慮なく書き出して送って下さい。こちらで揃えてお送りしましょう。全てにわたって油断なく集中して、活躍なさいますように。

只今注進之処、自信濃、すつは共五百ほと参、其地可乗取之由、申来候、昼夜共ニ能ゝ可用心候、きてゝゝ江何時も、宵あかつき夜明番、肝要ニ候、何時も一番九ツと之間あけ出、此用心尤ニ候、只今さむ時ニ候間、月夜ならては、しのひはつく間敷候、何れも物主共、覚番ニ致、夜之内三度つゝきてゑ、石をころはし、たいまつをなけ、可見届候、為其申遣候、恐ゝ謹言、

追而、時分柄ニ候間、火之用心尤候、何れも昼ねて、夜可踞候、如法度、敵之足軽出候者、門ゝをとち可踞候、此一ケ条きわまり候、又足軽ふかく出間敷候、以上、

→戦国遺文 後北条氏編2431「北条氏邦書状写」(諸州古文書十二武州)

天正10年に比定。

 ただいまの報告では、信濃国より透波ども500ほどが来て、その地を乗っ取るだろうとのことでした。昼夜ともによくよく用心すべきでしょう。『きてきて』へいつでも、宵から暁までの夜明かし番が大事です。常に1つの当番は9つ(午前零時)との間を空けて出す。この用心がもっともな事です。ただいまは寒い時期ですから、月夜でなければ忍びは侵入できません。何れも物主どもが覚えて番をして、夜の内は3度突いておき、石を転がし松明を投げて確認すべきです。それを伝達するように。

 追記。時分柄で火の用心がもっともです。どちらも昼寝て夜待機すべきです。規則のように、敵の足軽が出たら、各城門を閉じて待機するように。この1ヶ条に極まります。また、足軽は深入りして出ないように。

両通昨十日[申刻]参着、再往再返披見、先以肝要至極候、信州作郡之面ゝ、弥忠信を存言、重証人進候歟、依之真田江集候人衆も、引散由専一候、子細者如何共候へ、是非之弓矢之際候間、未来之不及勘、速可取成所、千言万句ニ候、倉内表・岩ひつ表・寄居之事、無余儀分別申候模様を者、始而承届候、是又何分ニ成共、以衆儀能ゝニ糺明、当陣之吉事ニさへ成候者、抛未来之徳失、御取成専一候、尤如書面、譜代相伝之地ニ候共、当家滅亡ニ者、争可替候、塩味之前ニ候間、不及申立候、 一、真田模様、是又得心申候、右ニ如申、当陣之無異儀、専ニさへ成候者、未来之儀をハ不及勘候、 一、小幡判形調法、遂出仕、其上能御取成之由、令満足候、此度候間、何分ニも抛名利共ニ、為国家与無内外御走廻尤候、国家無相違候ヘハ、旁者其ニ隨、何程成共名利可立事、勿論之事ニ候、如何ニ当意結構からせ候共、国滅亡候へハ、旁者其ニ不隨而不叶候、不及申候、 一、佐竹出張向館林動候、無衆ニ候宇野磯なと、為懸飛脚以下之事者不及申、由良・長尾堅固之防戦候、可御心易候、 一、礼物之儀ニ付而、始中終之書立、能ゝ見届得心申候、我ゝ者不是耳、兄弟之因与云、又為国与云、自余之者ニ者可替候、入耳儀をハ何ケ度も可申候、又由断候へ者、下ゝ之者、無届耳ニ候条申事候、始中終心得申候、肝要至極ニ候、恐ゝ謹言、

十月十一日

 氏政(花押)

安房守殿

→戦国遺文 後北条氏編2430「北条氏政書状」(金室道保氏所蔵文書)

天正10年に比定。

 両方の書状は昨日10日申刻に到着し、再々拝読しました。まずもって肝要しごくです。信濃国佐久郡の面々がますます忠信を申し出て更に人質を出しているでしょうか。これによって真田へ集まった国衆も散っていく事が専一です。詳細はどのようであれ、存亡を賭けた決戦ですから、後先など考えず、すぐさま交渉するところ、千言万句です。倉内方面、岩櫃方面、寄居の事、余儀なく判断している状況を、初めて受け取って届けます。これまたどのような事でも衆議にかけてよくよく糾明し、この作戦によい方向にさえなるなら、先々の損得を投げ打って、取りまとめるのが専一です。もっとも書面のように、譜代相伝の地だったとしても、当家滅亡と替えられるものではありません。検討する以前の問題なので、こちらに確認するまでもありません。一、真田の状況、こちらも承知しました。右に言った通り、この作戦に異議なく専念するなら、未来の事は考える必要がありません。一、小幡が判形を整えて遂に出仕。その上よくお取り成しのこと、満足しています。この度の事ですから、名利はどうとでも投げ打ってでも、国家のためにと内に外に走廻るのがよい事です。国家に相違がなければ、皆がそのままどうとでも名利を立てられるだろう事、勿論の事です。直近でいかに結構な事があっても、国家が滅亡すれば、皆はどうにもならず何も叶わないでしょう。言うまでもありません。一、佐竹が出撃して館林に向かいました。無勢で宇野・磯などが飛脚を出した事は言うまでもありません。由良・長尾が手堅い防戦をしていますから、ご安心下さい。一、礼物については、最初から最後まで書き出して、よくよく確認して得心なさるよう。我々はこの限りではなく、兄弟の因果といい、国家のためといい、他の者に替えがたいでしょうから、耳に入る事は何度でも言うでしょう。油断してしまえば、下々の者は直接届けないでしょうから言っておきます。全てを心得する事が肝要しごくです。

[切紙]於須山之往覆、敵壱人討捕参候、誠神妙ニ候、弥於彼口、抽而可走廻候、隨望可恩賞候、仍太刀一腰遣候状如件、

十月十日[「有効」朱印]

芹沢玄蕃殿

→戦国遺文 後北条氏編2429「北条氏政感状」(芹沢勘策氏所蔵文書)

天正10年に比定。

 須山の往復において、敵1人討ち取ってきました。本当に神妙です。あの方面においていよいよ活躍にぬきんでて下さい。望みのままに恩賞を下さるでしょう。太刀1腰を差し上げます。

[折紙]伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、

十月二日

 政繁(花押)

次原新三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

天正10年に比定。

 伴野藤兵衛殿のご老母、その地へ移動させます。ということで、宿はあなたの所に置く事になったと聞きました。ご苦労ですが宿をご提供下さい。他国衆の事なのでとりわけ何事も遺漏があってはなりません。親しく言っている通り、色々と奔走する事が大切です。必要な物は何事であっても筑後守に相談下さい。少しでも不精っぽくなって粗略に扱うなど、いよいよ詰まらない事にならないよう。さらに奔走するのが肝要です。

御札披見、殊ニ三種給置候、誠以畏悦此事候、今度東口之儀者不及申、北国表迄御行、定而可為御満足候、然而先段御屋敷分之事、急度被御聞届、自拙者可申上由、内大思召候者、自内大御札一通可給候、涯分御取成可申候、遅々候而ハ、弥可有横合候、御心得専要候、依躰松井田へ可罷移候、於中途成共彼是申来候処、自松以其以来御床敷候、緒余自是可申述候、猶態示給御音信祝着千万候、恐ゝ謹言、

九月十八日

 大駿 政繁(花押)

大民

  御報

→戦国遺文 後北条氏編2413「大道寺政繁書状写」(新編会津風土記六)

天正10年に比定。

 書状拝見しました。特に3種をいただきまして、本当に恐れ多くも嬉しいとはこの事です。この度は東部戦線の事は言うに及ばず、北国方面まで作戦を行なわれ、きっとご満足なさっていることでしょう。さて、先のお屋敷分のことですが、取り急ぎお聞き届けになられました。私から申し上げるようにと『内大』が思し召しなので、『内大』より書状1通をお送りになるでしょう。最大限お取り成しになるよう申しますが、遅くなってはますます邪魔が入りますからお心得が大切です。松井田へ移るので、途上においてでもあれこれ申し上げようとしたところ、『松以』より、それ以来お慕わしく思います。端緒から終わりまでこの者が申し上げます。更に折り入ってご近況をお示しいただき祝着千万です。

注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能ゝ首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、

九月十三日

 氏政(花押)

風間出羽守殿

→戦国遺文 後北条氏編2412「北条氏政書状」(佐藤行信氏所蔵文書)

天正10年に比定。

 報告書の内容、どれも心地よいものです。絵図にして見届けました。ということで大手陣はいよいよ良い事が連続し、信濃と遠江国の国境で山家三方衆1,000余人討ち取りまして、信濃国は残すところがなくなりました。そちらにも使いを出して確認しましょう。毎日部隊が到着していますから、よくよく連携して攻撃なさるよう。次はないものとご活躍されるのはこの時です。

御札祝着候、余無御心元候故、自是申達候キ、河尻参着者、可有御披見候、 一、陣庭堅固、先肝要候、対陣迄ニ候、抑一城道中ニ有之さへ、依所不被通ハ常之習候、一万之遠州衆在陣候を、縦廻路少ゝ自由候共、可押上之勝利、我ゝハ一切不及分別候、況以絵図数度糺明候ニ、努ゝ被通間敷候、無理弓矢を以失利、数代之武功を可成水事口惜候、能ゝ御分別尤候、於爰元昼夜之苦労可有賢察候、其元御苦労ハ、淵底推量申候、委細江雲口上ニ申候、能ゝ可有御尋候、恐ゝ謹言、

八月廿五日

 氏政(花押)

寒松斎

→戦国遺文 後北条氏編2403「北条氏政書状写」(相州文書所収淘綾郡荘左衛門所蔵文書)

天正10年に比定。

 ご書状いただき祝着です。余りお心元ないだろうと、こちらからご連絡しました。川尻が到着したらご覧になれるでしょう。一、陣地を堅固にするのがまず肝要です。対陣するまでのことです。そもそも一城の道中にあってさえ、場所によっては通行止めにするのはよくある事です。1万の遠江衆(徳川方)が在陣していますものを、たとえ迂回路が少々手薄になったとしても、押し上げて勝利するでしょう。我々が判断するまでもないでしょう。いうまでもなく、絵図で数回詳しく調べていますから、間違っても通してはなりません。無理な作戦で利を失い、数代の武功を水に流すのは口惜しいことです。よくよくご判断されるのがもっともです。こちらでの昼夜の苦労をお察しいただけますよう。そちらのご苦労は奥深くまで推量しております。詳しくは江雲(江雪?)が申し上げます。よくよくお尋ねになって下さい。

[竪切紙]走入之者申口聞届候、委細先書ニ申候、然者廿六之懸合之模様者、其以後度ゝ飛脚来候、是非無之間、不審ニ候、恐ゝ謹言、
九月六日
 氏政(花押)
内藤太和守殿
磯彦左衛門殿
宇野監物殿

→戦国遺文 後北条氏編2407「北条氏政書状」(青木鉄太郎氏所蔵文書)

花押形より天正10年に比定。

 駆け込んで来た者の言い分を聞き、詳細は先の書状で書きました。ということで26日の交戦の状況は、その後飛脚が度々来ています。はっきりした事が判らず不審です。