遺構が刻々と失われている状況で全国の城跡を調査することは、大変意義深い活動だと思っている。職業的な研究者では到底手が回らない部分を、アマチュアが主体的に調べて開示してくれている。

その一方で、翻刻された文書の解釈は100年後に行なっても構わないものだ。むしろ、新出史料や翻刻史料が年を追って増加することを踏まえると、今の時点で解釈を行なうこと自体、後考への悪影響になる可能性も高い。大局的に考えるならば、アマチュアの自分が行なってきた自己流の解釈と仮説構築について暗澹とした思いを禁じえない。

勿論、視点の異なる人間によって、同じ文書であっても異なる解釈が出てくる可能性はある。だから自己流の解釈をネット上に公開することで、後世参考になる仮説を導く契機になるかも知れない。

しかしそれとても、他の先行研究での文書解釈との齟齬がないという前提によって、自らの我流解釈への客観的信頼を担保できなければならないだろう。

2014年秋頃から顕著になってきたが、考察の参考にしようと書籍や論文を手に入れても、解釈の違いが気になって先に進むのが容易ではない。何とか手がかりを得ようと関連する文書を色々と読んでみるのだが、自分の解釈がどうして違ってしまうのかすら把握できずにいる。

独習する者にとってこれは非常に重い。読んだ文書の数は徐々にだが増えているのだから、知識不足というよりも、能力不足が原因だと結論付けられる。無自覚に解釈方向が捻じ曲がってしまっており、自己修正できていないのだろう。

このような状態で私の解釈を開示し続けるのは、歴史を調べる多くの方々への悪影響となる。だから一旦はサイトごと消去してしまおうかと考えてみた。ところがそれでは、この後で私と同じ手法を試みるアマチュアが出てきた際に、同じ轍を踏むことになると思い当たった。

私が試みている解釈法は、文書をデータ化して、似た文言が現れたところで比較して語彙を増やしていく手順である。目の前にある翻刻だけから解釈を試みたので、このやり方になった。後に『古文書・古記録語辞典』『時代別国語大辞典』も参考にしていくようになったが、基本的な手法は変わっていない。

無我夢中で解釈を重ねて来たのだけど、ふと気づけば自分の過去の解釈を真に批判してみた事がなかった。まずはこれをやってみよう。

うまく行かない確率の方が高そうだが、それならそれで、素人がこれを試みた結果、何がどう破綻していったのかを詳細にレポートすることで、幾許か世の中に貢献できるだろう。

どのように検証していくか、長考が続く……。

塩荷可押所定事、
栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪、かんな川境牓示ニ可取之候、然者、深谷御領分榛沢・沓かけ并あなし・十条きつて、しほ荷おさへ候事、かたく無用候、為其、重而申出者也、如件、
 猶以、半年者、忍領分ニて少も不可致狼藉候、以上、
辰[「翕邦把福」朱印]十二月朔日
長谷部備前守

→戦国遺文 後北条氏編2202「北条氏邦朱印状」(長谷川文書)

天正8年に比定。

 塩荷を押収すべき所の定め事。栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪は、神流川の境を境界として取り上げますように。ということで、深谷のご領分の榛沢・沓掛、並びに『あなし』・十条を切って、塩荷を押収するのは絶対にないように。そのために重ねて指示するものである。なお半年は忍領分では少しの狼藉もないように。