御懇比之札令披見、仍爰元之義候条、可有御安心候、伊藤源三も夕部闕落之旨風聞候、是ハ目下之義不存候、さ候てハ近所ニてき有間敷候間、軈而可有帰陣かと存候、将又禰き公事之義承分候、一札之事承候へ共、ニ三日中ニ迚も帰陣之事候間延引候、信州へも具直談申候間、帰陣之上一書ハ出し可申候、少度怪体共候間、さてゝゝ申候、可有御心得候、将又兵粮之調之由承候、心安存候、久留目木へ被登之由、定而御茶被成候哉、然者少度可給候、爰元茶さへ候ハす候、不弁中ゝゝ無申計候、何も濫妨ニて兵粮馬之大豆なと多候へ共、我々か不具候へハ、御推量可有候、いかさま近日帰陣候ハんほとニ、可有御心安候、恐々謹言、

三月二十九日

直元(花押)

→戦国遺文 今川氏編「井伊直元書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

井伊直元が1546(天文15)年5月14日死去のため、1546(天文15)年以前に比定。

 懇切な書状を拝見しました。こちらのことはご安心ありますように。伊藤源三も夕部を逃げ出したとの風聞がありました。これは目下のところ確認が取れていません。ということで、近所に敵があってはなりませんので、すぐに陣から帰るべきかと思います。禰宜への公事の件把握しました。報告書を入れると請け負ったものの、2~3日で帰陣するでしょうから延引します。信濃国にも直接詳しい話をしますから、帰った上で1度は書状を出しましょう。少なからず怪しい様子ですから、やいやい言われます。ご承知おき下さい。また一方で、兵糧の準備について聞きました。ご安心下さい。久留女木に登られたとのこと。きっとお茶をなさったのでしょうね。でしたら少しいただけますか。こちらは茶さえしていません。不便はとても言い表せないほどです。色々と略奪などをして兵糧と馬の飼料である大豆などは多くあるのですが、私の思うようでないのはご推察下さい。どちらにせよ近日帰還しますから、ご安心を。

為堀越六郎殿入牌領三島之内、賀子・岩崎拾五貫文之所、永代令寄進候状如件、
永禄元年

六月朔日

氏康(花押)

修禅寺

 衣鉢閣下

→神奈川県史 資料編3「北条氏康判物」(修禅寺文書)

 堀越六郎殿の位牌の知行として、三島のうち、賀子・岩崎の15貫文の地を永代で寄進いたします。

 返ゝ、かのじりやう、いろゝゝわか身申うけ候て、正かくいんをとりたてつけをき申候うえハ、そゑきをはしめ、代ゝじやうじうよりのいろゐ、ゆめゝあるましく候、六郎殿御しやうかうの事と申、正かくいんの事ハなにとなりとも、御しをきまかせいり申候なに事においても、御たんかう申、御ふさた申ましく候、又かこ・ゆわさきたいくわんの事、しミつ惣ひやうへと申ものに申つけ候、もしすこしも御ふさた申候ハゝ、めしはなし候て、へつ人に申つけへく候、御心のため、申まいらせ候、なに事も又ゝ申へく候、かしく、

わさと申候、さてハ御ゐんきよ候ハんするよし、一日よりうけ給候、もつともにおもいひまいらせ候、さてハ六郎との御ほたいのためとして、うちやすいろゝうちなけき、御わひ事申候て、十五くわんめかこ・ゆわさきにて、申うけ候てまいらせ候、きつと正かくいんと申てらをとりたて、六郎殿まつ代のほたい所にし候ハんすると、おもひ入まいらせ候おりふし、御いんきよのもやうおほせられ候、さやうニ候ハゝ、正かくいんを御とりたて、かのてらへ御いんきよなされ候て、十五くわんめの所、さをゐなく御しよむ候て、六郎殿のほたいを御とふらい、たのミいりまいらせ候、そのうへたれなり共御らんしはからい、正かくいんにおほせつけられ、まつたいさをいなきように、御しをき御まへに候へく候、そのため、うちやすよりの御いんはんさしそへまいらせ候、仍如件、

[軍勝印判]

みの 九月三日

山き

めいさんへまいる

  申給へ

→神奈川県史 資料編3「山木大方朱印状」(修禅寺文書)

1557(弘治3)年に比定。

【追記部分】返す返す、あの寺領は色々と我が身に申し受けまして、正覚院を取り立てて委託しました上は、『そゑき』を初めとして代々常住の不正は、間違ってもあってはなりません。六郎殿御焼香のこととして、正覚院の事は何であっても処置をお任せします。どのような事であってもご相談して、ご無沙汰することはありません。また、賀子・岩崎代官の事、清水惣兵衛という者に任せています。もし少しでもご無沙汰するなら、罷免なさって別の人に任せて下さい。お心得いただくためお知らせします。何事もまたおいおい申します。
【本文部分】折り入って申します。今からご隠居なさるとのこと、1日に承りました。ごもっともなことと思います。さて、六郎殿のご菩提のためとして、氏康に色々と嘆いて頼み込みまして、賀子・岩崎にて15貫文の知行をいただきました。取り急ぎ正覚院という寺を取り立てて、六郎殿末代の菩提所にしようと思っておりました折に、ご隠居されるとのことをおっしゃいました。そうであれば、正覚院をお取り立ていただき、その寺へ隠居なさって、15貫文の知行を相違なく所務なさり、六郎殿菩提のお弔いをお願いいたします。その上で誰なりともご覧して計らい、正覚院に仰せつけられ、末代にわたって相違ないようにご処置をお願いします。そのために、氏康より御印判を差し添えいたします。

にら山御城ふしんの人足、滝山へあたり候哉、諸人そんしのことく、彼地ニハちりさくにて、百姓の一人もなく候、此まへゝゝもさやうのしさい御申につゐて、滝山より人足いてす候まゝ、なをゝゝ■■ひも、こなたにて御ことわり御申候まゝ、その■■たハあいまち候へよし、御ふしん奉行衆■たへ、申ことわるへく候者也、仍如件、

午[「軍勝」朱印]

三月廿一日

おた原

 大くほより

水口殿

→神奈川県史 資料編3「山木大方朱印状」(水口文書)

 韮山城普請の人足、滝山へ問い合わせたのでしょうか。皆様ご存知の通り、あの土地は不作で、百姓が一人もいなくなりました。この前もそのような事情を申し上げられて、滝山からの人足は出ませんでした。さらにはこの度も、こちらで謝絶申し上げますので、その間はお待ちいただけるように、御普請の奉行衆へご連絡して下さい。

急度

 読み方は「きっと」で確定しているものの、現代語とは異なり「必ずや」というよりは、「速やかに」の意味があるように思われる。以下、文書を確認する。
1 文頭に存在し「取り急ぎ」といった意図で使われているであろうもの

  • 急度以使申候
  • 急度註進申候
  • 急度申候
  • 急度申遣候
  • 急度令申候
  • 急度染一筆候
  • 急度捧愚書候
  • 急度令啓上候
  • 急度令馳一簡候
  • 急度馳筆候

2 文中に存在し「取り急ぎ・必ずや」どちらの意図にも取れるもの。

  • 尚以、急度進退者被替候而、尤に存候ゝゝ
  • 遣内書間、急度加意見無事之段、可馳走事肝要候
  • 雖然大井徒就相揺者、定而急度可引退候哉、其上之行
  • 着到を付、急度可申越、於今度諸人不走廻而不叶候
  • 右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候
  • 令遅ゝ候、此上ハ急度致出陣、葛西筋儀、涯分可走廻候
  • 註交名、急度可有註進之状、
  • 右之二ヶ条、急度可奉果行者也、
  • 各ゝ粉骨感入候、此趣氏康へも急度可申届候
  • 寄子貮拾騎預ヶ置候、急度可相尋候
  • 輝虎依存分、急度重而可被差下御使節事
  • 就有無沙汰者、急度可加異見者也
  • 及兎角条甚以曲事也、急度伝馬銭相調、台所野中源左衛門爾可相渡
  • 然上者、不令異見急度被出人質出仕候様
  • 弥以被廻計策、急度御落着簡要候
  • 被仰出候、急度以現夫可走廻者也
  • 以彼是一向不如意迷惑候、同者急度有出来御意見可為本望
  • 先当年貢急度可弁済物也
  • 去十九卯刻ニ端城押入乗取候、爰元急度落居候者、重而可申展候
  • 今度加藤与五右衛門曲事ニ付て、急度加相成敗候
  • 急度可有御入院候
  • 急度申付可令所務
  • 急度可被申越之事
  • 其上を以而急度可申付
  • 急度召連当地可来候

3 「必ずや」でなければ意図が通じないもの
若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也

 2が最も多くなったことから、文意から主用例を判断できないようだ。では、「急度」でしか見られない意味があるかというと、「急ぎ」という表現には「火急」「速」「急速」など、他の語も多く見られる。また、「必ずや」にも「必々」「必」という直接的な表現がある。こちらも判断材料にはならない。但し、「急度」が両方の意味を曖昧に持っていることから選ばれている可能性はある。
 同時代に近い辞書を引くと以下のような記述がある。「きと」は「きっと」の原型で、撥音で強い意味を持ったのが「きっと」となる。

■邦訳日葡辞書

Qitto キット(急度)[副詞]、速やかに

■時代別国語辞典

きっと[副詞] 1)時期を逸せず、的確に事がなされるさま 2)「きっとみる」などの言い方で、鋭い視線を対象に当てて、その本質を見抜こうとするさまを表わす 3)「きっと~して(した)」の形で、毅然としてあたりを払うばかりのきびしい姿勢、態度を持するさまを表わす 4)事態が、予測したり期待したりするとおりに確実に実現されるものと判断するさま

きと[副詞] 1)行動が核心に向けて、直接になされるさま 2)対象をあやまたずとらえるさま

 時代別国語辞典を勘案するならば、「毅然として」「必ずや」「速やかに」の3パターンとなる。ただ、日葡辞典には「速やかに」の意しかない点、文頭の決まり口上によく使われた点を考えて「取り急ぎ」という現代語を当てておきたいと思う。
 現代語「取り急ぎ」は「可及的速やかに」に近しく、予見された行為・もしくは現在行なわれている行為の実行を前提としている。これを「急度」解釈に援用する企図となる。
 「取り急ぎ確認いたします」という場合、話者は確認行為を必須前提としつつ、可能な限り急ぐことも意図に加えている。「急ぎ確認します」と「必ず確認します」を兼ねており、この両義性は「急度」に通ずるものがある。そして、メールの文頭で略儀の言い訳に使っている点でも両語は似ている。
 上記を受けて3を考え直してみると、

「若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也」

→必と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、必ずや、報告によって厳罰に処すだろう」

→速と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、速やかに、報告によって厳罰に処すだろう」

→必・速両義と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、取り急ぎ、報告により厳罰に処すだろう」

 となる。原文を重視して「急度」の語順は変えていないが、現代文であれば「報告によって」の後に移動するだろう。「必ずや」と「速やかに」のどちらでも意味は通ずるものの、意図は異なる。
 この両義を保持するならば「取り急ぎ」と記述することで文のニュアンスに合わせられるものと判断した。

[折紙]

倉内へ御樽肴之注文

一密柑  一合

一干海鼠 一合

一干物  一合

 柳   三荷

  以上

遠山新四郎

霜月晦日

近藤左衛門尉 参

→神奈川県史 資料編3「北条家進物折紙」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

(切紙)「(端裏ウハ書)新太郎殿 氏政」

自沼田之使衆入来之由候間、樒柑・江川進之候、一ツ可被勧候、以上、

六日

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(志賀槙太郎氏所蔵文書)

 沼田からの使者たちがやって来たそうなので、蜜柑・江川酒を送ります。ひとつ勧めてみて下さい。

雖誠乏少候、樒柑一箱并江川一荷進入候、御賞翫所希候、恐々謹言、

氏政(花押)

十一月廿九日

山内殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 些少ではありますが、蜜柑1箱と江川酒1荷をご進呈します。ご賞味いただければ幸いです。

今月十日、小田原へ罷着刻、 御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人薤山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、 御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、 御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏[払]候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、瀧山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ薤山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、

追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、

八月十三日

大石惣介

 芳綱(花押)

山孫

 参 人々御中

→神奈川県史 資料編3「大石芳綱書状」(上杉文書)

1570(永禄13)年に比定。

 今月10日小田原へ到着した際に、御状などをお出ししたので、途中から申し上げます。遠山左衛門尉は親子4人で韮山に在城しています。新太郎殿は鉢形にいらっしゃいますので、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われ、新太郎殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉の3人が御状を受け取って翌日お返事なさいました。
 互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか。または、新太郎殿に松田なりとも1人も2人も添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しましたが、伊豆国に信玄が陣を張っており、手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。
 そしてまた、御越山により厩橋に馬を納められた前提として、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、また宛行ないを考えようとのお考えがあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せるだろうと、山吉孫五郎が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得なく、余りに理解がなかったので、ならば左衛門尉大夫方の子を、どちらか1人倉内へ送るのか、松田の子でもいいので送ればと申しましたが、これも納得ありませんでした。ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人も3人も御陣の下に進め置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人も2人も申し受けて滝山か鉢形に置いておくだろうとのこと、建前論で仰せられました。
 ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。
 私のことは、ここに滞留して一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われてはいますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。私に帰るようにと、ご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお越し下されますように。また、篠窪治部のことは、新太郎殿へ直接申しています。これは一向に応答がありません。遠山左衛門尉から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。
 追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留し、することもありませんので、帰還するようご指示になり、ついには御前になります。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

今度彼病者、療治手尽既事極処、以良薬得減気、打続本覆之形ニ被取成候、誠不思議奇特、於愚老大慶満足不過之候、

 鎌倉様へも意趣具可言上候、於東国御名誉不及是非存候、

仍刀菊一文字、氏綱不離身致秘蔵候、此度進置候、猶遠山左衛門尉可申候、恐々謹言、

八月廿日

氏康(花押)

(懸紙ウハ書?)「豊前山城守殿 氏康」

→神奈川県史 資料編3「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

1557(弘治3)年と比定。

 この度あの病は、療治に手を尽くして既に事は決したと考えていたところ、良薬によって健康を得て、引き続き本復の形をとられたのは本当に不思議な奇跡です。愚老にとっては大きな満足と言っても言い過ぎではありません。義氏様にもこのことを詳しくご報告しますので、東国においてのご名誉は語るまでもありません。そこで、氏綱が肌身離さず持ち秘蔵していた菊一文字の刀をご進呈します。さらに遠山左衛門尉が申し上げるでしょう。