去三日不慮之一戦、手之人数無比類走舞、得勝利、同心彼官手負、其外走廻候人数書立一覧、重可遣感状、然者、向後聊爾之行、堅可令停止之候、於違背之輩者、可成下知候、恐々謹言、

正月六日

 氏真判

朝比奈兵衛大夫殿

→戦国遺文 今川氏編1960「今川氏真書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編六)

永禄7年に比定。

 去る3日に予期せぬ一戦で、所属部隊が比類なく活躍して勝利を得た。同心・被官の負傷者、そのほか活躍した者の記録を一覧した。重ねて感状を発行するだろう。ということで、今後軽率な行動は堅く禁止して下さい。違反する者には下知を下されますように。

今度於引間郷飯田合戦之時、敵襲来之処ニ、抽軍中入馬代崩敵、殊小山六郎兵へ切伏之由、雖不始于今、太以感状也、弥可励軍功之状如件、

永禄六年 閏十二月十六日

 上総介 判

朝比奈右兵衛大夫殿

→戦国遺文 今川氏編1953「今川氏真感状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編五)

 この度引間郷において飯田合戦のとき、軍中でぬきんでて、敵が襲来したところに馬を入れて敵を崩した。特に小山六郎兵衛を切り伏せたとのこと。今に始まったことではないが大いに感悦である。ますます軍功に励むように。

武田信虎の国外追放の要因を考えてみたが、拡張が止まった途端に不満が噴出するという事情の裏側には、知行の分配を巡る矛盾がひそんでいたと結論付けることが可能だと思う。同時代史料の『塩山向岳禅庵小年代記』にある「信虎平生悪逆無道也、国中人民・牛馬畜類共愁悩」、また『妙法寺記』の「余リニ悪行ヲ被成候間」というのは、無闇に好戦的だったからではなく、内戦克服時に発した約束手形が不履行になることを指しているのではないだろうか。 それを示唆する論文がある。息子晴信の晩年期の話ではあるが、武田氏の陥った知行重複について取り上げている。

武田氏研究26号「知行宛行の重複について―戦国大名武田氏、今川氏の場合―」臼井進

武田氏の場合では富士浅間神社社人に対して、空手形になり得る安堵状を発給してまでも領国の拡大をすることによって、知行の重複という矛盾を解決しようとしているのに対して、一方の今川氏の場合は原則的に当知行している者に安堵しており、しかも、その保証は安堵された者の力次第によってやっと知行ができるというものであり、矛盾が矛盾を呼んで三河領国の崩壊に繁がってしまうような安堵を行っていたことになるのではなかろうか。

この論考では今川氏真の知行重複も取り上げていて、これはこれで興味深い。二重三重にバッティングしている末期症状を指摘している。 閑話休題。武田氏の例としてここで挙げている要素を抜き出してみる。

  1. 武田晴信の駿河侵攻で富士浅間神社社人が敵対
  2. 社人は北条氏政の領内に退去
  3. 晴信は味方した国衆に知行を与える
  4. 甲相が再び同盟
  5. 社人が駿河に戻る(恐らく氏政からの同盟条件)
  6. 晴信は社人の元の知行を認めた上で、遠江で得るだろう新知行を約束

これは、今川氏の判物でもよく見るパターンである。

自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之

知行を保障する際に「前の持ち主が味方に戻ってきたとしても知行の返却は認めない」という文言だ。 しかし、上で見た富士浅間神社社人の例のように、大名同士の協議で返却が生じることがあるし、敵方の国衆を寝返らせるためには「あなたの元の知行を返します」という検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合のようなこともありうる。つまり、有限の土地に対して、下記のようなステークホルダーが登場していく。

[note]

  • A 近臣で戦闘で尽力
  • B 前線の国衆で調整に尽力
  • C Aに攻められ、Bの説得に応じて降伏
  • D 紛争には無関係だがその知行地を以前領有していた敵方

[/note]

大名としてはまず勝たないと始まらない訳で、後先を考えず、Cの知行を餌にA~Dに働きかける(Cに対してすら、降伏したら安堵しようというケースがある)。この結果としては、大体が「みんな頑張りました」的な結末になる。 そこで大名は困る。功績判定が微妙になってきて、

[tip]

  • Cの知行を没収してAとBに分与
  • Cは牢人として戦闘待ち(約束手形)
  • Dはそのまま

[/tip]
こうした無難な知行割を選択したとしても、下のように、各自が不満を持つ要素は出てくる。

[warning]

  • A 戦闘による被害が出たのに半分しか貰えていない
  • B 最終的な決定打となったのに半分しか貰えていない
  • C 説得に応じて降伏したのに知行を没収された
  • D 元々の権利を持っているし知行を目当てに寝返ったのに得られなかった

[/warning]

不動産である知行は有限なので、これらの不満を押さえ込むためには、更なる拡大戦略を採るしかない。分国の拡大によって大名の権力は増大して多少強引な分配でも国衆を納得させやすくなる。 その一方で副作用もあって、統制しなければならない国衆も増えて彼らの利権主張も複雑になっていく……。これが戦国大名の本質だと思う。常に拡大しているか軍事緊張していないと、自らの知行重複の矛盾で崩壊してしまうのだろう。

去年西郡払退候段為忠節之条、任訴訟之旨、御油并みとの郷、同陣夫四人永扶助畢、猶西三河本意之上、一所可扶助、守此旨、弥可励忠功之状如件、
永禄六発亥 十二月廿六日

 上総介(花押影)

戸田弥三殿

→戦国遺文 今川氏編1950「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵伯耆志)

 去る年西郡を撤退する過程で忠節をなしましたので、希望する内容のままに御油と『みと』の郷、その陣夫4人を末永く扶助する。さらに西三河が本意となった上で1箇所を扶助するだろう。この旨を守り、ますます忠功に励むように。

今度於飯田合戦之時、粉骨殊被切疵五ケ所之由、所無比類也、弥可励軍功之状如件、

永禄六年 十二月廿日

 上総介(花押)

小笠原与左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1948「今川氏真感状」(小笠原文書)

 この度飯田での合戦のとき、粉骨して特に切り傷5箇所を負ったとのこと。比類のないところである。ますます軍功に励むように。

武田氏に関しては知識がないため、同時代史料ではなく、予めまとめられた書籍を用いた(『武田穴山氏』・『戦国のコミュニケーション』・『戦国大名の日常生活』・『武田信玄と勝頼』・『武田信玄(ミネルヴァ)』)。推測の部分が溶け込んで判りづらいので、明確な私見は下線を入れた。

まず、信虎は少年期に家督を継いで内戦に巻き込まれている。嫡流とはいえ、乱れに乱れた状況で、一歩間違えれば他の守護大名と同様に傀儡になって家を乗っ取られただろう。土岐・斯波・細川・越後上杉・岩松新田の各氏はこれで没落していった。

信虎は祖父と父が家督を巡って抗争する最中の1494(明応3)年に生まれ、2人が相次いで死んだあとに13歳で当主となる。直後、祖父信昌が目をかけていた叔父信恵に攻められる。ここで敗れていたら、家督は叔父が奪っただろう。世代交代に期待する流れもあったのか、信恵を討って最初の難関は突破する。

その後も、今川と後北条連合に苦戦しながら甲斐の国衆と穴山・小山田を下す。諏訪氏と結んだ大井氏の内乱を制して1532(天文元)年ついに甲斐を統一。しかし、この最後の最後に至っても近臣の飯富虎昌に叛かれるという危うさであった。

信恵討伐から一貫して信虎を支えてきた虎昌は真の意味で股肱の臣であった。彼が見切りをつけたのは、1528(享禄元)年に諏訪攻めをして失敗したのが遠因だろう。反撃してきた諏訪氏に、まず外様の大井氏が同調し、虎昌が合流している。外征がかえって内戦を引き込むという皮肉な結果となった。それ以前の1524(大永4)年武蔵遠征後も北条氏綱の逆襲を受けているのも、同じ要素だ。穴山氏の動静も今川氏輝の意向に影響されており、余断を許さない状況は続いていた。

好転の兆しとなったのは1536(天文5)年の花蔵の乱だ。今川義元が登場すると同盟関係となり、同9年には諏訪とも同盟する。そして村上義清との3氏連合で佐久を攻め海野氏を上野国に逐う。

その援軍として即座に西進してくるだろう山内憲政は厄介だが、氏綱との抗争があるので長陣は張れないし、諏訪と村上が当面の盾にはなる。そうなると義元からずっと催促されていた駿河国河東の奪還作戦が焦点となる(義元が河東地域を後北条氏に奪われたのは、信虎との同盟が原因であるため)。信虎が駿府ヘ行ったのは、この準備のためだろう。河東が今川方になれば、氏綱は失速して関東の状勢は混沌としてくる。

ここでの信虎の立ち回りが巧みなのは、今川を後北条への盾に、村上と諏訪を山内への防波堤にしている点だ。紛争が長期化しても、国内の生産はダメージを受けない。ここで稼いだ貴重な時間は、内戦続きで手付かずだった国内統治の整備に回す積もりだったか。13歳で家督を継いで以来、ようやく国外に戦線を移せたのだ。

しかし、信虎は失脚した。恐らく佐久割譲で武田の分が少なく、これから戦う河東も今川領回復でしかなく、同盟ばかりで活躍の場がないと考えた一派に追放されたのだろう。彼は国内安定をやり遂げたために放逐されたと見てよい。

追放後の7月、予想通り憲政方の軍は佐久郡に入る。盟主を欠いた3氏連合は機能せず、諏訪氏は単独で降伏する。駿府でこの報を知っただろう信虎はどう思ったのか……。

今度於飯田口合戦之時、致太刀打抽軍中、頸一討捕之旨神妙ニ候、弥可励戦功之状如件、

永禄六年 十二月廿日

 上総介(花押)

富士又八郎殿

→戦国遺文 今川氏編1947「今川氏真感状」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

 この度飯田口での合戦のとき、軍中でぬきんでる太刀打ちをして、首級1を討ち取ったことは神妙です。ますます戦功に励むように。

去廿四日、於引間口孫妻河端一戦時、最前入馬雖為不始于今儀、蒙疵尽粉骨之段感悦之至也、并与力被官人等以高信見合、無比類走廻之条神妙也、弥可励忠功之状如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1969「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る24日、引間口の孫妻の川岸で一戦したとき、前線に馬を入れたのは今が初めてではないものの、負傷して粉骨を尽くしたことは感悦の至りである。また与力・被官人たちが高信にも劣らず比類なく活躍したことは神妙である。ますます忠功に励むように。

今川義元が珍しく感情を顕わにした書状を踏み込んで解釈したが、武田信虎の追放というのは個人的にずっと疑問だった。

よく目にした通説が「信虎の好戦的で酷薄な性格を嫌った国衆たちが、晴信を擁立した。度重なる戦争で疲弊した国衆と百姓も大歓迎だった。また、信虎は晴信を嫌って次男の信繁に跡目を継がせようとしたため、晴信も追放に踏み切らざるを得なかった」というものだ。

それぞれが首を傾げる内容に思えてならず、目にする度に気になっていた。かなり大雑把ではあるが、反証を挙げてみる。

1)好戦的だったのか。

14歳で混乱する武田家を継いで以来、信虎は絶えず内戦の渦中にあった。「好戦的」というのが『必ずしも武力を用いなくて済む局面でも武力制圧をまず行なう』という意味合いだとするなら、それは当てはまらない。むしろ、国外勢力と結託した国衆や一門から常に紛争を仕掛けられている合戦の方が多い。

2)酷薄だったのか。

些細なことで家臣を殺したとか妊婦の腹を裂いたという逸話も見かけた記憶があるが、それらはクーデタで失脚した支配者につきものの類話なのでここでは対象にしない。

唯一強引さを表わす証拠があるとすると、『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・著)で紹介されているものだ。

長尾為景から北条氏綱に送られた2羽の鷹のうち1羽を信虎が差し押さえたことがある。この時信虎は「為景に遺恨がある」と氏綱に言いつつ、結局その1羽を氏綱に返している。これを氏綱は「もう1羽の若い方をよこせ」という意趣だと理解して、その通りに若い方を渡している。一見信虎の強引な性格を現わしているように見えるが、周辺の事情を考えると信虎の強がりとも解釈できる。

これは1524(大永4)年の頃の話で、信虎と氏綱は翌年に和睦(氏綱が礼銭を支払っている)しているが、まだこの頃は交戦状態にある。にも関わらず、氏綱も為景も、使者を武蔵・上野経由で送るより甲斐・信濃経由の方が安全(つまり、ゆるい)と思っていたということだ。また、信虎は救世主を自負して関東まで遠征していたのかも知れないが、両上杉・後北条ともに信虎のことは話題にしていない。どうも信虎の独り相撲な感じである。山内・扇谷・後北条からすると、上手に使いたくはあるが決定力はない存在といったところか。為景への対応と比較してみると面白い。

3)続く戦乱に疲れた民衆が喜んだのか。

ここが最も引っかかっている。追放直前の信虎は、今川・諏訪・村上の各氏と同盟を結んでおり、明確に敵対していたのは後北条のみである。また、連続していたのは甲斐の内戦であって、叛乱と鎮圧の連鎖がようやく終息したと同時に追放されているのだ。その後晴信が領土拡大に生涯駆り立てられている姿を見ると、むしろ民衆は戦乱を望んでいたとしか思えない。

参考:信虎追放関係の史料

この史料を見ると、信虎がいかに嫌われていたかが判る。が、戦乱を嫌ったとは明言されていない。

 

4)次男を後継者にしたかったのか。

これはむしろ、信虎の前代の話だ。信昌は長男信縄に家督を譲りながら、後に信縄を攻撃しており、その際に次男信恵を押し立てている。この辺りと混ざってしまっているように思う。もし事実だとするなら、晴信政権は信虎とともに信繁も駿河に放逐している筈だ。信繁が晴信から重用されている点から考えれば、確執はなかったと考えるほうが自然だろう。

 

去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、拘置牢人同名刑部二郎、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可走廻之旨可申状如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1972「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る24日、引間口の孫妻の川岸で一戦のとき、抱え置いた牢人である大村刑部二郎が、槍下において弓を使ったことは神妙である。ますます活躍するように伝えなさい。