相守譜代之筋、神妙仁走廻之条、官途被下置也、

天正十二年

七月廿八日

義昌(花押)

福田民部少輔殿

→古河市史1472「小野崎義昌官途状」(福田昇造氏所蔵文書)。この時期の「義昌」は小野崎氏しか該当しないものの、なお検討の余地があると別記されている。

譜代の筋を守り、神妙に活躍していますので、官途を下しおかれます。

遥ゝ不申通候之条、馳一翰候、先日枕流斎帰路以後、早ゝ可及御返答、敵動故遅ゝ、重而以枕流斎可申入候、雖然如聞得者、越中口為御静謐、于今彼口ニ被立御馬之由候条、先山吉方訖内義申届候、此飛脚ニ案内者被指副、無相違被相透給候、万一飛脚以下越山就被相留者、自其地山吉方へ之一札被相届、彼回報早ゝ可給置候、憑入候、抑今度信玄不慮ニ至于武相出張候、臼井峠打越、不移時日、当城へ寄来候、信甲之者、年来覚悟を存、弱敵ニ候条、宿三口へ出人数、両日共ニ終日遂戦、度ゝ得勝利、敵無際限討捕、手負之儀者、不知其数候、両日陣取、三日目ニハ夜中当地を引離、武相境ニ候号杉山峠山を取越候、其上首尾一理ニ至于相州令一動、去五日、津久井筋退散候、自元切所可入様無之候条、小荷駄以下切落、人数計致夜除候、六日早天、氏政ニハ未被懸着候間、先衆四手五手之間取切所、懸足軽、敵押崩、宗之者数多討捕候キ、敵除口ニ付而、乱備むたと山嶮岨成方へ取着候人数者、此方ニも押なだされ候キ、併越度者無之候、山家人数遣、自由ニ依不罷成、今般信玄不討留事、無念千万ニ候、猶以彼飛脚ニ案内者被指副、可給候、就無左者、山吉方へ之一札、速ニ被相届、返札待入候、於其地有遅ゝ者、曲有間敷候、恐ゝ謹言、

拾月廿四日

 源三 氏照(花押)

河田伯耆守殿 参

→戦国遺文 後北条氏編1325「北条氏照書状」(上杉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 ずっとご連絡せずにいましたので、一報を馳せます。先日の枕流斎の帰路以降、早々にご返答するべきで、敵の作戦が遅々としており、重ねて枕流斎をもって申し入れるべきでしょう。とはいえども聞き得たところでは、越中方面を制圧なさり、今はあの方面にお馬を立てられておられるとのことですから、まず山吉まで内密に申し届けます。この飛脚に道案内を指し添えて、相違なく移動できるようにお願いします。万一飛脚以下が越山を留められるならば、その地より山吉方への手紙をお届けいただいて、あの回報は早々に置いていただきますよう、お頼みいたします。そもそもこの度信玄がいきなり武蔵・相模国へ出撃しました。碓氷峠を越えて、時間をかけず当城へ寄せて来ました。信濃・甲斐国の者は年来覚悟しており、弱敵だったので、宿の3つの口へ部隊を出し、両日ともに1日中戦って度々勝利を得、敵を際限なく討ち取り、負傷者についてはその数が判らない程です。両日陣を取って、3日目には夜中に当地を離脱し、武蔵・相模の国境にある杉山峠山という所を越えていきました。その上で『首尾一理』に相模国で作戦し、去る5日、津久井筋へ退却しました。もとより切所で入りようがなかったので、小荷駄以下を切り落とし、人員のみで夜間撤退しました。6日早朝、氏政はまだ駆けつけない内にと、先鋒が4~5分隊で切所に取り掛かったので、足軽を仕掛け、敵を押し崩し、主だった者を多数討ち取りました。敵の退却に当たっては、備えを乱し『むたと』険阻な斜面に取り付いた人数は、こちらへ押し雪崩れて来ました。ということで失敗はありませんでした。山家の部隊が送られて自由になりませんでした。この機会に信玄を討ち取れなかったこと、無念千万です。更にもってあの飛脚に案内を指し添えていただきますように。そうでないなら、山吉方への手紙、速やかに届けられますよう。お返事お待ちしております。その地において遅々とするようなら、詰まらないことでしょう。

遥ゝ不申通候之条、雖差儀無之候、以脚力令申候、去比者以枕流斎申達処、宜御取成之由、万ゝ祝着存候、就而以条目蒙仰候、則枕流折返可及御返答覚語候処、信玄不慮ニ至于武相出張候、臼井峠打越、不移時日当城江寄来候、信甲之者共年来存覚語、弱敵ニ候条、宿三口へ出入衆、両日共終日遂戦、度ゝ得勝利、敵無際限討捕、手負之義者、不知其数候、両日陣取、三日目ニハ夜中当地ニ引離、武相境ニ号杉山峠山を取越候、其上首尾一理、至于相刕令一動、去五日津久井筋退散候、自元切所可入様無之候条、小荷駄以下悉切落、人数計致夜除候、六日早天氏政未被懸着候之条、先衆四手五手之間切所を取懸、足軽敵押崩、宗之者数多討捕候キ、敵除口ニ付而、乱備むたと山嶮岨成方へ取付候、人数者此方ニも押なだされ候キ、併越度者無之候、山家人数遣自由ニ依不罷成、今般信玄不討留事無念千万存候、先可申候、以枕流蒙仰候条目、何茂存其旨候、落着之所可及御返答候、此御報次第早々可進置候、如聞得者、越中口為御静謐被立御馬之由候間、先貴辺訖御内儀申届候、可然様御取成任入外無他候、委細御報待入候、恐ゝ謹言、

拾月廿四日

 源三 氏照(花押)

山吉孫次郎殿 参

→戦国遺文 後北条氏編1324「北条氏照書状」(神奈川県立文化資料館所蔵山吉文書)

1569(永禄12)年に比定。

 ずっとご連絡せずにいましたので、さしたる要件はありませんが、飛脚をもってご連絡します。去る頃に枕流斎が申し達したところ、宜しくお取り成しいただいたそうで、とても祝着に思います。ついては条目で仰せを蒙り、すぐに枕流斎に折り返しご返答する覚悟でいたところ、信玄がいきなり武蔵・相模国へ出撃しました。碓氷峠を越えて、時間をかけず当城へ寄せて来ました。信濃・甲斐国の者どもは年来覚悟を思っており、弱敵だったので、宿の3つの口へ出入りの部隊が、両日ともに1日中戦って度々勝利を得、敵を際限なく討ち取り、負傷者についてはその数が判らない程です。両日陣を取って、3日目には夜中に当地を離脱し、武蔵・相模の国境にある杉山峠山という所を越えていきました。その上で『首尾一理』に相模国で作戦し、去る5日、津久井筋へ退却しました。もとより切所で入りようがなかったので、小荷駄以下を切り落とし、人員のみで夜間撤退しました。6日早朝、氏政はまだ駆けつけない内にと、先鋒が4~5分隊で切所に取り掛かったので、足軽が敵を押し崩し、主だった者を多数討ち取りました。敵の退却に当たっては、備えを乱し『むたと』険阻な斜面に取り付いた人数は、こちらへ押し雪崩れて来ました。ということで失敗はありませんでした。山家の部隊が送られて自由になりませんでした。この機会に信玄を討ち取れなかったこと、無念千万に思います。まず申し上げましょう。枕流斎をもって仰せを蒙った条目は、どれもそのように存じます。落着したらご返答に及びましょう。このお知らせがあり次第、早々に進め置くでしょう。聞いた通りであれば、越中方面の鎮圧のため馬を立てられたとのことですから、まず貴殿に内々で申し届けます。しかるべきようにお取り成しをお任せするよりなく、詳しくはご連絡をお待ちします。

来翰珍閲、仍当調儀、遅延不審之由、尤無余儀存候、当口之事、先月以来打続大雨故、洪水万方通路、不自由之間、以大軍之動難成候間、延引差行無之候、

一、越衆出張之由、風聞候哉、于今無其儀候、上州堺へ打出之由、先月半時分申来候キ、其以後無是非候、実儀有之者、可申入候、

一、東口之事、始宇都宮・両皆川・新田、当方江申寄候、就中、成田事、我ゝ刷を以、時宜落着、今明之内以代官、可申届候、可御心安候、

一、其口珍敷義有之者、節ゝ可蒙仰候、

一、一宮先蹤被遷新地、彼社中并社宿以下、守護不入御判形之事承候、則申調進置候、委細、猶狩野飛騨守可申候、恐ゝ謹言、

閏八月廿五日

 氏照(花押)

正木左近大夫殿 回章

→戦国遺文 後北条氏編977「北条氏照書状」(早稲田大学図書館所蔵三浦文書)

1566(永禄9)年に比定。

 いただいた書状を珍しく拝見しました。さてこの調儀が遅延しているのが不審であるとのこと、ごもっともで余儀のないことと思います。当方面のこと、先月以来打ち続く大雨ゆえ、洪水で全ての通路が不自由になりましたので、大軍での行動は難しいので、延引してさしたる作戦もありません。一、越後衆が出動したとのこと、風聞があるでしょうか。今はそれはありません。上野国の国境へ出撃したとのことを先月半ばの時分にも申し来たりました。それ以後何もありませんでした。本当の内容であれば報告して下さい。一、東方面のこと。宇都宮を初めとして両皆川・新田が、当方へ申し寄ってきました。とりわけ成田のことは、我々の調整をもって時宜落着し、『今明之内』(今日明日には?)代官によって申し届けるでしょう。ご安心下さい。一、そちら方面で珍しいことがあったら、都度ご報告をお願いします。一、一宮が先例により新地へお移りになり、あの社中・社宿以下は守護不入のご判形とのこと承知しました。よって調整して進めておきます。詳しくは更に狩野飛騨守が申すでしょう。

急奉啓候、厥以来御当口何条之儀御座候哉、承度令存候、■義重奥口御出馬時分柄与云、御肝要ニ存候、仍去月廿七北源総武之衆被相集、当地関宿之地へ夜中諸口へ詰来候、備申付候故悉敗軍至候、今捨置候持道具以下毎日取来候、因茲城中及糺明候処、かせ者横田孫七郎・山崎弾正忠・植野主計助・森監物・石塚小次郎■者共、北源へ申合候条、不漏一人も遂成敗、従類迄及其沙汰候、殊家中仕置尚以申付候条、於爰許者、如何にも御心易可被思食候、但数年之労屈之上、当秋越府へ被申合、御急速御調儀念願申候、何様追而以代官可奉伺候、恐ゝ謹言、

八月十日

 八郎 持助(花押)

宇都宮殿 御■

→戦国遺文 房総編1489「簗田持助書状」(小田部好伸氏所蔵文書)

1574(天正2)年に比定。

 急ぎ申し上げます。それ以来そちらの方面で何かございましたでしょうか。承りたく思います。佐竹義重が陸奥国方面にご出馬の時節柄といい、ご肝要に存じます。去る月27日に北条氏照が房総・武蔵の衆を集められて、この関宿の地へ夜中諸口へ攻め寄せました。防備を指示したので全て敗軍となっています。今は捨てて置いた武器などを毎日取りに来ています。このことから、城中で糾明に及んだところ、かせ者の横田孫七郎・山崎弾正忠・植野主計助・森監物・石塚小次郎などの者ども、北条氏照へ示し合わせていましたので、一人も漏らさず成敗を遂げました。従類にまでその処分を下しています。特に家中の処置は更に申し付けておりますので、こちらのことは、いかようにもお心易く思し召し下さい。但し、数年の疲労が溜まっているので、この秋越後国府中へ申し合わせられ、お急ぎのご調儀を念願しております。その他は追って代官がお伺いいたします。

態申届候、抑晴朝以媒介、白川当方遂和睦候、如此之上、自御当方も白川へ被仰合可然候、依之及使者候、窮て如斯之意趣、自晴朝可有諷諫之条不能具候、恐々謹言、

霜月十三日

 義重

那須殿

→「佐竹義重書状写」(下野那須郡寺子村農家の蔵より・白川古事考四)

『戦国期の奥州白川氏』(岩田選書・菅野郁雄著/2011年)では1574(天正2)年と比定。但し、結城晴朝は閏11月10日以前には佐竹方から後北条方への転進が確認されているため、検討の余地がある。

折り入ってご連絡します。そもそも晴朝の仲介で、白川と当方が和睦を遂げました。こうなった上は、当方も白川へ仰せ合わせられて然るべきです。これよって使者に及びました。窮して(軈?)この意趣の通りに、晴朝より『諷諫』(ご意見?)があるでしょうから、詳しくは申しません。

此度高滝中書御帰路、幸存令啓進候、諷々も先年総州御陳已来不能面上候、追紙御床敷侭御上申迄候、一両年已前迄者くる里ニ御在候由其聞候き、然所ニ正大御懇細故其地へ御移之由、中書御伝何承届候、練々令帰も候、正大へハ於厩橋・臼井茂令面上候条、拠思慮在壱札を以申達候、当口相応之義無御隔心仰蒙候者、左衛門督様可走廻候、御取合任入候、去度輝虎御越山、新田近辺迄御調義、早々厩橋へ被納馬候、越府て御人衆過半被相返候間、氏政去月下旬有御越河、小山へ被及御近陳、于今到御張陳、依之任広綱御懇望ニ義重にも宇宮へ取越被申候、爰元之様子中書令推量候、此方ニ御武法御■歓新令留候、彼■子聞申度迄候、於何方も一度参合度此一事候、彼御方御急之間、不能細筆候、恐ゝ謹言、

五月十八日

 通朝(花押)

太田新六郎殿 御宿所

→戦国遺文 房総編1473「江戸通朝書状写」(古案)

1574(天正2)年に比定。

この度高滝中書(中務?)のご帰路で、幸いと思いお手紙を進呈します。『諷々も』(風説はあっても?)先年の総州でのご陣以来お会いできませんでした。紙を追ってお懐かしいままにご上申します。一両年以前までは久留里にいらっしゃるとのことを聞きました。そうしたところに、正木大膳(憲時)が『御懇細』(仔細?)ゆえにその地へお移りになったとのこと。中書のお伝えを何かと承っておりました。『練々』(返す返す?)帰らせます。正木大膳へは厩橋・臼井でもお会いしていますので、思慮によらず一書をもって申し達します。そちらの方面で相応のことを心に隔てなく仰せいただければ、(佐竹)左衛門督様は活躍するでしょう。ご調整をお任せします。去るたび上杉輝虎がご越山、新田周辺にまでご調義し、早々に厩橋へ馬を納められました。越後国府へ部隊の過半数を返してしまいましたので、氏政は去る月下旬にご越河し、小山へ近陣に及ばれました。現在も陣を張っています。これにより、宇都宮広綱のご懇望に任せ、義重も宇都宮へお越しいただくよう申されました。こちらの様子は中書が推し量っています。こちらにご武法なさるならお喜びでしょう。あの様子を申し聞かせたいまでです。何れにせよ一度お会いしたく、この一時でございます。あのお方がお急ぎなので、詳しくは書きません。

急度令啓候、義重奥口御出馬之由、其聞候、誠以目出御肝要令存迄候、其以往之御様子承度候、仍自越府以蔵主御相談候、関東是非候条申迄者、雖無之候、年来之御首尾与云、今般之御稼ニ相極候、御当地不被入御念付而者、越山可為相違之由令校量候、御味方中進退之是非此時候、随而旧冬栗橋江被移御座候以来、北源至于今日在城不審存候、氏政出張、於彼地被相待之由、其聞候、尚以窮屈迄候、何ニ御当口早速被明御隙御帰陣念願候、爰元之様子万端以使雖可申述候、不自由之間、非無沙汰候、是又御取合任入候、遠路一段御辛労察申候、余事期来信候、恐ゝ謹言、

弐月七日

 洗心斎 道忠(花押)

梅江斎 進覧

→戦国遺文 房総編1463「簗田道忠書状写」(秋田藩家蔵文書十岡本又太郎元朝所蔵文書)

1574(天正2)年に比定。

 取り急ぎお伝えします。佐竹義重が陸奥国方面にご出馬とのこと、それを聞きました。本当にめでたくご肝要にお考えのことだと思います。それをもって往路のご様子を承りたく。さて越後国府より蔵主をもってご相談がありました。関東の是非であるからと申しています。これがなかったとしても、年来のご首尾といい、今般の戦果に極まります。そちらに念を入れられないのに、越山は相違でありましょうと、考えております。お味方中の進退の是非はこの時です。従って、旧冬に栗橋へお移りになられて以来、北条氏照が今日に至るまで在城しているのは不審に思います。氏政の出動を、あの地で待っているのだと、聞いております。なおもって窮屈なことです。何れにせよそちら方面はすぐにご用をお済ませになって、ご帰陣を念願しています。こちらの様子は全て使者が申すでしょうけれども、不自由なので無沙汰ではありません。これもまた、ご調整に任せます。遠路は一段とご辛労のこととお察しします。その他のことは次の機会を期します。

内ゝ以御使節可被仰出由、思召候処、遮而以代官懇言上、喜入候、去比者、古河之地無心元之段、節ゝ言上、御感悦候、抑此度氏政関宿被取詰候処、輝虎・義重相談、雖及後詰候、陣中備堅固故、失利退散、羽生地引明敗北、剰佐竹・宇都宮令懇望、関宿出城、併関東静謐之基候、定肝要可心安由、御識察候、仍一荷三種到来、目出度候、恐ゝ謹言、

閏霜月廿五日

 義氏(花押)

由良刑部太輔殿

→戦国遺文 古河公方編951「足利義氏書状」(東京大学文学部所蔵由良文書)

1574(天正2)年に比定。ほぼ同文の写しが、新田治部大輔、南図書頭宛てで存在。

 内々にご使節をもって仰せ出されられようと思し召していましたところ、遮って代官をもって丁寧に言上し、喜んでおります。去る頃は、古河の地が心もとないと節々と言上し、ご感悦です。そもそもこの度、氏政が関宿を取り囲んでいましたところ、上杉輝虎・佐竹義重が示し合わせて後詰に及びましたが、陣中の備えを堅固にしたので利を失い退散、羽生の地を引き明けて敗北、更には佐竹・宇都宮を懇望させて関宿を開城、そうして関東静謐の礎となりました。きっと肝要で心安いだろうとのこと、ご識察です。さて一荷三種が到来し、めでたいことです。

極月十二日之御懇札、当年昨九日令披見候

12月12日の日付がある白川義親書状を、北条綱成は昨日9日に読んだとしている。中26日で白川から到着したことになる。到着地点は綱成居城の玉縄と考えてよいと思う。後の文で氏政が小田原にいて、そこに綱成と氏繁が行くと書いている。

条々御懇志本望至極候

義親書状は用件が箇条書きになっている条書だったことが判る。懇ろな志しを受け取って本望の極みであると伝えている。

[note]前年の氏繁書状によると、義親の取次役は氏繁が務めている。同じ年と思われる綱成書状(宛名欠なので相手は某氏)では、某から書状を受け取った綱成が、自身の息子である氏繁と、某の子息「左衛門太郎」が交流していることに言及しながらも、某からの使者に情報を公開している。このケースでは、綱成・某がともに隠居していたので息子同士のルートと並行する形になったが、義親の場合は正規の氏繁のほかに綱成にも副次的なルートを持てたと思われる。また、蘆名氏への取次は氏繁と同時に北条氏照も書状のやり取りを行なっている。こちらのルートがどのような役割をしていたのかは不明。[/note]

仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望

「仍」でここからが本題。旧冬とあるので対象期間は前年の1574(天正2)年、10月から12月。この年は閏11月が存在しているので4ヶ月。対象となる場所は関宿。「始」とあるので、その後の人称は複数へかかる。「佐」は佐竹義重、「宮」は宇都宮広綱で問題ないだろう。「東方之衆」は、文頭の「始」が「~を初めとする」という意味合いから考えて、佐竹義重・宇都宮広綱と並立する周辺の国衆だろう。具体的には、この頃反後北条方にいた白川義親の同族結城晴朝を指している可能性が高いと思う。氏政については、懇望した側・された側のどちらになるか慎重に考えてみる。

[help]A 氏政も懇望してきたという立場に立つ場合、この懇望は諸勢力から義親への出動要請だろう。上杉輝虎の書状で、「武田晴信が北条氏政の懇望を受けて出動した」という文言があるので、懇望=出動要請は、語の使い方としては問題がない。この関宿合戦で氏政が武田勝頼に出動要請をかけていることは確実なので、義親にも常陸北方の牽制を要請した可能性は高い。以前、1573(天正元)年とされる氏政書状では、蘆名盛興に対して佐竹義重挟撃を提案している。同時に、佐竹・宇都宮のほか結城晴朝からも中立か援兵の要請が来た可能性もあると考えれば、多数の要請が寄せられたと説明できる。但し、文面だけを見た場合にはB説の方が判り易い。[/help]

[help]B 氏政が懇望を受けたという立場に立つ場合、懇望は佐竹・宇都宮が懇望して関宿開城に至ったことを指すだろう。関宿に籠城していた簗瀬父子は開城後に後北条氏方となっていることから、懇望の内容は晴助・持助の赦免だろう。それがなった上で開城したものと思われる。懇望が関宿において行なわれたことから「於関宿」の語が最も自然に読み取れる。また、佐竹・宇都宮の懇望があったとする他史料(足利義氏書状)から考えるとB説の可能性も高い。[/help]

就此儀、御存分具被露御紙面候

「このことについて」とわざわざ断っていることから、義親書状の内容は上記懇望についての自身の考えが書かれていたと判る。

[help]A説ではこの内容を「両陣営から要請を受けて動けなかった経緯を弁明した」と考える。先の解釈で義親書状は条書と判ったが、弁明書であれば一々理由を挙げて細かく説明したのも首肯できる。[/help]

[help]B説はここの解釈が少し難しい。条書で切々と書いてきたということは、義親は懇望を受諾することに反対でその理由を列挙したのだろうか。しかし、関宿開城は閏11月19日。それに先立ち義重が退陣したのは16日だから、懇望状態の下限は15日と見てよい。その26日後の12月12日になって話題に出すのは、懇望を受けての一和・赦免についてではないだろうか。義親は懇望状態にこだわったので綱成は「佐・宮一和」もしくは「関宿赦免」とは書けなかったのか。この点を補強するために他の強い要因が必要だろう。[/help]

尤子候左衛門大夫ニ申付、氏政具為申聞候様ニ、随分意見可申付候

文頭に「尤」が来る例は珍しいが、前年の綱成文書を見ると1例ある。文頭「尤」は後でも出てくるのでそこで検討する。息子である左衛門大夫は氏繁のこと。前述のように取次は既に引き継ぎが終わっているから、氏政に取り次げるのは既に氏繁だけになっているのだろう。「具」や「随分」を入れているので、何らかのハード・ネゴシエイションだったことが窺われる。

[help]Aなら日和見の弁明なのでハードネゴは判りやすい。Bで考えるとするなら、「懇望を退けて佐竹と対陣し続けてほしい」か「停戦時条件で白川氏に有利な条項を付帯してほしい」になるか。しかし、既に時日を経過し不可能に近いことは義親も判っていた筈である。ここはAの方が自然だと思われる。[/help]

幸佐・宮和之上者其口之調儀有之間鋪之由、深存候

「幸いにして・都合のよいことに」という書き出しのこの文は難解。佐竹・宇都宮を列挙して「和」としている。ここでは、懇望のくだりで出てきた「東方之衆」は除外されている。また、こういう表現だと、佐竹・宇都宮の間で和睦があったと理解するのが自然だと思われるが、少し事情が異なるようだ。佐竹氏は関宿開城に当たって後北条氏と和睦しているから、「佐・宮(、当方)和之上」と補ってよいだろう。一方で「其口」は義親宛て書状である点から、白川方面を表わすと仮定できる。「調儀」は軍事・外交的な攻勢を示す。「これあるまじく」は「あってはならない」か「ありえない」のどちらかだろうが、現段階では判断できない。

「之由」は殆どの場合伝聞内容を示すと理解されているが、その場合「由」単体は「とのこと」までしか意味しない。その後に来る文言として「申来候・其聞候・被聞召届・長尾新六注進・可申聞之状如件・令校量間・及聞ニ付而・富永能登守披露・被仰下候」という例がある。この場合は伝聞の内容を取りまとめる形で「由」が用いられていると考えられる。そのかたわら「喜悦候・甚以感悦也・太以感悦也・尤神妙也・嘉悦之至候・令満足候」が続く例もあるが、その大半を感状が占めているようで、一種の様式だった可能性がある。この書状での用法は「定苦労可有之由、令校量間」に近いのではないかと推測している。これは「きっと苦労が多いだろうとのこと」を氏政が「校量」したので「氏照・武蔵・下総衆を今朝出動させた」という文脈で用いられており、「由」は伝聞とは絡まない。同様に、「幸い佐竹・宇都宮と(後北条が)和睦したからにはそちら方面に攻撃はないこと」を綱成が「深く存じています」という解釈でよいと思う。和睦先の「当方」を略したのも、綱成主観で書かれているとすれば自然だ。

一方で、綱成が既に氏政の内意を把握しており、それを遠回しに書いている可能性もある。これは小田原参府の部分で後述する。

此一事委氏政為申聞候様、左衛門大夫可申付候

「この一事」は、上の「之由」の前文=「幸い佐竹・宇都宮と和睦した上は白川方面に攻略をしてはならない」ことを表わすだろう。氏政に詳しく言い聞かせるように、綱成が氏繁に申し付けようと書いている。「可」があるので未来に向けて開いた状態で、この文書が書かれた際はまだ氏政に話していない(と、少なくとも綱成は書いている)。

今月十日小田原愚老父子致参府之間、尤以早速可為申聞候

この「今月十日」はおかしい。この書状を書いているのは書状の始めにある「昨九日」と、書状自体の日付「正月十日」から、1月10日だ。なぜ「今日」か「今十日」と言わないのか。小田原に自分と息子が参府するので、とつなげている。綱成の書いてあることを是とするなら、9日に義親書状を受け取り、翌日息子と小田原に行く予定があった。そこで小田原へ立つ前に急いで書いているように見受けられる。そのような慌しい状況でこれから行なう参府を「今月十日」と表現するだろうか。妙に客観的であって、やはり変だ。10日に氏政の内意を得たのだが、それを文面で告げることを禁じられ、後日書く際に日付を遡って書いた。しかしここだけ見落としてしまった……氏政説得についてやけに自信ありげに書いていることから、この推測も充分可能であると考えている。

そして、再び文頭の「尤」が来る。綱成が用いた例を並べてみる。

「紙面にてお考えを詳しくお書きいただきました <尤も> 子である左衛門大夫に申し付け」(本書状)
「今月10日に小田原へ私ども父子が参府いたしますから <尤も> 早速申し聞かせましょう」(本書状)
「お立ちになり面会を遂げ本望に思います。 <尤も> 今後においてはあなた方父子へ疎隔の意はないでしょう」(某宛書状)

「尤」の原義から考えて「それがもっともなことで」という意味合いで使っているように曖昧に推測はできるが、判断まではできそうにない。他の文書でも「、尤」で検索して検討してみたが、どうにも曖昧な語用になっている。これは今後の課題とするので、解釈には組み入れない。

申迄雖無之候、累年申合意趣今般不預思慮申達候

言うまでもないことだが、と前置き。多年にわたって合意した内容は、「今般」の思慮に預からず申し達します、書いている。申し達するとは、確実に連絡するような意味かと思う。これには「可」がない。ということは、これは氏政にこれから報告する内容ではない。書状を通じて義親に伝えた、ということか。

[help]ここは材料が少なくA・Bともに解釈を当てはめるのが難しい。ただ、A案だと累年の意趣=長期間の同盟関係、今般思慮=関宿攻防で微妙になった関係という解釈が可能。B案は、累年の意趣はAと同じ、今般思慮=新たに和睦した佐竹・宇都宮への配慮という解釈になる。[/help]

莵角ニ対佐竹無油断其御用心専要迄候

前文で何を誰に申し達するのか、恐らく義親にも曖昧なまま、「とにかく」と話をまとめてしまっている印象がある。「佐竹義重に対して油断せずに、そのご用心がもっぱら大切な事柄なまでです」。「無油断」と「御用心」の間に「其」が入っているのがちょっと変わっている。ここはA/B両案での違いはない。前文と合わせると、括弧でくくった一種の倒置表現にできる可能性がある。

「申すまでもないことですが (累年にわたり申し合わせている意趣は考えるまでもなく申し達します) ともかくも、佐竹に対してご油断なさらぬことが大切です。」

これなら自然につながりそうな気がする。

珍説候者重而可蒙仰候、猶委細者御使僧口上ニ申達候、恐ゝ謹言、

何か変わったことがあったら再度連絡をほしい、という言葉で事実上結んでいる。口頭での連絡を委託された「御使僧」は、前年に氏繁が義親への書状で言及した人物だろう。

[note]「今月十日」で、綱成が日付操作を行ない、氏政内意を得ていない前提で書状を書いたという仮説を書いたが、この使僧は戦闘中の前線を氏繁と共に移動したような人物である。日付や参府事実を偽るなら、彼も共犯で、書状を持ち帰った時に「実は氏政には会っていて」と語る前提となる。それが果たしてあり得るのかは、本文書だけでは判らないため今回は保留とする。[/note]

最後に、今後の参考として上記解釈の積み残し課題を列挙しておく。

  1. 白川氏については『戦国期の奥州白川氏』(岩田選書 地域の中世11 菅野郁雄・著)に詳しいが、こちらは未読で解釈を行なっている。
  2. 蘆名氏・佐竹氏の動向を1次史料から丹念に追う必要がある。今回の検討では『戦国遺文 後北条氏編』『小田原市史』が出典の殆どとなり、偏向は否めない。佐竹義重が1574(天正2)年から翌年を通じて奥州口を攻めるという表現が複数見られるが、実際のところどうだったのかは綿密に検討してみないと何とも言えないだろう。
  3. 同様に、佐竹・後北条氏が決定的に対立する契機となったのは、皆川・壬生氏が後北条方に転じたためであると思われる。この周縁の情報も追ってはいない。