月: 2010年9月

証文をなくすということ

検証a03で、沓掛城で証文を失った案件を取り上げたが、その他のものと比較を行なって、それがどの程度異例だったのかを考えてみたい。 彼地一円為不入免許之旨先印判雖有之、去年五月十九日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条、任其儀 証文をなくすということ

鉄砲衆と紬

1584(天正12)年比定の「後北条家朱印状」によると、宇津木氏が新規に雇うことになった鉄砲衆10名の費用86.67貫文のうち、28貫文分が紬20反への割り当てとなっている。 此内 拾五貫文 拾たん  上紬 拾三貫文 拾 鉄砲衆と紬

後北条氏、小田野肥後守・同新左衛門・同源太左衛門が敵輜重部隊を攻撃したことを賞す

今度敵陣往覆之者討留、荷物無際限押落由、忠節無比類候、度ゝ走廻段、感悦候、此度候間、弥無二ニ可走廻候、然者於如何様之儀も、望可申候、依所望可加扶助者也、以状如件、 [虎朱印] 三月廿日 小田野肥後守殿 同  新左衛門殿 後北条氏、小田野肥後守・同新左衛門・同源太左衛門が敵輜重部隊を攻撃したことを賞す

神君伊賀越えず 1

歴史に「もし」が禁句なのは承知しているが、1つだけ興味を持っている「もしも」がある。1582(天正10)年6月、本能寺の変に巻き込まれた徳川家康は大坂から三河国まで脱出行を演じているが、この際に家康が殺されていたら……と 神君伊賀越えず 1

検証a28:安心軒と武衛

天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。 ■安心軒の俗名  2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出て 検証a28:安心軒と武衛

『漂流巌流島』

創元推理文庫の『漂流巌流島』(高井忍著)を読んだ。主人公が脚本家の4話もので、それぞれ、巌流島の決闘・赤穂浪士の討ち入り・池田屋事件・鍵屋の辻の仇討ちがモチーフとなっている。 ひょんなことから素人歴史研究家が矛盾に気づき 『漂流巌流島』

検証a27:松平蔵人佐の血脈

 西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐  検証a27:松平蔵人佐の血脈