検証a03で、沓掛城で証文を失った案件を取り上げたが、その他のものと比較を行なって、それがどの程度異例だったのかを考えてみたい。

彼地一円為不入免許之旨先印判雖有之、去年五月十九日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条、任其儀如先規所令免除也

あの土地一円を不入として免除する旨、先の印判にあるとはいえ、去年5月19日の合戦時に、沓掛にて紛失した旨を申告しているので、その件は先の文書の通りとして、土地は免除とする。

雖帯天沢寺殿判形、去庚申年於沓掛令失却之由之条、重所成判形也

天沢寺殿の判形、去る庚申年に沓掛において紛失したそうなので、さらに判形を発行する。

 上記が沓掛での証書紛失時の文言である。

雖有先判、令失却之上、重及判形了、若至于後々年、彼失却之判形出之、就有譲状之由申掠輩者、遂糾明可加成敗者也、仍如件
代々証文近日逢盗賊失却云々、縦従他之手雖出之、不可有許容
親ニて候者買徳仕候文書ハ、先年午歳大乱ニ失申候間、此文書可為支証者也、已後ニ従何方違乱之儀候共、此儀者一段申合候て売申候間、此道者ハ其例ニ不可成候也

 いずれもが、紛失・盗難によって失われた先行文書が出てきた場合の対応(後出文書優先)を記載している。

 これと沓掛紛失の件を比較すると、紛失文書の再登場を今川氏は懸念していないのが異なっている。沓掛でなくなった文書が二度と現われることがないと、今川氏は明確に認識していた。かなり確度の強い推測だが、今川氏が給人の文書を沓掛城に集積し、開城時に責任者が焼却を見届けたのではないだろうか。

1584(天正12)年比定の「後北条家朱印状」によると、宇津木氏が新規に雇うことになった鉄砲衆10名の費用86.67貫文のうち、28貫文分が紬20反への割り当てとなっている。

此内

拾五貫文

拾たん  上紬

拾三貫文

拾たん  中紬

已上 弐拾八貫文

紬は恐らく木綿(当時最新鋭の軍需物資)で、上・中というランクがあったのだろう。上・中を混ぜて2着縫製したのか、上で1着・中で1着としたかは不明だが、これらの紬は銃兵用に後北条氏が確保していたかも知れない。それにしても、紬の経費は人件費全体の32パーセントを占める。銃ではなく衣類原材料の指定、しかも上紬と中紬の明細も示されている点が特異に思われる。

過去の鉄砲衆経費を比べるてみよう。1569(永禄12)年の「北条氏政判物写」によると、歩鉄炮20人が100貫文で雇えるとされている。

百貫文    歩鉄炮廿人

ということで、15年で経費が173パーセントに膨れ上がっていることになる。ただ面白いことに、増額分の36.67貫文の殆どは紬の価格(28貫文)となる。元亀年間以降の銃兵にとって紬織りの衣類が最も重要だったと考えてよいのではないか。

ちなみに「北条氏康書状」で、取り扱い・保管が難しい弾薬を直前に大名から支給していることが確認できる。

仍鉄炮薬玉進之候、猶用所付而重而可進候

そもそも銃自体が整備を怠ると使い物にならないため、弾薬も含めて大名が直接管理していた可能性もあるが、それを示す具体的な史料がないので何とも言えない。

何れにせよ、銃兵の実態を考える上で各種支給品に注目したいと思う。

今度敵陣往覆之者討留、荷物無際限押落由、忠節無比類候、度ゝ走廻段、感悦候、此度候間、弥無二ニ可走廻候、然者於如何様之儀も、望可申候、依所望可加扶助者也、以状如件、

[虎朱印]

三月廿日

小田野肥後守殿

同  新左衛門殿

同  源太左衛門殿

→「北条家朱印状写」(集古文書四十八)

 この度敵陣を往復する者を討ち止めて、荷物を際限なく追い落としたそうで、忠節は比類がありません。度々活躍されていますので、感悦です。この度のことでは、ますます専念して活躍して下さい。であればどのようなことでも望みをおっしゃって下さい。希望の通り扶助を加えます。

 「お墨付き」という言葉は現代でも活きており、上位者から承認を得たものとして使われる。そして、「太鼓判」という言葉も残っている。こちらは上位者というよりはその道の達人が当該物の品質を保証するという意味合いだ。情報や判断の保証である「お墨付き」「太鼓判」という古い言葉が、インターネットやテレビが隆盛する現代にも残っているのは興味深い。
 どちらも戦国期に確定した文書形式に関係がある言葉だ。「お墨付き」の「墨」は直筆か花押(サイン)に該当するし、「太鼓判」は文字通り「印判」がそれに当たる。大名の権威を持った文書を得るため、戦国時代の人々は奔走した。

 中世には自力救済の考え方が大きく入っている。これは、自分の身は自分で守るというもので、発行される文書のあり方にも影響を与えている。
 例で挙げてみる。B祭の開催ごとに、A氏は自宅の庭先にゴミを廃棄されて困っていたとしよう。現代であれば、A氏はまず町内会・もしくは市役所(または警察)に相談する。その中で、「祭礼時に個人宅にゴミを廃棄してはいけない」という条例があるかを確認するだろう。あれば「条例違反です」と看板を立てて本人が見張るだろうし、条例がなければ「マナー違反です」と看板の表記を変えると考えられる。これが現代版の自力救済となる。
 とはいえ、現代では家が潰れる程のゴミが来た場合は警察や自治体が保護してくれる。一方、中世ではそれも自力救済のままだ。一番判りやすいのが「禁制」。これは戦時に寺社・村などに発給される文書で、その村に対する禁止事項が記載されている。たとえば、今川義元禁制にあるように、基本的にはその寺社に預けられた物資・人員の権利保護が謳われる。財産や人権の保護は現代でも保証されているが、内容は大きく異なる。
 現代の国民国家では、文民統制が原則だし国民を守る義務を軍は持っている。「いかなる民間施設に対しても暴行は認められない」という前提を構築して、国民を守ることを明示。その上で超法規措置を例外として逐次指令することとなる。この例外処理は司令部が各部隊側に通達する。それは、事前通告したという既成事実があって初めて違反者を処罰できるからだ。
 戦国大名の権力は国民国家でないため、軍が民間人を保護する義務を持たない。このため、保護を希望する民間施設は大名に例外処理を依頼することとなる。先の例で大樹寺は、今川義元からの禁制を得るために発行手数料(御礼銭)を用意しなければならない。
 そして、禁制が出されたからといって自動的に保護される訳ではない。各部隊には通知されないため、禁制を与えられた側が襲ってくる部隊ごとに禁制をかざして対峙する必要がある。禁制を示したのに襲われても権力側は補償しない。そういう状況の中で、寺や村の武装化は進展していったと思われる(寺・村の武装化に伴って戦国期内戦が激化したという説もあるが)。

歴史に「もし」が禁句なのは承知しているが、1つだけ興味を持っている「もしも」がある。1582(天正10)年6月、本能寺の変に巻き込まれた徳川家康は大坂から三河国まで脱出行を演じているが、この際に家康が殺されていたら……というものである。座興ということで、史料の検討や厳密な検証は抜いて思うまま書いてみよう。

家康の伊賀越えのルートや実態には諸説あるが、同行した穴山信君は混乱の中で落命しているだけに、あり得ない話ではない。6月2~4日までの移動中に死去したとしてみる。

まず、駿河・遠江・三河に政治的空白ができる。家康長男の信康は既になく、次男於義丸は8歳・三男長松丸は3歳であることから家中が混乱に陥ることは間違いない。家康肉親として異母弟久松康元が30歳の壮年で存在するものの、水野の血は引いても松平の血は入っていない。分立した松平庶家から擁立するとしても、東条・大給・桜井・深溝のどこから出すかで紛糾するものと思われる。長女亀姫の嫁ぎ先である奥平家もそんなに発言力がある方ではない。

そうなると動向に注目が集まるのが、浜松にいる今川氏真だ。1571(元亀2)年以降徳川家臣となり、駿河攻略では力を発揮して牧野城主となるものの1年足らずで任を解かれている。氏真が無能過ぎたという説もあるが、旧主氏真の台頭を家康が恐れたという考え方もできる。何れにせよ飼い殺し状態だった氏真がどう行動するかに、東海の動向がかかってくる。

三河・遠江・駿河はそのまま今川領だったことから、旧主として於義丸・長松丸の後見人として徳川家を束ねるのが最も可能性が高い。家康死亡時に随行者も死亡しているであろうから、徳川家のブレーンはほぼいなくなる(本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、服部正成、大久保忠隣、菅沼定政、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱など)。「徳川」の主要人員が壊滅することで一枚岩ではなくなり、「十八松平」の時代に戻るだろう。氏真が緩やかに統合することは容易い。

東方面では、上野から信濃を経て甲斐に至った後北条氏は7月いっぱいで易々と作戦を終えるだろう。但し、甲斐平定前に上杉氏の南下攻撃を受けると思われるので、川中島に兵を貼り付ける必要があるのではないか。駿東に関しては事実上占拠という曖昧な状態を暫く続けるだろう。

ここで、1571(元亀2)年に決別した氏真と氏政が同盟するかどうかが問われる。私は可能性が高いと考える。氏真正室である氏政妹は健在であり、外交パイプとなりうること。上野・信濃・甲斐を入手した後北条氏としてはこれ以上の大規模な併呑は望んでいないだろうこと。氏真としても今川旧臣が糾合されるまでの軍事バックアップが必要であること。以上から、駿東郡の正式な後北条領国化を条件に、駿河・遠江・三河の今川氏再統治を氏政が全面支援すると推測する。

話が長くなってしまったので、2に続く……。

屋敷へ敵取懸候処、堅固遂防戦、敵十五人打取験、津久井迄指越由、忠節無比類候、此度之間、弥尽粉骨、可走廻候、本意之上、随望可致褒美者也、仍如件、

三月十二日

(北条氏康花押)

小田野とのへ

→「北条氏康判物写」(佐野家蔵文書)

 屋敷に敵が攻撃をかけてきたところを堅固に防戦。敵15人を討ち取った証拠を津久井まで送ったとのことで、忠節は比類がありません。引き続き本件では、ますます粉骨を尽くして活躍して下さい。本意を遂げたなら、望むままに褒美をするでしょう。

天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。

■安心軒の俗名

 2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出てくる文献がある。

1517(永正14)年6月 今川家譜
今川氏親、遠江国で斯波義達方を撃破する
「大将ノ武衛殿色々降参ノ望有ケレハ命計リ助被申、城ヲ追出普済寺ト申寺ニ入出家アリ、法名安心ト名付主従五人尾張ノ地へ送リ申」

 ここでは、斯波義達が今川氏親に出家させられた後の名前が『安心』であると書かれている。永正14年以降、義達は尾張で活躍することはない。義淳と名前を変えたか、義統に家督を譲ったと考えられているようだが、三河に留まって独自政権の構築を模索したという可能性もあるのではないか。それが『安心』かも知れない。その論拠を挙げてみる。

■安心の立場

 1次史料上の『安心』を、事実上の三河国主として読み直してみる。

1)1544(天文13)年と比定される書状で登場

9月25日 水野十郎左衛門宛て 長井久兵衛書状

「尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉」

9月23日 安心軒・瓦礫軒宛て 斎藤利政判物
「松次三被仰談御家中被固尤候」

 何れも厚礼であり、安心が斯波義達であれば、家格としては相応しい。水野氏・松平氏との中継を担っているのは、衣領(高橋荘)にいたからかも知れない。『安心』が水野氏・松平氏を緩やかに統合している状況があると思われる。

2)1546(天文15)年9月28日の、牧野氏書状に登場

牧野康成条目写
「先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候」

 この書状では、松平蔵人佐と同時に登場している。牧野氏がこの書状で出した条件というのは、田原・吉田・長沢をどのように扱うかという三河国の利権配分である。この書状のお墨付きとして、松平蔵人佐と安心軒が登場するということは、三河国利権は、今川義元を頂点として、松平蔵人佐・安心軒の下に牧野氏を始めとする三河国人、という階層を形作っていると推測可能である。但し、今川・織田両氏服属という選択も行なえたのではないかと考えられる。いうなれば、規模が極大化した半手の村である。
 のちの北条氏康書状で、織田信秀が「今川氏に相談せず三河の国に攻め込んだ」と書かれているのは、元々は安心軒(後年は松平蔵人佐も)が統治する三河国の集団があり、これに干渉したのが織田氏・今川氏だったと考えると筋目が成り立つ。そして、織田方と今川方が和睦する際に諸権益を分配して確定事項を作っていたのだと考えられる。織田方の権益を保障するために信秀が出陣するのだとしても、和睦要件として今川氏への相談が前提にあったのだろう。

3)年次不明3月28日の鵜殿氏書状の宛先として登場

年次不明 鵜殿長持書状写
鵜殿長持、『安心』に織田信秀の裏工作を譴責する

 鵜殿長持から「信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条」と指摘されていることから、信秀密書は安心軒の書状に紛れていたものと考えられる。このため、長持は安心軒を譴責したのだろう。この文書は刈谷赦免に関係すると考えられるので、天文18年頃ではないか(参照:検証A14:織備懇望の内容)。

4)織田達成の偏諱として登場し、そして退場

1554(天文23)年12月 織田達成判物

 「達」は「斯波義達」からの偏諱と考えられる。同じ花押を持つ人物は1557(弘治3)年11月には「信成」と名乗りを変えている。ということは、1554年から57年までの3年間に、この人物が『達』の偏諱を変える要因があったと思われる。直線的に考えるならば、斯波義達(安心軒)の死が想定される。

創元推理文庫の『漂流巌流島』(高井忍著)を読んだ。主人公が脚本家の4話もので、それぞれ、巌流島の決闘・赤穂浪士の討ち入り・池田屋事件・鍵屋の辻の仇討ちがモチーフとなっている。

ひょんなことから素人歴史研究家が矛盾に気づき、様々な視点から解明を試みる、というのはジョセフィン・ティーの『時の娘』と同じ構成(当サイトのスローガンである「TRUTH IS THE DAUGHTER OF TIME」もこの作品から援用している)。

4作の中では、赤穂浪士討ち入りが最も興味深かった。浅野長矩の傷害事件だけを取り上げるのではなく、他の江戸城内の刃傷沙汰(細川宗孝が傷害致死となった件)と並べて検証している点は奥が深い。喧嘩両成敗の語義が、非武士と武士の間で異なっていたことに言及しているのもポイントが高かった。

巌流島と鍵屋の辻は、推理物としてはなかなかだが歴史上の整合性を考えると、作者が提示した結末は必然性に欠ける気がする。一番残念だったのが、池田屋事件の推理。作者の新撰組への思い入れは感じるものの、蓋然性にすら乏しい筋立てで、謀略に寄り過ぎではないか。謀略でもいいのだが、冒頭で提示された吉田稔麿の一件を深追いすべきじゃないかと……。

とはいえ歴史部分の叙述も平明でテンポがよく、佳作であることに違いはない(歴史物というよりは推理物として読んだほうがいい)。

今度軽身命、度ゝ走廻候、忠節候、仍太刀一腰遣之候、自今以後、弥就走廻者、随望可加扶助者也、仍状如件、

閏三月十日

氏康(花押)

小田野源太左衛門尉殿

→「北条氏康判物写」(佐野家蔵文書)

1561(永禄4)年に比定。

 この度、身命を軽くして度々活躍して忠節を行ないました。太刀1腰を下賜します。ますます活躍するならば、望みのままに扶助を加えるものである。

 西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。

A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月
松平一門・家臣奉加帳写
「弐千疋 松平蔵人佐 信忠」

 松平一族の中で最大の人物が「蔵人佐」を名乗っていることが判る。この時点での名乗りは「信忠」で、後に織田氏・水野氏が名乗る通字に近しい。

B:1542(天文11)年6月
松平信孝寄進状
「松平蔵人佐 信孝(花押)」

 名乗りが「信孝」と変わっている。Aから少なくとも16年経過しており、代替わりした可能性もある。通字は変わらず「信~」となっている。同時期に大給松平氏の当主だったと見られる松平和泉守の諱は「親乗」であるが、これは今川氏親からの偏諱と思われることから、松平一族内でも今川、織田の両派があったようだ。

C:1546(天文15)年9月28日
牧野康成条目写
「此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件」

 Bの4年後。三河国人牧野康成は、今川氏と知行獲得交渉の只中にあった。その際に、康成の上位者として「松平蔵人佐」が登場する。今川氏は三河国人個々との交渉も行ないつつ、三河国全体の代表者として松平蔵人佐・安心軒を認めていた。織田氏に近しい立場を維持しつつ、今川氏と交渉に臨んだのだろう。この人物が信孝かどうかは定かではない。

D:1548(天文17)年3月以前
今川氏真判物写(文書自体は1560(永禄3)年12月2日)
「松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、」

 Cの2年後になると、織田方と今川方が交戦状態に陥る。天文17年の小豆坂合戦では、松平蔵人佐は織田方について戦っていることが判る。前項Cと同じく信孝かは不明。但し、Eの元康である可能性は、元康の年齢(5歳)から限りなく低いと考えられる。

E:1559(永禄2)年11月28日
松平元康判物
「蔵人佐 元康(花押)」

 Dの11年後、松平蔵人佐の名乗りは、元康に移る。「信~」の通字は消えて、義元からの偏諱である「元~」となり、今川氏側近としての色彩が強くなっている。

 上記から、1524(大永4)年~1548(天文17)年の24年間を通じて松平蔵人佐は「信」の通字を経て尾張国織田氏と関わりを持ち、1559(永禄2)年に至ってようやく今川氏の偏諱を名乗っていたことが判った。