鳴海原合戦:一連の検討を終えて
ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。 西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中 …
ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。 西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中 …
織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急 …
六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。 斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年 …
六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。 斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙に …
一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋処ニ、以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、 一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院(六角高頼室)始而 …
今度木戸口、及一戦、首一被討捕、御高名無比類候、猶小六殿可有演説候、弥忠節尤専要候、恐ゝ謹言、 二月廿五日 卜全 判 西尾五左衛門殿 御宿所 →岐阜県史p373「氏家卜全感状写」(内閣文庫所蔵文書) 1561(永禄4)年 …
去廿一日、浅井備前出張付而、退衆相談、笠縫表江取懸候処、於木戸口及一戦、稲葉縫殿右衛門被討捕之、太刀疵二箇所被負、御働無比類候、拙者大慶不過之候、殊家中衆高名、是又尤候、猶ゝ馳走本望候、恐ゝ謹言、 二月廿五日 卜全 判 …