ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。

西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中での憶測でしかない。後に徳川家康が嫡男信康を切腹させ、正室清池院殿を殺害した理由として、義昭からの強奪を検討した。ただ、それならば後に信康は実子ではなかったと徳川家御用史観で片がつけられる筈だと思い直した。

家康がクーデター前に義昭と交戦を始めたのは、西三河で最大の競合相手となる勢力を潰しておこうと考えてのことだろう。

この後、3月中に戦国遺文の今川氏編最終巻が刊行されるだろう。これまでアップしていなかった文書を整理しつつ、データが網羅されるのを静かに迎えようと思う。

織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急死するとは思ってもいなかっただろう。

それを見透かして今川義元は西三河領有化を進める。美濃を巡って武田晴信がすでに信長と交誼を結んだこともあり、義元としても信長をどうするか早く決める必要があった。完全に従属させることが第一だが、晴信が遠山氏に行なったような半従属のような形でも構わなかっただろう。また、西三河には刈谷・緒川に織田方の水野氏がいた。まずこの国衆を従えなければならない。

義元の文書分布を見ると、永禄元年4月頃から減り始め、同2年5月から不自然な程に発給数が減っている。また、義元の感状発行日数で考察したことを合わせて考えると、この頃から義元は西三河の前線にいたのだろう。永禄3年3月に一旦駿府に戻った形跡があり戦国遺文では3つ記録が残されているが、同月20日に関口氏純が「近日義元向尾州境目進発」と書いたのを最後に記録は途絶える。正式な家督継承はなかったと見えて、氏真の文書はまだ少ないため、この時期の今川分国は行政不在に近い状況になっていたようだ。

ここで視点を変えて、義元敗死の状況を考えてみる。氏真の「尾州於鳴海原一戦」という言葉から、義元は沓掛から鳴海への補給行程で相原郷付近で戦闘に及んだ。その段階で朝比奈親徳は銃撃にあって負傷し戦線を離脱する(川の柳に隠れたという伝承あり。扇川か?)。その後、同じ氏真書状にある「父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」という記述があるので、義元は松井宗信に援護されながら退却を開始した。太原崇孚香語にある「礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣」から、義元たちは鴻仏目辺りを渡って二村山を目指しつつ、麓の田楽窪で全滅したと導き出せる。

なぜ義元が二村山を降りて鳴海原にいたのだろうか。最も有力な考えは、義元自らが沓掛・鳴海間の補給を指揮していたということだ。毎月19日に行なわれていた鳴海から大高への補給はこの日も行なわれていたのは、大高城周辺でも合戦があったことからはっきりしている。であれば、沓掛から鳴海、鳴海から大高への補給が同じ日に行なわれていた可能性が高い。大高への補給で空いた倉庫にそのまま沓掛から補給できる。

このことは、鳴海城にいた岡部元信がなぜ眼前の鳴海原へ救援に動かなかったかの理由付けにもなる。丸内古道を通って大高に向かう補給部隊を出してしまった鳴海城では、沓掛からの補給部隊が来るまで身動きがとれない。

この同時補給は挑発の一環でもあるだろうが、隙を見せ過ぎな面が大きい。このような用兵を少なくとも半年以上、律儀に毎月19日に行なっていたのだとすれば、織田方としては作戦が立て易かっただろう。

この時、5月19日だけ偶然義元がいたという考えも可能だが、信長が美濃との国境を空ける危険を冒してまでの強襲をかけたのだから、やはり織田方の狙いは、二村山を降りて鳴海城に入るまでの義元の身柄にあったのだと思う。であれば、4月19日の時に義元は姿を見せていたのだろう。ここまで来ると挑発というより油断としかいいようがない。

そもそも今川方のちくはぐさは前年10月19日から現われている(検証a46)。補給部隊警護の奥平監物は、後方の菅沼久助が襲撃されて慌てて引き返している。敵の攻撃を誘う挑発行為であるならば、もっと警戒して然るべきではないだろうか。挑発はあくまで手段であり、目的は敵兵力を引き付けることにあるのだが、この頃すでに挑発している自覚がなくなり毎月19日の補給自体が目的化してしまっていた兆候が出ている。

また、幸か不幸かちょうどこの頃は旱魃が続いていた(甲斐の記録で「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始」とある)。結果、濃尾国境の河川は水位が下がっていたと思われ、美濃からの侵攻が容易になっていた。このことがさらに今川方の油断を誘ったのではないか。

それを裏付けるように、5月19日の大きな戦果にも関わらず、織田方はその後作戦を継続していない(大高・沓掛は自落、鳴海は自主開城)。なるべく一瞬で片をつけて美濃に備えたかったと判る。傍若無人な挑発を繰り返す今川方を放置するのも限界に来ており、水野氏からの救援要請もあって叩いておくことにしたのだろう。もし義元を討てなかったとしても、「いつでも全兵力を南下できる」という威嚇は成功する。信長が濃尾国境をがら空きにするという発想は義元にはなかった。この点が敗因の1つだと考えている。挑発の結果、相手が危険を冒してでも反撃してくるというシナリオを考えていなかったのだと。

もう1つの敗因は、本来攻守同盟を結ぶべきだった義龍と連携していなかったことだ。信長と晴信が友好関係にあるため、彼らの共通の敵へ具体的な連絡をとることを義元は躊躇した。だからこそ、毎月19日という隠微なメッセージを義龍に送り続けたのかも知れない。しかしそれは甘い考えだったのだろう。後で何と言われようと、義龍と連携を取って信長を追い込み、しかる後に晴信と共に義龍を攻めればよかったのだ。

1545(天文14)年に晴信は、北条氏康攻めに固執する義元を宥めている(武田晴信書状写)。松井山城守宛だが、実質義元宛といっていい。また、文中で「有偏執之族者」と書いているのは暗に義元の頑なさを示唆しているようにも見える。刻々と変わりゆく状況に柔軟に対応する能力と、変節漢と言われようと笑っていられる厚顔さが義元には足らなかったのかも知れない。それはまた、正当な後継者ではなく内戦によって今川家当主となった負い目が影響しているようにも思える。

六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。

斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候

義賢は何故このような妨害を行なっているのだろうか。その理由には、この条書で多数触れられている土岐頼芸の問題があった。天文末年から美濃を巡る最大の関心事はここにあった。

1551(天文20)年と思われる年に、近衛稙家は今川義元に、『土岐美濃守入国之儀』を成功させるために織田信秀と和睦するよう依頼している。元々美濃守護だった土岐美濃守頼芸は斎藤氏によって国外に追い出されていたが、彼を復帰させようと足利義輝が画策。この時に間を取り持ったのは家督相続前後の六角義賢であった。

近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める

その9年後にも、土岐頼芸を擁した六角義賢はもとより、朝倉・織田にとってもこの事案は継続案件として扱われているのは条書写でよく判る。しかし、何とこの和睦を主導した義輝・近衛前久(稙家の息子)は、頼芸を追い出した斎藤義龍と交誼を結んでいた。別史料になるが、更に『一色』の名前を与えようとしていた。義賢が不満に思ったのも無理はない。

そして、実はこの前年、織田信長は短時間上洛している。その要因の一つに、頼芸帰国交渉についての義輝の真意を質す目的があったのではないか。

各種日記における、『永禄2年の織田信長上洛』の記述

同じ陣営の六角義賢の協力もあって行きはスムーズだったが、国許が慌しくなり5日程で帰国している。上洛を察知した義龍の後方撹乱によるものだろう。信長が義輝と面談できたかは定かではない。

頼芸帰国は、信長にとって美濃侵攻の強力な大義名分であり、この案件がある限りは今川義元の西進を抑制できる一石二鳥の旗印でもあった。無理な上洛をしてでも維持したかったのかも知れない。

信長はこの6年後にも似たような状況を利用しようとしている。

美濃国の氏家直元ら、甲斐国の某に織田信長の美濃出兵失敗を伝える

横死した義輝の後継者である義昭からの檄に応じて、斎藤龍興と共同で上洛作戦を行なうことになった。しかし、尾張からの上洛経路を整備させた挙句に作戦から離脱を宣言し、美濃への侵攻を行なったという。

この例を敷衍すると、頼芸入国の裏でも、それに乗じて美濃侵攻を虎視眈々と狙っていたものと思われる。ところがその名分は瓦解。あまつさえ、将軍の後ろ盾を得て守護家格の一色氏となった義龍が、守護代格の織田氏を圧倒する可能性すら出てきたとすれば、信長はかなり焦っただろう(上記書状の斎藤氏家臣の苗字は、何れも一色氏のものに改名されている)。

一方、西三河の統制強化を行なっている矢先の今川義元は、この綻びを聞きつけて尾張への圧力を強めていったのではないだろうか。

六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。

斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙になっていた。また、織田信長・遠山景任とも敵対していた。

また六角義賢は縁戚の畠山義綱との関係で朝倉義景と敵対しつつも和睦を模索しており、「六角と組んで朝倉とは断交する」という斎藤義龍の発言を信用していなかった。

  1. 六角義賢と六角義弼の親子は以前に仲違いしており、六角義弼は佐和山にいた。
  2. 六角義弼が佐和山から城に戻る際に、六角義賢に服従することを誓約していた。
  3. 斎藤義龍との婚姻は六角義弼が主導で行なっており、六角義賢は反対していた。
  4. 土岐家と六角家は複数の婚姻関係にあり、土岐頼芸は数年前から六角氏の元に滞在している。
  5. 斎藤義龍は将軍の足利義輝と政所の伊勢貞孝、関白の近衛前久(この年9月19日に越後下向『諸家伝』)と親しかったが、六角義賢は常々妨害と諫言をしていた。
  6. 朝倉義景との婚姻は継続協議中だが、以前は能登の畠山義綱との関係で失敗していた。
  7. 斎藤義龍は朝倉義景と婚姻関係があったが、六角氏との同盟を重視して破棄すると申し出ていた。
  8. 朝倉義景は揖斐五郎を擁して美濃侵攻を企図し、土岐頼芸を介して織田信長と協議しているとの噂を義賢が入手している。
  9. 斎藤義龍は、越前の朝倉義景、尾張の織田信長、東美濃の遠山景任と紛争状態にあり、六角氏に何かあっても援軍を遅れないと義賢は考えていた。

ちなみに、『戦国史研究54号』の「斎藤義龍の一色改姓について」(木下聡・著)によると永禄期から斎藤義龍は一色義龍に改名しており、主要な家臣も一色氏家臣と同じ苗字に変えていたという。

安東日向守 → 伊賀伊賀守 守就
桑原三河守 → 氏家常陸介 直元
竹越新介  → 成吉摂津守 尚光
日根野備中守 → 延永備中守 弘就

将軍である足利義輝は土岐頼芸を擁護しつつも、土岐氏と並ぶ家格の一色氏の名を斎藤義龍に与えたものと考えられる。両天秤外交かも知れない。

一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋処ニ、以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、

一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院(六角高頼室)始而、代々重縁儀、京・ゐ中無其隠ニ、諸事不遁間事、

一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近大夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名ニ成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世之後、舎弟八郎殿へ申合、井口へ引寄、事ニ左右をよせ、生害させ申、其外兄弟衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事、

一、斎治父子及義絶、弟生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候、如此代々悪逆之躰、恣ニ身上成あかり、可有長久候哉、美濃守殿、当国ニ拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、不可過之候、日月地ニ不落ハ、天道其罪不可遁之処、縁篇之儀、可申合儀者、名利二なから可相果候、江雲寺(六角定頼)殿天下無其隠孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有分別候、公私共辱同前事、

一、義弼帰城之時、諸事承禎御意次第由、起請文在之事、

一、於佐和山、井口与縁篇可申合誓紙遣之由、申候歟、既対父承禎引弓放矢時者、いか様之儀も可申合候、定而人々跡職なとも配当可仕候へ共、令和談、起請文相果、帰城之上者、佐和山間之儀者、一切ニ不可入候、其時々起請文そたつへきか、承禎ニ誓紙正ニ可成候歟、各可有分別事、

一、歳寄衆起請文相違之儀在之在者、達而可申之、又義弼不可然儀者、達而異見可申旨被申定、今度対父子是非之異見、不被申届儀者、併天罰・神罰をハ不被存候哉事、

一、無縁之人、立入頼儀さへ拘置者、諸侍義理、田夫・野人迄も、其覚語有物にて候、美濃守殿重縁と云、数年拘置、此時つきはなし、彼敵と縁篇可申合儀、天下之嘲、前代未聞口惜無念之事、

一、斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候、然処ニ、今度此縁之風聞ニ付而、政所殿より以興禅寺、被仰越儀、失面目次第共、京都之嘲、無申事儀共候、さてゝゝ右之御届者、承禎不存旨可申哉、四郎悪名末代不覚候、義弼ハ若年候之間、宿老衆覚語と申候へハ、自然礼物ニふけり候て、仕合もとならてハ世上ニ不可申候、誠当家ハ宇治川已来、及度々名字之名誉共、于今相残候処ニ、此代ニ至而比興之題目、物語・草子なとにも可書留儀、主従共恥ニあらす哉、無念至極之事、

一、越前と縁篇申合儀、去年宿老衆長光寺参会之時、以興禅寺相尋候処ニ、尤可然旨、一同ニ返事被申間、堅申合、此度違変儀、可申遣様躰、如何可在之候哉、殊井口儀者、古敵と存候所へ、申合儀、定無念ニ可被存候、又先年御料人儀、内々雖所望候、能州江義理違候間、難成由、再往相断、只今又此縁相違候者、旁以遺恨有へく候間、北辺深重入魂と覚候、其時各覚語いかゝ有へく候事、

一、内々聞及候、斎治申合北辺へ存分在之由候、さてもゝゝ愚なる儀候、井口より北之縁篇をハすて、当方へ令同心、可及義絶候哉、其ハ自滅間、とても不可成候処ニ、義弼ニ縁之儀申合度まゝ、彼仲人共落着、国之破、其身後代恥をもかへり不見儀、時刻到来事、
一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、美濃守殿江申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、当方働可有如何候哉、美濃守すてゝさへ有へきニ、当国出勢何と被存候哉、越州・尾州其覚語手宛有へく候、其上此方働一切不可成事候、旁以天下之ほうへん此時候事、

一、先年北郡出陣之時、自濃州井口、斎山自身矢倉山迄相働候、一向手ニもためす、かけ散候、其後足軽一人不出候、義弼自然之時、為合力、従井口可有出勢と、各被存候哉、頸ニ綱を付而も不可出候、その故ハ越州・尾州を左右ニ置、遠山初而東美濃を跡ニ置、人数出儀不可成候、さ候へハ、此国用ニ何として可立候哉、当方辺依様躰、志賀郡なとへ、京都雑説ありけニ候、左様之遠慮も有へき処、越前・北郡辺不通ニ成候者、弥不思儀可出来候、其時各覚語専一候事、

一、慈寿院殿・承禎目前ニ置なから、四郎祝言可仕事、不孝之いたり、外聞実儀いかゝ被存候哉、此縁上下儀ハ第二、美濃守殿数年拘置、手前おも指当、迷惑も無之縁篇も、更ニをそからさる所ニ、彼国取候被官人と縁篇申合、他国より入国させ申、越州・尾州当国へ遺恨必定候、然者、名利共相かけ候、此度承禎・義弼并年寄衆、悪名不可有其隠候、国之為、家之為、余口惜候間、如此候、江雲寺殿、都鄙之名誉共在之処、承禎無器用、依而此仕立成候、其子四郎若年無分別を、歳寄衆奉而、異見不仕候て、目くらへ候て、永代名をも、徳をも、家をもはたし候とて、下々之人口いかゝ被存候哉、一旦及折檻ニ候共、各可被申儀候、右如申、誓紙之上者、相違にてハ不可然候、後悔さきに立へからす候、急度被申届、返事可被申事、

 以上、

永禄三年七月廿一日

 承禎

平井兵衛尉殿

蒲生下野入道殿

後藤但馬殿

布施淡路入道殿

狛修理亮殿

→戦国遺文 佐々木六角氏編801「六角承禎条書案」(春日匠氏所蔵文書)

一、山の上へ義弼が取り退いた事情、何事でしょうか。おのおのが行ってお尋ねになったところに、条書をもって四郎が存分などを申しました。第一番に京都のことですが、その次に美濃守(土岐頼芸)のことがあります。長々と当国へ抱え置いたので、(頼芸の美濃国への)入国援助をしないことは、しかるべきではありません。今度の行動はもってのほかの考え違いであること。

一、土岐殿が当家の縁辺で慈光院(六角高頼室)に始まって代々縁を重ねていることは、京・田舎でその隠れもないことで、諸事逃れられないこと。

一、あの斎藤治部大輔の身の上のこと。祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の法華坊主出身で西村といった。長井弥二郎のところへ入って、美濃国が混乱した際に、気働きによって次第に贔屓となって、長井の苗字を名乗り、また、父の左近大夫が代々の惣領を殺して諸職を奪い取って斎藤の苗字に成り上がり、あまつさえ次郎殿を婿に取って彼が早世した後は、舎弟の八郎殿と申し合わせて(美濃国)井口へ引き寄せ、事を左右に寄せて死なせ、そのほかの兄弟たちも、あるいは毒殺、あるいは暗殺で全て果てさせてしまいました。その因果は歴然としていること。

一、斎藤治部大輔の父子が義絶に及び、弟を死なせ、父と戦闘に及び、親の首を取りました。このような代々悪逆のていでほしいままに成り上がっては、長久となるでしょうか。美濃守殿を当国に抱え置きながら、(治部大輔を)大名などに昇進させてしまえば、当家の面目を失うことこれに過ぎません。日と月と地がなくならない限り、天道にその罪は逃げられないところ、縁辺を申し合わせたいとは、名利にながら果てることでしょう。江雲寺殿(六角定頼)の、天下にその隠れなき孫が右の覚悟では、先祖に対して不忠ですし、佐々木家末代までの瑕瑾です。分別がありますように。公私ともに辱め同然となることです。

一、義弼が城に帰るとき、諸事はこの承禎の御意次第であることは、起請文があること。

一、(近江国)佐和山において、井口と縁辺を申し合わせたいと誓紙を送ったと、申すのでしょうか。父であるこの承禎に対してすでに弓を引き矢を放つと決めたならば、どのようにも申し合わせればよく、恐らく人々への知行保障なども配当するのでしょう。ですが、和談となって起請文を果たし、城に帰った上は、佐和山でのことは一切入れてはなりません。その時々でどの起請文をば立てるべきか、この承禎への誓紙が正本となるべきでしょうか。それぞれ分別するようにということ。

一、年寄り衆の起請文に相違のことがあれば、きちんと言うように。また義弼が間違っているならば、きちんと意見を言うように決めおくべきで、父子に対して是々非々の意見を今度申し届けなかったら、それは天罰・神罰をも鑑みないことではないでしょうか、ということ。

一、無縁な人が立ち入って頼ってきても抱え置くのは諸侍の義理。粗野な庶民でもその覚悟があるものです。美濃守殿は重ねての縁といい、数年抱え置いています。この時に突き放し、あの敵と縁辺を申し合わせることは、天下の嘲り。前代未聞で口惜しく無念であること。

一、斎藤治部大輔が言上したことを、ご許容なさらないようにという旨、公方様(義輝)へ再三申し上げました。また、伊勢伊勢守(貞孝)と斎藤治部大輔が縁故を結んだとき、京都への荷物以下を当国で押収し、伊勢守に対して数年返しませんでした。そして近衛殿(前久)へあの者の娘が召し置かれるだろうと内々にこちらへお届けになったとき、もってのほかの卑しいことで考えられないと、申し入れを放置なさるようと、進言しました。そのようなところに、今度のこの縁辺の風聞があったと政所殿(貞孝?)から興禅寺経由で仰せられたこと。面目を失った次第で、京都の嘲りは言うまでもありません。さてさて、右のお届けは、この承禎存じませんと申すべきでしょうか。四郎の悪名は末代の不覚です。義弼は若年で、(実態となる)宿老たちの覚悟と言えば、自ずから贈答品に目がくらみ、『仕合もと』でなければ世間に言えないでしょうと。本当に当家は、宇治川以来度々の名誉で今に残っていたところ、この代に至って卑しい事が起こり、物語・草子などにも書き残されること、主従ともに恥ではありませんか。無念至極であること。

一、越前(朝倉義景)と縁辺を申し合わせたこと、去年宿老衆が長光寺で会合したとき、興禅寺経由で尋ねたところ、もっともで然るべきだと一同に返事をしましたので、堅く申し合わせました。この度の異変のこと、状況を申し遣わすべきでしょう。どのようになっていますか。ことに井口のことは、(義景は)古敵と考えているところで、申し合わせのことは、きっと無念に思われるでしょう。また先年の御料人のこと、内々で所望したとはいえ、能登国への義理を違えることから、なし難いとのこと、再び行って通告しました。今またこの縁で相違するなら、色々と遺恨があるでしょう。北辺へは深く重ねて入魂だと思います。そのときのそれぞれの覚悟はどのようにお持ちでしょうか、ということ。

一、内々に聞き及んでいます。斎藤治部大輔の申し合わせ、北辺へ考えがあるとのこと。さてもさても、愚かなことです。井口自らが北の縁辺を捨てて、当方へ同心され、義絶に及ぶのでしょうか。それでは自滅ですから、とても成らぬところに、義弼に縁談を申し合わせたいのと思いのまま、あの仲人どもを落着させています。国が破綻し、その身は後代の恥すら省みないこと。時刻が到来したということ。

一、越前とは断交となり、斎藤治部大輔の申し合わせは『対揚』(釣り合い)とならないでしょう。(義景は)ことに揖斐五郎を抱え置き、入国の内談をし、尾張国(織田信長)に取り急ぎ奔走するようにと美濃守殿へ申し談じているとのことです。ということで、あの両国より美濃国へ侵攻するとき、当方の働きはどのようになるでしょうか。美濃守を捨ててさえいないのに、当国からの出勢とはどのように思われるでしょうか。越前・尾張にはその覚悟と対応があるでしょう。その上こちらの働き一切は事はならないでしょう。あれこれと天下の褒貶が決まるのはこの時です。

一、先年(近江)北郡に出陣したとき、美濃国井口より斎藤山城守が矢倉山まで働きましたが、一向に手を溜めずに駆け散りました。その後は足軽1人も出てきていません。義弼に万一のときは、援軍として井口より出撃があるだろうと、それぞれお考えでしょうか。首に縄をつけたとしても出てこないでしょう。なぜなら、越前・尾張を左右に置き、遠山を初めとする東美濃を後に置き、兵力を出すことはできないだろうからです。であるなら、この国は何の役に立つのでしょうか。当方との境界の状況により、志賀郡などへ、京都の騒ぎが影響しそうです。その配慮をしなければならないところ、越前・北郡辺りが不通になりましたら、ますます思いも寄らぬことが出てくるでしょう。そのときはそれぞれの覚悟が専ら重要です。

一、慈寿院殿・承禎を目前に置きながら、四郎の祝言を行なうことは不孝の至りで、外聞も内実もどのように思われるでしょうか。この縁で家格の上下は第2としても、美濃守殿を数年抱え置き、手前をも当たらせて、婚期が特別遅れている訳ではないのに、混乱してあの国盗の被官人と縁辺を申し合わせ、他国から入国させようとしています。越前・尾張の当国への遺恨は必定です。ですから、名誉と利益を比べれば、この度承禎・義弼と年寄り衆は悪名にその隠れもないでしょう。国のため家のため、余りに悔しいこと、このようです。江雲寺殿は都と分国で共に名誉をお持ちでしたが、承禎は器になく、よってこの仕上がりになってしまいました。その子である四郎は若年で無分別なのを、年寄り衆が奉って意見をせず、睨み合う。名をも、徳をも、家をも末永くなくしたと、下々の風聞はどのようになると思っていますか。一旦は折檻に及んだとしても、それぞれ具申されるように。右のように申して、誓紙を出した上は、相違があってはなりません。後悔先に立たずです。取り急ぎ申し届けられ、返事をいただきますよう。

今度木戸口、及一戦、首一被討捕、御高名無比類候、猶小六殿可有演説候、弥忠節尤専要候、恐ゝ謹言、

二月廿五日

卜全 判

西尾五左衛門殿

御宿所

→岐阜県史p373「氏家卜全感状写」(内閣文庫所蔵文書)

1561(永禄4)年に比定。

この度木戸口で一戦に及び、首級1つを討ち取られました。ご高名は比類がありません。さらに小六殿がご説明されるでしょう。ますますの忠節がもっともで専要です。

去廿一日、浅井備前出張付而、退衆相談、笠縫表江取懸候処、於木戸口及一戦、稲葉縫殿右衛門被討捕之、太刀疵二箇所被負、御働無比類候、拙者大慶不過之候、殊家中衆高名、是又尤候、猶ゝ馳走本望候、恐ゝ謹言、

二月廿五日

 卜全 判

西尾小六殿

 御宿所

→岐阜県史p356「氏家卜全感状写」(内閣文庫所蔵文書)

永禄4年に比定。

去る21日、浅井備前守が侵入したことについて。退却する者たちと相談し、笠縫方面へ攻撃したところ、木戸口において一戦し、稲葉縫殿右衛門を討ち取られました。太刀傷2箇所を負われて、お働きは比類がありません。拙者の大慶はこれに過ぎません。ことに家中衆の高名もまたもっともです。さらなる奔走を望みます。