芳翰披閲候、抑就当家督、息氏政直之態蒙仰候、殊太刀一腰、紅燭弐百挺、送給候、遠境与云、芳志此事候、何様御礼自是可申届候、就中、上総向久留里取立新地、普請悉出来之間、近日可納人数候、委曲岩本可申候、恐々謹言、

五月九日

氏康(花押)

白川殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏康書状」(白川文書)

氏康花押より1560(永禄3)年に比定。

 お手紙を拝読しました。そもそも当家の家督について、息子の氏政に直々に仰せをいただきました。特に太刀1腰・紅の蝋燭200挺をお送りいただきまして、遠路ということもあり、お心遣いとはこのような事を言うのでしょう。何はともあれお礼をこちらから申し届けます。とりわけ、上総国で久留里城の向かいに新しい砦を構築し、工事は全て終わったので近日部隊を撤収させます。詳しくは岩本が申し上げるでしょう。

一百五拾三〆八百文

右分出所、箕輪ニ有之間、相違不可有之者也、

永禄三年

十二月八日

「氏政公御黒印」

清水六郎殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏政判物写」(群馬県高崎市 清水一岳所蔵)

覚書。
153貫800文。
右の出金は、箕輪に在勤の期間は相違があってはならない。

就忩劇、於寺中横合非分之儀申懸者有之者、註交名、玉縄善九郎所可被申断候、若至于惣緒之沙汰者、当府へ可承候、則可処罪科候、仍如件、
二月廿八日[虎朱印]
円覚寺

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条家虎朱印状」(神奈川県鎌倉市 円覚寺所蔵)

1561(永禄4)年に比定。

 交戦時、寺中において横合いより無茶を言い立てる者があれば、名前を一覧にして、玉縄の善九郎のところに申し届けられるように。もし粗雑な裁断に至るならば、小田原で受けましょう。すぐに罪に処すでしょう。

風祭於法泉寺、不可致狼籍候、若横合非分之儀致有之者、則搦取、可申上者也、仍如件、

酉 三月十三日[虎朱印]

法泉寺

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条家朱印状」(小田原市 宝泉寺所蔵)

 風祭の法泉寺にて、狼藉をしてはなりません。もし横合いから無茶をする者があれば捕縛して申告するように。

たい三枚早ゝ相調、明日持来、南条代・大草代ニ可渡之、無沙汰付者、可為曲事旨、 被仰出者也、仍如件、

酉 三月卅日[虎朱印]

南条 奉之

小やわた

 小代官

 百姓中

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条家朱印状」(箱根町教育委員会所蔵藤曲文書)

大草康盛の活動時期より1561(永禄4)年と比定。

 鯛3枚を早々に調達して、明日持参し、南条・大草の代官に渡すように。無沙汰については違法とする旨、仰せになっている。

   氏康(花押)

今度大事使申付候、涯分無相違可走廻候、然者、一廉可加扶助候、若於路次、身命致無曲候者、子を可引立候、仍状如件、

酉 壬三月十三日

氏政(花押)

高橋郷左衛門尉殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏康加判同氏政判物」(東京都目黒区 高橋健二所蔵)

 この度重要な遣いを指示します。懸命に任務を果たすよう活躍するならば、格別な昇給をします。もし途上で落命したならば、子供を後継者に立てます。

廿五日御状、廿八日未剋到着候、本納外曲輪敵乗取由注進候間、則氏政致出馬処、敵退散由方ゝ申来候、先以延引候、今度[則]刻有御出陣、後詰ノ行御催由辱候、息助五郎始遠山以下至船橋打出候間、乍定可申入候、何様自是可申入候、恐々謹言、

十二月廿八日

氏康(花押)

千葉介殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏康書状写」(小田原編年録首巻下)

 25日の書状、28日未刻に到着しました。本納城の外曲輪が敵に乗っ取られたとのこと報告だったので、氏政が出馬したところ、敵が退散したとの報があちこちから来ました。先ずは延期しました。この度は即刻ご出陣いただいて後詰の手立てを催したそうで、かたじけなく思います。息子の助五郎をはじめ遠山以下が船橋まで出撃していましたので、型どおりではありますがお知らせします。何事もこの者たちからお知らせします。

人足四十人指越候、役所きへ一向ぬるゝゝ馬もかけよせ、各来申候、度ゝ雖被仰出無沙汰ニ致候、為其一揆ニ普請道具を召寄、可為致由被仰付処、畢竟奉行人無沙汰故候、瓦つゝき堀切もわつか二間内之由申候、既役所儀をか様ニ致無沙汰候、曲事ニ被思召候、只今被指越四十人ニ、一揆衆五十も百も道具持候者追おろし、人之足不懸程ニきへ立可申、各者役所数日何を致候哉、身を不惜貴自身可致者也、仍如件、

 此人足五日召仕、五日目ニ可戻申者也、

二月廿七日[「武栄」朱印]

内藤代

野口喜兵衛殿

同衆中

安藤右近

同十左衛門

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏康朱印状」(静岡県富士宮市 富士山本宮浅間大社所蔵)

1567(永禄10)年~1571(元亀2)年に比定。

 人足40人を送りました。役所『きへ』が、一向にだらだらと馬も駆け寄せて、各自が来ています。度々仰せ出されたとはいえ無沙汰しています。その一揆に普請道具を集めさせ、実行しろとの指示を出されたところです。結局奉行人が無沙汰しているからです。瓦続きで堀切も僅か2間の内とのことですから、役所のことをこのように無沙汰しているのは曲事だと仰せです。現在送られた40人に、一揆衆50でも100でも道具を持つ者を追い下ろして、人の足が懸からない程に『きへ』を立たせるべきです。各自役所で数日何をしていたのでしょうか。手間を惜しまずあなた自身で処理するように。
 この人足は5日召し使い、5日目に戻すべき者である。

先日酒井入道ニ薩埵陣之刻、伝馬之御判ニも為無之、恒之御印判に而被下候、一廻物書誤か思、是非不申候、然ニ今度板倉ニ被下御印判も、伝馬を常之御印判ニ而被下候、御印判之事候間、無紛上、無相違候得共、兼日之御定令相違候間、一往其方迄申遣候、不及披露儀候哉、先日酒井ニ被下も、又此度も、其方奉ニ候間、申遣候、始末此御印判ニても、伝馬被仰付候者、其御定を此方へ被仰出模様、御落着可然候歟、伝馬之者も可相紛候哉、用捨候て可披露候、謹言、

五月十九日

氏政(花押)

遠山新四郎殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏政書状」(長府毛利文書)

1569(永禄12)年に比定。

先日薩埵陣の際、酒井入道に伝馬の印判がなかったため、通常の印判で発行しました。一度は物を書き誤ったと思って是非を問いませんでした。そうしたらこの度板倉に発行した印判も、伝馬を通常の印判で通達しています。印判のことなので明快にした上で相違なくすべきですが、兼ねての定めから相違しているので、一応あなたに申し送りました。伝達しなかったのでしょうか。先日酒井に下されたものも、今度のものも、あなたが奉じたものなので通達します。最初から最後までこの印判で伝馬を発して、その定めをこちらから指示していたのでは、安定運用できるでしょうか。伝馬の者も紛糾するのではないでしょうか。取りやめて報告して下さい。

越国衆出張之由候、此度抽忠信肝要候、然者、為証人、実子倉賀野へ可被越候、恐々謹言、

九月十五日

氏政(花押)

浦野中務丞殿

→小田原市史 史料編 中世2 小田原北条1「北条氏政書状写」(新編会津風土記六)

1560(永禄3)年に比定。

 越後衆が侵攻して来たとのことです。この度は忠信にぬきんでることが大切です。ということで証人として実子を倉賀野へ送って下さい。