『武田氏研究第47号』の「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢 -武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として-」(小川雄・著)に、1560(永禄3)年に至る諸大名や国衆の動静がよくまとめられていた。この著述によって諸々の状況をまとめ易くなったため、ここで図示してみよう。

 

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永禄3年当時の状況を見ると、甲相駿三国同盟がまず基点にある。武田氏は、北信濃を巡って越後の長尾景虎(上杉輝虎)と抗争している。南の今川氏は、織田氏・水野氏との戦いを繰り返している。その一方で、美濃の斎藤義龍は東美濃の遠山氏、尾張の織田氏と敵対関係にあった。

ここで微妙なのが、武田氏と織田氏が修交関係にあった点である。これは、武田氏が南信濃を制圧する過程で、東美濃の遠山氏と最初に敵対し、やがて遠山氏を従属させたことに起因する。遠山氏が斎藤氏と敵対していたことから、武田氏もこの抗争に巻き込まれざるを得ず、かといって北信濃の情勢も厳しかったことから、遠山氏と連携して斎藤氏と敵対していた織田氏と交信を交わすようになった。

これは、1547(天文16)年以来織田氏と交戦していた今川氏にとって重大な問題である。抗議してもよいのだが、事はそう簡単ではなかった。

というのは、武田氏が南信濃を抑えた背景には、天文末年に尾張東部(岩崎・鳴海)まで西進していた今川氏との共同戦線を形成する狙いがあったからだ。ところが、弘治年間から三河国衆の叛乱が相次いで今川氏の西進は遅滞してしまう。本来は織田氏と親しかった遠山氏はこれを見て、奥三河の反今川方に加担して南進を開始していた。

武田氏が従属した筈の遠山氏を制御できず、斎藤氏を牽制するために織田氏と結ばざるを得なかったのは、美濃よりも北信濃に重点を置きたいという本音もさることながら、今川氏の三河統治に主な原因があったといえる。西進を止めてしまった今川氏がどうこう言える立場ではなかった。

そしてこの状態が続くと武田氏と織田氏の関係はより深くなり、今川氏は対斎藤氏の戦線で遅れを取ることとなる。そこで今川義元が構想したのが下図である。ここからは私の仮説に基づく。

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義元は自身が三河守に任官し、息子氏真には治部大輔を継承させる。ここで氏真の上位者であることを確認しつつ、三河統治には国衆出身の松平元康を起用。ついで鳴海から熱田、那古屋辺りを制圧して織田氏を従属させる(水野氏も同時に従属させ、遠山氏との関係改善も図る)。

こうすれば、対斎藤氏との戦いに織田・水野・遠山を出陣させ、それを支援することで西方戦線の主導権が握れ、武田氏も北信濃に専念できる。

ところが実際には義元が戦死したことで構想は崩壊し、当初の考えとは逆に織田氏に従属した松平氏が三河・西遠江を侵食することとなる。

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武田氏と織田氏の接近は進み、やがて武田晴信の庶子で四男の勝頼に織田信長の猶子となった遠山氏の娘が嫁すこととなる。前述論文でも触れられているが、1568(永禄11)年の駿河侵攻につながる事態は、義元敗死によって確定したといってよいだろう。

『日本史さんぽ』で、ケイメイ氏が興味深いエントリをしていた。「永禄2年10月19日の理由」というタイトルで、大高城補給の感状がわずか4日後に出ていたことから、「去十九日」は感状が発給された10月ではなく9月19日ではないかという疑問を呈されていた。しかしその場合は「去月十九日」と書くのが通例であることから、10月19日の4日後に今川義元は感状を発給したと見てよいと思う。では、駿府にいたのでは間に合わないのではないかというケイメイ氏の疑問はどのように解決できるだろうか。

そこで、義元の感状が戦闘発生後どのくらいで発給されたのかを挙げてみる(越年したり期間が半年を越えるものは除く)。表の最後の地名は戦功を挙げた場所となる。

2日後 4月24日→4月26日 寺部(豊田市)
3日後 4月15日→4月23日 衣(豊田市)
3日後 9月25日→9月28日 土狩原(長泉町)
4日後 10月19日→10月23日 大高(名古屋市)
6日後 8月16日→8月22日 今井狐橋(富士市)
10日後 9月5日→9月15日 田原大原構(田原市)
12日後 8月4日→8月16日 作手名化(新城市)
13日後 11月23日→12月7日 安城(安城市)
14日後 5月17日→6月2日 名倉舟渡橋(設楽町)
15日後 9月5日→9月20日 田原(田原市)
27日後 3月19日→4月17日 小豆坂(岡崎市)
27日後 9月18日→10月15日 桜井(安城市)
29日後 11月8日→12月23日 安城(安城市)
29日後 11月23日→12月23日 上野端城(豊田市)
29日後 11月23日→12月23日 上野南端城(豊田市)
99日後 3月19日→7月1日 小豆坂(岡崎市)

先の投稿で今川義元の出征は少なかった旨を書いたが、1550(天文19)年の衣城攻めでは現地に赴いていたようだ。これは後の9月27日に伊勢神宮御師宛に就今度進発、為立願於重原料之内百貫文とあるのでほぼ確実だろう。同様に、僅か2日後に発給していた1558(永禄元)年4月26日の足立右馬助宛感状から、この前後には三河で督戦していたと考えられる。

また、1545(天文14)年の対後北条戦の土狩原・今井狐橋も義元が親征していたのは『高白斎記』によって判っている。

その一方、田原攻めで天野氏が感状を受け取ったのは15日後だが、仲介の約束をした太原崇孚の感状は9月10日。すなわち、合戦5日後に現場指揮官の崇孚が暫定で感状を発給し、正式に義元が発給するのがその10日後となる。この時義元は駿府にいたと考えてよいだろう。

ここから敷衍すると、1559(永禄2)年10月23日に義元は三河で陣頭指揮をとっていたことになる。ではいつから三河入りしていたのかという点だが、最長で捉えると前述の永禄元年4月26日からの滞在。ただそれでは少し長過ぎるように考えられる。そこで注目したいのが、永禄2年5月23日付けの「今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、」という氏真書状だ。興津彦九郎が突然上洛を企てた原因はよく判らなかったが、三河から尾張に移っていた義元と合流しようとしていたとすれば合点がいく。その道中で親類と被官に起請文を書かせたという点と、それが父の清房に対する逆心になったと氏真が責めている点を合わせてみると、義元と氏真の疎隔を匂わせるように見える。また、松平元康の書状三河初見は永禄2年5月16日であることから、義元はこれより前に元康を帯同して三河入りした可能性も考えられる。

三河国において、今川氏がどのように給人を扱ってきたかは以下のエントリで考察してきた。

検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合

検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合

検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合

何れも高圧的で、引き立てる振りをしながらそれぞれの国衆の勢力を弱めようとしているものだった。では三河国衆はどのように考えていたのだろうか。それを探る手がかりになるのが、三河国上郡の鵜殿氏の発言を後世に遺した日蓮宗僧侶日覚の書状である(鵜殿氏は日蓮宗への信仰心が篤く、この発言は本音だろう)。

日覚、越後本成寺に諸国の状況を伝える

鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、

「(この文の前に織田が三河を軍事的に席巻したことが書かれている)鵜殿の状況はよくはないとの話です。その内容は、尾張と駿河の間を縫って色々とうまく立ち回っていたところ、思いのほかに東国(今川義元)が敗軍になったので、弾正忠(織田信秀)に一段とつまらなく思われたとのことです」

1547(天文16)年と比定される文書で、日付は9月22日。その僅か17日後には、今度は今川方が尾張まで攻め込んだ旨を報告している。

菩提心院日覚、本成寺に周辺の状況を伝える

駿河・遠江・三州已上六万計にて弾正忠へ向寄来候へ共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数ハ不見之由候、果而如何ゝゝ

「駿河・遠江・三河から約6万ほどで織田弾正忠へ向かって寄せ来たりましたが、国境で防戦して、今は那古野近辺でも部隊は見えないとのことです。果たしてどうなのでしょう」

9月22日には「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」とまで書いていた織田方が呆気なく三河を失い、尾張にまで攻め込まれたのは、織田に一方的に勝たれては困るという三河国衆の意向があったように思える。

ここで出てくる鵜殿氏は三河国衆の中では今川寄りの勢力で、「鵜殿長持書状写」では、講和の裏工作をする織田信秀を長持が責めている。また、永禄4年に松平元康が叛乱を起こすと今川方に最後まで残って当主長照が討ち死にしている家だ。その鵜殿氏ですら「どちらに勝たれても困る」と語っている。

ちなみに日覚と書状を交わしている玄長は分家である下郡鵜殿の当主、また、大高での戦功を称された鵜殿十郎三郎は柏原鵜殿の系統となる(十郎三郎の娘が西郡殿と呼ばれる家康最初の側室で、後に北条氏直に嫁す督姫を産んでいる)。

三河国には強力な守護大名が存在せず、室町期は将軍直属の奉公衆を輩出していた土地柄だった。この故に、小規模な国衆が割拠する自由を知っており、織田にせよ今川にせよ一方的に制圧されることを嫌ったのだろう。逆にそれだからこそ、織田信秀も今川義元も軍事力を背景に圧力を掛けて国衆の勢力を殺ごうとしたと思われる。

こうした状況を終息させるべく、義元は西三河で最大勢力を持っていた松平氏の当主元康を担ぎ出してきたものと考えている。

『甲相駿三国同盟』は有名だが、この成立条件の一つに3つの大名がともに同年齢の嫡男を持っていた点がある。

永禄3年1月時点での比較を表にしてみる。

嫡男 配偶者 父親 婚姻期間
武田 義信(22歳) 義元娘 晴信(39歳) 9年
今川 氏真(22歳) 氏康娘 義元(41歳) 5.5年
後北条 氏政(22歳) 晴信娘(17歳) 氏康(45歳) 5年

嫡男の年齢が全員一緒であり、またそれに配偶できる嫡女が存在したが故にこの同盟は婚姻を伴えた。では、次の世代への継承で考えるとどうだろうか。

短期間で見ると、同盟(婚姻)期間が最も長く、父親の年齢が若い武田氏が最も有利であり、その逆の後北条氏が不利となる。だが、この時点で3つの大名ともに嫡孫は得られていなかった。嫡男と嫡女という強い政治要素を入れてしまった以上、その2人の息子を次世代に据えるのが必須になってくる。この婚姻同盟にはこういった不安定要素も織り込まれている。

  • 武田家

男系継承が前提だから、成婚後9年を経て男子に恵まれなかった武田義信は深刻だったと思われる(女児の園光院殿はいたとされるが)。晴信の次男は盲目、三男は夭折している。正室腹ではないが四男勝頼が14歳、また晴信次弟信繁の嫡男信豊が11歳で存在するがともに未婚。永禄8年に義信が廃嫡される伏線がここに織り込まれているように見える(結局義信は家督を継げなかった)。

  • 後北条家

その一方で順調な兆しを見せていたのが北条氏政である。武田の嫡女である黄梅院殿とは、3家で最も遅い天文23年12月に成婚しているが、翌年11月8日に長男、更にその翌年に長女を出産(長男は夭折)、続いてそのまた翌年の1557(弘治3)年11月に武田晴信が願文を出している。それによると翌年6月出産予定とのこと。今川義元が敗死した直後の永禄3年7月にも晴信は願文を出しており懐胎の気配があったことが判る。後の嫡男となる氏直が生まれるのは1562(永禄5)年なので永禄3年の時点で後継男児はいないのだが、脈は大いにあったと言えるだろう。永禄2年12月23日に氏政が家督を継承できたのはこういった要因もあったと考えられる。

  • 今川家

未知数ながら勝頼・信豊の存在があった武田家より更に追い詰められていたのが今川で、義元にも氏真にも男兄弟は残っておらず、氏真と蔵春院殿(早川殿)との間には、後に吉良義定室となる娘しかいなかった。3代か4代遡れば血縁者もあったかも知れないが、文書に出てくるような活動は残されていないため落魄していたと思われる。

この事態を受けて、氏真への家督継承が曖昧になっていたのではないだろうか。毎年1月13日の歌会始は当主が行なっているが、1557(弘治3)年は氏真が行なっている。山科言継の記述によると、この歌会の前に大方(瑞光院殿・寿桂尼=氏親正室)から言継に装束の贈呈があり、氏真が当主として初めての歌会始を行なうニュアンスが伝えられている。ところがこの後の1月29日に義元が歌会始を急遽挙行し、これにも言継は駆り出されている(この時には大方は動いていない)。氏真の家督継承を既成事実とすべく活動する大方と、それを打ち消そうとする義元の対立が見て取れる。

これは後で詳しく検証する必要があるが、大方と義元に血のつながりがないと私は見ている。つまり、氏親が側室に生ませたのが義元という考え方である。花蔵の乱や第2次河東の乱での大方の動きを見ているとどうもそのように思えるためだ。

そのような観点から見ると、大方が氏真の継承を推したのは、氏真正室の蔵春院殿が、大方の嫡女である瑞渓院殿のそのまた嫡女だからだと気づく(閨閥図)。長女の長女であり、外孫とはいえ蔵春院殿を引き立てたかったのではなかったか。一方の義元から見れば、氏真は息子ではあるものの、その嫁とは関わりがない。自身に次男ができる可能性もある以上、氏真に譲ったら内紛の原因となることを危惧していたように思える。

そして大方には後北条家から手元に預かった北条氏規もいた。氏規は瑞渓院殿の次男と記されており、前述の言継記述によると大方は年中同行させていた。そして氏規は1556(弘治2)年12月に11歳で「祝言」したと記載されている。この祝言が元服を意味するのか婚姻を意味するのかは説が分かれているところだが、私は元服には少し早いので婚姻ではないかと推測している。婚姻の場合、原典は明確でないが朝比奈泰以の娘が相手とする説がある。

この氏規は仮名を「助五郎」としており、今川家嫡流の「五郎」から来ていることは確実だ。筆頭重臣の娘と娶わせているのであれば、氏真に何かあった際に氏規を担ぎ出す予定だったように思える。

一方の義元には、別の血筋があった。自身の側近関口氏広に嫁した女性は、『戦国人名事典』によると義元の妹と一般に言われているが、元側室だったという説もあるらしい。何れにせよ非常に近しい間柄であり、前述の義元庶子説を前提とするなら同腹の妹だった可能性があるように見える。そして、この関口氏広室は、清池院殿(俗に築山殿・瀬名姫)を産む。

清池院殿は1557(弘治3)年1月15日に西三河国衆の出身である松平元康と婚姻するのだが、2年後の永禄2年3月6日に嫡男信康、翌年6月6日に嫡女(亀姫)をもうける。多産といっていいだろう。

義元は、自身の血統である蔵春院殿・氏規を推し立てる大方に対抗して、姪の子である信康に着眼したのではないだろうか。そのためには、松平元康をもっと引き立てる必要がある。

さて、1560(永禄3)年1月という、鳴海原直前の状況に立ち戻ってまとめてみよう。

武田家は嫡男義信に後継者が9年もなく焦り気味。四男勝頼が徐々に脚光を浴び始める。

後北条家は氏政への家督継承も終わり、多産であるこの若夫婦に期待しつつも、戦略的な養子に出した次男氏照・三男氏邦を呼び戻すこともできる状態。最も安定している。

今川家は氏真が5年半後継者をもうけられず、それでも大方の方針で家督を継承させつつある。但し、次善策として大方は15歳の外孫、氏規を用意し、義元は1歳の姪孫、信康(後見として17歳の元康)を検討し始めた。

確実にいえることは、三国同盟が足枷になって正室所生の後継者が必要であり、今川家は氏真後の後継者が永禄3年時点では不透明だった点である。

余談だが、この仮説で義元が後継者と目した信康には娘2人しかできなかった。遠い後に信康は義信と非常によく似た境遇で切腹に追い込まれているが、「後継者をもうけられなかった」という共通点をもって事態を把握することは重要な要素だと思われる。

去五日、於三州田原大原構、最前合鑓無比類働、甚以神妙至也、弥可抽戦功之状如件、

天文十六[未]年九月十五日

 義元判

松井惣左衛門殿

戦国遺文 今川氏編841「今川義元感状写」(国立公文書館所蔵記録御用所本古文書八上)

去る5日に、三河国田原の大原構において前線で槍を合わせて比類なき働きをした。本当に神妙の至りである。ますます戦功にぬきんでるように。

史料漁りは完了した。本当はもっとほしいところだが、ないものはないので今仮説をまとめている。とはいえかなり複雑な構造になりそうだし、要点も多岐にわたるため、覚書を縷々記していこうと思う。

まず最初に、私のこの仮説では太田牛一や小瀬甫庵の『信長記』は一切考慮しない。1564(永禄7)年生まれの小瀬は同時代の人物とはいえない。また、1527(大永7)年生まれの太田は永禄3年に33歳ではあるが、鳴海原合戦については黙して語っていない(いわゆる『桶狭間』の記された「首巻」は自筆原稿が見つかっておらず作者は不詳)。太田が初期に祐筆をつとめた丹羽長秀の父親は水野和泉守被官だった可能性が高く、状況はよく把握していたと思うのだが……。

何れにせよ、当時の関係者が記した書簡などの一次史料で仮説を構築していく。これはこのサイトを始めた時からの方針だ。

では私は何を調べようとしているのか。長らく調査を重ねてきて自分でも模糊とした部分はあるため、改めて挙げてみよう。

主題は1560(永禄3)年5月19日に尾張国鳴海原にて戦死した今川義元。義元自身は戦国大名であって当主とはいえ戦闘に参加する可能性はあり、戦死すること自体は謎ではない。

一般的には、兵数の多い今川方がなぜ敗れたのかという議論を行なっているようだ。だが、義元の戦死を取り巻く局地的な兵数については史料がない。どんなに圧倒的な兵数を保有していても、的確に戦場に展開できなければ意味をなさない。少なくとも、総大将を喪失するという大敗北になったということから、今川方は兵数が劣っていたとみなすべきだろう。

「今川方は織田方より兵数が多い」という前提は、両家の勢力範囲から動員数を推測して戦場に当てはめているから成り立つ。しかし、近代の国民国家による徴兵制度のような動員が行なえたとは思えない。たしかに勢力範囲の広い大名は被官数も多いから動員可能数は大きいだろうが、あくまで可能性の範囲である。

シンプルに考えるならば「兵数が判らないなら、負けた方が少なかった」と考えた方が合理的となる。

総大将が戦死した今川義忠・武田元繁・宇都宮尚綱・陶晴賢・佐野宗綱といった例を見ても、強引な政策(外交・体裁)を重視し、戦況が不利になったのを立て直そうとして総大将が前線に出て戦死している。唯一の例外が、竜造寺隆信。島津に正面突破されて乱戦中に死んでいる(とはいえ沖田畷合戦前に行なった粛清によって求心力を失っていた点は大きく、やはり大局的に見て他者と同様に感じられる)。

これらの例を見ると、何れも我の強い専制的な大将に見える。しかし義元はそういうタイプではない。

こうしたことから最初に疑問に思ったのは、今川義元はなぜ尾張で死んだのか、という点だ。同時代の武田晴信・北条氏康・上杉輝虎たちと比べても、義元はほとんど出陣した形跡がない。前者の3名は明らかに陣中と思われる書状がいくつも見つかるが、義元については皆無である。今川家を見ても義忠・氏親・氏輝と割合親征した率が高いように見えるのだが、義元・氏真は出陣しなくなる(これも謎だが今は措く)。こうした傾向の義元が、紛争中の尾張東部で戦死したというのは解せない。上杉輝虎や武田勝頼であれば納得し易いのだが。

義元がわざわざ前線に出たのは、伊勢遷宮の経費負担の案件と、三河守任官が絡んでいるように考えている。前述した5名も外交・体裁を重視し、現場を軽視したため破綻したことを考えて、このことを詳しく検証したい。

ついで第2の疑問となったのが、義元と氏真の関係だ。息子氏真への家督継承は、弘治末年から永禄元年にかけて迷走している。ところが、義元戦死直後に氏真は大量の文書を発給して家督継承を既成事実としている。この直前まで、氏真の書状数は少なく、義元も数も減っている。このことを考えればよいか。そして、当主の継承か微妙なこの時期に尾張まで義元が出て行った理由は何か。ここは、甲相駿三国同盟の後継者問題が大きな要因だと考えている。さらに甲斐武田氏との関係でいうと、この時期武田氏は織田氏と急接近している。この原因として、美濃の斎藤氏が朝倉・織田・武田と断交して独自路線を選んだ経緯があるが、今川氏が武田氏との協調を考えるならば、尾張の織田氏と何らかの妥協点を見出す必要が出てきて、軍事的進出と譲歩によってある程度織田氏を屈服させるプランが考えられたのではないか。また、この作戦に同意できなかった氏真側は、尾張侵攻を冷ややかな目で見ていたように感じられる。だからこそ、義元戦死後に大量の文書を発給した、すなわち、義元の失敗を見越した、というか願っていた部分があるように思える。

最後の疑問は、なぜ鳴海城は陥落しないのか、という難題である。鳴海原合戦において、織田氏に対しての最前線は鳴海城である。だが、大高城は何度も後詰が言及されているし、沓掛城は合戦後に自落した(大高城も自落)。ところが鳴海城は後詰も自落もない。

地形的に見ても、北方の成海神社とはほとんど地続きで備えは甘く、城域も狭い。この鳴海城が義元敗死後も維持され、氏真の撤退命令を受けて整然と開城した。なぜ落ちないのか。感状がない点から、そもそも攻められてすらいないと思われる。付随して、毎月19日に大高後詰を行なった謎、刈谷城陥落の誤報がなぜ発生したかの謎、沓掛城で重要文書を失った被官たちの謎についても検討したい。