服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。

1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写

所領の不入を今川氏奉行に認定してもらう

 その後、少なくとも1550(天文19)年までの間に、東三河で大規模な反今川決起が始まったようで、保成は今川方と条件交渉を行なっている。

年未詳 11月25日 牧野保成条目写

今橋跡職は苗字の地、伊奈は本知行であると今川氏に伝える

 牧野保成の本領は伊奈であること、今橋・田原・長沢を今川氏が攻略した後は自分に知行させてほしいと要望を出している。また、松平蔵人佐・安心が在国の際に義元から判形を貰っている点に言及していることから、保成は三河国内において松平蔵人佐・安心の下位者であることが判明する。

 1550(天文19)年、今川氏は攻勢に出る。この中で保成は中心的な役割を果たし、なおかつ占有した長沢城を今川氏に一時的に明け渡す。今川氏被官が揃って感謝し、返還を確約していることから、今川氏が長沢城を求めたのだろう。

8月29日(比定) 太原崇孚書状写

兵粮のこと、他部隊の展開について太原崇孚より指示

9月16日 朝比奈泰能書状写

朝比奈泰能、牧野保成が長沢城を明け渡すことを感謝する

9月19日 太原崇孚・飯尾乗連連署書状写

飯尾乗連・太原崇孚、臨戦態勢が解けたら長沢は牧野保成に返還されると通知

 ところがこの年の12月。「一時的」だったはずの長沢領明け渡しが今川氏によって反故にされる。慌てた保成は、返還を確約していた今川氏被官に抗議。書状として残っているのは三浦氏員・太原崇孚・葛山氏元だけだが、朝比奈泰能や飯尾乗連にも問い合わせはいったことと思われる。

12月14日 三浦氏員書状写

三浦氏員、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行われた件を上訴すると連絡

12月15日 太原崇孚書状写

太原崇孚、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行なわれた件は不法であると連絡

12月15日 葛山氏元書状写

葛山氏元、長沢両人が牧野保成の知行を宛行なわれた件が解決すると予想

 「今川義元に上訴しよう」と約束する氏員、「不法な占拠である」と憤ってみせる崇孚、「必ず解決するだろう」と楽観視する氏元と、3者の反応はそれぞれだが、その後長沢領が保成に返還された痕跡はない。
 このことから、「軍事的理由から一時的に」という名目で領地を召し上げ、義元側近に与えてしまう。そして泣き寝入りさせる、という手法が新領地で行なわれていたと判断できる。

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