今度京勢就出張、父子従最前参陣、丹波守ハ北敵為備松山帰城、仕置堅固之由候、新左衛門ハ当地在陣、旁以肝要候、弥掲粉骨可被走廻候、本意之上、駿州上州於両国一所可遣候、仍状如件、

天正十八年[庚寅] 卯月廿六日

 氏直判

木呂子丹波守殿

同 新左衛門殿

→小田原市史 小田原北条2 2066「北条氏直判物写」(岡谷家譜)

 この度京勢が侵攻したことで、父子が近日より参陣し、丹波守は北の敵に備えるため松山へ帰城し防備を堅固にするとのこと。新左衛門は当地に在陣、どちらも大切なことです。ますます粉骨を尽くして活躍して下さい。本意となった際は、駿河国・上野国で1つ知行を遣わします。

今度於山中、父右兵衛大夫、本城暫相拘、竭粉骨走廻、遂討死候、最前代未聞之仕合、無比類候、仍名跡之事、知行・同心・被官已下、於何事不相替可令相続候、父御用立候上者、別而引立可召仕候、仍如件、

天正十八[庚寅] 卯月十七日

 判

松田助六郎殿

→小田原市史 小田原北条2 2061「北条氏直判物写」(記録御用所古文書九)

 この度山中において、父右兵衛大夫が、本城をしばらく保持して粉骨を尽くして活躍し討ち死にを遂げました。前代未聞の偉業で比類がありません。よって名跡のこと、知行・同心・被官以下何事も変更なく相続して下さい。父が功績を挙げたので、格別に引き立てて召し使うでしょう。

[端裏書]「七月五日北条氏直所へ之御朱印之写」

当城立籠候人数、大将之事ハ不及申、下ゝ迄ほしころしニさせらるへきと被思食候処、其方一人罷出、是非腹を仕候ハん間、所勢被作助候ハゝ可忝旨申候由、羽柴下総・黒田勘解由両人懇致言上候、其方申様神妙なる躰、被感思候間、御法度ニて無之候ハゝ、命之儀被成御救度被思食候へ共、御法度之儀候間、無是非候、但親候氏政并奥陸守・大道寺・松田四人諸行ニて表裏之段、聞食被届候条、両四人ニ腹をきらせ、其方儀ハ被助置度被思食候間、是非両四人ニ可被相究事可然候、今日之罷出儀ハ、感入思召候条、外聞之儀ハ天下へ御請乞候間、心安存候へく候、為其如此被仰出候、

「又御自筆之御はしかき」

尚ゝ是非四人可然候、

→小田原市史 史料編 原始・古代・中世I 885「豊臣秀吉朱印状写」(小早川家文書『椋梨家什書六』)

天正18年に比定。

 当城へ立て籠もった者たちは、大将は言うに及ばず、下の階級まで干し殺しにすべきだと思し召しのところ、あなたが1人で出てきて、是非腹を切らせてほしいので諸勢は助けてもらえるならありがたいと申し出た旨、羽柴下総・黒田勘解由の両人が丁寧に言上しました。あなたの神妙な態度に感銘されましたので、ご法度にはありませんが命はお助けになりたいとの思し召しです。しかしご法度がありますので変えられません。ただし、親であります氏政と、陸奥守・大道寺・松田の4人は行動に裏表があったことを聞き及ばれています。この4人に腹を切らせ、あなたのことは助けたいとの思し召しですから、ぜひ4人に覚悟を決めさせ実行して下さい。今日(城を)出てきたことは感じ入っておられますから、外聞のことは天下へ(許しを)請うていただけますから、ご安心いただけますように。このように仰せいただいております。
 (ご自筆の端書)なおなお、是非4人をしかるべく。

寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、

十二月八日

 勝頼(花押)

小野沢五郎兵衛殿

→武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書)

天正9年に比定。

 寄親であります松田上総介が、勝頼に対する忠節の初めとして去る10月28日に韮山に向かい作戦したところ、北条美濃守が迎撃したので一戦を遂げた際、首級1つを討ち取りました。神妙です。よって大刀1腰を遣わします。これ以後はますます武功に励むように。

芳翰并御使者口上之趣、即殿下へ令披露処、尤忠節之段、悦思召候、然ハ伊豆相摸、永代可被扶助旨候、弥被極御分別、重而誓紙等之儀、委御沙汰候て、頓而可被仰越候、恐惶謹言、

六月八日

[「北条家老松田尾張守政賢反逆ニテ秀吉へ内通ノ答、態タガヒノ名字ナカリシト云ゝ」

→小田原市史 史料編 原始・古代・中世I 865「其書状写」(古今消息集六)

天正18年に比定。

 ご書状とご使者の口上の内容、すぐに殿下へ披露いたしましたところ、もっともな忠節であるとお喜びになりました。ということで伊豆・相模は末永く扶助されるとのことです。ますますご分別を極められ、重ねて誓紙などのことを詳しくご処理いただき、すぐに仰せになるでしょう。

六月小

<中略>

十六日[丙戌]、下総より教傳[弟■主]こし候、城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候、

十七日[丁亥]、晩夕立、

十八日[戊子]、小口番ニこし候、

十九日[己丑]、

廿日[庚寅]、[国かハリ近日之由候、]城中之調儀候由候、夜すから具足にて待候、

廿一日[辛卯]、殿様より初こめ給候、

廿二日[壬辰]、[夜雨降、]井侍従敵丸のりくつし候、

廿三日[癸巳][夜雨降、]出合候、

廿四日[甲午]、[むらたち候、]小口番ニ而候、八王子の城責崩候由注進候、興国寺松平玄番見舞ニ越候、

廿五日[乙未]、松玄ふる舞候、

廿六日[丙申]、関白様石かけの御城へ御うつり候、諸陣ニ亥刻ニ鉄炮そろへ候、

廿七日[丁酉]、中間かけ落候、

廿八日[戊戌]、

廿九日[己亥]、

七月大

一日[庚子]、[雨降、]小口番ニ越候、中間共かけ落候、

二日[辛丑]、

三日[壬寅]、中間かけ落候、

四日[無事之沙汰候、城普請候、

五日[甲辰]、[雨降、]小口番ニ越候、氏直内府様内衆羽柴下総陣所ニ走入被成候而、関白様へ御佗言候、

<後略>

→増補続史料大成19巻「家忠日記」天正18年6月~7月記述

「松田左馬助殿」
今度之忠信、誠以古今難有候、意趣紙面二不被述候、於達本意者、何之国二候共可渡遣候、於氏直一代、此厚志不可亡失候、時ゝ刻ゝ大細事共、異于他可懇切候、仍状如件、
天正十八年[庚寅] 六月十七日
 氏直(花押)
松田左馬助殿

→小田原市史小田原北条2 2074「北条氏直判物」(神奈川県横浜市 松田直弘氏所蔵)

 この度の忠信、本当に古今ないことです。内容は紙に書かれません。本意を達したら、どの国でも(知行を)お渡しします。氏直一代において、この厚志は忘れません。時間が経とうとも些細なことでも、他とは異なり親しくします。

今度小山地、徳河取詰候処、数日籠城、尽粉骨抽戦功候条、神妙候、弥可励軍忠候也、仍如件、

天正三 九月廿一日[「晴信」朱印影]

佐野惣左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2574「武田勝頼感状写」(静岡市駿河区森下町・小和田哲男氏所蔵佐野氏古文書写)

この度小山の地を徳川が取り囲んできたところ、数日間籠城し、粉骨を尽くし戦功にぬきんでましたので、神妙です。ますます軍忠に励むように。

今度小山地、徳河取詰之処、数日籠城、被尽粉骨之条、当城堅固、併其方戦功故候、依之後詰之行任存分候、令感悦候、自今以後、弥忠節可為肝要候也、恐々謹言、

九月廿一日

 勝頼(花押)

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2573「武田勝頼感状」(土佐岡部文書)

天正3年に比定。

この度小山の地を徳川が取り囲んできたところ、数日間籠城し粉骨を尽くされましたので小山城が堅固なのとあなたの戦功によるものです。これにより後詰の戦いを思う存分できました。感じ入っています。これ以後ますます忠節が肝要となるだろう。

去月十九日書札、今日令披閲候、如来意、武田四郎至三・信堺目動候条、即時令出馬、去月廿一日遂一戦、切頽属平均候、其趣自陣所以使者申遣候、定可為参着候、信長畿内其外北国・南方之儀付而取紛候刻、武田信玄遠・三堺目へ動罷出候ツ、何時候共、於手合者、可打果候由、相拵候間、信玄断絶候条、残多候キ、四郎慣其例出張候、誠天与之儀候間、不残思惟、取懸悉討果候、四郎赤裸之体ニて一身北入候と申候、大将分者共さへ■に死候、此外之儀は不知数候、於様子は、不可有其隠候、散数年之鬱憤候、次信・濃堺目岩村と申要害、従甲州相抱候条、取巻候、種々雖令懇望、可攻殺覚悟ニ候所赦候、五三日中可為落居候間、然者至信州可出勢候、連々自其方承候儀も候条、此節至信・甲可被及行之儀、幸時分候歟、家康者駿州へ相動、伊豆堺迄放火候、今川氏真可■居候、兵粮未出来候間、為士卒先納馬候、来秋重而可動候、猶以其口事無御油断御過専一候、恐々謹言、

六月三十日

 信長花押

不識庵 進覧之候

→戦国遺文 今川氏編2571「織田信長書状写」(上杉家編年文書)

天正3年に比定。

去る月19日の書状を今日拝見しました。お書きいただいたとおり、武田四郎が三河・信濃の国境に出撃したので、すぐに出馬いたしました。去る月21日に一戦を遂げ、切り崩して平定しました。その概要は陣中から使者を出して報告しました。きっと着いたことでしょう。信長が畿内のほか北国・南方のことで立て込んでいるときに、信玄は遠江・三河の国境へ出てきたことがありました。いつであっても手合わせして討ち果たしてやろうと考えて準備していたところ、信玄が断絶したのでとても心残りでした。四郎はその例に慣れて出張ってきました。本当に天が与えた好機ですので、考えることなく攻撃して、ことごとく討ち果たしました。四郎は丸裸の状況で身を北に入れたそうです。大将身分の者たちでさえ死にました。その他の者は数知れずで、その様子は隠せないでしょう。数年の鬱憤を晴らしました。次に信濃・美濃の国境に岩村という要害があり、武田方が保持していましたので包囲しました。色々と懇願してきても攻め殺す覚悟でしたが、許します。数日中には開城するでしょうから、そうなると信濃国へ出撃するでしょう。何度かあなたから承ったこと、この際信濃・甲斐を攻撃なさる好機ではないでしょうか。家康は駿河国へ出動し、伊豆の境まで放火しました。今川氏真がおります。兵糧が準備できていなかったので、兵のためまず馬を納めました。来る秋に重ねて作戦するでしょう。さらにそちら方面でご油断なく過ごされるのが大切です。