12月1日からのエントリーでは、古文書のアップを優先する。これは2月に刊行予定の『戦国遺文 今川氏編2』によって今川氏関連文書が増える予想に備えるものであり、また、様々な論の展開に必要な文書を補充する目的もある。

いつもより堅苦しい内容になりがちだが、解釈への疑問点・意見などあれば、コメントなどでお知らせを。

時事情報になるが、11月27日に山形城本丸から戦国期(最上氏時代)のものと見られる建物跡が見つかったという。火災で焼けた跡が最上義光書状の「本丸が焼けた」の記述と合うそうで、根石を置く形式と掘っ立て式の混在、焼けた瓦の存在により、戦国末期の姿がこれから明らかにされるだろう。

一方、近江八幡市ではシンポジウム「安土 信長の城と城下町」が同じ11月27日に開催された。安土城内の清涼殿存在有無が議論されたようで、その成果の発表が待たれる。

その他、ようやく国史跡となった岐阜城では金箔瓦、金沢城兼六園成立以前の城内庭園『玉泉院丸』で階段状の滝、甲府城では羽柴氏時代の石垣が見つかっている。

松本城は幕末期の景観を取り戻すべく、2018年度完成を目指して外堀復元計画が開示された。恐らくここでも貴重な遺構が見つかることだろう。

岩槻城跡で11月20日に開かれた見学会では、近世・戦国期と共に縄文期の遺物も公開された。それぞれの時代でどのように場所が使われたかは、文献だけでは知りえない。

このような発掘調査によって史料解釈は精度が高くなり、大きく前進する。史料を読む際の留意事項が増えるが、とても嬉しい作業増だ。

態馳筆候、抑東国鉾楯無際限事、且云味方中労苦、且云万民無安堵思、旁以今年関東可討是非議定候、当月之事者、漸無余日候、何様来月者、必可越山候、定而甲相両軍茂可出張候間、以防戦一途可落着候、於勝利者無疑候、然者上武之間、何之地立馬候共、人数打振、頓速着陣簡要候、尤可被稼此時候、為其兼而及届候、恐々謹言、

八月廿四日

景虎在判

長尾新五郎殿

→神奈川県史 資料編3「長尾景虎書状案写」(北越家書八)

1560(永禄3)年に比定。

 折り入って筆を馳せます。そもそも東国の紛争は際限がないこと。そして言われるのが味方中の労苦、そしてまた言われるのが万民が安堵の思いをすることがないことです。その一方で、今年関東でこれを討つべきかの是非を議定しました。今月はもう日もありませんが、どのようにしても来月は必ず越山するでしょう。きっと甲斐国・相模国の両軍も出撃してくるでしょうから、専守で落着して下さい。勝利については疑いありません。ということで、上野国・武蔵国の間では、何れの地で馬を立てるとしても、軍勢を振り分けての素早い着陣が肝要です。実績を上げるのはこの時でしょう。そのために前々からご連絡しています。

以前の書籍紹介で触れた内容とかぶるが、合わせて『戦国大名の日常生活』(講談社選書メチエ・笹本正治著)も説明してみよう。この書籍では、信虎に始まって、晴信・勝頼と至る戦国大名としての甲斐武田氏を活写している。

笹本氏の著作は武田氏に関連するものが多く、また史料に基づいた安定した描写が特徴である。中でも本書を選んだのは、その範囲を武田家当主の周辺(日常生活)に限られつつも、文化・宗教・戦争・肉親など他方向に光を当てた点が評価できると考えたためである。スター的な扱いをされる権力者と見られがちな戦国大名が、日々薄氷を渡るような思いで暮らしていたことがよく判る。
また、信玄堤・棒道・甲州法度など、比較的一般的な武田家の功績も、古文書の観点から検証して実在性を解説しつつ、近世に増幅した『武田信玄伝説』にも触れている。

戦国大名というと一般には「戦闘が日常化した近世大名」のような印象が強いと思う。だが、身分が固着した近世大名と、新興や没落が当たり前の変革期だった戦国大名を同時に論じることは難しい。本書の武田三代は、領民・家臣に気を遣いながら何とかバランスをとっている。武家として図抜けた伝統を持ち戦勝を重ねた武田氏でこの不安定さ、である。毛利元就が「身内以外は味方ですら毛利家を案じてはいない」と戒めたのはリアルな感覚に基づいていることが判る。

本書では珍しく勝頼にも紙幅をとっており、晴信から継承した政権は既に満身創痍だったことも暗示されている。父信虎の追放に始まって嫡男義信を自刃させ、長女黄梅院を失意の死に追い込んだ果ての武田家。事実上の分家から継いだ勝頼はやりづらかったに違いない。晴信時代を克服しつつも、近世に向けて国内の体制を一新しようとしていたことを詳しく解説している。

総じて言えば、晴信から勝頼への継承部分が多い一方で、信虎については補助的な内容でしかない。同作者が信縄・信虎について書いている書籍があればと願う。

2009(平成21)年のNHK大河ドラマ『天地人』で過剰な悪役演出をとられ、またWikipediaの記述も現在停止中となっている遠山康光について、その実像に近い情報を掲出してみたいと思う。

この氏族は、幕府奉公衆だった美濃国明智景保の嫡男直景が堀越公方の足利政知に従って伊豆に行き、後に伊勢宗瑞に仕えたのが始まりという。美濃遠山庄は、天竜寺香厳院に1460(寛正元)年に寄進されており、この香厳院は足利政知が入院したことがある。この縁で同行し、どこかのタイミングで伊勢宗瑞に従ったのだろう。

直景の嫡男綱景は、第1次国府台合戦で戦功を挙げたり、鎌倉代官も務めて江戸城代・葛西城主となる。1564(永禄7)年の第2次国府台合戦で嫡男隼人佑とともに戦死。

康光はその綱景の弟で、氏康側近となり『康』の偏諱を受ける。仮名は左衛門尉で略称が「遠左」。官途名、生没年は不詳。嫡男は康英で、仮名は左衛門尉で同じ(美濃遠山氏にも左衛門尉がいてややこしい)。妻は上杉景虎の母(氏康側室)の姉だと伝わる。

天文20年が文書初出。江戸方面の司令官となった兄の綱景に代わって鎌倉代官を務めていた模様。1559(永禄2)年には、北条綱成父子とともに浦賀城に駐屯していたことが判る(北条氏康書状)。水軍梶原景宗の慰留交渉で奏者を務めたこともあり、水軍を管理も行なっていたと思われる。

1569(永禄12)年の越相同盟交渉では、康英とともに後北条側の交渉実務者となる(大石芳綱書状)。1569(永禄12)年3月には、上杉景虎とともに越後に赴き、景虎の家臣となった。

御館の乱では景虎と北条氏政との連絡に活躍する。1578(天正6)年10月28日、赤川新兵衛尉宛の景虎朱印状で奏者として名があるのが終見。

上記が『後北条氏家臣団人名辞典』からの抜粋となる。ちなみに、康光嫡男の康英は関東に留まり、水軍の指揮に当たった。後北条滅亡後は羽柴秀吉朱印状にて中村一氏家臣に任じられたという。

一方『戦国人名辞典』によると、1570(元亀元)年3月に「氏康・氏政父子から上杉輝虎との意思不通の責任を負わされている」とある。

越相同盟は当初から困難が予想された上、氏照・氏邦の2系統を併用した氏康への不信が生じるなどで混迷を極めた。また、氏政が自身の三男太田源五郎(国増丸)の人質提出を拒んだため、急遽景虎を送り込むこととなるが、この人選には越後折衝役である康光が景虎の伯父に当たる要素が大きいように思う。

康光の行動は前述大石芳綱書状で実見できるが、越相同盟交渉の最中にも、韮山防衛に駆り出されたり、越後方滞在費を自弁したりで、挙句に越後の使者から同情されている。誠実過ぎたが故に越相同盟交渉で損な役回りを割り当てられ、最期も報われなかった。息子の康英が巻き込まれなかったことだけが救いだったろう(一説には息子「直次」が御館の乱で戦死したという)。

※本エントリは1998年と2010年の小田原を比較した個人的な覚書である。

前のエントリ「小田原1」の続き……。

幸田門を更に進む。ナック中村屋は外見そのままで健在にも思えるが、内部を見ていないので判らない。ここは古いデパートだった。そのはす向かいにあった志沢も老舗のデパートで、山下清のサイン会を行なうなど、一時期は地域の文化振興も担っていた。現在はスーパー銭湯になっている模様。手前を右に折れて栄町1丁目の交差点に出る。直進して大工町に行くと、かなりシャッター街っぽくなっていた。ここは1980年代から怪しかったので、ゆっくりと退潮しているのかも知れない。伊勢治書店は残っていたが、向かいのオービックビルに八小堂書店はなかった。ここの八小堂オービック店で、1981(昭和56)年に刊行されたばかりの『日本城郭大系第6巻 神奈川・千葉』を購入したことを今でも覚えている(何故か平山郁夫の版画が付いてきた)。平凡社の『QA』と出会って雑誌編集の魅力を知ったのもここ。ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』もここで入手した。翌年、2階奥のPCショップ(これももうない)で、当時はマイコンと呼ばれていた『MZ-80K2E』を買った。このどれもが、現在に至るまで私の人生の基礎となっていることを思うと、何ともやるせない気持ちになった。ちなみに、伊勢治のことを小田原人は「いせぇじ」と呼んでいた。「御幸の浜」を何故だか「みゆきがはま」とも呼んでいた。

そのまま大工町を直進して高野書店に行き、無事に『小田原市史 史料編中世2 後北条氏1』を購入。伊勢治まで戻ったら右に折れる。茶半家具でも見に行こうかと思ったが、時間も押しているので『旧ニチイ』と思しきビルを通り抜けてダイヤ街に向かう。その際に「おもちゃのあさひ屋」の濃緑の看板を発見。物心ついた頃から、ニチイの上にこの看板はあった。そして、あさひ屋の濃緑の包装紙の匂いが思い出される。あの紙包みを空ける時の胸の高鳴りと共に……。

ニチイの面影を全く留めていないビルを抜ける。昔、ニチイの地下には何故か『寿がきや』があって、そこのうどんが100円なのに美味だった。高校生の頃はやたらと行っていたものだ。抜けるとそこは旧長崎屋のビル。ドン・キホーテか何かが入っていたがスルー。右手に『魚國』・『岡西』が健在なのを見つけてほっとするも、東映だった場所は『ラーメン宿場町』という変な空間になっていた。

左手に向かう。「仲見世は多分ないだろうが、何かの痕跡がないか」と仄かな期待を抱くも、全くもって消されていた。仲見世とは屋根がついた商店街なのだが、何故か曲がりくねっていて天井も低かった。食料品店を中心にした、戦後ヤミ市っぽい猥雑さを持った空間であった。ここの鰻屋『正直屋』の鰻が大好きだったし、目の前で鰻を捌いているのを眺めるのも乙なものだった。親類の間では三島の『うなよし』が最高評価だったが、私は心中で正直屋に勝るものはないと確信していたものだ。

ダイヤ街を南下する。『十字屋』はもうないだろうけど、同じビルなら通り抜けしたいと考えていたが、建物ごとなくなっていたようで断念(ビルの横の隙間もなくなっていた)。あのビルは階段や踊り場が奇妙な配置で面白かった(販売物は女性用衣類だったので物を買ったことはない)。

再び栄町の通りに出て、駅に向かう。通りの向かいに、釜飯をよく食べに行った『鳥ぎん』を確認。スズメを頼んだら、骨っぽくて食べれなかったのもついでに思い出した。鳥ぎんの隣には『日栄楼』も、ここだけ時間が止まったかのように完全に同じ形で存在していた。ここはサンマー麺と焼き飯が絶品だ。

駅に向って蕎麦屋『寿庵』の健在を確認できたのも嬉しかったが、その前の三角ビルは公園になっていた。このビルは確か、地上2階・地下1階で、地下には飲食店があったように記憶している。地上は銀行系の何かだった。

奇妙な雰囲気は相変わらずの『おしゃれ横丁』に入り、殺風景な路地裏を辿っていくと、北条氏政・氏照の墓が現われる。昔と比べてきちんと整備されていたものの、目立たない点では高レベルを維持している。墓の前を直進してから曲がり、守屋のパンがあるかを確認。休みだったものの、甘食で著名な名店はしっかり残っていてひと安心。

『ラスカ』と呼ばれる駅ビルに戻る。ビル内には『有隣堂』があって八小堂の不在をまた思い出した。伊勢治・『平井』の各書店はあるものの、駅前・オービックに展開した八小堂の存在が、有隣堂の小田原進出を防いでいたように思う。『小田原市史後北条2』を購入したのが、この書店との別れになった。文庫を買った際に書店の紙カバーをつけてくれるが、その折り込みが独特で、本を優しく包みながら外れない仕様になっていた。鰻の話とかぶるが、昔の年寄りは「本屋と言えば平井」と主張して譲らなかったものだが、私は八小堂に敵う書店はないと確信していた。

ちなみに、帰路に鯛めし弁当を購入するが、昔の6角形の箱ではなく、内容も違っていた。たまたま買ったのが小田急系の店だったからかも知れない……。

『戦国大名の危機管理』(黒田基樹著・歴史文化ライブラリー)では、北条氏康がぎりぎりの状況で国を保っている姿が描かれている。飢饉と侵略をモチーフにした良書だが、ここでは若干異なる見地を試みようと思う。

政治とは、未来に向かって社会の再生産を促すことを目的とする。歴史を調べていて、それを学んだ。再生産を継続するためには、資源の適切な再分配が必須だ。但し、再分配の適切さは繊細なものだ。再分配が強過ぎると勤労の停滞を招くし、弱過ぎると社会構造の硬直化につながる。

最も身近な例では家庭が挙げられる。子供は生産しない存在で採算に合わないが、次世代を負うものだ。このため、親は子供へ資源を供給する。但し、再分配が強過ぎて過保護となると子供は自立しない。逆に資源供給が少な過ぎると子供は適切に育たない。

この繊細な調整を綱渡りで行なうのが『政治』だ。この言葉が持つ「人員間の総意形成」や「利権調整」は、再生産のための手段でしかない。

戦国時代でも事情は同じだ。北条氏康書状写で喝破されているように、見せかけの『政治』は意味を成さない

縦善根有之共、心中之邪ニ而、諸寺諸社領令没倒様なる国主ニ付而者、如何様之大社之御修理、何度致之候共、神者不可受非礼、縦不向経論聖教、常ニ不信之様ニ候共、心中之実、即可叶天道候歟

たとえ善根があったとしても、心中が邪で諸々の寺社の領地を没収するような国主だとしたら、どのように大きな社を何度修理したとしても、神は非礼だと受け付けないでしょう。たとえ経綸と聖教に背いて常に不信心のようだったとしても、心中に実があれば、すなわち天道に適うのではないでしょうか。

氏康がいう『心中之実』とは、アジール的存在で資源の再分配を司っていた寺社を機能させることである。そのためには、建造物の修築や政治のお題目、儒教に背くという判断も為政者は覚悟しなければならない。

去年分国中諸郷へ下徳政、妻子下人券捨、為年経迄遂糾明、悉取帰遣候、当年者諸一揆相之徳政、就中公方銭本利四千貫文、為諸人捨之、蔵本押置、現銭番所集、昨今諸一揆相ニ致配当候、家之事、慈悲心深信仰専順路存詰候間、国中之聞立邪民百姓之上迄、無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴お聞届、探求道理候事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間

少し長いが、最初に挙げた書状の前段である。

去る年に分国中の諸郷へ徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明しました。ことごとく返還しています。当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、金融業者から現金を押収して番所に集め、昨今は諸一揆の人々に配布しています。家のことは、慈悲心と深い信仰の順路を専らとして考えを突き詰めており、国中の聞こえとして、民百姓の上までも非分なく裁断するために十年来目安箱を置き、諸人の訴えを聞き届け、道理を探求しておりますこと、一点でも毛頭でも心中に差別の心がきざしたことはありません。

ここまで徹底的に資源の再分配を行なって初めて、後北条氏は「大途」を名乗り「公方=公儀」として機能できたのだ。個人の所有権の概念が強くなった現代から見ると不可思議な法令である『徳政令』も、激変する社会構造・頻繁な天変地異に対応した荒っぽい再生産処置だったと考えられる。氏康は、税・借金という名目で民間が預けてきた富を、再生産のために投下して「徳」を発揮した。中世の富豪が『有徳人』と呼ばれたのは、再生産投資を期待してのことだったのだろう。

小田原城内の樹木伐採で出てくるかも知れない遺構については、下記にある既存の事例が参考になるだろう。

『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)による推測

  1. 小田原城の始原(大森氏以前)は御前曲輪東にある異質な構造物にある。
  2. 現在の本丸が城地になった当初、現・御用米曲輪は二の丸、蓮池が正面の堀だった。
  3. 「氏康の居館は大池3つに囲まれている」という天文20年の文献から、蓮池・二の丸前の池・南曲輪前の池が個別に存在しており、これをつなぐことで二の丸外郭が構成された。
  4. 弁財天曲輪は攻撃的な大手門で、上杉輝虎・武田晴信攻撃時の幸田口(四ツ門・蓮池の門・蓮池口の四ツ門・四ツ門蓮池)はここ。
  5. 焔硝曲輪は弁財天曲輪を避けた敵を呼び込むトラップ。
  6. 馬屋曲輪は後北条時代に防御的構造物として作られた。
  7. 三の丸外郭も後北条時代に遡れる可能性があるが、遺構が完全に重なっているため畝堀の検出は難しい。
  8. 石垣山城から1591(天正19)年銘の瓦が出土しており、小田原合戦後も石垣山城が築造されていたことが確定している。
  9. 御用米曲輪にあったと思われる米・焔硝曲輪にあった小田原石の構造物については後北条からの伝承が絡んでいる。

上記を受けて、発掘があった場合の成果予想を挙げてみる。

蓮池近辺からは、1561(永禄4)年の上杉・1569(永禄12)年の武田氏の小田原攻城時の遺物が出てくる可能性がある(永禄4年と比定される幻庵書状には鉄炮500挺とある)。うまくいけば、後北条氏だけでなく、上杉・武田各氏の遺物も見つかるだろう。また、1590(天正18)年小田原開城時に後北条氏保管文書が全てなくなったことを考えると、何らかの形で近世の本丸・二の丸・三の丸に埋蔵されている可能性もごく僅かだが残されている(既に出土された遺物には木簡が含まれる)。

このほか、東国で最も築城技術が発達した後北条の縄張りに、徳川の石塁技術がどう組み合わさったのかを検証できる点も重要だ。井戸・堀の位置が後北条時代・大久保前期・稲葉期では異なるとの事例が住吉堀の発掘で明かされた。さらには、築城が続いていた石垣山城との関連も気にかかる。羽柴秀吉が徳川家康を後北条旧領に封じた際、小田原城主とともに石垣山城主にも大久保氏を任命したという説があるという。そうなると、石垣山城がどこかで廃城となって小田原に資材が移った可能性が大きい。この実態も、発掘で解明されるだろう。

そして最も重要な点は、大森氏時代と思われる遺構が絡んでいるという点である。このことは、二の丸を含む本丸周辺の地下には、1417(応永24)年~1871(明治4)年までの454年に亘る日本城郭の変遷が含まれている可能性を示唆する。関東においてはこれに比肩するものは江戸城しかないが、首都であり皇居となっているこの城を徹底的に発掘することは難しい。鉢形・岩槻も価値が高いと思われるが、近世への変遷で中心拠点ではあり得ない。

城跡内で最も貴重だとされているのは本丸の松で樹齢400年だという。しかし、500年と推測される松は国内に複数存在しており、生態上唯一の存在ではない。一方、中世城郭を極限まで巨大化したり、近世将軍家の出城となったりした城は小田原城しかない。学術から見るならば、どちらを取るかは比べるまでもない。むしろ、伐採によって400年間の気候を把握できるだろう。

このように考えると、城跡公園の植栽全てを伐採して非破壊調査を行ない、その後は遺構を全て埋め戻して後世の精査を待つべきと結論付けられる。

足軽勤来竝御免役の事
一足軽勤来業 一石垣築事 一石切事 一石持事 一土持事 一御城廻リ竹木持事 一矢普請の事 一足代抜事 一家根繕ひ事 一壁下地事 一濡椽■■事 一御城廻り風園仕事 一竹之節打事 一竹之輪曲事 一縄并竹釘拵る事但普請場にて 一御城之簾組々へ詰■■し候事 一植木持事 一御屋根造月の事
右は唐津・佐倉にて相勤候也。元文五年ニ、三月之日記に有之。
一御免し役 一水汲事 一すた切る事 一左官手伝の事 一壁土練る事 一すしかや持事 一大工手伝の事 一御城外通持事 一練土拵る事
右八ヶ条、前々より御免也

→小田原市史 別編 城郭 「断鳳片鱗 天(抜書)」(1841(天保12)年頃)

足軽が勤めることと免除されること。

足軽の業務

一、石垣を築くこと 一、石を切ること 一、石を保つこと 一、土を保つこと 一、城周囲の竹木を保つこと 一、軍事築造のこと 一、足代を抜くこと 一、家の土台を修繕すること 一、壁の下地のこと 一、濡れ縁を■■こと 一、城周囲の景観・造園の仕事 一、竹の節を打つこと 一、竹の輪を曲げること 一、縄と竹釘を作ること(ただし普請場で) 一、城の簾組みへ詰め■■こと 一、植木を保つこと 一、屋根を修繕すること

右は唐津・佐倉にて勤めたことである。1740(元文5)年2~3月の記録にある。

免除条項

一、水汲みのこと 一、『すだ』(簀駄?)を切ること 一、左官を手伝うこと 一、壁土を練ること 一、『すしかや』(辻子萱?)を保つこと 一、大工を手伝うこと 一、城外の通りを保つこと 一、練り土を作ること

右の8箇条は以前から免除されている。

小田原城跡公園の本丸・二の丸の景観を江戸期のものにするプロジェクトが、小田原市とTBSの間で紛争となっている。TBS著作の番組『噂の!東京マガジン』内で、小田原市が予定している公園内樹木の伐採を揶揄する内容を放映したためである。この伐採は、天守を見通せる8つのビューポイントを用意するためのものだという。

現在進行している案件に対して当サイトは検証しない。ただ、城郭遺構の保存についての興味深い事例だと考えるので、以下の2点について論じてみたい。

1)江戸期の小田原城景観はどうだったか(天守の景観を阻害するほど樹木が高かったか)
2)伐採により可能になる発掘調査で何が判るか

まず1の景観について考える(2については別エントリとする)。

銅門から本丸を見た際、確かに天守は見づらい。上の写真では銅門渡櫓入母屋の左に微かに見えている程度。何度も再建・修築した徳川家の意図や、東海道で参勤交代の大名に睨みを利かせたであろう事を考えると、天守はもっとよく見えたほうが「江戸時代の小田原城」としては正しいと思う。

詳しく解説された『小田原市史 別編 城郭』を元に江戸期小田原城の様子を箇条書きで挙げてみる。

『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)での推測

  1. 近世小田原城は、徳川家の所有であるという前提が存在。
  2. 御用米曲輪の米は徳川家のもので、大久保家の蔵は最初旭丘高校前、次いで小田原駅近辺にあった。本丸御殿・天守は徳川家当主が利用するものなので、大久保家当主は二の丸に居住。その本丸御殿は1703(元禄16)年に焼失していたので、幕末に徳川関係者が東海道を通過する際は、二の丸を開放した。御茶壷曲輪は徳川家に献上する茶を置いたという。
  3. 1590(天正18)年の開城で数十万石の米が後北条氏から徳川氏に付与されたということなので、後北条時代から御用米曲輪は保管庫として使われていた。
  4. 天守は3代
    • 初代[加藤図] 3層入母屋で2重櫓の上に望楼を載せる・1633(寛永10)年地震により倒壊か
    • 2代[正保図] 3層で最上階のみ入母屋で他は寄棟、最上階と第2層に勾欄・1703(元禄16)年に地震で倒壊
    • 3代[宝永天守] 復興天守と同じだが、上層への低減率が2つの模型で異なる。これは災害による修復時の度に上層階を小さくしたものと考えられる・1870(明治3)年民間に払い下げられ解体
  5. 2度の再建と度重なる修復によってでも天守を維持しているのは、江戸の出城という意識があったため。初期の本丸・天守は建築費が徳川家から拠出されていた。
  6. 江戸期は大久保前期・城番期(含む阿部期)・稲葉期・大久保後期に分けられる。
    • ~1614(慶長19)年 大久保前期・24年
    • ~1632(寛永9)年 城番期・18年
    • ~1686(貞享3)年 稲葉期・54年
    • ~1871(明治4)年 大久保後期・185年
  7. 大久保前期では後北条時代の構造を近世化していた。本丸・二の丸・馬屋曲輪・三の丸が石垣で構成されて本格整備されたのは稲葉期。
  8. 小峰曲輪・御用米曲輪の補修願いが大久保後期に出されているが、石垣にした形跡はない。
  9. 古写真で常盤木門の近辺は樹木が鬱蒼としている上、橋の欄干も破損したまま。
  10. 古写真で南曲輪の石垣上には松が生い茂って塀の代わりをしていた(2重櫓も漆喰が剥がれている状態)。
  11. 発掘により、幸田門跡からは大森時代とも思われる遺構が出た(後世築造による破損がひどかった)。
  12. 焔硝曲輪・弁財天曲輪・御用米曲輪に関して発掘調査は余り進んでいない。屏風岩は殆ど調査していない。
  13. 住吉堀の復元過程で、後北条時代の畝堀や井戸、溝が出て当時の縄張りが推測可能になった。
  14. 馬屋曲輪内には氏康の頃からと伝わる松の古木『住吉松』があった。
  15. 二の丸と小峰曲輪の間にある矢来門前に『頸塚松』があった。宝永年間の石垣築造で城内から大量の頭蓋骨が出土したので頸塚を作って松を植えたという。
  16. 本丸には後北条時代からと伝わる『七本松』があった。
  17. 古写真の植生は現在の城跡に近い印象がある。

■その他書籍による景観の推測

  • 松は篝火・松明・松脂などの軍事用照明・燃料として乱獲されたため、植栽例が多い。
  • その他に杉・竹・サイカチが多かったという。

上記は『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広著・洋泉社新書y)より

  • 1854(安政元)年築造の松前城を明治中期に撮影した写真には曲輪内で樹木が多く見られる。
  • 植栽が見られた全ての城では、杉か松が植栽されている。松は石垣の上に並木にして塀代わりにしている模様。
  • 保全費が足りず、石垣の隙間から雑草が生えている。
  • 但し、石垣を膨らませるような事例はないので、ある程度育った木は伐採していたのではないか。
  • 広島・大洲・熊本は天守の隣に大樹があって視界を遮っている。
  • 小田原城は漆喰も剥がれているひどい状態。明治の古写真を見ても、整備されている城とそうでない城の落差があるが、小田原は徳川系城郭(江戸・名古屋・彦根・大坂・二条)の中では整備不良の最右翼というポジション。

上記は『日本の名城《古写真大図鑑》』(森山英一編著・講談社+α文庫)を見ての所見

馬屋曲輪の松並木を観望。左は銅門。古写真と比較しても、松の高さは幕末と同じ程度。

上記から、幕末の古写真から推測すると伐採することで却って原型から遠ざかると結論できる。但し、古写真の城でもきちんと植栽が整備されている城(大坂・岡山・姫路など)があったため、大久保後期以前の景観を採用するならば、伐採を行なうべきだろう。

『小田原市史 別編 城郭』は絶版となって入手が難しく、ネット上でも公開されていない。このために小田原城に対する説明が行き届かない可能性が高い。小田原市は今後の城跡公園整備に合わせて復刊、もしくは入門書刊行、電子化による公開を行なうべきではないか。また、江戸期小田原城といっても、いつの段階かを小田原市は明示していない。近世の時期によって小田原城は全く違う状態になるため、説明すべきと考える。

尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為 上意、可被仰出候条、不能巨細候、

如仰未通候処ニ、

上意馳走被申付而示給、快然候、然而

御入洛事、即御請申上候、被得其意、御馳走肝要候事、

一、其国儀、可有御入魂旨、珍重候、弥被得其意、可申談候事、

一、高野・根来・其元之衆被相談、至泉・河表御出勢尤候、知行等儀、年寄以国申談、後々迄互入魂難遁様、可相談事、

一、江州・濃州悉平均申付、任覚悟候、御気遣有間敷候、

尚使者可申候、恐々謹言、

六月十二日

光秀(花押)

雑賀五郷

土橋平尉殿

御返報

→証言 本能寺の変「明智光秀書状写」(東京大学史料編纂所架蔵「森家文書」)

1582(天正10)年に比定。

仰せのようにご連絡は初めてですが、上意の馳走を申し付けられたとお示しいただき、心地よく思います。そして、ご上洛のことはすぐにお請け申し上げました。その事を織り込んで、奔走することが大切です。

一 その国のこと。親しい間柄とのことで、貴重なことです。ますますその意を得られて、ご相談なさって下さい。
一 高野・根来・あなた方の部隊は相談なさって、和泉国・河内国方面へ出撃なさるのはもっともなことです。知行などのことは、年寄が国をもって話し合い、後々まで互いに意趣が残らないように、相談なさって下さい。
一 近江国・美濃国を全て平定する覚悟です。お気遣いなさいませんよう。

更に使者が申し上げます。

追:なおなお、取り急ぎご上洛のことで奔走することが大切です。詳しくは上意として仰せがあるでしょうから、詳しくは申しません。